日野宿への旅(8)
(尼といえば、深川の浄泉尼庵の日信尼(にっしんに)も、仏門にはいって3年にもなるというのに、40歳(=当時)の女ざかりの情欲をもてあましておった)
剃髪している頭を浴槽に沈めてきたのには、さすがの平蔵(36歳=当時)もたまげた。
【参照】2011年1月21日[日信尼の煩悩]
いささか淫らな回想にふけりながら、見るともなく庭の松の大樹に視線をただよわせていた平蔵(へいぞう 40歳)に聡兵衛(そうぺえ 60がらみ)が遠慮がちに、
「長谷川さま。花を落としてしまいましたが、梅の花どきには目白が蜜を求めてやってきます」
「ほう。梅に鶯(うぐいす)とはよくいうが、梅に目白とは---」
「花はおんな、小鳥は男---咲いた花は鳥を選びません」
「花は小鳥に蜜を与えて、鳥から何を得ますかな?」
「実(み)---子のために、種を---」
「それと、法悦ですかな---?」
「さらに、生計(たつき)のもとで。ふ、ふふふ」
「いつか、また立ち寄り、摂理を拝聴いたしたい」
「いつにても---」
聡兵衛の家を離れると、松造(よしぞう 34歳)が、
「申しあげるのもなにですが、里貴(りき 逝年40歳)さまのお父ごのような方でした」
「姓も千田といい、800年前からの家柄だそうだから、高麗一族とかかわりをもった村役だろう」
たぶん、お竜(りょう)がなにかのときに高麗国に、1000人の兵を預かった千なんとやらいうの名の智将がいたことを話してくれたことがあった。
大和尚・竺川(ちくせん 40歳)が囲っているお染(そめ 26歳)の住いは、浅川から3丁(300m余)ほど南を流れて多摩川に合流している程久保(ほどくぼ)川ぞいにあった。
大農家に雇われた差配人あたりの住いででもあったらしい、2部屋と土間とくらいの平屋一戸建がそれであった。
「寄りますか?」
゛いや。明日でよい」
その平蔵の言葉を聞きとったかのように、お染らしいおんなが戸をあけて顔を見せた。
このあたりではあまり見かけることのない、陽にやけていない白い肌に薄化粧をほどこして髪もきちんと結い、目もとに媚びをたたえて平蔵を瞶(みつ)め返した。
「お寺社はんからお出張りのお役人はんですやろ。お湯(ぶぅ)でもおあがりませ」
「いや。卯作(ぼうさく 6歳)坊が落ちたとかいう川を検分しておる」
「それやったら、ここの川やおへん。もっと北の浅川のほうどす」
「さようか。では、明日、松蓮寺で、再会いたそう」
本陣{佐藤〕茂右衛門方では、先に戻っていた代官所・手代の若松三平(さんぺえ 22歳)が、平蔵の帰りを待ちわびていた。
顔を見るなり、
「強請(ゆす)り文が、松蓮寺へ、届いておりました」
【参照】2011年10月9日~[日野宿への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) (10) (11) (12)
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コメント
やはり誘拐でしたか?
誘拐も放火とおなじほどの刑罰でしたね。
ましてや営利誘拐となると。
解決方が楽しみ。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.10.16 05:22
>文くばりの丈太 さん
『御定書』第61条 人拘引(かどわかし)御仕置の事 人を拘引候者 死罪--とあります。文句なしに死刑です。
投稿: ちゅうすけ | 2011.10.16 06:35