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2010.07.06

〔殿(との)さま〕栄五郎(7)

京の五条大橋・東詰の宿屋〔藤や〕である。
そこは、伏見・大和への街道の起点でもあり、利用客はひきもきらなかった。

秘密の地下部屋への階段のふさぎ板がわずかに開き、一番番頭・源吉(げんきち 43歳)が、ひそめ声で呼びかけた。
「旦(だん)はん」

地下にしつらえられた部屋では、3人の男が相談ごとをしていた。

階段の降り口から(旦はん)と呼ばれた、5尺2寸(1m56cm)ほどの小柄で白髪の主は、盗賊の世界では〔蓑火(みのひ)〕のお頭(かしら))と尊称されている喜之助(きのすけ 55歳)であった。

声をかけた藤吉の手には、仕立て飛脚でとどいたばかりの書状が握られている。
仕立て飛脚とは、その書状の届けのためにのみ走る飛脚で、それだけに料金も目玉が飛びでるほど高かった。

6尺(1m80cm)はあろうかという〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 39歳)が立ち、手をさしのべただけで受け取り、喜之助へわたす。

その身動きでおきた風にあおられた燭台の炎につれ、男たちの影がゆれた。

喜之助は、眉間にかすかな縦じわをつくり、書状を炎に寄せ、あらためた。
老眼が一段とすすんでいるらしい。

その所作を冷静に見守っているのは、軍者(ぐんしゃ 軍師)・〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 48歳)である。

喜之助が、ぽつりと吐いた。
(いわ)め、素人(しろうと)衆を巻きぞえにしおった」

浦和の小さな商人旅籠〔藤や〕を関八州の盗人宿として預かっている〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 38歳)からの、料亭〔草加屋〕事件の続報であった。

亀吉がじかに江戸へ出向いて集めたこまごました手がかりが記されていた。

〔草加屋〕に飯炊き男として引きこみにもぐりこんだ岩造こと岩次郎(いわじろう 52歳=当時)は、〔殿(との)さま〕栄五郎(えいごろう 30代半ば)から、
「こんどは、しくじるなよ」
きつく念を押されていたという。

「怖れごころを植えつけられたら、失敗(しくじ)るに、きまっておるのに---」
喜之助が、また、つぶやきに似たぼやきをもらし、書状を五郎蔵に手渡した。

【参照】【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

「お頭。色じかけでたらしこんだ女中頭は、の奴が寝床でしゃべったことを、ありこまっち吐いちまっているようですが---」
「素人はそれだから---」
なじった喜之助に、
「そのことですが、浦和の〔藤や〕は始末したほうがよろしいかと---」
神畑〕の田兵衛が提案した。

浦和宿の〔藤や〕を始末するとともに、中山道ぞいにくさりでつなげたように8軒にもひろげた〔藤や〕という屋号の商人宿をまかしている店主たちを、交互に入れ替え、その機に旅籠名もばらばらにつけ替え、表向きにはそれぞれ別々の金主がやっているようにしておかないと、やがて、火盗改メが〔藤や〕しらべを始めることにまでなるかも---と。

蓑火〕は、中山道をこのんで往来する近江商人たちの噂ばなしから、盗み(つとめ)の商舗をさぐりとるために、旅籠を買い増してきていた。

すぐに決断した喜之助は、それぞれの宿をまかせている配下の者たちに伝えるように、田兵衛にいいつけた。

栄五郎どんが、なにかを隠しているように書かれていますが---」
「そのことは、わしが始末をつける。〔神畑〕のは、命じられたことの手くばりを急ぐことだ」

それとともに、五郎蔵に、浦和宿へ旅立つように命じた。

五井〕の亀吉と2人で、〔ならび頭(がしら)〕として独立の方途を立てること、〔殿さま栄五郎を京都へ上らせることをいいつけ、地下部屋からあがっていった。

「〔大滝〕の。お頭も、齢のせいか、だいぶ、気が短くおなりなった---」
「いや。齢のせいではなかろう。7年前にお千代(ちよ 享年43歳)姐(あね)さんがお亡くなりになってこのかた、だんだんと覇気が薄れてきてきているようにおもえて仕方がないいのですよ、〔神畑〕の---」


参照】2008年9月14日[中畑(なかばたけ)のお竜] (
2008年9月18日[本多組の同心・加藤半之丞] (


参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () () 


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コメント

長谷川平蔵の生年が、ちゅうすけさまの年譜だと、延享3年になっていますが、滝川政次郎先生『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)では、延享2年となっています。
どちらとおもえばいいのでしょうか?

投稿: 左衛門佐 | 2010.07.07 09:42

うーん。
困ったな。

長谷川平蔵宣以の『寛政重修諸家譜』の記述と、辰蔵が幕府に提上した「家系譜」では、宣以の歿年は寛政7年(1795)となっており、享年は50歳。当時は数え齢ですから、それで遡っていくと、延享3年(1746)になってしまうのです。

この延享3年はぼくがアピールし、幾人かの人が逆算、認められつつありますが、学会では、滝川先生がビッグネームですから、依然として延享2年説を固持していらっしゃる先生方が少なくありません。

苦しいお答え。

投稿: ちゅうすけ | 2010.07.07 15:48

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