現代語訳『よしの冊子』(まとめ 4)
『よしの冊子』(寛政2年(1781)12月1日)より
一. 番町の新番頭:横地太郎兵衛(政武 まさたけ 廩米 400俵。この年、42歳)方へ入った賊も坊主だったとか。
太郎兵衛の組の者が止めようとしたところ、懐剣を出して手に切りつけてきたので、放したすきに逃げてしまったよし。
小普請組頭:蜂屋左兵衛(可護 よしもり 300俵 この年、48歳)方の縁の下に伏せていたのも坊主で、中間が見つけて捕らえようとしたところ、これまた懐剣で手を切られ、そのすきに塀を乗り越えて逃げたよし。
【ちゅうすけ注】
蜂屋左兵衛可護は銕三郎と初目見がいっしょの仁。
永井某方へ入ったのも坊主だったよし。
雉子橋:高橋大兵衛方に同居している弟の所へ入ったのも坊主だったと。稲葉小僧同様の坊主姿だと噂のよし。右の4軒、雉子橋をのぞくと3軒は番町。
この坊主姿の盗人、番町あたりをあちこち襲っている模様で、4年前(天明6年)の米屋騒動のときのような成り行きで騒ぎが大きくなっているそうな。
一. 安藤又兵衛(正長 まさなが 廩米 331俵)は、気性がはなはだむづかしい男のよし。いったいに公事をさばくことが好きなので、公事方勘定奉行の役所へ出、さばいてみたいとつねづね願い出ているそうな。
さて、このたび養子の御番入りを願い金子 200疋を堀田摂津守(正敦 まさあつ 若年寄)の用人へ贈ったよし。
この金子はただちに用人から返され、その受取書を用人から堀田摂津守へご覧に入れたところ、堀摂侯は登城の節ご持参になって、ご同席方やご老中へもご覧に入れたので、早速に小普請入りを命じられたが、だいたい又兵衛には旧悪もある模様。
【ちゅうすけ注】
若年寄・堀田摂津守正敦(近江・堅田藩 主 1万石 この年、32
歳)実は、松平陸奥守宗村が8男。母は坂氏。老中首座:松平
定信の盟友。
嫡孫をぶって失明させたとか。養子も3人目とやらで、養子が患ったときも食物や薬も一切与えなかったとか。先年、和田八郎(現在は小笠原仁右衛門の手代)が又兵衛方へ勤めたとき、養子が気分が悪いといっているときにも、湯水も与えないので、八郎が目を盗んで看病したとか。
召使いの使い方もひどいもので、病気で引き込んでいても湯水も与えず、暇をとると給金を本金どおりに立て替えさせ、もし本金がとどこうると、荷物を押さえて渡さないとのこと。
女の古いつづらが 24,5個も二階に重ねて置いてあるそうな。だから世間では安藤又兵衛とはいわないで、本金又兵衛と呼んでいる。奉公人も一向に居つかず、用人もいないまま。
当番のたびに用人を雇っている始末。このたび小普請入りを申しつけられたので、組員一統が悦んでいるとか。
一 安藤又兵衛にお尋ねの節、(久松松平)左金吾(定寅 さだとら)殿、安部平吉(信富 のぶとみ 鉄砲の7番手組頭 1,000石 61歳)の両人が尋ねて行くと、又兵衛がいうことには、前々、拙者方へ軽い身分の御家人が来て、これがいうには、摂津守の用人の岡田百助は賄賂を取るのが好きだから、なるべく多く贈られるのがよろしかろう、と勧められたが、ただいままで贈りものなどしたことがない。
摂津守殿のご対客の時間に、拙者が参上したところ、百助が出迎えて手厚く世話していた。
ところがこのあいだは拙者に見向きもしないしものもいわなかったとかと御家人へ報告したところ、「それご覧なさい、それだから贈物をしないと」と勧められたので、 200疋贈ったのだ、と左金吾と平吉へ話したとのこと。
なお両人が詰問したところ、その御家人もこのごろは来ない、などといって取りつく島もない始末で、あきれかえったよし。
又兵衛ははじめ 200疋贈ったが、返されてきたので 500疋にするかと考えたと。 2
00疋を返されたので又兵衛は大いに立腹し、こっちも御役を勤めているのに届けものを返してよこすとは不届き千万。理由をしたためた手紙を遣ったので、用人もぜひなく主人へ見せたのだろう。
京極殿(備前守高久 若年寄 丹後・峰山藩主この年、62歳 1万1000余石)が又兵衛へ、摂津守の用人どもにかぎって贈物をしたのか、またはほかの同役どもの用人へも贈ったのか、つつみ隠さずにいってみよ、後日になって判明してはためになるまいと聞かれたので、他へは決してやっていないと答えたよし。
