〔蓑火(みのひ)〕のお頭(14)
「あの2人だ」
南伝馬2丁目の東側の路地に身をかくし、向いの両替商〔門(かど)屋〕喜兵衛方の表をひそかにうかがっていた長谷川平蔵(へいぞう 30歳)が、旅姿の若者2人に告げた。
〔門屋〕の店先でも、2人の旅姿の男が、店の衆たちに見送れていた。
見送られているのは、手代・由三(よしぞう 19歳)と下男・岩次郎(いわじろう 52歳)であった。
昨夕、突然、べつべつに番頭・富造(とみぞう 66歳)に呼ばれ、取引先の信濃・佐久郡の岩村田城下の同業〔春日屋〕へも分厚い書き付けの包みをとどけるようにいわれた。
岩次郎は、その供の者ということで、道中手形も用意されていた。
日本橋橋を北へわたっていく2人を尾行(つ)けるのは、万吉(まんきち 24歳)と啓太(けいた 20歳)であった。
日本橋をわたると、由三が岩次郎の下僕のように入れ替わった。
そして、中山道へつながる道を、なぜか西へ折れ、一石橋を堀沿いに竜閑橋へ向かった。
「啓はん。こら、荒物屋へ行くつもりや」
「そうらし、おすな」
尾行(つ)けている2人のささやきである。
荒物屋が見張れる足袋・草履屋で休んでいると、2人が出てきた。
毛むくじゃらな〔尻毛(しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳)はあらわれなかった。
6月(旧暦)の日差しが強まる中を、板橋宿まで尾行(つ)けた万吉と啓太は、街道ぞいの茶店でひと休みしてから、江戸へ引き返した。
尾行は板橋宿まででいいと、平蔵からきつく言われていたからである。
だから、このあとは、ちゅうすけが尾行するしかない。
板橋宿で休まなかった2人は、浦和宿はずれで、昼餉(ひるげ)にはまだまがあるというのに、小じんまりとした商人(あきんど)旅籠〔蓑(みの)屋〕へ入っていった。
ここは、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ 54歳)が中山道ぞいの10数ヶ所にかまえている商人旅籠兼盗人宿のひとつで、小頭の一人---〔五井(ごい)の亀吉(かめきち 35歳)が、熊谷宿の旅籠〔蓑(みの)屋〕ともに預かっていた。
事情を聞いた亀吉は、離れの〔殿さま〕栄五郎(えいごろう)を呼び、知恵をかり、指示をあおいだ。
「なんで、発覚(バレ)たとおもうかいのう?」
「火盗改メ・本役組の与力が、〔門屋〕の主人・喜兵衛(きへえ 55歳)に会いにきたということでやす」
岩次郎が応え、岩田村城下の〔春日屋〕へという、厳重に包装されてどっしりとした紙包みを差し出した。
じろりと一瞥した栄五郎は、
「このまま、手つかずで〔春日屋〕へとどけんと、いけん」
2人が出立すると、亀吉はことの次第をしたため、京・五条大橋東詰にある宿屋〔藤や〕へ速飛脚に託した。
〔藤や〕は、このところ、〔蓑火〕の本拠となっていた。
日照りのつづき4日後の夕方、岩次郎と由三は岩村田城下へ着いた。
中山道沿いの岩村田(現・佐久市)は、江戸から41里、500戸ほどの家が小さくまとまった、内藤志摩守正興(ただおき 32歳 1万5000石)が統治する城下町であった。
両替為替商〔春日屋〕は、ニ宮明神社の前に、間口3間の店を構えていた。
江戸の〔門屋〕から届けられた紙包みをひらいた主人は、ぎょっとした面もちで2人を瞶(みつめ)た。
中にあったのは、たった一枚の紙片と仕舞い金(しまいがね 退職金)2両(32万円)にすぎなかった。
「わけあって、由三と岩次郎をお戻しいたします。
商いはこれまでどおりにつづけさせていただきます」
【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] (9) (10) (11) (12) (13) (15) (16)
| 固定リンク
「115長野県 」カテゴリの記事
- 〔蓑火(みのひ)〕のお頭(9)(2010.04.26)
- {船影(ふなかげ)]の忠兵衛(5)(2010.08.31)
- 〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(3)(2010.08.29)
- 〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(2010.08.27)
- 〔須坂(すざか)〕の峰蔵(2005.05.28)
コメント