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2011.02.22

豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(8)

木挽町(こびきちょう)の中屋敷には先客がいた。
平蔵(へいぞう 36歳)も佐野備後守政親(まさちか 50歳 1100石)も顔見知りの森川甲斐守俊顕(としあき 57歳 600石)であった。

2年前、家基(いえもと 享年18歳)が急死したために、西丸の小納戸頭取をつとめていた森川甲斐は、本丸へ転じていた。

「ご両所とも顔なじみであろうが、このたびの幼君の西丸入りにそなえ、甲斐うじ、高井下野守 実員 さねかず 48歳 500石)うじ、新見(しんみ)豊前守 正則 まさのり 54歳 700石)うじらに、組下の人選を頼んでおいての、名簿がそろったところだ」

大納言家基)さまのご逝去とともに、小納戸の組の者の多くは役から離れましたから、このたびのこと、こころ待ちにしていた士が多く、選抜は、ことのほか難儀でした」
「まず、再任を優先と頼んだものの、やはり、勤めぶりもな---」
主殿頭意次が端麗な顔をこころもちゆがめて苦笑した。
「御意」

きまったのは、4人の頭取を含めて34人、うち9人が紀州勢であった。

紀州勢とは、先々代・吉宗および長福丸(のちの家重)、浄円院吉宗の母堂・於由利之方)にしたがって江戸城入りした紀州藩士の家系をさした。

あからさまにはいわないが、譜代の士たちにしてみれば、紀州勢は優遇されているとおもっていた。
このたびの小納戸組への復帰にしても、家基時代の士はほとんど選抜されていた。
それが、意次の意向でもあった。
豊千代が将軍となったとき、彼らが要所々々に配されることは明らかであり、それが紀州勢の力を温存し、拡張につながる。

森川甲斐守が辞去すると、意次は早速に佐野備後守に訊いた。
「堺湊の拡張のほうは---?」
「万端、順調に---」
うなずき、念を押すように、
「長崎のほかにも、外(と)つ国々との商いの湊が入り用になるのは目にみえておる」

つづいて、
「紀州あたりの木綿の栽培は---?」
「順調にございます」
「うむ。して、堺の豪商で、大坂へ進出している者たちへの手くばりもな?」
「はい。抜かりなく---」
平蔵は、意次の手で、お上の勝手(経済)が大きくうるおうように感じた。
ということは、佐野備後の大坂西町奉行就任は、かの地の豪商たちの金でなにごとかが仕掛けられることでもあった。

銕三郎(てつさぶろう)」
わざわざ幼名で親しげに呼びかけ、
佳慈(かじ 31歳)がなにか話があるそうな。部屋へ案内させよう」


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