【ちゅうすけ注】
堀田摂津守正睦は、松平定信の盟友で信頼も篤い。その用人が
賄賂(わいろ)好きとの噂があるところがなんともおかしい。
一. 先だって、代田橋で駕籠から又兵衛が降ろされたのは、六尺(駕籠かき)への弁当代をやっておらず、駕籠かきたちが申しあわせて降ろしたよし。それゆえ駕籠かきどもは入牢し、この月の2日、牢死したもよう。
その思いばかりでもただではすみそうもないとの噂だ。
安藤又兵衛の倅は三度目の養子で、芸術も人物もいたってよろしく、選にもあたり申すべきほどの様子のところ、又兵衛の大ばかのためにあのとおりの結果になったので、養子は嘆息し途方に暮れたよし。
25日の夜、安藤又兵衛の倅は井戸へ身を投げて死んだよし。
又兵衛が小普請入りを命じられた日から、お前のためにおれはこうなってしまったとたびたびいい聞かされたので、倅の身としては気の毒で辛抱たまらず投身自殺したもよう。
本金又兵衛と呼ばれる男は本所に一人、浅草にも一人いるが、この三又兵衛のうちの一人がしくじったので、今後は二又兵衛となると噂されているよし。
又兵衛の倅は、竹中惣蔵のところへ弓の稽古へ通っていたところへ自宅から人がきて、父の又兵衛があすお城へ召されたといったので、父の立身か自分の番入りかと帰ったところ、小普請入りとのことで、倅も大きく気落ちしたよし。
倅は武芸がいたってよく出来、腕前は御番衆や小普請の中にもくらべられる者もいないほどとのこと。安又の倅が井戸へ入ったのは、養母を殺したことを申しわけなく思ったからだ、ともいわれている。
井戸へ入ったので地上ではたいへんにうろたえ、さげた釣瓶につかまれ、引きあげるからといったが、縄が切れて釣瓶が頭を直撃したので即死したらしい。又兵衛が謹慎の処分中なので小普請組頭はくやみに行くこともできず、世話役を遣って検分したとか。
倅の里方でも、又兵衛のふだんのやり方に不満があり、かねてから養子縁組を解消して取り返したいと考えていたが、御番入りの話もちらほらしていたので我慢していたものの、又兵衛が小普請入りを命じられたのでその謹慎が明け次第に取り返すつもりであったという。それで里方ではこんどの事件で又兵衛の責任を追及するつもりらしい。又兵衛も謹慎ですめばいいが、どうもそうではなさそうな雲行きとの噂がささやかれている。
【ちゅうすけ注】
井戸へ入った養子:満吉正武は27歳。里方:内藤主税信就
( 1,000石 小姓組の家筋)の4男(ただし兄2人は早逝)。
一. 当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。
『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日つづき)より
長谷川平蔵は、かつて手のつけられない大どら(放蕩)ものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の扱いが暖かく行きとどいていて上手のよし。
役向きで質屋などへ申し渡すときにも、こっちなどもまえまえ質に曲げたことがたびたびあったが、質屋にはなんとも合点がいかない。
腰のものを例にとると、こしらえの値ばかりふみ、太刀の生命である刀身についてはいっこうに評価しない、などと冗談混じりに痛いところをつくので、質屋も笑い出す始末。
吟味も相談するような調子ですすめるので、町奉行と違い、ものも言いよく、恐れずに申し出られると行き届く様子。町奉行はとかく大げさになり、刑罰も重く言い渡されるので、盗賊をつかまえてもめったには渡さない様子。
【ちゅうすけ注】
この『よしの冊子』のもとである隠密たちのリポートは、松平定信
の家に厳秘に付されて伝えられてきた。
「老中職になった者以外は覗くこと厳禁」といった意味のことが、
定信の手で書かれていたという。
それが、世に現れたのは、桑名藩の老職・田内親輔(月堂)が、
ひそかに抄本をつくって『よしの冊子』と命名し、同藩の篤学
