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2009.08.18

現代語訳『よしの冊子』(まとめ 3)

『よしの冊子』(寛政元年(1789)9月9日 つづき)

一. 加役に仰せつけられるはずの(松平)左金吾定寅 さだとら)が湯治へ行ってしまわれた。
加役になる人が湯治へ行ったからには、湯治から帰ってくるまでは発令にはなるまい、と先手仲間が噂しているよし。
左金吾は一体に大気象の人のよし。湯治にも、願いが聞き届けられるまで家人にも打ちあけず、認可されたその日、許可がおりた、さあ出発だといわれたので、家人は肝をつぶされたよし。
左金吾が申されるには、とにかく泥棒が多く出るのはよくない、ことに重い科人が出るのは公儀の外聞が悪いからなるたけ出ないほうがいいと。
長谷川(平蔵宣以 のぷ゛ため)のほうは、悪い者がいるから捕らえるのだ、悪い者を捕らえないでは、世間が静かにならないといっているよし。
どちらも負けずぎらいの仁だからちょうどよいといわれているよし。

  【ちゅうすけ注:】
  松平(久松)左金吾定寅が、火盗改メ・本役となった長谷川平蔵
  を監視するつもりで加役(火盗改メ・助役)になるために、2000
  石なのにわざわざ1500石格の先手組頭に格下げ任命されたの
  は天明8年(1788)9月28日、加役発令は同年10年6日(長谷
  川平蔵の本役発令は10月2日)。
・・左金吾は火事の多い冬場のための助役だから、翌年春4月21
  日には免じられている。
  で、その秋にも、平蔵と張り合うために周囲は、助役を志願すると
  見ていたのであろう。

一. 左金吾はいろいろ嫌われているとのよし。ご老中(首座・松平定信)の親類ゆえ、仲間内では恐れられているよし。かえってよくないともいわれている様子。

  【ちゅうすけ注】
  松平左金吾は老中首座・松平定信と同じ久松松平の家柄。
  久松松平家康の異父兄弟で、最も重い松平系。

左金吾は禄高(2000石)も高いので暮らし向きもらくで、組下への手当などもいたってよろしいよし。
ほかの先手組の頭は、組下への手当が思うように行きとどかないから、左金吾一人がよろしくやるのは困るといいあっているよし。

一. 左金吾どのの評判はよろしいとも、悪いともいわれているよし。左金吾が申されるには、去年加役を勤め、今年も勤めるので、今年は馴れているので一工夫する、と。

  【ちゅうすけ注】
  松平左金吾は、長谷川平蔵の火盗改メを監視するためであろう
  か、寛政3年(1791)10月7日、再度助役を買ってでている。
  平蔵左金吾の心理戦、宣伝戦は小説になるほどの葛藤であっ
  た。

左金吾どのは無理なことはいわない。その代わり、たとえ古参であっても理屈に合わないことをいったときには合点しないで反対を唱えると。
左金吾は、お膝元が騒々しいのはよくないから、追い散らかしてお膝元さえ静かになればよい、とこのあいだまでにやっと七、八人ほどしか召し捕っていないよし。

一. 番町辺の旗本が知行地へ金を取り立てに家来をやったところ、その家来が帰り道に出会った旅人がいうには、
「私たちが親しくしている宿へお泊まりになりませんか」
というのでその宿へ泊まったが、旅人はいずれも盗賊で、夜中に取り立ての金子を残らず奪い取って逃げたよし。家来は仕方がないので宿の亭主を伴って江戸へ戻った。
で、旗本から支配へも届け、その泥棒を捕らえてほしいと願いでた。そのところへ、長谷川平蔵組の与力がやってきて、泥棒はすでに召し取っているという。
長谷川は捕り事は奇妙と思えるほどにうまいといわれているよし。


ちゅうすけ補】この一件を推理して、『夕刊フジ』のコラムに[在方にも情報網]と題したもこんなストーリーを発表してみた。 


火付盗賊改メとしての長谷川平蔵の、じつにきめ細かな配慮をしのばせる逸話が伝わっている。
平蔵が火盗改メ・本役の長官となって丸一年目あたりというから、寛政元年(1789)晩秋のことだ。
中堅旗本の屋敷がつらなっていた番町。
そこの某家が知行地の下総・武射郡(千葉県北部)へ金の取り立てに家臣をやった。

帰路、千葉宿の茶店で隣あった親子とも見える2人連れが誘った。
「幕張宿には手前どもが親しくしている旅籠がございます。宿賃をいくらか引いてくれると思いますが……」
その旅籠へ泊まり、晩飯では2人連れが酒をおごった。
一日中の歩きづかれと酔いで熟睡中に、2人連れは取り立て金をのこらず盗んで逃げてしまった。

家臣は仕方なく、証人として旅籠の亭主を伴って江戸へ戻り、主人にことの次第を報告して陳謝。主人は顛末を組支配へ届け、犯人追捕を願い出た。

すると、早々と長谷川組の与力が番町の某家へやってきて、いったものだ。
「ご家来衆をたぶらかした犯人とおぼしき者どもをすでに捕らえているので、当のご家来衆に面どおしをしていただきたい」
で、家臣が火盗改メの役宅でもある菊川(墨田区)の長谷川邸へ出向くと、まさしく例の2人連れだった。

