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2011.04.14

中屋敷の於佳慈(2)

平蔵(へいぞう 37歳)とすると、正月早々から他家の新妻評など、耳にしたくはなかった。
けれども、於佳慈(かじ 31歳)とすれば、 組から火盗改メのことで依頼があったときの要心にとの親切心で話してくれていることがわかっているだけに、聞くしかなかった。

屠蘇がまわったらしく、里貴(りき 38歳)もふだんの抑制がゆるんで、金棒引きぶりを見せていた。
「新しくご内室にお入りになる方は3人目とおっしゃいました。2番目のお方は---?」
さすがに平蔵も黙っているわけにはいかず゜、
里貴。かかわりないことを口にするでない」

里貴がしょげたので、於佳慈が助け舟のつもりか、
「いいえ。他家へ入るのはおなごの宿命でございます。いろいろな運命をしっておくのもおなごの心得と申すもの---」
平蔵をやりこめた。
(おんなの連合軍に、男の勝ち目はない)

去年の10月、目付から先手・鉄砲(つつ)の第16の組の組頭に任じられるとともに、火盗改メ・助役(すけやく)を仰せつかった堀 帯刀秀隆(ひでたか 46歳)が、3人目の新妻を迎えようとしていることが、おんな同士の話題の的になっている。
3人目は、持参金目当てらしいとの結論であった。

「そういえば、2人目は再縁だったようです」
主(あるじ)の田沼意次も用人たちも神田門内の役宅のほうの年賀受けへかかりきっているので地がでたか、屠蘇のせいか、お佳慈も言葉遣いもぞんざいになってきた。

それによると、堀 秀隆の2番目の内室は、(形原)松平権之助氏盛(うじもり 享年61歳 2000石)の次女であった。

婚じた相手は、名門の一つである内藤家---といっても本家は、増上寺での刃傷ごとで志摩・鳥羽藩(3万3000石)を召し上げられてい、分家・左膳忠賢(ただかた 享年41歳 2000石)。

忠賢が兄の養子となったのは明和7年(1770)と推測でき、34歳。
婚儀は、その後と考えると、ずいぶん齢の離れた夫婦であったとおもえる。
忠賢の死は、嫁いで3年目で、子はなかった。
家は忠賢の弟が継いだ。
内藤家を去り、実家へ戻った。
姉も離婚して帰ってきていた。
堀 秀隆との縁ができたのは、あちらが40歳、こちらが25歳あたりであったろうか。

25歳あたりといってから於佳慈は、ちらりと里貴をみた。
亡夫・藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)が卒したとき、里貴は25歳であった。

(おんなも25歳で先だたれると、身がもたない)
いおうとして、言葉を呑んだ気配であった。
里貴には、亡夫との房事の記憶はとうに消えていた。
いまの平蔵とのそれがそれほど強烈であったともいえるし、そのたびに満ちているとも思った。

平蔵がさらりと話題を転じた。


_360
(堀帯刀の形原松平からの2番目の妻)


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