の士・駒井忠兵衛乗邨に託して、副本を作らしめた。
乗邨は自分の写本叢書『鶯宿雑記』中に収録した。
これが昭和7年になって森銑三氏が『本道楽』に4回にわたって
分載、初めての陽の目を見た。
が、その中には、長谷川平蔵についての記載はない。
とすると、長谷川平蔵が若い自分に「大どら」であったということ
を、池波さんはどうして知ったのか。
収録した中央公論社『随筆百花苑』刊行は、第8巻(1980.12)
第9巻(1981,01)。
『鬼平犯科帳』シリーズの第1話[唖の十蔵]の『オール讀物』発
表は1968年新年号。
『夕刊フジ』の連載コラムに「よしの冊子」この質屋の話をふくらませて[老人力の活用]とした。
「かねがね、機会をみてお手前がたに教えてもらいたいと考えていたことがござってな。いや、はや、はずかしながら、身どもが大どら(放蕩)だった若き日には、お手前がたの店へたびたびお世話になったものだ」
江戸には2000軒と定められている質屋の、当番の世話役---月行事(がちぎょうじ)の20人ほどを、三ッ目(墨田区南部)の自邸へ呼んだときにも、長谷川平蔵はいつものくだけた口調ではじめた。
「厳父の目をかすめて持ちこんだ伝来の腰のものを、お手前がたは刀装…こしらえばかり値ぶみして、刀剣の生命である刀身はいっかな評価しないのは、どういった次第からかな」
「申しあげます」と切りだしたのは南鍋町2丁目裏(中央区銀座6丁目)の〔近江屋質店〕の当主。この業種に特有の青白い顔をしている。
「お武家さまが腰のものを質入れなされたら…」と解説した。刀剣は柄(つか)の先端の縁頭の細工と材質、目貫(めぬき)の形、柄糸(つかいと)の色、、鍔(つば)元の止め金のはばきと中央の切羽(せっぱ)の材質、鞘(さや)と下緒(さげを)の色模様を書きひかえるが、刀身は寸法のみで銘は見ないきまりになっているのだ、と。
「武士の魂もお手前がたにかかっては算盤の玉のひとつでしかないということか」
平蔵の皮肉を冗談につつんだいいようを、代表たちは笑声でうけとめた。
「ところで足労させたは、刀剣を質入れするためではない。賊どもの跳梁(ちょうりょう)は承知のとおりだ。奴らが頼りにしているのが故買屋とお手前がた…」
で、その齢でもないのに隠居している仁は、火盗改メにしばらく手を---いや、脚を貸してほしい。20人ばかりでいい、なに、公儀のご用といっても、組の同心と連れだって質商をまわり、不審な入質品の有無を聞いてまわるだけだ。
「のう、〔近江屋〕。その方のおやじどのも隠居の身と聞く。お天道(てんとう)さまの陽の下を歩けば、これまでの日陰での半生も日焼けで帳消しになるだろうよ」
隠居した〔近江屋〕彦兵衛が盗品をひそかに買い入れていたことを皮肉ってもいる。
平蔵はこうもいった。
「武士の身上が胆力なら、質屋のそれは眼力であろう。ご隠居どのたちは長年、その眼力を鍛えぬいている。それを借りたい」
一同に異論はないばかりか平蔵の柔らかな人あしらいぶりが、あっという間に江戸中の質商へ伝わり、緻密な情報網となった。
また、眼力を認めているといわれた隠居たちは、もうひと花咲かせる気になり、すすんで日焼けした。
当節は、今日の市場の売れ筋をPOSで吸いあげているが、1か月先、半年先の、まだ顕在化していないマーケットの動向は、第一線で販売に従事している生身の目と勘でなければとらえられまい。平蔵の狙いもそれだった。
【ちゅうすけ注】
本文に、「盗賊をつかまえても(町奉行所には)めったには渡さな
い様子」とあるのは、町方の者が捕まえても、町奉行所に連行す
るのではなく、役宅としても使っている長谷川邸へ連れてくる---
という意味。
『よしの冊子(寛政2年(1790)12月1日つづき)より
一、当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。
もっとも旗本の屋敷にはただ入り、町方へは「上意」などといって入りこむらしい。
山の手あたり、下谷あたり、青山あたりなどへも入っているとか。
これはぜひ越中(老中首座・松平定信)様のお耳にいれたいものだ。