このことを伝えたものの本は、
長谷川は奇妙と思えるほど捕物がうまいといわれているよし」
と付記。

たしかに、盗難届けが出る前に犯人を捕らえてしまっているのだから神業のようにも思える。
が、じつはこれには仕かけがあった。

平蔵は火盗改メに就任するとともに、江戸近郊の村々の庄屋や宿場々々の村役人たちへ、盗難があったり不審な者がいたら長谷川組まできっと報告をよこすようにとの触れをまわしていたのだ。
例の2人組の別の犯行はだいぶ前からいくつかの旅籠から届けがきていた。
そこで人相書をたずさえた組の同心が千葉街道へ出張っていたところへ、2人組がのこのことあらわれてご用!となった。
村の庄屋や宿場の村役人が平蔵からの触れを真正直に受け取ったのにもわけがある。
平蔵以前の火盗改メの同心の中には、在方(村)で捕らえた盗賊を、村一番の分限者をえらんでその庭でわざと手荒く拷問。その悲鳴におそれをなした分限者は少なくない金子を同心へ贈ってよそへ移ってもらった。
平蔵は組の者をつよくいましめ、村で捕らえた盗賊はすぐさま江戸へ連れてくるように指示し、それがきちんと守られていたから、在方も長谷川組への協力だけは惜しまなかったのだ。
平蔵にしてみれば、組の与力10人、同心30人では江戸の警備・探索で手いっぱい、在方は村々の情報ルートを活用するしかなかったのだが。 


一. 長谷川平蔵組の同心が、召し捕った盗賊をあやまって逃がしたよし。重罪の盗賊なので、取り逃がした盗賊が30日以内に再逮捕できなかったら、その同心は辞職ものだとと噂されていた。ところが20日ほどたって、
「手前はこのあいだ逃げた重罪の者だが、やがては町奉行所の者の手にかかるやもしれない、どうせ捕まるならお慈悲深い平蔵様の手にかかったほうが、と思って自首した次第、逃げるときには縛られていたので、その縄をなくさないように大切に扱い、こうして持って参りました」
と、役宅へ現れたよし。
平蔵が他の人へ、「この泥棒には重い刑罰をいいわたさなければならないが、自首してきたところはうい奴じゃ。だから、こういう者のお仕置の仕方にはほとほと困る」と頭をかきかき洩らしたよし。

  【ちゅうすけ注】
  _100この話をヒントに池波=鬼平流に換骨脱胎したのが、文庫第21巻
  に収録[男の隠れ家]の結末部分。
  「男の……」は昭和57年(1982)3月号の
  『オール讀物』に発表されたが、この話の載
  った『よしの册子』を収録した『随筆百花苑 
  第8巻』
 (中央公論社)が出たのは約1年
  前の、昭和55年(1980)11月20日だった。


『よしの冊子』(寛政元年(1789)11月22日より) 

一. 長谷川平蔵だと早く済んで出費もあまりかからない、と町々で悦んでいる様子。
先ごろ、捕りものがあり、吟味したところ、行跡がよろしくないので親から勘当を受けているとか。
しかも格別お仕置をいい渡すほどのものでもないので、親を呼び出し、勘当を許し、説教してきかせるように申しつけ、科人のほうも呼び出して、きびしく叱り、この後は孝行するように申しわたしておしまいにしたので、親子ともありがたがり、思ったよりも軽く、かつ早いお捌きでありがたい、と評判のよし。

  【ちゅうすけ注】
  火盗改メの長官(おかしら)も一種の裁判(公事 くじ)権を持って
  いる。
  もちろん、逮捕後は、公事を専門としている町奉行所にまかせる
  ことのほうが多かったが、長谷川平蔵はこのんで裁決をしたがっ
  たフシがある。
  長引く公事でもの要りがかさみ、被告・原告とも迷惑がっていた
  ことは、佐藤雅美さん『恵比寿屋喜兵衛手控え』(講談社文庫)
  などにしばしば書かれている。

一. 去年中より旧冬この春へかけてたびたび火事があったが、左金吾殿が去年のご加役のとき以来、気がよったから火事があるとのことだった。
左金吾どのも一徹の気性で立身はなるまいと思われていたのが、このごろは気を取りなおして、立身でもするか、という気分になられたみたい。左金吾どの気が直ったから、世間の火事ざたでそうぞうしいとの様子。

一. 町方では、長谷川平蔵はいままでにない加役(火盗改メ)だと悦び、とにかく慈悲深い方だ、といっているそうな。
長谷川平蔵が組の者へ申しつけたのは、十手は腰の物と同じと心得て、みだりに抜くことのないようにと。
これから先、十手で人を殺めたなどと耳にしたら、それなりの処分を申しつける、と申し渡したので、よくよく手にあまった時でなければ十手を抜かなくなった、と町々で悦んでいるそうな。
召し捕った者を自身番所へ預けるときにも、半紙へ割判を捺し、送り状を認めることにしているので、間違いも少なく、手短でよいと口々に噂しているとのこと。
  【ちゅうすけ注:】
  テレビ『鬼平犯科帳』のラストで、与力・同心たちが縦横に十手を
  振り回すのは、史実の平蔵の信条に反しているが、まあ、テレビ
  はあれがあるために爽快感がかもしだされているともいえる。 

一. 長谷川平蔵)は頭も切れ、与力同心も先年から勤めてきている者どもで、いずれも名高い士が多く、功績のほどもこの上ない者たちとのこと。
しかもこのごろは町でゆすりなどもいささかもせず、まことに潔白のよし。
かつては同心の内には、四谷や新宿の女郎を揚げづめにして与力もおよばぬ勢いの者もいたらしい。
しかも行きには四谷の自身番へ立ち寄り、女郎へのみやげを貰い、また帰りには自身番にて内へのみやげを貰って帰ったとか。
与力にも、吉原で女郎の手を引きながら十手で人を打ったものもあったよし。
右のようなあぶれものは当節はなくなり、ひしとかたまり、召し捕りに出精しているもよう。
左金吾どのの組には手違いもこれあり、同心の中には暇を出された者いたとか。

