〔殿(との)さま〕栄五郎(2)
提灯の灯を消し、2人が家蔭の躰を移すとともに、尾行者も足をとめた。
新月で、星明りだけである。
平蔵(へいぞう 31歳)は、相手のいるほうをすかしてみながら、権七(ごんしち 44歳)を押し、家と家のあいだの猫道へ押しこんだ。
掌で権七に動くでないと伝え、道の真ん中で大刀を抜いて星の光をうけとめてから背中へ隠し、川側へ移り、数歩出、柳の幹に添った。
近寄ってきた曲者は、大刀が光ったあたりの10歩手前で抜刀して上段にふりかざし、じりじりとすり足で出る。
平蔵の前を行きすぎたとき、
「そこではない」
曲者がふり向き、青眼に構えなおそうとした刀を、平蔵が峰ではねあげ、飛びこんで体当たりをくわせ、左に飛びぬける。
よろめいた相手の腰のあたりを、峰打ちで殪した。
あっけないほどの勝負であった。
権七に、
「行こう」
猫道からあらわれ、
「うっちゃっておきやすんで?」
「わかったのだ」
「誰です?」
それには応えず、曲者に、
「栄五郎うじ。親指の傷は、もう、すっかり、癒えているであろう?」
曲者は倒れたままで、返事をしなかった。
「機会があったら、また、会おう。〔蓑火(みのひ)〕のお頭によしなに、な」
三ッ目ノ橋の橋灯台が見えてき、権七が、
「あの栄五郎という者---?」
「うん。7年ほどまえにな---」
いまは老蒙の身となって幽閉されている隣家の松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳=当時 1150石)が火盗改メに任じられていたとき、首領・〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)たちが練りあげた意図を、銕三郎(24歳=当時)が見やぶって未然に防いだ事件をかいつまんで話した。
【参照】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
その仕返しとして、〔蓑火〕の軍者(ぐんしゃ 軍師)としてその押し入りの手順を組み立てた〔殿さま〕栄五郎(30代半ば)に斬りかけられ、その左親指を傷つけて追い払ったことも、さりげなく聞かせた。
【参照】2009年3月2日[殿さま栄五郎] (1)
(左親指を半分失っていなかったら、はねあげは、ああもみごとにきまらなかったろう)
こちらは、事件に栄五郎がかかわっていると知らず、未遂に終わらせた1件なのだが---。
【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16)
〔殿さま〕栄五郎のために、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 享年33歳)が〔、狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)にゆずられたことも伏せた。
平蔵---というより銕三郎にとって、いいおんなであったお竜を偲んでいたときに、栄五郎があらわれたのも因縁かもしれにない。
三ッ目ノ橋の橋灯台の明かりが、お竜の魂のようにおもえた。
その灯に、平蔵は、胸の中で合掌した。
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コメント
殿さま栄五郎をこういう場面で登場させましたか。
しかも、ずっと前...銕三郎時代に横川の河岸で左親指を斬っておいたことが、今夜のはねあげに効いてきたとは...。
ちゅうすけさんの「銕三郎犯科帳」もかなりのものですな。いまさらながら感服・
投稿: 文くばり丈太 | 2010.07.01 05:28
>文くばり丈太 さん
『鬼平犯科帳』文庫巻14「殿さま栄五郎」に名前だけ顔見世した栄五郎は、それきり、出てきません。
そこで、「殿さま栄五郎」の物語(寛政8年 1796 以前)に、なんらかの事情があって死んでいたのではないか、と考えたわけです。
「殿さま栄五郎」の物語の前年(1795)に史実の平蔵も没していることはこの際、問わないで。
いつごろ死んだかは、これから類推しますが、平蔵がなりかわりえたということは、40代後半まで生存していたとみていいでしょう。
ちゅうすけが書いた事件は、安永5年(1776)ですから、30代半ばとしました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.01 07:31