« 火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転 | トップページ | 平蔵、西丸徒頭に昇進(2) »

2011.09.02

平蔵、西丸徒頭に昇進

---天明四年(1784)十二月八日、西城御徒(おかち)の頭(かしら)に転じ、十六日布衣(ほい)を着する事をゆるさろ---

寛政重修諸家譜』の平蔵宣以(のぶため 39歳)の師走の記載である。

_360_2
(長谷川平蔵宣以 西丸・徒頭へ昇進の家譜)

12年間、大過なく勤めあげた結果の栄進であった---というか、西城徒組の4番手の番頭・万年市左衛門頼意(よりもと 66歳 1000石)が番方(武官)のあがりともいえる西丸・先手頭へ転出したあとがまであった。

いや、あとがまという意味では、、西丸・書院番の4の組---すなわち、平蔵が組下である水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 62歳西城御徒 3500石)の組から西城御徒頭の席をえた萩原求五郎秀興(ひでおき 享年53歳)2年前に病死したことのほうが強いかもしれない。
つまり、その職席の一つは水谷組のものと考えられていたようである。

そのころ、徒組(かちぐみ)は本丸に15組、西丸に5組あるのがきまりであった。
文字どおり、戦時は歩兵部隊であるから、泰平がつづいている今は、火急の組でない。
徒士は各組とも30士で70俵5人扶持。
うち、2人が下士官格の与(くみ 組)頭。

とはいえ、安永8年(1779)2月に家基(いえもと 享年18歳)が急死したあと、西丸の5組のうちの12の、2つの組が本丸へ打ち込み(移動)させられていた。

三卿の一つ、一橋から豊千代(のちの家斉)が養君として西丸入りしていることはすでに伝えた。

参照】2011年2月9日~[田沼意次の世子選び] () (
2011年2月15日~[豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ] (1) () () () () () () () () (10) (11) (12

2年前に加冠の儀をすませた家斉は12歳、年があければ13歳である。
諸事の体制も正規に戻すべきだと西丸の重職も考えていたかもしれない。
まず、残っている徒の3組の頭を若がえらせておくことだ、と開陳した重役もいたろう。

第3の徒組の番頭
 沼間(ぬま)頼母隆峯(たかみね 52歳 800石)
第5の徒組の番頭
 桑山内匠頭政要(まさよし 61歳 1000石)

徒組の第4の番頭に平蔵があてられた。
西丸・若年寄の井伊兵部少輔(しょうゆう)直朗(なおあきら 38歳 2万石)の強い推しもあったろう。

参照】2011年3月5日~[与板への旅] () () () () () ()  (9)  ((10))  (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) 

内示をうけるとすぐに、前任・万年市左衛門頼意(よりもと)の詰め部屋へ、同朋(どうぼう 茶坊主)に書状を持たせた。
「このたび、第4の組をお預かりすることになりました。諸事お教えいただきたく、両3ヶ日がうちのご都合のよろしき日をご指定くだされば幸い---」

迎えは、いつものとおり、鍛冶橋下で黒舟と老練な船頭・辰五郎(たつごろう 54歳)が待っていた。

その前夜、亀久町の家で、奈々(なな 17歳)に、明宵、招くのはわれの将来にとって大切なご仁ゆえ、われらのことはくれぐれも他人ごとを演じきるように---と、真面目な顔でいいわたし、閨(ねや)では奈々が悲鳴に近い声を発するほど念入りに練りこんでおいた。

奈々が紀州の貴志村の生まれとしった万年は、
「いつまで、紀州にいたのかの?」
「16の春まで育ちました」

長谷川うじ。第5の組の頭、桑山うじは紀州組だ。いっしょすればよかったな、そうだ、新任の披露の宴は、ここでなされよ」
3組のうちでは桑山が最年長・最古参であるから、その意を汲むぺきだといい添えた。

「見かけたところ、20歳前とおもうが、その若さでこのような店の女将とは---」
「おばが、相良侯の庇護で---」
「なるほど--」

これに類した問答は、この一年、ほとんどの初見の客とかわしてきた。
つぎに来た時には、連れの客に、さも心得たふうに、
「女将が17歳なのは、いまは躰をこわして休んでいる先(せん)の女将の縁者でな、おばにあたる先の女将は、老中・田沼侯ゆかりの女人(にょにん)で---」
さも、自分が田沼老中と親しくしているとおもわせるような引き合わせ方をしたり、奈々の後見の者であるかのような、なめらかな口ぶりで話した。
奈々も、それをを肯(がえん)ずるようにうなずいてきた。
客がつづくわけである。

平蔵が話題を転じ、
「いつごろ、正規の組が先(せん)に戻りましょうや?」
長谷川うじも、先般の上君の羅漢寺あたりへのご遊行に供をしておわかりのように、これからあのようなお出かけも重なろう。いそぎ復さねばなるまいが、宿老がたのお考え次第での---」

万年先手組頭の拝領屋敷は水道橋土手内であったから、黒舟が橋下まで送った。


_360
(万年市左衛門頼意の個人譜)


|

« 火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転 | トップページ | 平蔵、西丸徒頭に昇進(2) »

001長谷川平蔵 」カテゴリの記事

コメント

平蔵どの、徒頭への昇進、おめでとう。
いよいよ、先手頭への切符を手に入れましたね。ほんとうは、先手頭に大抜擢される前に、目付ねらいですよ。目付から火盗改めになる役人が多かったみたいですから。
しかも、目付をこなした者には、町奉行も待っていますしね。
ファンは、平蔵どのの町奉行ぶりを期待しています。

投稿: 文くばりの丈太 | 2011.09.02 05:36

>文くばりの丈太 さん
はい、平蔵も幕臣として役つきの道をあゆみはじめました。
これからがたいへんです。上役・先輩への配慮、同輩の懐柔、部下たちへのこころづかいと温情---いよいよ、男としての腕のみせどころです。

投稿: ちゅうすけ | 2011.09.04 07:35

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転 | トップページ | 平蔵、西丸徒頭に昇進(2) »