一. 捕まった巾着切り(掏摸)どもはみんな(水替人夫として)佐渡ヶ島へ送られるので、なるたけ捕まらないように心がけた。
もし捕まりそうになったら、没義道(もぎどう)であれなんであれ、かまわずに引き切って逃げることにしているよし。そんなことだから、このごろは掏摸が手荒くなって長谷川組の与力や同心がこぼしているよし。

  【ちゅうすけ注】
  佐渡ヶ島の金山坑道の排水の水汲人夫に送られると、10人に5
  人は半年以内に病死するといわれていた。
  それほど仕事が苛酷だったらしい。

一. 手先組の与力たちが、鉄砲の稽古のために与力仲間でいくらかずっ分担金を出しあって、射撃上手の浪人たちを師匠格として雇うことにしたら、とは左金吾どのの発案だが、それではこれまでは鉄砲撃ちはどうしていたのだ、これまでの訓練は無駄骨だったのかとか、浪人者たちよりも御家人の中に師匠になれる射撃上手者がいくらだっているはずだとか、いろいろ議論が出、けっきょく、浪人案は中止になったよし。
そんなことで、江目純平斎藤庄兵衛などへ弟子入りする者が出ている模様。先手の柴田三右衛門(勝彭 かつよし 65歳 500石 先手・鉄砲の6番手組頭)よりも斎藤庄兵衛を頼りにしていて、与力同心がみなみな弟子になった模様。
庄兵衛は極貧で、蔵宿(札差し)棄捐も大分あって、年賦にしてもらっていたところ、家督して以来初めて20両という金を御切米(注・春に4分の1、夏4分の1、秋2分の1に区切って渡されるから切米という)の売却代金として受けとったと悦び、その上に柴田の組弟子になれたので、暮れには柴田から銀(南鐐2朱銀? 2分=5万円前後)2枚、組から10枚(2両2分=50万円見当)も来るだろうと楽しみにしていたところ、柴田からは塩引き1尺、組からは鴨1番が来たきりなので当てが大外れ。さても武芸は金にならないものだが、そうはいっても師匠は出精して教えなければならない、まあ、そんなものかと笑っていたそうな。

一. 先手の松波平右衛門正英 まさひで 68歳  700石鉄砲の13番手組頭)組では、左金吾どのが紹介した浪人者を師匠にして稽古しているよし。
乗馬の訓練も始めたところ、組の中には地借りもいて不承知なので、同心の地面を借りて馬場をこしらえたよし。

一. 先手の中山下野守(直彰 なおあきら 500石 弓の8組頭)は、同心に芝を射させたので1人につき7両ずつかかったので、これでは続かないと止め、百射に切りかえたよし。百射だと2分ずつですむ模様。どちらにせよ、このごろは先手頭もこんな調子でいろいろと物入りが多く、与力同心も出費が重なっているらしい。

一. 長谷川平蔵掛りの養育地(人足寄場)が六万坪に出来たので、諸組から同心を11人雇ったとか。平蔵はなにかと工夫をしているらしいとの噂。

一. 石川島の養育地(人足寄場)については、長谷川の努力は大いに有りがたいことだ、行きだおれなどもいなくなった武家屋敷でも町でも悦んでいるよし。
このことについて、平蔵は与力同心の人員が不足なので、与力1人、同心11人を増員したとのこと。与力は中山下野守(直彰 500石 弓組頭)組の中山為之丞という者。
もっとも与力が5人の下野守の組は大いに迷惑と感じて平蔵の要請を一度は断ったらしいが、為之丞はできる人物なので、平蔵にたってと望まれ、よんどころなく移籍させたらしい。
もっとも為之丞は火盗改方の与力としてもできる与力らしい。

  【ちゅうすけ注】
  中山組の組屋敷は四谷本村町。長谷川組の与力として引きぬか
  れて中山為之丞は、ここから人足寄場へ通勤したのであろう。
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一. 長谷川平蔵組へ移籍した中山下野守直彰 500石 弓組頭)組の与力・中山為之丞は、大島流の鎗を得意としているよし。大島流では為之丞ほどの遣い手はいないといっているよし。
先だって加役を勤めたときに中間を捕らえて手を斬られた男のよし。
為之丞はいたって人のかわゆがる(人望がある)男のよし。
中山下野守組の与力の定員は5人なので平蔵の要請を断ったが、強引に引き抜いてしまったらしい。
  【ちゅうすけ注】
  中山組が火盗改メの任についた記録はない。


よしの冊子(寛政2年(1790)3月21日より) 

一. 松平左金吾どのが同役方のところへ参られた節、これは老中・(松平)定信侯の手製のものだといって鰹の塩辛を差し出されたよし。
定信侯のご領地の白河には海はない。(定信の越中守にかけて)越後でなら鰹が漁(と)れることもあるかもしれないが……。
ご老中が塩辛なんぞをおつくりになるはずがないことは見えすいているではないか。
左金吾どのとしては、ひけらかしたいのだろう。
ありようは、どこかの藩からのご老中への献上品のお裾わけを貰い、それを自家製塩辛ということにしたのだろう、ともっぱらの噂。

一. 佃島の無宿人の人足寄場のことはいろいろと話題にのぼっているが、どうせ長つづきはすまい、まあ、発案者で運営責任者の長谷川平蔵が担当している期間だけのことだろう、との声が多い。
無宿人どもも、なーに、きついことはない、長谷川のところへ6年の年季奉公へ行ったとおもえばいいのだと申してるよし。

