日野宿への旅(3)
奈々(なな 18歳)に会った月魄(つきしろ)の悦びようといったらなかった。
鼻づらをすりよせ、ぐいぐい押し、奈々が押し返したほどであった。
街中は、なるべく商舗の多い通りをえらんだが、それでも登城中の武士に会いそうであったから、平蔵(へいぞう 40歳)が20歩ほど先を歩いた。
奈々も口とりの幸吉(こうきち 20歳)も月魄(つきしろ)も、江戸の地理にまだ不案内であったから、先行させられなかった。
(内藤新宿 広重『江戸名所百景)
内藤新宿でお茶にした時、奈々が打ちあけた。
「月魄はごつう、もてとる。向うから馬できぃはるお侍はんのんが牝やったら、行きすぎてからも月魄をふりかえってはりましたえ」
「奈々をふりかえっておったのとちがうか?」
「あほらし。なして、牝馬が編笠のうちをふりかえりますん」
(内藤新宿 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
内藤新宿をすぎると、人目を気にすることなく並んであゆんだ。
からす7山をすぎる時、平蔵は何気ないふりで供の松造(よしぞう 34歳)の表情をうかがったが、変化はなかった。
(家士ぶりがすっかり板についたな)
【参照】2008年9月19日[大橋家の息女・久栄(ひさえ) (1)
深大寺(じんだいじ)へ参詣し、蕎麦を馳走になり、「深大寺元三大師道」とある石標の甲州路へ戻ると、月魄が立ちどまり、じっと石標に見入った。
記憶にとどめているのであろう。
(賢い馬だ)
あらためて、感じいった。
江戸から7里(28m)の府中の旅籠〔中屋〕平兵衛方へ入ったのは明かるいうちだったが、六所明神社の参詣は明日ということにし、そのまま湯をあびることにした。
(府中 称名寺ほか 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
宿は気をきかせて湯つきの離れを用意してくれていたが、平蔵と奈々の齢が離れすぎていたので父娘と勘違いし、
「お部屋をお替えしたほうがよろしいでしょうか?」
「かめへん」
奈々がすばやくひねりをにぎらせた。
苦笑した平蔵が、
「食事どきに、ご亭主に顔を見せてほしいと伝えてくれ」
湯は2人で浸かった。
「底が抜けると、おもろいのに---」
そっと抱きあったせいもあったかしても、奈々のおもわくどおりにはならなかった。
女中のおもい違いを陳謝する態(てい)で顔をだした亭主に、
「百草(もぐさ)村の松蓮寺の世評を聴かれせてほしい」
1年前に和州・宇治の総本山・万福寺からくだってみえた大和尚どのは、黄檗宗ではたいした位のお坊さまで、
松連寺などにはもったいないらしい、としか話せなかった。
「それより次は、5月5日の六所明神さんの夜祭りにお揃いでいらしてくださるなら、いまからお手づけおきくださいませ」
商いをわすれなかった。
(六所明神・夜祭の右 『名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
(同上の左 『江戸名所図会』)
【参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] (1) (href="http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2011/10/post-2c07.html">2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
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コメント
盥の行水のアクシデントで結ばれた2人です。せっかく江戸を出、家風呂の規制のない府中でちゃんとした湯船にいっしょに入れたのに、そのシーンがあっさりしすぎていて、ちょっとがっかり。いつもなら、ここでとっぴな成り行きになるはず。ザンネン。
投稿: tomo | 2011.10.11 06:13
>tomo さん
困ったのはちゅうすけです。
奈々と里貴は、お宝のところが無毛に近く、絹糸が数本ちょろちょろという感じでしょう。そういう若いおんなの裸の浮世絵がまったく見つからないのです。
このブログは、絵や地図や図版で文章をおぎなっていますので。
絹糸数本にするんじゃなかった。
投稿: ちゅうすけ | 2011.10.11 07:02