平蔵、西丸徒頭に昇進(2)
「西丸だけでも、徒頭(かちがしら)を若がえらせておかねば---」
はからずも重職たちが評議の話題にしたのは、徒頭の役高料(1000石)よりも家禄が上の者---いわゆる持ち高勤めが多く、より高い次の職席を待って長居する悪習がひろがっていたからでもあった。
役高料1000石は職席についていた。
平蔵(へいぞう 39歳)の長谷川家の家禄は400石だから、徒頭になると1000石に満たす600石が足高(たしだか)として幕府から給された。
(この足高600石がまるまる給されたのか、知行地の4公6民といわれていたように、実給4割であったのか、浅学にして寡聞である)
ま、どちらにしても、平蔵家にとっては実質増収であった。
徒頭の高齢化だが、「番方(武官系)の爺ィの棄てどころ」と侮蔑された先手組頭ほどではないにしても、その傾向は認められた。
【参照】2007年4月15日[寛政重修諸家譜] (11)
とりあえず平蔵の前10名を西丸・徒の第4の組頭の着任時の年齢と次の職席を『柳営補任 三』(東京大学出版会 1963)から引いて掲げる。
万年市左衛門頼意 1000石
安永2年(1773) 西丸小姓組ヨリ(55歳)
天明4年(1784) 西丸先手組頭(66歳)
長谷川藤右衛門長庸 1000石
明和2年(1765) 書院番ヨリ(40歳)
安永2年(1773) 辞(48歳)
浅井小右衛門元武 540石
宝暦元年(1750) 小姓組ヨリ(41歳)
明和2年(1765) 先手組頭(56歳)
石谷十助清寅 2500石
享保19,年(734) 書院番ヨリ
宝暦元年(1750)
*『寛政譜』に該当者見当たらず。
『柳営補任』は官製ではないので、まま不正確。
玉虫八左衛門茂雅 1100石
享保15年(1730) 書院番ヨリ(44歳)
享保19,年(1734) 卒(48歳)
曾我権之丞孝助 800石
享保4年(1719) 寄合ヨリ(『寛政譜』に年齢記載なし)
享保19年(1734) 西丸目付(同上)
中山主水勝豊 1300石
正徳2年(1712) 寄合ヨリ(34歳)
享保13,年(1728) 卒(50歳)
土岐内記定武 600俵500石
元禄16年(1693) 書院番ヨリ(『寛政譜』に年齢記載なし)
正徳2年(1712) 辞
中根宇右衛門正包 2000石
元禄12年(1699) 書院番ヨリ(41歳)
正徳4年(1714) 書院番与頭(56歳)
水野多宮信房 ?
元禄9年(1696) 書院番ヨリ(33歳)
元禄12年(1699) 目付(36歳)
*『寛政譜』は守美。
*目付で火盗改メをやった珍しい人。
結果、探索不能1、辞2、卒1、年齢記載なし2---と、次の職場が分かったのは10人中4人だけにすぎなかった。
うち、職位というか、格があがったのは先手組頭(1500石格)の2人だけ。
(万年市左衛門頼意の家禄は1000石、浅井小右衛門元武は540石)
ということから徒組の頭は、出世を願っている者の待機職席・通過職位ともいうようか。
出世とは、家禄以上の格の職席につき、足高を給されること。
商人の、小僧から手代、つづいて番頭になるのは出世ではなく決まっている経年昇進。、
平蔵が徒頭の地位についた39歳ぎりぎりの年齢は、早かったとは決していえない。
亡父・宣雄(のぶお)が西丸・書院番士から本城の小十人組の頭(1000石高)に引きあげられたのは26年前の宝暦8年(1758)の秋、40歳の時であった。
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