一. 長谷川は島奉行というのに任命されたよし。

  【ちゅうすけ注】
  平蔵が貰った辞令は、先手組頭として火盗改メをつづけながら、
  人足寄場の〔取扱〕を命じるというもので、この隠密の報告書がい
  うような〔島奉行〕ではなかった。
  が、世間では〔奉行〕と俗称していたのかもしれない。 
  平蔵の後任の村田鉄太郎昌敷(まさのぶ)は〔寄場奉行〕として
  発令された。
  まあ、奉行といっても上は〔寺社奉行〕から下は〔羽田奉行〕あた
  りまでピン・キリだから、平蔵村田の〔寄場奉行〕に立腹するま
  でもないはずだが、平蔵は内心、不愉快だったらしい。 
  『夕刊フジ』の連載コラムの、平蔵をけしかけた[怒れ、平蔵]


「そうか、平蔵は本気で怒っていたんだ」
『御仕置例類集』に収録されている火盗改メ長官・長谷川平蔵の伺い件数を見ていて考えなおした。
『御仕置例類集』は、火盗改メや各地の町奉行、代官や甲府勤番などが量刑に自信がないとき、幕府の最高裁判所である評定所へ裁可をあおいだ伺いと、それらへの回答の集大成だ。
最高裁判官の構成は寺社奉行と勘定奉行、町奉行。大目付や出張してきた地方の町奉行が臨席することもある。
平蔵は、足かけ8年におよぶ任期中の116の事件に関与した300人の処置について伺っている。
平蔵側が「この量刑にしたいが---」と伺った案の30数件に対して、評定所が1ランク重い裁決をくだしているので、当初「平蔵はやっぱり慈悲深い」と感銘を受けた。
しかし、寛政4年(1793)年から伺い数が急増。
同6年にいたっては74通という異常さ。これだけ大量の伺いをあげた火盗改メは空前絶後だ。
そこで平蔵の思惑を推量して、ハタと思いあたった。
寛政4年6月、平蔵は丹精こめて創設し運営を軌道にのせた人足寄場取扱を解任されている。
後任は家禄400石の長谷川家より数ランクも下、御目見もかなわなかった御家人の村田鉄太郎昌敷だった。
正式の職制となった寄場奉行として、職務手当も200俵20人扶持さえつけられた。
つまり幕府---というより人足寄場の創設を命じた老中首座・松平定信は、平蔵が血を吐くおもいまでして成功させた事業を、御家人なみの仕事と見くだしたことになる。
これで立腹しなかった男じゃない。
怒れ! 平蔵
が、平蔵は中央政府役人、老中へなまに怒りをぶつけるわけにはいかない。
そこで、裁判権を持っている火盗改メにもかかわらず、小博奕やねずみばたらきのような小さな盗みの量刑を、わざわざ評定所へうかがい、事務を輻輳させることで鬱憤をはらした。
いや、そうとしか判断できない。寛政5年には評定所側の裁定よりも重い刑を13通も上申している。
見込まれる裁定よりも1ランク軽い刑を上申することの多かった平蔵が急に、だ。
評定所における量刑は、与力たちが過去の判例を参照して案をつくり、三奉行の決裁を受ける。だから火盗改メからの量刑案が1ランク軽めだったり2ランク重めだったりでふらふらしていると、与力たちはそれだけ余計な神経を使って判例を検証しなければならなくなるわけ。
いや、あなたの部下からのEメールやあげてくる稟議書に、文法上の間違いや誤字脱字が突然多くなったら、その部下はあなたか会社に不満を抱いた、と疑ってみたら。
え? 彼が起草する文章の誤字脱字はいつものこと、もともと文章力がないのだと? それなら結構。


与力の佐藤某も以後は島掛りに命じられ、10人扶持の役料(原米、1日5升。1升= 100文とすると2朱=2万5000円。年に912万5000円)が決まったらしい。
そうなったら(牢獄奉行の)石出帯刀がおもしろくなかろうとの噂されている。毎日佃島を見廻る与力同心はそっちで飯などを炊いてもらい(もっとも米は持参)、ほかにも弁当などを持参するわけだが、出費がふえて困ると愚痴っているよし。
無宿島はとてもじゃないが続くまい、とこの節は長谷川平蔵の評判が悪いそうな。
(初年度の、米500俵、金500両の)お手当金ではの不足で、平蔵はいろいろと工面しているようだが、それぐらいのことではなかなか続くまいといわれている模様。


『よしの冊子』(寛政2年(1790)7月24日より) 

一. 筒持(持筒頭 もちづつがしら)の堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 前職は火盗改メで、長谷川平蔵の前任者)は、組から差し出した願い書なども上へ取り次がず、とにかく世話をやくのが嫌いらしい。
組にも家柄のいい与力などもいることはいるが、3、4年前から与力たちが頭へ願いを出しても帯刀が上へ進達しないので、与力たちは恨らんでいるらしい。

一. 森山源五郎孝盛 たかもり)が大番筋から徒頭を仰せつかったのは、まことに厚恩、ことに莫大な足高(たしだか 役料と禄高との差額)も入るくせに、自分では先手頭を望んでいたらしく、徒頭では不足とのこと。
「人は足ることを知らざるを苦しむ」と昔からいわれているのは、なるほどもっとものことと笑われているよし。
  【ちゅうすけ注】
  森山源五郎孝盛は長谷川平蔵のライヴァル視というか、老中首
  座・松平定信平蔵の悪口を吹き込んだ気配が濃厚である。
  というのも、森山は冷泉家の門人で、短歌が詠めたために、学問
  好きの松平定信が引き立てたのだ。
『鬼平犯科帳』では、平蔵の後ろ盾は丹後・峰山の藩主・京極
  備前守高久
(たかひさ 1万1000余石)となっているが、森山
  源五郎
の書きのこしたエッセーでは、平蔵の死後、火盗改メの
  地位を手に入れた森山平蔵備前守が評し、「森山は王道、
  平蔵
のやり方は覇道」といわれたと自賛している。
  記録を調べてみると、火盗改メとしての森山の実績は、はるかに
  平蔵
に劣っているのだが。
  ちなみに寛政2年、平蔵45歳、森山53歳、京極備前守62歳。

