寺島村の寓家(3)
「このごろの子どもがかんがえていることは、見当もつきません。あっしらが子どものころは、よその家で飯を食わせてもらうなどというときには、親の許しをもらってからにしたもんです」
いっしょに歩きながら、〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 53歳)が嘆息まじりにこぼした。
連れて入府した〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 49歳)お頭の子・又太郎(またたろう 11歳)が、源七に問うこともなく、〔盗人酒屋〕のおまさ(13歳)のところへ泊まると宣言したことにあきれているのである。
【ちゅうすけ注】源七にしても、銕三郎(てつさぶろう 24歳)にしても、このときから13年後、24歳のおまさが、22歳の又三郎をはじめて男にしてやることになろうとは、予想だにしなかったろう(もっとも、又太郎が22歳まで女躰しらずだったというのも、納得しかねるが---)。
『鬼平犯科帳』文庫巻9[狐火]は、寛政3年(1791)---平蔵宣以46歳、おまさ35歳 又太郎こと2代目〔狐火(きつねび)〕の勇五郎33歳、源七75歳のとき事件である。
ただ、〔狐火〕が寛政3年というのは、『犯科帳』の事件の季節を追っていくとそうなる---というだけで、途中で長期連載化しているので、池波さんのこころづもりでは、おまさは32,3歳かもしれない。{狐火]の執筆時、だれも事件年譜を、まだ、つくっていなかった。
「源七どのは、藤枝の生まれでしたな?」
銕三郎は、わかっているのに、わざと訊いた。
「藤枝宿の在の瀬古郷の、小作人のせがれでやす」
「源七どのが育ったころとちがい、江戸や京の町人の子らは、一度や二度の食事をふるまわれたからといって、いちいち、親には告げませぬ。それだけ世間にゆとりがあり、ぜいたくになっているのですな。もっとも、武家の子はそうはいきませぬ。親がきちんと礼を述べないと、節度をわきまえない輩と、後ろ指をさされます」
「盗人のあっちがいうのもなんですが、礼節がうしなわれて、いやな世の中になっちまいましたなあ」
日本橋・菊新道(きくじんみち)の〔山城屋〕へ帰るという源七は、三ッ目通りの長谷川邸の前で、
「このままお別れするのもなんでやすから 簡単に夕餉(ゆうげ)をおつきあいくださるわけには参りやせんか?」
「参りましょう。一本うどんなどどうです?」
「それは珍しい---」
長谷川邸から海福寺門前の一本うどん〔豊島屋〕までは6丁ばかりの距離である。
小名木(おなぎ)川ぞいに西行きし、高橋(たかばし)を南へわたったところが万年町2丁目で、海福寺門前。
(海福寺 左手・門前〔豊島屋〕 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
小部屋を頼んだ。
窓越しに、永寿山海福寺の有名な石門が見える。
境内には武田信玄ゆかりの九層の石塔も安置されている。
「軍鶏なべでもよかったのですが、季節がいささか---」
銕三郎が言うと、
「初物を食べると寿命が3年のびるといいます。一本うどんはまだ試みたことがありません。3年長生きさせていただきましょう」
源七は、さすがにそつがない。
まず、酒がきた。
一本うどんは、客の注文をうけてから、太いので芯まで茹であがるのに小半刻(しはんとき 30分)近くかかる。
「寺嶋の寮ですが、お使いになるのでしたら、いつでもどうぞ。留守番の重(しげ)婆さんに、そう申しておきます」
「かたじけない。その節は、お借りします」
「あの寮に、おまさどんはなにか不満がありげでしたが---?」
「剣友の左馬(さま 24歳)には、あきらめるように言っておくつもりです」
銕三郎は、あくまでもしらをきった。
「お竜(りょう 30歳)どんですが---」
「は?」
(相良行きが発覚(ば)れたか)
銕三郎が緊張したとき、つごうよく、一本うどんが運ばれてきた。
(〔豊島屋〕ならぬ〔高田屋〕に再現してもらった一本うどん)
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻7[掻掘のおけい]p110 新装版p115には、こう、ある。
深川・蛤(はまぐり)町にある名刹(めいさつ)〔永寿山・海福寺〕門前の豊島(としま)屋で出す〔一本饂飩(うどん)は、盗賊改方の長官・長谷川平蔵が少年のころから土地(ところ)では知られたもので、
「おれが、本所・深川で悪さをしていた若いころには、三日にあげず、あの一本うどんを食いに行ったものだ」
などと平蔵、むかしをなつかしんで深川見廻りの若い同心たちへ語ったこともあった。
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