天明3年(1783)の暗雲(4)
三河町ほか数町の草分け名主の斉藤月岑(げっしん)が編んだ『武江年表』から、天明3年(1783)癸卯(みずのとう)6月下旬から7月(いずれも旧暦)へかけての、浅間山噴火の記載を、現代文になおしながら引く。
○信濃と上野(こうずけ)の国境にそびえている浅間山の火坑(火口)が噴火し、広範囲に被害があった。
江戸では、7月6日夕、七ッ半(午後5時)より、(浅間山のある)西北のほうが鳴動し、翌7日へかけてよりはげしくなった。空は闇(くら)くて夜になったようで、6日の夜から関東筋および上毛に火山灰を大量に降らせた。
竹木の枝につもったさまは雪帽子をかあぶっているみたいであった。
上を、江戸で体験した噴火前後の状況の記録とすると、以下は、現地近辺を取材した記者の見分か、かわら版
からのサム・アップであろう。
(浅間山が焼けだしたのは---:大量の煙と蒸気を吹きあげて火山活動が活発になったのは、春の頃より始まってその勢いは例年に倍していたが分けても強く噴火したのは、6月29日あたりからで、望月宿(中仙道 現・長野県佐久市)の辺から見ると、烟の立ちぼりようは雲のごとくで空一面を覆い、炎は稲光のようでおそろしい。
7月4日ごろから毎日雷鳴のような山鳴りが次第にはげ゜しくなり、6日の夕方には青色の灰が降った。
夜中より翌7日の朝、灰や軽石などがさかんに降り、山鳴りも強まっていた中、昼すぎになり、掛け目20匁から40匁といった軽石みたいな小石が降ってきて危ないので、外歩きができなくなった。
7時ごろから灰が降りだし、しばらのは闇夜のように暗くなり、人の顔の見分けがつかなくなったほどであったから、家の中では灯をともし、どうしいも外出しなければならないときは、空き米俵を何層にもかさるたかぶった。
然るに2時ばかり過ぎ、晴れてきたように見えた空が、またも浅間の山頂では火の玉が噴きあがり、しばらくする小石が降りだし、山鳴りもはげしく、戸や障子がはずれて倒れ、夜、寝ることもできなくなった)
被災地の大変さの報告はまだまだつづくが、この天明3年の大噴火を記録した書物は数多くあるので、詳細はそちらにまかしたい。
『天明三年 浅間山大噴火』 大石慎三郎 角川選書
『複合大噴火 1783年夏』 上前潤一郎 文藝春秋
江戸側での記録として、公式記録ともいえる『徳川実紀』からひく。
7月6日 この夜更たけて、(浅間山の方角の)西北の方、鳴動すること雷のごとし。(日記、能知見草)
7月7日のこのおどろしい夜、平蔵(へいぞう 38歳)がどこにいたかの記録はない。
三ッ目の通りの自邸で、おびえる銕五郎(てつごろう 3歳)と怖がっている於清(きよ 8歳)を久栄(ひさえ 31歳)とともになだめすかしていたか。
あるいは、亀久町の2階家で、腰丈の寝衣の里貴(りき 39歳)に、
「その装い(なり)ではまさかのときに外へ逃げられまい、せめて帷子(かたびら 単衣)でもまとっておいたほうがいい」
「奈々は、あがって、持ちだすものをまとめておくんだな」
すすめていたか。
営中で宿直(とのい)にあたってい、ひと晩、寝ることができなかったか。
〔五鉄〕で、三次郎(さんじろう 34歳)を相手に冗談をいいあっていたとはおもえない。
慎重な三次郎のことだ、板場の火をおとし、軍鶏鍋用の七輪の火の消していたろう。
さて、『実記』の記録----。
7月7日。この日、天の色ほのぐらくして、風吹き、砂を降らすこと甚だし。
午の刻すぐるころ、風ようやく静まり、砂降ることも少しくやみぬ。
黄昏(たそがれ)よりまた振動し、よもすがらやまず。
8日。この日、鳴動ますます甚だしく、砂礫を降らす。大きさ栗のごとし。これは信濃国浅間山このほどもえ上りて、砂礫を飛ばすこと夥しきをもって、かく府内まで及びしとぞ聞えし。(日記、能知見草)
(世に伝ふる所は、ことしの春のころより、この山しきりに煙立しが、6月の末つかたよりようやくに甚だしく、こり月6日夜、忽震動して、その山燃上り、稲(火偏)燼天をこがし、砂礫を飛ばし、大石を迸(ほとば)すること夥し。
また山の東方崩頽して泥濘を流出し、田はたを埋む。よりて信濃・上野両国の人流亡し、あまつさえ石にうたれ
、砂にうづもれ、死するもの2万余人。
牛馬はその数を知らず。凡この災にかかりし地40里余におよぶという)
この噴火の余波としておきた飢饉や水害について、『実記』は記していない・
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コメント
おお、歴史にのこる浅間山の噴火による災害を、江戸の平蔵の側からとらえましたか。なるほど、節タイトルの「暗雲」は浅間山の噴煙、迫っている飢饉にひっかけてあるんですね。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.07.24 06:45
>文くぱりの丈太さん
浅間山の噴火の結果は、ずいぶん、長谷川平蔵に関係してきます。
直接のもので、河川へ流れ込んだ火山灰で川底があがり、出水しやすくなり、本所・深川あたりはよく水浸しになりきした。南本所に屋敷があった長谷川家は被害に会ったはず。
また、不作のために江戸へ流入してきたて離農の無宿人も、あとで平蔵の担当となりました。
しかし、明和3年の段階では西丸の書院番士ですから、それほど詳しい情報には接していなかったとおもい、江戸での見聞にとどめました。
投稿: ちゅうすけ | 2011.07.26 12:53