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2011.08.19

銕三郎が盗賊をつくった?

8月7日(日曜日)午後のJR静岡駅ビル・SBS学苑パルシェでの[鬼平クラス]の報告。

テキストは聖典の文庫巻16[霜夜(しもよ)]。
クラスの市川さんからお借りしたビデオのタイトルは[うんぷてんぷ]。

ストーリーは少し変わってい、高杉道場の同門で、剣技には見どころがあった池田又四郎(17,8歳)が、突然、行方しれずになったが、20t数年ぶりに見つけてみると、盗賊の一味にくわわっていた。

又四郎銕三郎(てつさぶろう 23,4歳 のちの平蔵)の前から姿を消したのは、銕三郎が義母・波津(はつ)を殺害する決心をし、又四郎長谷川家の養子となって家名をつぐようにたのんだところ、断ったばかりか、「それはいけませぬ」と制止した。

それで、銕三郎は義母殺害の計画はあきらめ、又四郎によそよそしくしたのを、銕三郎に性的なあこがれをもっていた又四郎は見放された受けとり、悲観・出奔したのであった。

銕三郎が義母の殺害を企んだのは、嫡子である自分を廃嫡し、縁続きの永倉家からなまくらな亀三郎を養子にむかえようとしたから---という設定。

いく度も断っているように、史実と小説は別ジャンルのものである。
小説は、作家の想像力、創作力の産物である。

しかし、鬼平---長谷川平蔵は実在した人物である。
しかも、徳川幕府きっての火盗改メであった。

池波さんも、その史実をしって創作意欲をもやし、代表作の一つとしてシリーズを書きつないだ。
もちろん、いまのような人気をえたには、中村吉右衛門さんをえた映像化チームの功績も大きい。

史実は、もうすこし調べられてもよかった。
池波さんに言っているのではなく、池波さんの取材を補助した人がいればそのリサーチャー、連載をもらった編集部の池波さん担当だった人、いまさらながら---『寛政重修諸家譜』を確認するくらいのことはしてほしかった。

あるいは、長谷川平蔵家の菩提寺である戒行寺の過去帳---;霊位簿も調べに行ってほしかった---なんて、ぼく自身もじかに見てないから、大きなことはいえない。

じつは、戒行寺に記念碑を実現した一人---釣 洋一さんからデータをいただいた。

_360_2
(釣 洋一氏による戒行寺長谷川家の霊位簿の一部。赤○=波津)


寛延3年(1750)7月15日歿 とある。
銕三郎は延享3年(1746)の生まれだから、5歳のときに死別したことになる。

参照】2006年5月18日[長生きさせられた波津
2007年4月20日[寛政重修諸家譜] (16

ということは、永倉家からの養子うんぬんもありえないばかりか、『寛政譜』には、亀三郎に該当する人物がいない。

だから、廃嫡もなければ、養子の話もありえない。

ただし、小説での池田又三郎の出奔の原因は別につくれば、ストーリーはほとんどそのままに生かせよう。
霜夜]の主題の一つは、妻の妹とできてしまい、その妹が盗賊の世界から足を洗って生きているのを助けるために、自分が属していた〔須の浦(すのうら)〕の徳松(とくまつ)一味を殺害するところにある。

交わったおんなを救うために斬り死にするのも、美しい、共感をよぶ死に方であろう。

これとは別に、池波さんがこのストーリーを組みたてるのに、『江戸名所図会』を巧みに使っているのを、下の3点をながめながら、聖典を読かえしていただきたい。

0522_360
湊稲荷 塗り絵師:ちゅうすけ)


0542_360
寒橋(明石橋) 塗り絵師:ちゅうすけ)


575_360
砂村元八幡宮 塗り絵師:ちゅうすけ)


池田又四郎にまず斬って棄てられる盗賊一味の2人の素性のリサーチ---
〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛(くへえ)

〔栗原(くりはら)〕の常吉(つねきち)


参照】2008年7月13日[池田又四郎(またしろう)]


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コメント

「名所図会」3点、赤くなっている『湊稲荷」「寒橋」「砂村元八幡宮」をクリックしてみました。大きな絵に飛び、彩色されると現実世界のものになることが納得できました。
「江戸名所図会」の彩色を最初に考え出したのもちゅうすけさんでしたよね。
なんでも最初というのは賞賛ものです。
 

投稿: tomo | 2011.08.19 05:24

継母の波津が寛延3年(1750)7月15日に逝去した史実は、早くからこのブログで報じられていました。
しかし、ほかの鬼平についてのエッセイはそのことに言及していません。
史実と小説の落差は、もっと論じられていいとおもいます。

投稿: mine | 2011.08.19 05:34

>tomo さん
拡大塗り絵、見ていただけましたか。ありがとうございます。
ずっと前に塗り絵したもですから、稚拙でお恥ずかしいですが、それでも、白黒絵よりも理解が助かりますね。
池波さんは絵ごころがすぐれていた方なので、白黒の原画も頭の中で彩色して文章家なさっていたにちがいないとおもい、彩色をはじめました。

投稿: ちゅうすけ | 2011.08.19 07:32

>mine さん
『寛政重修諸家譜』は、女性のことはほとんど採記していませんから、ふつうの調べ方では洩れてしまいます。
釣 洋一さんは戒行寺さんと親しく、霊位簿も解読なさいました。
それをたまたま、いただいたので、早くから、史実に沿ってブログをすすめ.ることができました。
小説は作家の独創力を発揮する場ですから、それはそれでいいのですが、解説者は史実もふんまえたうえで語ったほうがより読者に益するとはおもいます。

投稿: ちゅうすけ | 2011.08.19 07:48

検索してみたら、このプログ、もう6年10ヶ月つづいています。
コメントも折にふれていただいて、これをふくめて2,997ヶ。きちんとレスをつけてきましたから、いただいたは半分の1,493ヶかな。あとお3通で3.000ヶ。
3.000ヶぱどなたがお踏みなりますか。いまから楽しみ。

投稿: ちゅうすけ | 2011.08.19 08:09

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