日野宿への旅(5)
「ご亭主。もう一泊、お願いできようかな---?」
平蔵(へいぞう 40歳)のその声に、奈々(なな 18歳)は頬を染めて悦んだ。
朝までの同衾が、おんなにとってあれほど安堵・昂揚してできるのだということを、初めて体験したからであった。
さらに、早暁にも満たされ、一刻(2時間)ほども愉悦のままでまどろんだ。
武蔵国総社と称するだけあり、府中の旧駅路の左にひろがる六社明神社(現・大国魂神社)の境内は広大であった。
【strong>ちゅうすけ注】火盗改を拝命してからの平蔵は、聖典・文庫巻8[あきらめきれずに]で岸井左馬之助とともに参詣している。境内の様相は、聖典にゆずる。
(六所明神社境内 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
大鳥居をくぐったとたんに興奮したのは、月魄(つきしろ)であった。
呼びかけるように幾声も嘶(いなな)いた。
「奈々。馬上のまま拝殿まですすむことを許されておるのはお上だけだ。降りなさい」
幸吉(こうきち 20歳)へ命じた。
「ニノ鳥居をくぐったら、東の森の先で月魄に草を食(は)まさせよ。そこはかつて細馬(ほそば)といい、馬市がたっていた馬場だ。月魄は鼻が鋭いから、たくさんの仲間が残していった匂いに気づいたのだ。その馬市は開府とともに浅草・藪の内と麻布十番へ移った」
「細馬て、痩せた馬ばかりやったん?」
「そうではなく、細い馬場であったための呼び名だ。西の森の馬場が欠馬(かけば)といわれていたのは、じつは駆馬に当て字したのだ」
奈々がうっとりと平蔵を瞶(みつめ)ていた。
(ゆうべと朝と3度も頂上へのぼらせてくれはった同じ人とはおもわれへんほど、ようしってはる。どないな頭、してはるん?」
府中宿から甲州道中にしたがって北行して多摩川ぺりに出た。
(多磨川 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
西の空に富士が大きくそびえていた。
「江戸のんと違うて、仰ぎ見るよう---」
馬上で奈々が感嘆を発した。
月魄も賢い頭へたたきこむかのように大きな目で凝視していた。
『名所図会』の富士は新暦の5月末あたりの姿だ。
1月末(旧暦)の富士は、八合目あたりまで雪を被っていた。
(あの時にはまだ会ったこともなかった〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)を捜しに甲州路をくだった17年前に、ここで見た富士は五合目まで雪がのこっていたな。いや、富士というと、おれにはおんながかかわってくる)
【参照】2008年1月12日[与詩(よし)を迎えに] (23) (25) (29) (33) (38)
平蔵は苦笑しながら、
「奈々。次に2人してここで富士を仰ぐときには、鮎料理を食べていよう」
「きっと、ね」
(玉川鮎漁 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
多摩川から近い柴崎村の普済(ふさい)禅寺では、六面塔の石幢を拝んだ。
(普済寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
(同寺の六面碑 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
「400年も前に建立・奉納されたものだ」
「奈々の齢の22ヶ---信じられへん」
高さ160cmほどの石碑に、口を開いている金剛力士と口を閉じている密迹執(みっしゃくしふ)金剛のニ王、それに四天王を彫り、六面に組み立てたものである。
「金剛さんて、恐いお顔してやけど、ありがたそう」
「そうだ、あのお顔で悪魔を脅しつけておられる」
「うちは、蔵(くら)さんに躰もこころも守られとる」
「守られているうちに、賢うならぬとな」
「あい」
【参考】府中市観光協会 大国魂神社
【参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
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コメント
府中のそばを流れる多摩川の鮎、将軍家へ献上したほど有名だったんだそうですね。いまでも獲れるんでしょうか。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.10.13 09:07
>文くばりの丈太 さん
ものの本には、鮎を献上することが義務づけられていたとありますが、府中から江戸城まで生のまま運んだとして、氷はどうしたんでしょうね。冬場にとって氷室にでも蔵していたんでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2011.10.13 09:12