辰蔵と月輪尼(がちりんに)
「辰(たっ)はん。初瀬(はせ)村への旅程、決まらはりましたん?」
「いえ。まだです」
「しんどぅおすなあ。辰はんの旅程にあわせ、うちも京の実家(さと)へ帰ってみよ、おもうてますん」
いまでは、月輪尼(がちりんに 23歳)は、3日ごとに施療の名目でやってくる辰蔵(14歳)の時刻を八ッ半(午後3時)に決め、以降の来診は受けないことにしていた。
9歳も齢下の辰蔵ながら、背丈は成人なみだし、腕の筋肉も鉄条入りの木刀の素振りのかいがあり、月輪尼をかるがると抱きあげ、閨(ねや)の床まではこぶことができた。
【参照】2008年月12日[高杉銀平師] (3)
2011年6月9日[辰蔵の射術] (6)
辰蔵をあきらめることは放念、おのれの生身(なまみ)の悦びをたのしむことこそ法悦と独り決めしていた。
施療がたび重なってきているので、施療部屋を兼ねた閨(ねや)へ入るのも急がない。
茶を喫(の)み、富士見坂上の茶店〔高瀬川〕からとどく点心を賞しながらの会話にふけった。
「大爺ぃはんがお奉行はんやってはったとき、辰はんも京へ---?」
「はい。4歳でしたから、ほとんど覚えがないのですが、桜花を観にいったのと、父が比丘尼---あっ---」
「かめへん。遠慮せんとお話しぃ---」
【参照】2009年10月15日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)] (5)
辰蔵は懸命に記憶をたぐった。
「なんとか式部という官女さんが隠棲していた寺の比丘尼---」
「わかった。和泉式部はんやったら、誠心院はんやろ」
「そこの庵主(あんじゅ)さんに貢いでいると、母がこぼしていたことをかすかに覚えています」
日輪尼も、無暴な性的陵辱を受ける前の晴れやかだった13歳の少女へ戻った。
「10年前の誠心院の庵主はんいわはったら---不慮の落命しぃはった---貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)はん---」
【参照】2009年10月19 日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
「比丘尼さんの法号まではしらないのですが、町奉行であった備中・大爺ぃさんが探索を差配したと聞きました」
「亡くなりならはった貞妙はんと辰はんのお父ごが極楽してはったいうのんも、うちと辰はん、輪廻(りんね)やなあ---」
2人は流し場に並び、房楊枝で点心の甘味を落とし、口をすすぎ、暗い施療の間へ入る。
このところの施療を受ける手順---下帯一つになって寝た辰蔵を、掛け布団で覆った比丘尼が、「父母恩重(おんじゅう)経」を唱えながら法衣を脱ぎ、桜色の湯文字を巻いて横に添うた。
[----------
父母の恩、いかが報ずへき。
東西の隣里(りんり)に行来(ぎょうらい)して井竈(せいそう)し、
碓磨(たいま)するにいたり、時ならずして家に還(かえ)る]
辰蔵の下帯が掛け布団の外へ投げ出される。
「-----------
母すなはち心驚き両の乳、流れ出(い)づ]
「そなた、乳をふくむか---?」
「はい」
月輪尼の湯文字が布団から外に出される。
「乳の味は---?」
「甘露です」
「辰はんのややを孕み、そのうち、ややが吸うてくれまひょ」
「はい」
「ややがほいしい---?」
「いますぐは、困ります」
「尼も、困る。孕み尼がいられるのは、東慶寺だけと聞いてぇます」
「しかし---}
「止(や)まる---?」
「止まりませぬ」
「尼も、止められたら難儀や」
「つづけます」
「京までは15泊---いまから、たのしみ---」
「たのしみです」
上の布団が蹴飛ばされた。
【参照】2011年08月21日~[辰蔵と月輪尼(がちりんに)] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
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コメント
気がついてみたら、敬尼と辰蔵さんは9歳違いなんですね。
この年頃なら、男性が年下で、女性が教え導いてあげるほうが、双方、実りが多いかもしれません。
自分がそういう年代になったから、そう、願っているのかもしれませんが。
投稿: tomo | 2011.08.21 04:51