天明3年(1783)の暗雲(3)
「すべて、手くばりを終えて参りました」
用人格の桑島友之助(とものすけ 50歳)が報告した。
桑島友之助がこのブログに初登場したのは、たしか20年前だから、歳月のたつのは矢のごとく速い。、
【参照】2008年2月20日~[銕三郎、初手柄] (1) (2) (3) (4)
知行地である上総(かずさ)の寺崎(220石)と片貝(180石)の、浅間山噴火による降灰の被害の程度と、まさかの時の窮民の救済の手だてを村長(むらおさ)と村役人たちにいいふくめる辰蔵(たつそう 14歳)の助役(すけやく)としてつけられたのであった。
が、平蔵(へいぞう 38歳)は、ひそかに、もう一つの任務を友之助にさずけていた。
長年にわたって任えてくれている友之助だから頼めたことであった。
それは、辰蔵の性的不満によるとおもえる不機嫌の由来をさぐってみてくれ---という、父親としての心配ごとであった。
「苦労をかけた」
「とんでもございませぬ。ところで、もう一つのことですが---果たせませぬでした」
「ほう---?」
友之助によると---。
往路は行徳まで便船、船橋、大和田、臼井とたどり、佐倉城下の〔江戸屋〕で一泊した時、夕食後、供の者が遊び女(め)のいる家へ行くことの許しをえるという口実で、それとなく誘ってみたが、
「そういうことに、いちいち許しを求めるでない」
すげなく拒絶されたと。
寺崎村の五左衛門屋敷での夕餉に給仕したちょっとした美形の若後家に、寝間までみちびかせたが、さっさと蚊帳の中へ消え、
「用はない。すみやかに去(いぬ)るがよい」
にべもなかった。
片貝村から帰りの東金宿でも、夜の町への興味はしめさなかった。
岐路は東金街道を川井、稲毛ととり、船橋宿で一泊したが、結果は同じであった。
それとなく、女躰の経験を話題にだしてみたが、微笑するだけで応えをえられなかったが、あの笑顔は肯定とみたが---推察に終った。
「人生に長(た)けた桑島をもってしても尻尾を見せないとは、辰(たつ)もしたたかになったものよ」
平蔵も、天を仰ぐのみであった。
---が。
真相は、意外な人物がさぐりあてたが、その経緯(ゆくたて)は別の日の物語りということに。
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コメント
辰蔵さんの不機嫌は性的なもの?
お小夜さんに、俗に言う、フタあけをしてもらったのに・・・13歳で。
当時はそんな年齢で体験したのですか?
エディスオス・コンプレックス?
誰が癒してあげるのか、興味津々。
投稿: tomo | 2011.07.23 06:20
>tomo さん
経験の場は江戸にはいまより多くあったかもしれませんね。
ただ、そういう場でではなく経験した辰蔵は、性の深さに立ちすくんだのではないかとおもいます。
とんな立ち直りをみせるか、これからのお楽しみ。
投稿: ちゅうすけ | 2011.07.23 08:02