ちゅうすけのひとり言(74)
昨日につづいての『群馬県史』(歴史図書社 1972)から、上野(こうづけ)国に知行地を賜っていた長谷川家5家の中でも大身で久三郎を継承名としている、納戸町の家。
250 長谷川 (家紋は左三藤巴)
正吉(まさよし) 久三郎。正長が三男。
【ちゅうすけ注】正長(紀伊守)は、小川から田中城(藤枝市)主となり、武田信玄に攻められて浜松へ走って家康の傘下へ投じ、姉川へ従軍、三方ヶ原で討ち死にした、幕臣・長谷川家の祖。3遺児---正成(まさなり 昨日掲出)、正次(まさつぐ 平蔵家の祖)、正吉(まさよし 今日掲出)がそれぞれ取り立てられた。
讃岐守となる。天正7年(1579)、秀忠に附属して、御小姓を勤む。
後屡、加恩ありて、上州甘楽・碓氷二郡にて、4070石余の采地を賜ふ。
此後放鷹に雇従せし時、仰に依りて、溢谷に於て別荘の地8萬5000余坪を賜ふ。
慶長13年(1608)卒す。上州榊保村仁叟寺に葬る。法名は宗伯。
正信 久三郎 実は長谷川筑後守正成が長男にして、正吉が養子と為る。
御徒頭・御書院番組頭に勤仕し、淡路守に任じ、寛永10年(1633)、采地700石を加へられ、後之を公収せらる。
16年(1639)卒す。小石川吉祥寺(後駒込に移る)に葬る。法名了知。
正相(まさすけ) 初名 正綱。久三郎。正信が男。御書院番・御先弓頭等に勤仕し、寛文4も年(1764)采地を廉米に更めらる。(是より先、洪水に因りて、采地荒廃せり)。天和2年(1682)4月、上州新田・邑秉2郡にて、500石の加恩あり。:元禄2年(1689)卒す。
正明(まさあきら) 五兵衛。正相が男。御小姓組に列し、元禄2年(1682)、遺跡を継ぐ。此時弟徳栄に500俵を分与し、自ら稟米3570俵余、采地500石を知行す。
10年(1697)稟米を更めて、遠州城東・山名2郡にて、3570石与を賜はり、11年(1698)3月、上野國の采地500石を城東・山名2郡の中に移さる。
享保元年(1741)卒す。江戸谷中の大行寺に葬る。法名は日音。
記載は、ここで終っている。
ブログに登場してい.るこの長谷川家は、正明から1代おいた、正誠(まさざね)、その養子・正脩(まさむろ)、その嫡男・正満(まさみつ)、さらには平蔵家から養子にはいった次男・正以(まさため)である。
もっとも、『群馬県史』とすれば、知行地が上野国から他国移った幕臣には用はない、というわけなのも、理解できる。
昨日にならい、長谷川久三郎で[旧高旧領取調帳データベース]
のり検索にかけてみた結果はは、
遠江国山名郡 太馬郎新田 62石391
豊田郡 船明(ふなぎら)村 378石545
2000石ほどが行方不明のままで終った。
さらに不思議が残ったのは、正信が葬られた吉祥寺は曹洞宗、それから82年後に物故した正明が菩提された大行寺は日蓮宗であること。
改宗の因縁など、調べてみたくなった。
(駒込・吉祥寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
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コメント
このように、地方史に長谷川家が顔見世することもあるのですね。
全国の鬼平ファンが、自分の地方史を検めてリポートしあうと、鬼平学が一挙にすすみそう。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.07.20 09:34
>文くばりの丈太 さん
長谷川家は実在の幕臣です。平蔵につながる長谷川家は分家の分家をいれても5家です。
鬼平のファンは文庫で170万人、テレビで1,500万人と推定されています。
これらの1%のファンの方が県史や市史、郡史、町史を検分してくだされば、もっとデータがでてくるのではないかとおもっています。
交通史を読んでいて、蕨だかで平蔵に呼び出された記録につきあたったこともあります。
千葉県の片貝には、平蔵へあてた伊能忠能の手紙もでてきています。
1つの旧家の蔵から大量の史料が発見される時代です。
期待しています。
投稿: ちゅうすけ | 2011.07.21 04:01