〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(5)
「伊三(いさ)。たしか〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三といったな?」
大伝馬町の囚獄の別間で、平蔵(へいぞう 32歳)に、引きこみ先で使っている伊三(いぞう)でなく、生まれたときからの(いさ)---しかも、〔飯富(いいとみ)〕一味での〔通り名(とおりな 呼び名ともいう)をつけて話しかけられた伊三は、
(もう、いけねえ)
あきらめきった。
「伊三。下ノ池の盗み水が初めての盗(おつとめ)であったのか?」
伊三は、力なく首をふった。
「ほう。その前にもなにかやったのか? そのときも勘八もいっしょだったか?」
〔稲富〕の名をそれとなく口にしてみたが、もう、気づいたふうは見せなかった。
「んにゃ。勘兄ィは、そんときはいっしょでねえ」
「ひとりきりでやったのか?」
「あんまりひもじかっただで、お末婆ァさのとこの鶏の卵2ヶ、盗(と)っただ」
(50年もむかしのことを、きちんと覚えているんだ。ばかではない)
「のう、伊三。お前が紙問屋の〔萬(よろず)屋〕へ薪を売りにいっていたときの、〔稲富〕の住jまいはどこだった?」
「いわねえと、ぶつだか?」
(16歳のときの下ノ池での恐怖がいまでも伊三をおびやかしているらしい)
「わしは、火盗改メではない---」
「んだら、ぶたねえだか?」
「ぶつわけがなかろう」
「でも、この牢獄にはいる---」
「お前を助けてやろうとしているのだ」
「ほんと?」
「嘘をついても仕方がない」
「勘兄ィの住いは、こんにゃく島の船方宿---」
こんにゃく島---大川から日本橋川へ入り、最初の堀割---亀島川へ折れた霊巌島の築地(埋め立て地)をそう呼んだ。
土地がこんにゃくのようにへにゃへにゃしていたからとも、あたりに上方からやってきた船頭たちの一夜の相手をしたおんなたちの抱きごこちをたとえたのだともいわれていた。
「木更津船で運んできた薪を溜めておくにも足場がいいな」
「んだ」
「ところで、〔萬(よろず)屋〕一統からの仕入れ金が集まった日が、どうして分かった?」
「女中のおまさどんに---」
「おまさ?」
「んだ。きれいなむすめっ子だ」
「で---?」
「手代の仙吉どんが話したのを小耳にはさんだだ。2人は、おらが小屋裏で乳くりあうだ」
「それをどうやって〔飯富〕のに知らせた?」
「金が入った日には、裏庭の柿の木の枝に、手拭いを巻いておくことになっていただ」
聞くだけ聞き、おまさらしい女中を気にかけながら、牢番に合図をおくり、
「近いうちにいいことがあろう。それまで、おとなしくしていることだ」
伊三がかしこまってお辞儀した。
牢番が連れさるその脊へ、平蔵が言葉を投げた。
「〔小房(こぶさ)〕の粂は、どうしているかな?」
伊三の足がとまり、金しばりにでもなったように、しばらく、動かなかった。
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