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2010.09.18

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(6)

紙問屋〔萬(よろず)屋〕の小僧・梅吉(うめきち 12歳)と〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ 58歳)を交換する件は、平蔵(へいぞう 32歳)が仲立ちし、火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)と助役(すけやく)の長田甚左衛門繁尭(しげたけ 56歳 1300石)が連名で嘆願書を若年寄へ呈した。
「人命がかかっているため、伊三をわたしたい」

これには裏があり、実際の根まわしをしてくれたのは、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の時代から面倒をみてくれていた奥祐筆組頭・奥村政次郎利安(としやす 57歳 15O俵)であった。
役人は、情報通と寝技師とに通じていることが大切なのである。

参照】2008年6月24日[平蔵宣雄の後ろ楯] (10
2008年7月5日[宣雄に片目が入った] (
2010年5月11日[隣家・松田河内守貞居(さだすえ)の不幸]

月番若年寄の許諾があり、平蔵が〔萬屋〕の柿K木の枝に手拭を巻き、泊まりこんだ。

おまさという名の女中にも会った。
ひと目で、おまさ違いとわかった。
「仙吉と添いとげたかったら、暇をとり、別のところに奉公することだ」

2日目には、〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち 50がらみ)の連絡(つなぎ)役らしい50がらみの男がやってきた。
名乗らなかった。
柿木にむすんだのと同じ柄の手拭を示しただけであった。

奥へと誘うと、びくりともしないでついてきた。
平蔵が、〔下ノ池〕の伊三は大伝馬町の囚獄で無事であると告げても、男は口もきかず、うなずいただけであった。

人質交換の場所と日時を問うと、懐から紙片をだした。
「権之助坂下、大鳥明神社の御手洗(みたらい)所の前
3月30日 明け六ッ半」
とあった。

240
大鳥明神社 『江戸名所図会〕 塗り絵師:ちゅうすけ

「駄目だ。伊三の釈放は、お上が有章院家継 いえつぐ)さまのご命日に、三縁山増上寺でご供養さなる。そのご恩赦の一人に加えていただいた」

「---?」
あくまでも無言であった。
「4月の晦日(みそか)だ」
うなずいた。

「承知だな。勘八お頭へ伝えてもらいたい。これは、若年寄の許諾があっての処置ゆえ、お上の威信にかけても、卑怯な真似しない、とな」

「それと、も一つ。勘八お頭の度量を見こんでのことだが、持ちさられた金子は、ここ〔萬屋〕のものではなく、ほかの数軒の〔萬屋〕の連れ仕入れの預かり金であったそうな。半分でも返してやってくれないかな。たぶん、無理とはおもうが---」


後日談
15年ほどのちのことである。
平蔵が舟宿〔鶴や〕で〔小房こぶさ)の粂八(くめはち 38歳)を相手に呑んでい、新しい銚子をもってきた女中頭のお(もと 32歳)に、
どんは、木更津の出だそうだね? そういえば、粂八は、あのあたりの出の〔飯富〕の勘八のところにいたこともあったそうな---」

それをきっかけに粂八が、
「お役人さまの中にもずいぶんと出来のいいのが---失礼---あっしの言いぐさじゃありませんので。勘八お頭と、その弟分だった〔下ノ池〕の伊三爺ィってのが言ってましたことで---」

まず、勘八の感嘆。
いや、あの若いお武家には参ったよ。泥棒にむかって、盗(と)った金を返してやれ。「無理とはおもうが」と下手(したで)にでておき、「盗(と)られて困る者からは盗らない」の三ヶ条を逆手にとられ、吸いこむように瞶(みつめ)られちゃあ、半金、返さねえじゃあ、器量がさがらあな。

人質交換で戻ってきた伊三の口ぐせは、お上の配下にも惚れぼれするほど〔恐ろしい若いの〕がいやがった。ああいうのが火盗改メにでもなったら、おれたち、手も足もでなくなる---であった。

伊三爺ィさんが長谷川さまを知ったら、〔恐ろしいの〕が2人はいるねえと、申したことでしょうよ」
平蔵は手をふり、
「いや。おれは、その〔若いの〕には及ぶまいよ」

ついでに、もう。ひと言。
この人質交換の体験は、巻24[誘拐]のおまさ救出のヒントになったろう。


参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] () () () () () 

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101盗賊一般」カテゴリの記事

コメント

あまりにも、みごとな結び。できのいい短編を読んだような爽快感とユーモア。みごとです。恐れ入りました。

池波さんが乗り移ったように簡潔な筆さばき、それでいて、史実をきちんとおさえて筋書きに無理がない、いやおみごとです。

平蔵が、小房の粂八に、
「いや。おれは、その〔若いの〕には及ぶまいよ」
ところでは、噴出してしまいまいたよ。

このブログ、鬼平ものでは抜群です。
これからも楽しませてください。

投稿: 左衛門佐 | 2010.09.18 05:48

そっか、きのうの場面で、万屋へ単身やってきたのは、稲富の勘八お頭だったんですね。
勘八お頭は、平蔵さんが火盗改めになる前に川越だかで、畳の上で大往生するんですものね。
寺崎の友蔵や小房の粂八は、本編まで、平蔵さんに会ってはいけないんですよね。

そういう配慮もきちんとされていて、うまいなあ、と思いました。

投稿: tomo | 2010.09.18 06:18

>左衛門佐 さん
過激なお誉めのお言葉、ありがとうございます。
すなおに受けておきます。
史実と小説の橋わたしのようなブログなので、なかなか、うまくかみあいませんが、こんどはうまくいったようです。
ホッとしています。これからも、こう、うまくいけばいいのですが。

投稿: ちゅうすけ | 2010.09.18 06:58

>tomo さん
よく、ご推察くださいました。
これまでも、『鬼平犯科帳』に登場する盗賊で、鬼平が逮捕する者との接触では、いろいろ考えをめぐらせないと---。捕らえてはならず、顔を見てもならず---。
そこを見通していただけると、書き手としては救われます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.09.18 07:06

昨日は遅くまで外出していて、今朝拝読。
左衛門佐さんのおっしゃるとおり、見事なストーリーづくりです。

ただ、人にもよりましょうが、私がこのブログに期待したいるのは、長谷川平蔵をめぐる史的な事実の発掘です。

ちゅうすけさんの鋭い感性で、おもいもかけない方向から史料にライトをお当てになる、その勇気と着眼点のユニークさに魅かれています。

たいへんなご苦労とはおもいますが、どうか、これからも、私たち平凡な鬼平ファンをお導きください。

私にできることがあれば、微力ながにお手伝いしますから、このブログ、おまさの救出まで、あと18年、じっくりとお進みくださいますよう。

投稿: 文くばり丈太 | 2010.09.19 04:58

>文くばり丈太 さん

望外のお言葉、ありがとうございます。
元気がでてきました。

長谷川平蔵の史料が少ないのは、松平定信派に、平蔵は田沼意次派だとおもわれ、田沼の史料とともに廃棄・消滅させられたのではないかとの疑念が消えません。

池波さんは、そこのところを小説ということでのりきっていらっしゃいますが、ぼくとしては、できるかぎり史実に---とおもっていますから、苦労がつづきます。

世の中には、史実よりも説話という人のほうが圧倒的に多いわけで、このブログも、そういう人たちにはまったく無価値でしょう。

ただ、幕府の役人のもかきかわらず、アイデアがありすぎた平蔵のほんとうの姿に、すこしでも近づければとおもいながらつづけています。
今後とも、ご叱声ください。

投稿: ちゅうすけ | 2010.09.19 07:38

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