田沼(意次おきつぐ)の治下でさえ丸の内では追い落しはなかったのに、ご政道、ご政道といっているがなにがご政道なものか。
長谷川(平蔵)のこのごろはそんな犯罪には目もくれず、諸物価引き下げにばかりかかっていて、いったい、本職はどうなっているのだといいたい。
こんなに諸方が物騒では、長谷川組だけでは間に合いそうもないといわれている。
小川町雉子橋外の蓮光院さまのご用人:高橋大兵衛方へ入ったのは禅僧だったよし。
一、当節、盗賊が横行し、町方はいうに及ばず、武家へも4、5人ずつ一団となって抜き身で乱入してくるので、追い込みに入られた武家方としては体面上「入られた」とは口にだしがたく、秘密にしているよし。
最近では「侵入してきた盗賊は斬り捨ててよろしい」という書付が出ているよし。
しかし、1000石以上で家来の数も揃っていれば盗賊団に対応もできようが、そういう屋敷は襲わない。
小身だが暮らし向きはけっこうやっている家が狙われ、抜き身の4、5人にも乱入されると、家中には足弱(老弱)の者もいようし、わずか2,3人では防ぐすべもない。
で、斬り捨て、といわれてもそうはいかず、なかなかに迷惑しているよし。
かつまた、旗本は隣家との申しわせもうまくできておらず、たとえ隣家へ盗賊が乱入していることがわかっても、しらんぷりをされてしまって応援にかけつけてきてはくれないので、小身の家では防ぐ手当てもできないようだ。
もっとも、番町あたり、小川町あたり、駿河台あたりも盗賊が横行しており、番町では大坊主があちこちへ乱入し、此奴を捕らえようとして怪我をして取り逃がした家もあるそうな。
駿河台では人の長屋を借りている者のところへ乱入して反せんを奪いとったよし。右の坊主は長袖を着ているので、なんともおそろおそろしく、震えているばかりとか。
万事取締りといわれても、丸の内がこんな有様ではどうしようもない。上の方々は町方の盗難はご存じでも、武家も乱入されていることはお耳に入っていないかして、一向に手配されないのはそれこそ手ぬかりというもの。それと同時に御不仁なことだと噂されているとよし。もっとも、町方には白昼乱入されている家もあるやに聞く。せめて御先手十組に命じて夜廻りを厳重になさって下さるといいのだが。
しかも、その盗賊の多くは御家人ときている、などとの声もあるほどだ。
当節、小身者は、はなはだ不安心なことだ、といいあっているよし。
一、本所あたりでもあちこちやられているので、夜が明けたらまず、「ゆうべは無難でよかったね」との悦びの挨拶を交わしているよし。本町あたりでは11人ずつ一団となって抜き身をもって夜中横行しているよし。
下谷あたりでは、与力、代官、浪人、儒者などの所へも4、5日前に押し入ったよし。
赤坂では10人ほどが番太郎をつかまえ「お前が夜まわりをしているのは、火の用心のためか盗人用心か」と聞き、怖くなった番太郎は「火の用心のためです」と答えると、「泥棒のためといったら、ひねり殺すところだったぞ」と、許してくれたよし。
御廓内へ押し込みを乱入させないようにできないのでは越中(老中首・松平定信)様もいたって不徳だ、と大いに嘆息喧言しているよしのさた。
千駄ヶ谷の寂光寺へ入った五、六人の押し込みは、残らず奪い取っていったよし。
寺側は、わざと寝込んでいるふりをして取らせたあと、押し込みを尾行していったところ、四谷新屋敷の旗本の屋敷へ入って行ったよし。
翌日、使僧を遣り「昨夜、持って行った諸道具衣類、難儀しているのでをお返しいただきたい」といわせたところ、旗本側は「一向に知らないこと」と追い返した。
ふたたび使僧を遣し、「このお屋敷であることは、昨夜、ご門へ印をつけておいたので間違え用がないこと。今日、お返しいただければ一切なかったことにしてこのお家の名前も出さない。もし、知らないというならば、公儀へ訴え出るまで」と挨拶させたよし。
その後の経緯はわからない。
【ちゅうすけ注】
寂光院の盗難事件を『夕刊フジ』の連載コラムに[ただ、立っていよ]のタイトルで発表してみた。
長谷川平蔵は信仰心の篤い人だった。宗派にこだわることなく、いくつかの寺の住職と親しくしており、火盗改メとして死罪にした罪人の供養もたのんだ。