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一. 勘定奉行と吟味役が集まった席で、長谷川平蔵から提出されている(人足寄場の臨時出費の)議案が審議され、一同不承知との所存であったが(勘定奉行の)柳生主膳正久通。600石)が「越中殿が、平蔵も出精している、とおっしゃっているから、幾分かは認めてやろうか」といったので、列座の者もなるほどと合点したが、(佐久間)甚八茂之 しげゆき 廩米100俵。寛政2年3月から勘定吟味役にのぼる)一人だけが承知しない。
「自分はご老中から、よく吟味するようにと仰せられて今の役職に取り立てられているので、自分が納得できないことを無理に承知とはいえない。もしみなさんが自分に賛成してくだされないならば、自分一存でも上申書を上程する」といったそうな。
そういう甚八のいい分はもっともだが、しかし甚八もご老中:定信の信頼がいたって厚いから、恐れることなく自説をいえたのだ。そうでなくては、あれだけの理屈を列座の中で主張することはできまい、と噂されているよし。

  【ちゅうすけ注】
  勘定吟味役は、勘定奉行を補佐し、所内の諸役人や代官を監督
  統制する。4~6名。布衣。500石高。役料300俵。勘定から登
  用される。老中支配。  
  長谷川平蔵も、悪い吟味役の在任中に人足寄場に関係してしま
  ったものだ。
  追加予算がつけられなければ、無宿人を収容している人足寄場
  の経営は失敗しかねない。
  失敗すれば、創設の経緯からいって、世間は、定信内閣の失政
  というところへまでは、甚八の考えがまわらない。頭が硬く、なに
  がなんでも予算緊縮の一点張り!

一. 柳生(主膳正久通)が長く勘定奉行の座にいることを、(佐久間)甚八(茂之)はかねてから不承知に思っていたよし。
ほかの者たちは、柳生はご老中・定信に受けがよいからと遠慮しているが、甚八は、「自分もご老中から御贔屓をいただいているゆえ、柳生に遠慮ばかりしてはいられない」といっているよし。甚八は人をそしるような男ではないが、といって君子というわけでもない。このごろは人からあれこれ悪くいわれている様子だ。もっとも役人衆は、定信の周辺では甚八の悪口はいわず、逆に褒めているとのこと。
  【ちゅうすけ注】
  柳生主膳正は町奉行を経て、天明8年(1788)9月から勘定奉
  行を勤めている。46歳。600石。3000石高。柳生家から柳生
  姓を許された家柄。
  佐久間甚八、この時63歳。普請役、禁裏御入用取調役などを経
  て、安永8(1779)年に勘定(46歳)、寛政2年3月から勘定吟味
  役。

  【ちゅうすけメモ】
  _120 『江戸幕府勘定所史料--会計便覧』
     (吉川弘文館 1988.2.25)より
  勘定所職制
   勘定奉行 勝手方・公事方 4~5名
    吟味役  5~6名
      吟味方改役  10名前後
         同出役   2名前後
         同改役並 10名前後
         同並出役  4名前後
         同改役並格並出役 1名
       吟味方下役  15名前後(見習いを含む)
       御殿詰組頭   2名前後
       御殿詰改方   5名前後
       島々産物掛   2名前後
       御林炭掛     1名前後
       御日記方     3名前後
       書上方      9名前後
       手形方      3名前後
       分限帳掛     2名前後
       御金掛      2名前後
       講武場掛     4名前後
       御備場掛     12名前後
       御台場掛     2名前後
      御勝手組頭     3名前後
       御勝手方改方  4名前後
       積り方掛     7名前後
       渡り方       4名前後
       臨時方      6名前後
       御断方      6名前後
       月帳掛      4名前後
       長崎掛      2名前後
       皆済掛      2名前後
       御普請掛     6名前後
       御貸付掛     4名前後
        同御普請役 15名前後
        浅草御蔵掛  2名前後
        御繰合掛    2名前後
        書物類取調  4名前後
        金座掛     4名前後
        銀座掛     3名前後
        新潟表江戸取扱2名前後
        御材木蔵立会  1名
        猿屋町会所掛 2名前後 
        御武器掛    2名前後
        古銅吹所掛   2名前後
      伺方・帳面方組頭 3名前後
        同改方      6名前後
        手形番      4名前後
        中之間     10名前後
        帳面繰方     5名前後
        御鷹野方     2名前後
        運上方      5名前後
        諸入用証文調  4名前後
        国役掛      5名前後
        小普請金集掛  3名前後
        酒造掛      4名前後
         同出役     1名
        植物掛      3名前後
         同出役     3名前後
        吟味物掛     3名前後
         同出役     5名前後
        道中方     16名前後
        帳面改方     5名前後
        帳面方      7名前後
        御取締掛     1名
        村監勤方帳掛  2名前後
        同郷帳掛     2名前後
        同奥書帳掛   2名前後
        五街道宿々御取締掛 4名前後
      御取箇組頭     3名前後
        差出方      8名前後
        新田方      7名前後
        廻米方     15名前後
        御普請方     7名前後
        町会所掛     5名前後
        米価掛      2名前後
        千両橋掛     2名前後
         同出役     2名前後
        知行割     11名前後
        関東分間絵図掛 
         御取箇方出  5名前後
      評定所組頭     1名
        同出役      5名
           (以下略) 


