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2008.11.08

西丸目付・佐野与八郎政親(2)

佐野与八郎政親(まさちか 37歳 1100石)が任じられていたのは西丸の目付だが、目付全版について、松平太郎『江戸時代制度の研究』(初版 大正8年 校訂版 柏書房 1964.6.30)から、現代語訳にして抜粋してみる。

第11章 監察の制として、[大目付。附闕所物奉行]、[目付]、[徒(かち)目付と歩押(かちおし)つき小人及中間目付]の節に分けて書かれている。
とりあえず、[目付]の節---。

目付も、大目付と同じく、監察の任につく。もっぱら、幕臣を統率している若年寄の耳目となって政事の得失を糾察し、諸役人の非曲を弾劾する。とはいえ、その干渉は、奥向きと万石以上の諸侯にはおよばない。
本務としているのは、評定所への出座、万石以下の急養子の当否の検察、そのほか非常の検視、殿中の巡察と詮議を本務とする。
定員は、吉宗の時代に10人と定められて以降、定着した。西丸は別に3~4人と、規模・勤務人数の割に密度が高い。

目付の分掌は、俗に役当(やくあたり)と言って、座敷番、供番、評定所番、名代番、学問所および医学館廻り、米廩および囚獄廻り、勘定奉行宅立会い、諸普請出来栄え見分などの管務がある。
役当は、目付部屋付きの坊主が、前日にあらかじめこれを調査し、次に順をおってその分当を決めるのである(意味がとれない)。

別に、勝手係(予算・出納か)、日記係、外国係、海防係、大船製造係、開港係(上の4係は幕末の新設)などがあった。これの任命は老中。

座敷番は、年始・八朔の殿中儀席を整え、あるいは老・若の大名、旗本に上命を申達するにあたって、座席についての習礼の予行に任じ、奏者番・進物番とともに儀式の任にあたる。
年頭・拝賀の儀礼は次第・進行や格式がややこしいから、もしちょっとでも手落ちがあると、式が混乱するので、この番の者の神経のつかい方はなみたいていのものではない。

供番は、紅葉山や東叡山。増上寺の定式の啓行をはじめ、鷹狩り、川船へのお成りなど随従して。、一向を監督する。定員は2名。
お成りに随従しているとき、雨天であれば駕籠者、小人、黒鍬者、中間などに濡れ手当てを給してやる。
この供番の目付は、評所所の評定が開かれる日は、3奉行(寺社・町・勘定)の裁断に陪席する。

評定番は、単に列席するだけでなく、目安箱の出納、誓詞人の差し引きなどをする(誓詞人の差し引きの意味不明)。

火の口番は、消防の看視をする。出火があれば、昼夜の別なく出行して臨検し、定火消し、町火消し、大名火消しなどの勤怠を視察し、努力抜群の者には褒賞を推薦する。
火災には、火の口番以外の非番目付も居宅から遠くなければ、かなら騎馬で出場し、火勢によっては当番目付に注進すること。

勝手係は、将軍家の会計の経理あるいは勘定所の出納について、だいたいの協定に参与する。

日記係は、殿中の日常の事件やそのほかを記録することになっているが、実際は目付部屋つきの坊主が記録したものを監督している。

諸局が呈出する願書・伺い書・建議書などの文書は、老中・若年寄などが、当番目付へ下附して目付部屋で評議させる。議案の趣旨によつては大目付の参加を求める。
機密にわたる事件などは、それについての意見書の草案を所属の徒(かち)目付に起草させ、当番目付が一覧・添削、捺印し、名下のものから順次回覧し、異存がなければこれに下札(さげふだ 付箋)をつけて奥祐筆へまわし、老中・若年寄へ返達するのがふつうの手順である。

目付は、その職が百僚の規範たるべき地位にあるので、挙措はつねに法や規則にかなうように務める。

本番と称する当直の目付の登城は、大手門から入ると矩折し、歩道の規矩にしたがって歩む。決して近道して斜め横断はしない。諸門の衛士の下座にも目もくれず、玄関にいたると帯刀のまま式台へのぼる。このとき、当番の徒目付・組頭ならびに加番は左右に列して迎え、城内の保安に異常がないことを報告する。
虎の間の徒士番所前をすぎ、紅葉の間の前で、咳をする。書院番士がここに詰めているからである。
こうして、目付部屋の入り口へきて、はじめて帯刀を外し、前日の当番と引き継ぎを行う。

目付は布衣(ほい)の格で、役高は1000石。したがって、佐野与八郎は、持高勤(もちたかづと)めである。

参照】2007年6月8日[布衣(ほい)の格式]

目付は、おおむね、使番から選抜されるが、補任の予選は、同僚の投票である。その結果を若年寄へ上申し、さらに老中の認可をへて、将軍の面前で下命される。
ときには、将軍から候補者の内意が老中・若年寄へ告げられることもあるが、筆頭がうけたまわって目付部屋で評議し、熟議のすえに否となったら、その旨を老中へ進達して阻止するできるが、ま、たいていは台命にしたがってきた。

席次は、先手頭の次で、使番の上(幕末に変更があつたが、佐野与八郎の当時はこのまま)。

西丸の目付は、地位・役高はこれに準じているから、佐野与八郎も同職の投票によって選抜されたとみる。

佐野与八郎の在任は、足かけ11年におよび、安永6年(1777)7月26日に堺奉行が発令された。遠国奉行の中では、長崎奉行に次ぐ要職である。もちろん、このうえには京都町奉行(東西2人)、大坂町奉行(東西2人)がある。

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