ちゅうすけのひとり言(62)
飯倉町2丁目の紙問屋〔萬(よろず)屋〕を襲った盗賊が、〔飯富(いいとみ)〕の勘八(かんぱち 享年62歳)と、平蔵(へいぞう 32歳)が取引きしたところまで報じた。
依頼したのは、火盗改メ・助役(すけやく)を安永6年(1777)4月16日まで勤めた長田(おさだ)甚左衛門繁尭(しげたけ 尭は下に走 56歳 1300石)であったことも記した。
火盗改メの助役が、火事の多い冬場のもので、その担当区域は日本橋から南と深川、佃島であることもしばしば書いて述べてきた。
本役は、土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)が安永8年正月15日に大坂町奉行に栄転するまで担当している。
で、安永6年の秋の助役は誰が任じられたか、『別冊・歴史読本 実録『鬼平犯科帳』のすべて』(新人物往来社 1994)の後藤正義さんの労作[火附盗賊改就任一覧表]をのぞいてみた。
ないのである。
安永6年秋から7年春へかけの助役がないばかりではない。
安永7年秋から8年春にいたるあいだも助役の名がない。
そんなことは、ありえない、なにかの間違いではないかと、『柳営補任』先手組頭のページをひらいてみた。
「これかな?」
というのはあった。
鉄砲(つつ)の7番手の組頭に任じられた 安部平吉信富(のぶとみ 48歳 1000石)のところに、見慣れない記述があった。
「其ノ後、増加役相勤ム」
日付はないが、安永6年の秋---9月か10月と考えると、加役---すなわち助役で、「増」は火盗改メが、本役、助役、増役と3人となったときに使われている。
だから「増加役」も文字どおりに受け取ると、助役がいなければならない。
それで、『徳川実紀』の安永6年をあたってみた。
あったのは、
5月10日 けふ使番安部平吉信富 先手頭となる
これだけであった。
しかし、『柳営補任』の編者は、なにかの史料に拠り、「其ノ後、増加役相勤ム」の一行を加えたにちがいない。
そのとき、「加役」をあやまって「増加役」としたこともかんがえられないではない。
というのは、『実紀』のこの年のその後に、助役に任じられたものが記録されていないからである。
(『柳営補任』)
もちろん、後藤正義さんは[火附盗賊改就任一覧表]をおつくりになったときに、『実紀』も『柳営補任』もおたしかめになった上で、「其ノ後、増加役相勤ム」の解釈に悩まれ、記録からおはずしになったのであろう。
『寛政譜』(下欄)の平吉信富の項にも、増加役のことは記されていない。
そのため、後藤正義さんは『寛政譜』にある天明2年(1782)10月9日の「盗賊追捕の役」を[火附盗賊改就任一覧表]に採用された。
『柳営補任』にある天明7年(1787)5月23日の、
「組召し連れ相廻るべき旨」
は、江戸で起きた打ちこわしに、先手組10組にくだった鎮圧命令のことであろう。
【参照】2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命]
このとき、弓の2番手の組頭だった平蔵も出動した。
そのときの組頭・平蔵のエピソード---
【参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み]
けっきょく、安永6年冬と、翌7年冬の助役は、いまのところ未解明のままである。
とのあえず、長田甚左衛門繁尭が転任した安永6年4月17日以降の先手・弓と鉄砲の30組の組頭の氏名をあげておく。
発令されれば、この中からである。
西丸の4組頭が火盗改メに就くことは、まず、ないから外した。
弓組10組の組頭
(年齢は安永6年。1番組から順 ○=火盗改メ)
市岡左大夫正峯(まさみね 73歳 1000石)
長谷川太郎兵衛正直(まさなお 69歳 14350石)
長田甚左衛門繁走尭(しげたけ 56歳 1300石)
蒔田八郎左衛門定賢(さだかた 41歳 1800石)
能勢助十郎頼寿(よりひさ 75歳 300俵)
京極左門高虎(たかとら 64歳 500石)
○土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)
中山伊勢守道彰(みちあきら 62歳 500石)
山中平吉鐘俊〔(かねとし 57歳 1000石)
篠山吉之助光官(みつのり 62歳 500石)
鉄砲(つつ)組20組の組頭(同上)
三浦五郎左衛門義如(よしゆき 59歳 500俵)
大岡忠四郎忠居(ただをり 47歳 1430石)
杉浦長門守勝興(かつおき 57歳 620石)
大久保弥三郎忠厚(ただあつ 5や歳 550石)
倉橋三左衛門久雄(ひさお 68歳 1000石)
小菅備前守武第(たけくに 59歳 1500石)
安部平吉信富(のぶとみ 48歳 1000石)
鳥居織部忠該(ただかね 77歳 500石)
遠藤源五郎常住(つねずみ 61歳 1000石)
松田善右衛門勝易(かつやす 55歳 1230石)
浅井小右衛門元武(もとたけ 68歳 540石)
建部荒次郎広般(ひろかず 44歳 1000俵)
松平仁右衛門近富(ちかとみ 77歳 1,500石)
村上内記正儀(まつのり 61歳 1550石)
中嶋久左衛門正勝(まさかつ 58歳 1500石)
織田図書信方(のぶかた 60歳 1500石)
戸田五助勝房(かつふさ 54歳 1500石)
清水与膳豊春(まつのり 59歳 380石)
逸見八左衛門義次(よしつぐ 54歳 530石)
田屋仙右衛門道堅(みちかた 63歳 300俵)
(安部平吉信富の個人譜)
【参考】、安部平吉信富の「其ノ後、増加役相勤ム」にはかかわりがないというより、この仁の着任の寸前、安永6年4月8日の『実紀』の記述は、気になる。
けふ、令されしは、近頃府内ならびに近国に無頼の徒、あまた徘徊なすゆえに、火賊も数多くなりてしづかならず。
なべての憂苦となるよし聞こゆ。
これまったくかの徒を宿すものあるゆえ。
かの徒も処々に徘徊して、いと、ひが事多し。
都鄙しもに里正等よく査検し、さきざきの令を守り、一夜なりとも、かかる徒を宿らしめずももし来たらば、速やかに捕らえて、府は直月の奉行所、八州はけ村々逓送してこれも直月の庁に引き出すべし。(以下略)
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コメント
きょうの[ひとり言]も、だれも解釈を試みなかったことかもしれません。
「其ノ後、増加役相勤ム」
は、未解決のまま、ほうりだしておられますが、この字句が未解決として指摘されただけでも意義があります。
それと、天明7年5月の江戸の騒動への先手10組の出動の解除命令が6月18日であったこと。
この27日間の長谷川組の行動を推察するだけでも鬼平ファンにとっては有意義です。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.09.19 05:24
>文くばり丈太 さん
一見、長谷川平蔵と関係がないようなことでも、きちんとおさえておくと、あとあと、別の糸が平蔵にからんでいることが、調べていると、まま、おきます。
ブログは、のちのちまで、どなたでもアクセスできる記録として残りますから、疑問は疑問としてあげておけば、50年か100年後に、どなたかの目にとまり、解決されることもありそうな気もしています。
そこが、ネットのすごいところだとおもい、老骨にムチ打ってえおります。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.19 07:20