『よしの冊子』(寛政2年(1790)3月21日)より 

一. 水戸治保 はるもり 40歳)様が上野(寛永寺)へ御参詣になったときの供侍のうち、合羽箱持ちどもが博奕を始めたところを平蔵組の同心が召し捕ったよし。
平蔵がちょうど廻ってきてことの次第を聞き、さっそくに水戸へ掛けあったところ、ご三家方の身内の者には手を下さないという規則だが、博奕の現行犯だから組の者も逮捕したのだろう。
しかし、この者どもは町日雇いと見える者で、その口入れ屋へ渡す所存。口入れ屋へ不届きの赴きをいい渡したあとで、お引き渡しになるのがよろしかろう。軽い者たちゆえ、いま召し捕って、ご行列から外し、口入れへ渡しましょう、と引き立てた。
翌日、水戸侯の上屋敷(水道橋)へ出向き、「昨日は組の同心がご行列の人数のうちを、お許しも得ないで召し捕り、はなはだ恐縮しております。もし、なにかのご沙汰がおありなら、よろしくお頼み申します」と挨拶したので、水戸側は大いに感服し、「なるほど、この節に火盗改メに任命されたほど人ゆえ、丁寧な取り計らいだ」と褒めちぎっているよし。

一. 松平(久松)左金吾 (定寅 さだとら 47歳 先手・鉄砲の8番手組頭 2000石)が同役に話すときには、なにかにつけて「越中、越中」で、同役たちへも、「役向きのことでいいたいことがあったら越中へ内々に伝えよう」と、いちいちご老中:定信侯を笠に着られるので、同役たちは恐れるとともに困ってもいるよし。
他組では当番を助けに行ってもその組の与力が、「横柄(おうへい)じゃ」と叱られるので与力たちも悦んではいないよし。
先日、ご老中方がお上りになったとき、与力どもが薄縁の上へつま立っているのは見苦しく失礼でもあると申しきかせるがいい、といったので、同役が、「これは先規をとくと読み返した上のことだから」と抗弁し、与力たちも、「出てきた、先規を改めた書付には、ご三家の方のほかは土下座はしなくていい規定になっている。そんなことも弁えないで、ご老中:定信侯を笠に着てあれこれ口をきかれるのは、あまり知恵のある人ではないな」と噂しているよし。

一. 佐野豊前守政親 まさちか 59歳 1,100石。鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役)への役の仰せつけは、ごもっともなこととみんな評判にしているよし。
このごろ、先手(の組頭)のうちで、加役を仰せつけられるような人材は、さしづめ佐野だけ、と噂していたよし。ご選定は大当り、とあちこちでいっている模様。
 参考:佐野豊前守政親
一. 佐野豊前守長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役(火盗改メ・助役)の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守貴強? 1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。

一. 長谷川平蔵は、無宿島(寄場)ではこのごろ至極困り果てているよし。
無宿人どもがなかなか思いどおりに手にのってくれないので、最初の見込みどおりにはいかない模様。
それは分かりきったことだ。上の方でもあの案をお取りあげになったのは軽率であったと噂されている。
土を運ばせても、おれたちは公儀の人足さまだといって百姓をいじめているよし。
紙を漉かせても思うようにできず、内々、江戸の町人の素人に頼んで漉かせているよし。

一. 寄場人足が竹橋内の空き地へきて、勘定所が出した反古紙を切って寄場へ持ち帰ったよし。
同心が一人、監督をしていたよし。
反古を切っているときにそばで聞いていると、いろいろ小言をいい、人足たちのいうには、どんなことをしてもせいぜい首が落ちるだけのことだ。首が落ちるのをこわがっていてはどうしょうもない、などと大きな口をたたいて傍若無人の振るまいだったよし。
なるほど、あれでは長谷川も手にあまろう、が、まあ、ああした者どもだろうともいわれているよし。
監督の同心も困ったいたよし。寄場に行っている平蔵組の同心は、いずれも遠方からなので塩味噌まで持参して2、3日も泊まっているよし。4日に一度、5日に一度家へ帰り、また翌朝には詰めているので、用事がいっこうにはかどらず、難儀している。その上、役料は火盗改メ分だけで、余分には出ないので、火盗改メ分としての2人扶持だけでは島通いは続けられない、と愚痴をこぼしているよし。
2、3日も泊まると、島で銭を多く遣ってしまうといっているよし。

一. 先手勤め方、その他の組与力同心の勤め方のあれこれの規定をつくろうと、松平左金吾安部平吉信富 のぶとみ 鉄砲K7番手組頭  1,000石 61歳)が、筆頭:浅井小右衛門(元武 もちたけ  540石 81歳 56歳から組頭で25年間、鉄砲の11番手組頭)、次老:村上内記正儀 まさのり  1,550石 74歳 59歳から組頭で15年間、鉄砲の14番手組頭)、三老:松(杉)浦長門守(勝興 かつおき 620石 70歳 55歳から15年間、鉄砲の3番手組頭)へ話を持ちかけたが、いずれも老衰で、相談相手になってはくれず、貴殿たちでどうにでもいいように頼む、というだけだったよし。
先手が担当している御門は総じて出入が多く、持ち物も勝手にもあいなるようだ。
御先手から御鎗持へ転役になっても出入り場の役にはつくわけだ。
倉橋三左衛門久雄 ひさたけ 1,000石 この年の8月に御筒持へ転任)が御持になったけれど出入場は、担当しているよし。
この際、土方宇源太勝芳 かつよし 1,560余石 47歳 鉄砲の10番手組頭)を御鎗奉行にして、右の出入り場を持ちながら勤めたいとところどころ拵えているよし(意味不明。土方勝芳が翌寛政3年5月に転役したのは普請奉行)。
宇源太はまだ50そこそこの男らしい。あの若い男が御鎗へ行くのはつまりは出入り場を持って行きたいというばかりで御鎗を願うのだそうな。
御先手なども人物さえよければ筆頭から順に抜けさせていくのが公儀としても本意であろうに、下のほうから栄転してはみんな気受けが悪くって人びとのおさまりもわるいことだと、左金吾が腹を立てて、人に話しているよし。先記の三老はいずれも老衰で相談をかけても埒があかないから、このごろは安部平吉あたりがおもに世話をやいているよし。
このたび御番入りの順でいくと、村上松(杉)浦安部中山(下野守直彰。 500石。75歳)、酒依(清左衛門信道。 900石。73歳)ということになるが、安部ばかりが抜きんでているのはどういうことかといわれているよし。70歳以上ということではあるけれども、70歳以上ならば御番入りこれあるべき者を、と評判しているとのこと。
  【ちゅうすけ注】
  *浅井元武は、この年の12月に卒。
  *村上正儀は、この年11月に卒。
  *杉浦勝興は、6年後の寛政8年2月に卒。
  筆頭、次老、三老……は、34人いた先手組頭の長老格の面々
  で、同役たちの取締りと意見の取りまとめ役のはずが、この時代
  には老齢化がすすんでおり、耄碌3役ともいえた。
  それでも、先手組頭は番方(武官。制服組)の終着駅といえる地
  位だから、しがみついていて容易に辞めない。

