日野宿への旅(6)
翌朝。
「こないに腰がだるいの、初めて---」
野袴の尻をおしあげている平蔵(へうぞう 40歳)の耳もとに、奈々(なな 18歳)がささやいた。
「蔵(くら)さんのんが、まだ、中で動いとる感じ---」
平蔵が尻をぽんとぶつために掌を引いたりので、奈々は月魄(つきしろ)にとっつけず、やりなおした。
月魄が鼻先を開いて笑った。
奈々は、上衣は府中宿の古手屋で求めた地味な色合いの男ものの袷(あわせ)に、深めの編み笠だし、口とりの幸吉(こうきち 20歳)も武家の馬丁ふうをやめ、駅馬の馬子のよそおいにさせたのは、平蔵の勘ばたらきによった。
(まあ、昼間の道中だから、大事ないとはおもうが---)
香具師(やし)の元締、新宿・〔花園(はなぞの〕の肥田飛(ひだとび 45歳)と〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 57歳)には、昨日の夕刻前に問屋場で速飛脚を立て、きょうの奈々の江府帰りのおおよその時刻を報らせ、それとない警護を依頼しておいた。
江戸の元締衆とは〔化粧(けわい)指南読みうり〕のお披露目(広告)枠のあつかいと、火盗改メからの夜廻りの手札の下賜のことでこの10年間、持ちもたれつの関係がつづいている。
【参照】2010年6月3日[火盗改メ・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき)] (8)
幸吉には、100文(4000円)ずつひねった紙包みを10ヶもたせ、あいさつしてきた〔花園〕と〔音羽〕の若い衆に、
「長谷川の殿が元締によろしくとのこと---」
いいながらにぎらせろ、と指導し、別に1分(ぶ 4万円)を、
「帰ったら、黒船橋たもとの櫓下(やぐらした)ででも遊んでこい。屋敷の者たちにはいうでないぞ」
じつは、昨夜も府中の岡場所へいかせたのだが---。
奈々には、昼飯代と秣(まぐさ)代といい、2分(8万円)わたして見送った。
(旅籠や古手屋などに〆て3両がとこ消えたな。あと5日がうちにしとげないと---。だが、奈々にはいい体験になったろう。これからも〔季四〕の女将としての貫禄をつけてやらねば---)
(府中宿=赤○から甲州路(赤線)を多摩川(水色)の渡しへ。
日野津(舟着き)から本陣=赤○。あと高幡不動(緑○)と百草村(赤○)
多摩川の渡しでは、武家は平蔵主従だけであったから、舟客たちが席をゆずってくれた。
川幅は季節によって伸縮するが春先は20間(36m)ほどてあったから、あっというまに日野側に着いた。
(日野津 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
舟を降り、日野の宿場へ入り、中宿(なかしゅく)の道ぞいに門構えをしている本陣{佐藤〕茂右衛門方へ入った。
府中宿から日野宿へは、3里(12km)であった。
江戸からのに追いうちをかけるように、昨日も府中宿の問屋場を通し、一日遅れることを報らせておいたから、江川太郎左衛門英征(ひでゆき 46歳 150俵)代官のところの手代の若松三平(さんぺい 22歳)が待っていた。
鼻下に髭ををたくわえているのは、まるい童顔にいくらかでも威厳をつけるためであろうが、在(ざい)の者たちは陰で「猫よがり」と呼んでいた。
猫の毛並みを梳(す)く刷毛のことである。
当人が酔ったときに、
「おんながよがる」
と自慢したらしい。
猫とは、いかがわしいところのおんなの意でもある。
ちょうど昼餉(ひるげ)どきでもあったし、相伴させがてら、話を聴いた。
男児の行方がしれなくなってからいく日か経つが、いまだに手がかりは見つかっていない。
浅川が合流している多摩川も下流の調布のほうまで舟をだして調べたが、遺骸はあがらなかった。
「浅川に落ちたという証拠でもあるのかね?」
「それはありませんが、万が一ということで---」
「ひとつ、訊かせてもらう---」
「はい---」
「その男の子は、草履の鼻緒を切らしたから、子守りが新しいのを取りに雇い主の家へ戻ったということであったな?」
「さようございます」
「鼻緒の切れた草履は、男の子が独りで待っていた場にあったのかな?」
「あっ---いえ、そのことは、調べておりません」
「子守りの名前、年齢、家の生計(たつき)むきと家の者のことも書いてない」
「は、申しわけありません。お寺社(奉行)へまわされるとは気がつかなかったもので---名はお鈴(すず)、齢はたしか、11---」
男の子の母親のことを訊くと、口をにごした。
「われは寺社奉行どのの名代(みょうだい)として出向いてきておる。松蓮寺の大和尚のこれ---と聴きおよんでおるが---」
小指をたてた。
「竺山(ちくさん)大和尚(40歳)がこちらへくだってみえたときに隠してお連れになり、落川(おちかわ)村にお囲いになったお染(そめ 26歳)の子です」
大和尚・竺山とお染めには明日、逢うことにし、午後は金剛寺・高幡不動へ詣でたり、あたりの地形を観てまわりたいというと、不動尊は松連寺への道筋の途中だから、案内がてら、いっしょを申し出た。
中宿(なかしゅく)の本陣から百草(もぐさ)村へはほぼ1里(4km)---高幡不動尊はちょうどその真ん中あたりの丘の中腹にあった。
(高幡不動堂 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
不動尊は、山岳神を仏教がとりいれたとされている。
身から火焔をだして:穢れや障りを焼きはらい、右手に利剣、左手に羂索(:けんじゃく)を持した憤怒の形相で魔敵に対している。
ここの、高さ1丈(180cm)の不動明王の坐像は、450年前の修復時に、高幡高麗一族の助力があったとしり、
「昨日、ちょっと足をのばして奈々にも見せてやるんだった」
悔やんだのに供の松造(よしぞう 33歳)が、
「初夏の鮎料理の時にお連れになればよいではありませんか」
慰めた。
「そのときは、お粂(くめ 43歳)もお通(つう 18歳)もいっしょにな」
「殿.。お粂やお通は、奥方さま(33歳)や於初(はつ 13歳)さま、於清(きよ 10歳)さまとごいっしょのときに---」
(初や清の齢では、不動尊のありがたみはまだ理解できまい)
奈々は、百済からの帰化の人たちの後裔で高麗族ではないが、同じ半島の渡来人が開いた土地としれば、誇りにおもったであろう。
【参考】日野市観光協会 高幡山明王院金剛寺(高幡不動尊)
【参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
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コメント
『名所図会』のちゅうすけさんの塗り絵、とてもいい感じですね。色変わりのキャプションをクリックして元のモノクロの原画と比べてみましたが、塗り絵のほうが100倍もリアルです。とくに、日野津の色調が好き。
わたしも塗ってみたくなりました。
投稿: aki | 2011.10.14 06:06
>aki さん
塗り絵の魅力をご評価いただき、ありがとうございます。
5年がかりで750点をしあげはまた。
お目にとまったのは、後期の分で、いくらか手馴れていました。
このところ思いつき、ブログ「わたし彩の江戸名所図会」とリンクを張ったので大きな絵でご覧いただけるようになりました。
こんごとも、お楽しみいただきますよう。
投稿: ちゅうすけ | 2011.10.14 08:59