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2011.06.01

建部甚右衛門広殷、免任

天明2年(1782)4月24日、建部(たけべ)甚右衛門広殷(ひろかず 55歳 1000石)の火盗改メ・増役(ましやく)が解れた---ということは、本来の先手・鉄砲(つつ)の第13 の組頭職へ戻ったということであった。

建部組の増役は、この3年、毎冬つづいていた。
火事の多い晩秋から春にかけて、火盗改メの助役(すけやく)が発令され、日本橋から北本役、南は助役の組が担当することは、このところずっとのきまりであった。

ところが近年、建部組が3年連続で増役についたということは、それだけ無宿人が江戸にふえたということでもあった。
無宿人の多くは、北国の冷害で農耕では食っていけなくなり、田畑を捨てた流亡者であった。

嶋田宿への出張りのことなど、増役時代の組頭といささかかわりができた平蔵(へいぞう 37歳)は、松造(よしぞう)に角樽をもたせ、四谷南伊賀町の建部邸へ、無事のお役ご免慶賀の訪問をしていた。
ここは数日前まで、増役の火盗改メ役宅として使われていたあったところである。

同日づけで、火盗改メ・助役を解かれた堀 帯刀秀隆( ひでたか 46歳 1500石)とは、それほどの縁ができなかったので、祝賀は省いた。

あらかじめ、辞をとおしておいたので、牛込榎町の組屋敷から、与力・ 原田研太郎(けんたろう 38歳)と同心・三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)が呼ばれていた。

三宅同心とは嶋田宿で取りしらべをやった仲だし、原田与力は平蔵の嶋田行きの一切を、西丸・書院番第4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 62歳)と取りはからった仁であったから、気がねがなかった。

もちろん、本陣・〔中尾(置塩)〕の若女将のお三津(みつ 22歳)と3夜ばかりか帰りの江戸まで泊まりをともにしたこと、蔵元・〔神座(かんざ)屋〕 を襲った賊が〔野見のみ)〕の勝平(かつへえ)であったこと、引きこみおんなのお(てつ)がじつは、おまさであったことは、すべてとぼけて報告しなかった。


嶋田宿の盗難の件は、けっきょくうやむやで終ったが、原田与力は笑って、
「なに、上っ方(かた)が、組頭の3度の加役を慰労するために臨時の役料をお下げ渡しになっただけのこと、お気になさいますな」
それですませてくれた。

3人で雑談をしていると、腰元が用意がととのったと告げにきた。

客間には、膳がならべられていた。
おどろいたことに、松造の分も下座にしつらえてあった。

松造とやらが道中師を見つけ、府中の町奉行所をはじめ、嶋田の陣屋へも突きだしてくれたこと、勘定奉行所から礼がきておってな、増役として面目をほどこした」
建部組頭が、松造に軽く会釈した。

(香具師(やし)の元締・〔扇屋〕の万次郎(まんじろう 51歳)の仕事だな。われとお三津(みつ 22歳)のことをなにかで察し、松造の名前で陣屋へ届けたのであろう。しかし、あの世界の風評の伝わりの速いのには、あきれる)
平蔵は、あくまで白(しら)をきるつもりであった。

「ところで長谷川うじ。嶋田宿は、備中(守 宣雄 のぶお 享年55歳)どのが京都西町奉行としてお上りのときにお泊まりになったのであろう? できれば、別の土地の事件であればよかったのじゃが---」
「いえ。10年前には、父・備中とは別に、先発して上京しましたゆえ、本陣もこのたびと異なり、もそっと小さなところでございました。こたびは、本格の〔中尾〕藤四郎方に泊まることができ、幸せでした」

三宅同心が、知ってか知らずか、
「本陣・〔中尾〕には、美形の色っぽい若女将がおりましてな。それが、長谷川さまのことを太層、気にしており、奥方はいるのか、剣は何流であるかと、しつこく探りをいれてきました」

「それなのに、長谷川うじをひとり嶋田への残して帰ってきては、猫に鰹節ではないか。はっ、ははは」
組頭は豪快に笑い、
「なにごとも、若いうちは経験である。おんなを抱くのも、おなごから逃げるのもな」

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