{船影(ふなかげ)]の忠兵衛(4)
安永6年(1777)2月20日---。
真っ青に晴れてはいたが、春がそこまできているというのに、高崎は上州特有の冷たい大気におおわれていた。
にもかかわらず、烏川(からすがわ)の川原に設けられた処刑場の見物人の矢来柵には、朝から200人を超える物見高い者たちがつめかけ、町名を書いた区画に陣どっていた。
高札に書かれていた時刻---四ッ(午前10時)近くには、人数は倍にもふくれあがった。
江戸から出張ってきた火盗改メ同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)と、南町奉行所の矢島同心が立会い役の席に着くと、見物人たちの私語が制止された。
真新しい磔柱が運びこまれ、見物席がどよめいたのは、十字の柱に人がくくられていなかったためであった。
磔柱の後ろの矢来には、黒幕がかかってい、平蔵(へいぞう 32歳)と賊に襲われた旅籠〔越後屋〕の番頭が、黒幕にあけられた小穴になにやら差しこんで見物人席をたしかめていた。
そのころ、江戸で流行っていた遠眼鏡であった。
〔越後屋〕の番頭があたりをつけていたのは、町名が指定された区画ではなく、「その他の区域」と示されている区画の見物人たちであった。
平蔵は、まんべんなく、改めていた。
矢島同心が立ちあがり、見物人に向かって声高に語りかけた。
「〔越後屋〕を襲った賊は、磔柱にしばられている宝船の雛形を残して去った。ゆえに、この雛形を片割れと断じて処刑する。始めい」
槍を構えていた2人の小者が、小さな宝船の雛形を何度も突き、雛形はばらばらにこわれて川原へ落ちた。
見物たちは、期待をうらぎられてがっかり顔のや、話の種がひろえておもしろ顔のや、いろいろであったが、矢島同心の声に、あらためてことの重大さを読みとった。
「町ごとに、組頭が顔をあらためるから、退去は、お城に近い町内から順に出口へ。町の区画外にいたものは、いっとう、最後になる」
そういわれてみると、区画外の席は、もっとも奥に指定されていた。
区画外の群れが出口へ向かったとき、そこには平蔵と長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳)、それに捕り方の5人が待ち伏せてい、ある男に狙いをつけていた。
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