藤次郎の初体験(3)
「不孝者でしょうか?」
菅沼藤次郎(とうじろう 13歳)の問いに、長谷川平蔵(へいぞう 31歳)は答えられなかった。
三島で、銕三郎(てつさぶろう 14歳=当時)時代の平蔵が、男として初めて芙佐(ふさ 25歳)と交わったとき、
「初めての殿方、わたくしも初めて。こうして安らかに睦みあっていますと、母子の添い寝のようです」
添い寝なんかですむはずがなかった。
芙佐が演じたのは、成熟したおんなの性技であった。
銕三郎としても、もちろん母とはおもうはずがなかった。
あくまでも性の未知の渕への、最初で優美な水先人であった。
芙佐の家を去るとき、帰路の再会を約しあい、
「こんども、母孝行をしてくださいますか」
【参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (1) (2)
旅先での用件を終えた帰路、芙沙とまた交じわることができるとおもうだけで、前夜は興奮でほとんど眠れなかった。
夜中をかけても、三島へ走りたかった。
藤次郎の初体験の歓喜と苦悩は、銕三郎とは異なる。
銕三郎のは、一夜きりの睦みであった。
それだけに印象が深く、それから数年のあいだ、反芻して追憶をやめず、その都度、甘美の渕に沈んだ。
そのことを話したのは、4年後に芦ノ湯村で阿記(あき 21歳)と板風呂に浴していたときであった。
部屋の外のせせらぎの音が消えた。
【参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13)
話したことといえば、2年前に田沼主殿頭意次(おきつぐ 56歳=安永4年)のすすめ上手にほだされて告白したことがあっただけである。
【参照】2010年3月29日[松平賢(よし)丸定信]
(藤(とう)とおれとでは、事情が異なる)
芙佐とは、血縁がまったない他人同士であった。
佐和(さわ 32歳)は、藤次郎の父・菅沼織部定庸(さでつね 享年35歳)の側女(そばめ)として精をうけいれたかもしれないという疑いがでてきた。
恍惚のうちに、声をもらしたという。
「殿。殿さま---あぁ---」
それが、16歳で奉公にあがって嫁入りするまでの6年間のことであったのか、離縁されて復帰、定庸を看病しているあいだの2年間のことであったかは、いまのところ、不明である。
定庸が逝って5年経つ。
そのあいだ禁欲をつづけ、清浄な---いや、正常な女躰(にょたい)になっていたとしても、その継嗣を誘っているとは---。
30歳を越えた大年増としては、初穂がつまめた僥倖---一生の手柄かもしれない。
「で、その夜も、おんなは来たのか?」
「はい」
「抱いたのか?」
「裸躰で添われると、股間が承知しないのです」
藤次郎は、大身の家の継嗣らしく、こだわらずに答えた。
(この年齢なら、裸身の実母にそうされると、同じ結果になるかもしれない。於津弥(つや 37歳)でなかったのがせめてもの救いか)
実母と結ばれたという話も世間にないではないが、〔上通下通婚(おやこたわけ)〕と呼び、人の道ではないと切って捨てられる。
側女とはいえ実父の情けを受けたおんなとはしらずに、抱いてしまった藤次郎の悩みは、ここ、しばらくつづくであろう。
甘美であるべきせっかくの思い出に、染(し)みがついたようなものかも。
世間では、藤次郎が陥ちた事態を〔親子鍋(おやこなべ)〕と蔑笑した。
当人にとっては、笑いごとどころではない。
しかもなお藤次郎は、佐和との性の深みからのがれられなさそうだ。
側女を何人もっても許された身分だからとばかりはいえまい。
於津弥の告白によると、夫---藤次郎にとっては父親の定庸には、於津弥が嫁(か)してきたとき、幾人もの側女がいたということであった。
その於津弥も、いまはふつうでない性にひたっている。
平蔵は師として、藤次郎に命じた。
「佐和と2人きりで話したい」
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