一. 御先手の一色源二郎直次 なおつぐ  1,000石 弓の4番手組頭)の倅(作十郎直美 34歳)は、馬術が巧みで、上覧にもまかり出、その上お好みで両度上覧も仰いでいるとのこと。
しかも源二郎は今年72歳になるので、先日、御番入りした節、これは辞めそうなものだ噂されていたが、倅への沙汰はなかったよし。
小倉忠左衛門(正員 まさかず 1,200石 75歳 弓の7番手組頭)は365日引き込んでいるところ、このたび倅(永次郎正方 28歳)が御番入りしたが、その倅はようやく12歳(先記のように年齢に誤記がある)で、先日のご吟味のときも両度とも急病を理由にお断りを願ったそうな。
このたび御番入りした挨拶のために御頭の家へ行けば泣きだすので、お頭も、早々にしてお帰りなさいといい、お礼参りも同役の世話でやっとのことで勤めたらしい。
なるほど、ご吟味にも出さないわけだ。あれではご吟味に出ると御番入りはさせてもらえない。だからご吟味のたびに急病ということにしたのだ。
これは京極(備前守高久 若年寄。丹後・峰山藩藩主 1万1,000余石 『鬼平犯科帳』では、鬼平の後見役)がよくない。ご時節でも得手勝手をすると、京極のことを悪くいっているそうな。

一. 長谷川平蔵が口をきいた奉公人を雇った場合は、給金は1両2分(約30万円とも、15万円とも)とあちこちへいって様子。
ただし給金は奉公人へは渡さないで、長谷川方へ預け、3月の季がわりに、長谷川から利息を添えて渡してやるとのこと。
長谷川が雇い主たちへいうことには、使いなどに出すときは金子を1両より多く持たせないことだ、もし持ち逃げしても1両以下だから長谷川が補填すると。しかしこれは大部屋などではいいが、中間の2、3人も使うところでは嫌なものだ。そうはすまいといいあっているよし。


『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日)より 

一. 銭相場が引きつづき急騰しているのはどういうわけか、豊島屋へ銭を売るなと仰せつけられたので、引き上げても、銭を買い上げになっても、いろいろと噂しているよし。
米は安く、銭が高いので、武家は一向に引き合わないと小言がでている。
しかし諸物価を引き下げのためにいろんな策が講じられているが、以前と同じことで物価は少しも下がらないのは、まず銭を高くしておいて、その上で物価を引き下げる計画なんだろう、とのもっぱらの声。

  【ちゅうすけ注】
  1両= 4,000文に定められていた銅銭との交換レートが、実勢で
  1両= 6,200文前後と、銭の値打ちはさがっていた。
  それが、銭がじわじわと高値(5,300文近く)になってき、逆に、
  米価は下がり気味だったから、米で給料をもらっていた武家はた
  まったものではない。

一. 銭が高値になったのは、長谷川平蔵の処置だとの噂もでている。
無宿島(注:人足寄場)で10万両ほど銭を買い上げたせいで銭が高値になったのだと。
いずれは諸物価を引きさ下げるための処置なんだろうが、物価は急には下がるまい、物価が下がったところで武家にとっては朝三暮四じゃといっているよし。
諸物価を下値にとのお触れが出ているので、酒、油、豆腐類などの金本位で値づけされている物は引き下がっているよし。
銭で値づけされているものはいまのところ下がってはいない。
この節、銭が高値になっているので、両替や質屋、呉服屋などは大いに利を得、毎日過分の利を得ているので、どうでもよいものはよい、どっちにしても利をとりにくいやつだと噂している模様。
諸物価がおいおいに下がりさえすれば、銭が高値でもいいとの評判も聞かれるよし。
町方でもこのたびの仰せ渡されはごもっとも、至極ありがいことじゃ、是非下げねばならぬ、と、互いに心掛け、銀匁のものは銀匁を安くし、煎餅などは品を大きくするとか厚くするとかするらしい。
ただし野菜や魚類、また日雇い代などは一向に下がらない気配。なにとぞ奉公人の給金も昔のように安くなればよいのだが、と噂しているよし。
  【ちゅうすけ注】
  銭のレートを上げるため……というより、人足寄場経営も2年目に
  入り、初年度に 500両つけてくれた運営費を、幕府は 300両に減
  らした。
  これではやっていけないので、長谷川平蔵は諸物価安定との理
  由をつけて幕府から 3,000両借り出して銭を買い、月番の
  北町奉行の初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1,200石
  47歳 武田系)同席のもとに呼びつけた両替商たちに「銭の値を
  あげよ」と命じた。
  1両= 6,200文前後だったレートは1両= 5,300文前後まで銭が
  上がった。
  平蔵はただちに買い置いた銭を売り払い、差益を400両ばかり取
  得、寄場の運営資金の足しにするとともに、元金 3,000両を幕府
  の金蔵へ返済した。
  この行為を、「武士たる者がゼニに手を染めた」と保守派幕臣た
  ちが非難した。
  その代表が、寄場への予算をケチった老中首座・松平定信で、
  自伝『宇下人言』に「長谷川なにがしは姦物」と記した。
  『よしの冊子』全編を通じて、「姦物」と書かれているのは、賄賂
  (わいろ)を激しく得ている人物である。
  平蔵にこの言葉が冠されたのは、この銭相場でえた利得を私(わ
  たくし)したとの判断によるようである。
  事実は、人足寄場の経費の補填に使ったのだから、「姦物」よば
  わりは不当・不見識といわなければなるまい。

