天明3年(1783)の暗雲(2)
「菜をとどけてくれている砂村の農家の者が、今朝のようなことがあると、灰を洗いおとすだけでもたいそうな手間で、5日もつづくと、農家はお手あげだと嘆いていました」
里貴(りき 39歳)が身近におきた被害を告げた。
「里貴おばさまは、農家のことを心配していますが、うちだって、今宵みたいな取り消しがつづいたら、お店はやっていけなくなります」
早くも若女将になったつもりの奈々(なな 16歳)が、大げさに眉根を寄せた。
平蔵(へいぞう 38歳)は、明日、嫡男の辰蔵と2,3の家士を知行地へ旅立たせることを話すと、
「辰蔵さん、お幾つですの?」
奈々か訊いた。
「14歳だから、来年あたり、元服させようとおもっておるのだが---」
「お武家の元服って、お嫁さん、もらうの?」
興味津々の双眸(まなざし)で奈々が問いかけた。
こういうところは、まだ、乙女であった。
「いにしえでは嫁取りのこともあったとおもうが、いまは戴冠(たいかん)といい、いつでも職に就ける---男として一人前なったという儀式になってきておる」
「せやけど、男として一人前いうことやったら、おなごをしるゆうことでもあるやろ?」
「奈々ッ!」
里貴がとめたが、遅かった。
「男がおなごをしるのは、儀式とはかかわりはなく、機会のあるなしである。おなごもそうであろう?」
奈々か゜返事をためらうと、
「銕(てつ)さま、そのような話題は、きょうのような宵にはふさわしくありません。城内での風評では、浅間山はこれからどうなると話されておりますか?」
里貴が話題を転じた。
(そうだ、われが辰蔵の初めての体験のことを見て見ぬふりをしているのと同じで、姪っ子同様の奈々がむすめであるかどうかも、そしらぬふりでいてやらねば、不公平だ)
営内にも2派あることを告げた。
すなわち、700年ほど前の火坑(噴火)の言い伝えを耳にしたことがある浅間山近隣の諸藩のなかには、昨日のは前触れで、1ヶ月のうちにもっと大きな異変を予言する者があったが、宿老たちから発言をとめられたらしい。
もう一派は、政事がうまくてっいるいまの世の中に、天が苦難を投げかけるはずがないという、根拠の薄い天命説であった。
「おじさま、どっち摂る?」
奈々の双眸は、平蔵が前者の説に与(くみ)すると決めているようであった。
「j町方・在方(ざいかた)といわず、武家にしろ大名方にしても無事を願っていよう。しかし、一寸先は闇と考えて策を練っておくのが賢者であり、政事であろう」
歴史は、もっと大きな異変が予言派の言い分とおりになった。
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コメント
平蔵の先手組頭への抜擢、田沼の失脚につながる浅間山の噴火、翌年の飢饉の暗雲のはじまりですな。平蔵にとっての一つの山場です。
投稿: 左衛門佐 | 2011.07.22 04:39
奈々ちゃん、おぼこいようでしっかりしてるし、男をしっているようで耳年増って感じもあるし、いいキャラですね。
投稿: aki | 2011.07.22 05:10
>aki さん
奈々が乙女かそうでないか、ちゅうすけも知らないのです。
おぼこぶったり、耳年増ぶったりしては大人を困惑させる少女っていますよね。大人からみると、憎たらしいけど可愛い。
投稿: ちゅうすけ | 2011.07.22 05:54
>左衛門佐 さん
お久しぶりです。お変わりなかったですか?
辰蔵がそれなりに大人になりかかりました。父親が銕三郎時代に14歳で男の仲間入りしたのに、辰蔵は13歳。世間はだんだん早熟になっていくんですね。
投稿: ちゅうすけ | 2011.07.22 05:59