一. このあいだ、初鹿野(北町奉行)のお役宅で、初鹿野と長谷川平蔵の両人が列座して、江戸中の名主と大屋を呼んで、このたび銭相場が高値になったので、諸物価は値下がりするだろう。

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_360

いかように銭が下値になっても、(1両=) 5,200文より下値にはなるまいから、不安がらないで右の心得で諸物価を引き下げるように申し渡したとのこと。
初鹿野は名門の出(注:武田系の依田(よだ)から初鹿野へ養子)、長谷川は御先手から町奉行役所へ出て町人へ申し渡したのはいい度胸だと噂されている様子。
いずれ町々の町役人一同は長谷川を町奉行にと願っているとのこと。
いたって慈悲心のある方と悦んでいるよし。
柳生(主膳正久通 ひさみち 46歳 600石 勘定奉行は3000石高)が大目付になると、長谷川柳生のあと勘定奉行になるだろうとのうわさ。
一説に、長谷川の職はいままでどおりで、むしろご加増があり、掛り役を仰せつけられるとの噂もある。
  【ちゅうすけ注】
  加増も勘定奉行もなかった。

_360

_360_2

一. 佐野豊前守政親 まさちか 59歳 1,100石 鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役))は長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。
町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
  【ちゅうすけ注】
  火盗改メの組下は、火事などの出動の時に揃いの羽織を着る。
  その袖に組頭ごとにそれぞれの柄をつる。
  佐野豊前守は、冬場だけの助役だから、無駄遣いと判断。

佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守(貴強? たかます  1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。

  【ちゅうすけ注】
  佐野政親は、天明元年(1781) 5月26日から足かけ7年間、大
  坂町奉行。病免して寄合。回復後、先手組頭。
参考:佐野豊前守政親

一. 長谷川平蔵は、 3,000両ほどずつ銭を買ったらしい。
この節、銭値が日々に上下しているので、両替屋どもの中にはこの機に乗じて大きく利を得ている者もいるよし。坂部十郎右衛門(広高 ひろたか 廩米 300俵。目付、のち町奉行)も、 3,000両のうち 100ほど買っておき、配下の者へ触れをまわして希望者へは買ったときの安相場での買値で分けたという噂がもっぱらだ。

一. 佐野豊前守(政親)は、10月から3月までの御加役中に 400両借金ができてしまったよし。
加役(火盗改メの冬場の助役)でさえこうだから、長谷川は長い本役づとめをしているのだから、さぞ物入りであろう。
長谷川は慈悲もほどこし、先だって新刀(注:神道、新稲、新藤とも)小僧を召しとったときには、「新刀小僧ともいわれるほどのお前が、そんななりで入牢しては格好がつくまい」と3両だして衣服をこしらえて牢へやったそうな。これはほんの一例にすぎず、とにかくなにやかやと物入りが多く、よくまあ続くことよ、あれではさぞや借金が増えることだろう、と噂されているよし。
  【ちゅうすけ注】
  新刀小僧は配下 700人ともいい、関東一円から信州、奥州にか
  けて盗みをはたらいていた大盗賊の首領。
  3両だして新刀にふさわしい衣服を与えたエピソードは、
  2007年9月8日『よしの冊子(ぞうし)』(7)を参照
 

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コメント

初めまして。
ずっとと読ませていただいていましたが、このところの「よしの冊子」の特集には、お礼の言葉を述べなければ、バチがあたると思いまして。
ネットの中の情報はタダと考えている人が多いようですが、真の鬼平ファンにとって、これほど貴重な情報を拝見したからには、タダではすまされない、お礼のメッセージをお届けして、感謝の気持ちを伝えるのが礼儀というものと考えまして、まかりでました。

アクセス数の増え方を拝見していますと、ずいぶん多くの鬼平ファンがアクセスして恩恵をこうむっているようですね。

みんなを代表して、お礼を申し述べます。これからも、ファンを知的にたのしませてください。

投稿: 静雄S | 2009.08.19 05:19

>静雄s さん
初めまして。ようこそ。
気になっていたんです、『現代語訳 よしの冊子』のまとめ。

というのは、時代劇チャンネル主催のバスによる鬼平史跡めぐりの解説者をやったんですが、バス5台---200名の参加者のうち、『鬼平犯科帳』の原作をを読んだ人は1割の20人もいらっしゃらなかったのです。

もちろん、小説からテレビへ入った人、テレビから小説へ来た人---さまざまでいいのですが、予想の1/3にも足りない読み手だったので、がっくり来ました。

当ブログも、いろいろ史料をつけていますが、多くの鬼平ファンの方は、それほど、鬼平の生きていた時代には関心がないのでは---と。

静雄sさんのおはげましより、つづける勇気を
いただきました。こちらこそ、ありかどうございました。

投稿: ちゅうすけ | 2009.08.20 06:59

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