幕府焔硝倉(えんしょうぐら)が千駄ヶ谷にあったが、その南の、遊女の松で有名な天台宗の寂光院もそうだ。
(寂光院 『江戸名所図会』部分。中央;遊女の松)
遠くからの目じるしとなっていた大きな松樹は、もとは霞の松とよばれていた。改称したのは放鷹(ほうよう)に来た三代将軍・家光が、いっとき鷹の姿を見失ったが、霞の松に止まっていたので、呼んで家光の腕へ帰らせた。その鷹の名が遊女。
白昼、行きちがいざまに顔をなぐられて立ちすくんでいる女性から、カンザシや風呂敷包みを奪いとる常習犯の中間を死罪にした。その供養を頼みがてら寂光寝院を訪ねた平蔵へ住職がいった。
「ホトケをお召しかかえになっていたご書院番・稲葉喜太郎さまにはおとがめなしということで…」
「さよう。ご一族のご奏者番・淀侯稲葉丹後守(10万2000石)が諸方へ手をおまわしになった」
奏者番は幕府の煩瑣なものになっている典礼を執行、諸大名から一目おかれている要職で、つぎには大坂城代とか京都所司代の要職が待っている。
「娑婆にあったときのホトケに往来で狼藉されたおなご衆の悲鳴に、助けに駆けつける者はおらんだのですか」
「ご坊にもご記憶おきねがいたいのは、無法者にはさからわず、人相を見とどけ、できうれば尾行して寝ぐらをつきとめることです」
平蔵のこの忠告が役に立った。
旬日をでずして寂光院へ抜き身を手にした5、6人の賊が侵入してきたのだ。住職のいいつけどおりに全員がタヌキ寝入りきめこんで根こそぎ盗ませておき、後をつけて四谷の旗本屋敷へ入るのを見とどけた。
翌日、平蔵がさし向けた長谷川組の同心とともに使僧が旗本・山崎某の家へ。
「難儀しているので、昨夜持ち去った諸道具と衣類をお返しねがいたい」
「一向に知らぬこと…」
「尾行してご門に印をつけておいたゆえ、このお屋敷であることにまちがいなし。すんなりお返しくださるなら昨夜のことはなかったことにしてお屋敷の名もだしません。が、知らないといいはるなら、ご一緒していただいている火盗改メのお役人さまへ、いまここで訴えるまでのこと」
老中首座・松平定信によるの借金棒引きの義捐令(きえんれい)にもかかわらず、この時期、困窮する幕臣があとをたたず、寛政前までは考えられなかった盗賊まがいの悪業に走る者も。わずかばかりの減税ぐらいでは暮らし向きが一向にラクにならない今のサラリーマンに似ていなくもない。
旗本の監督は若年寄と目付の仕事と考えている平蔵は、寂光院の住職の訴えに、同心には「ただ、立っているだけでよろしい」との策をさずけて同行させた。実話だ。
『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日 つづき)より
一、四谷大番町に悪党が1人いた。
赤坂・薬研坂(港区赤坂5丁目と7丁目の間の坂)上の与力も悪党で、このたび捕らえられた赤坂見附の足軽と同類のよし。
天野山城守(康幸 やすゆき 1000石廩米300俵 小普請組支配ののち寄合 この年、69歳)の孫(仙橘か熊之丞、あるいは末吉)、新庄能登守(直宥…なおずみ 700石 作事奉行を経て一橋家老 この年、すでにいない)の倅(直清? なおきよ 小姓組。前年に31歳で致仕)の評判もよろしくない。これは一橋の家老を勤めたあとのよし。
本所の多田薬師の別当は諸道具から畳まで残らず舟2艘に積み、盗んで行かれたよし。この2艘は両国にもやっているが、1艘の船主は竪川通りの者らしいが、もう1艘の持ち主は一向にわからないよし。
一、佐橋長門守(佳如 よしゆき 1000石 日光奉行 この年、51歳)の屋敷へも入り、妻女をしばり、そのほか家来も残らずしばり、諸道具一切を奪い取ったよし。表長屋まわりにもそれぞれに抜き身を持たせ、長屋を囲って中からは1人も出てこられないように見張り、帰りがけには大門を開いて高張り提灯で引きあげて行ったよし。
一、青山六道辻の同心の家へ入った押し込みは3人だったよし。同心は宿直で留守だったので、家にいたのは妻と下女だけ。
この2人を犯した上、あったものすべてを奪って行ったと。梶川庄左衛門(秀澄 ひですみ 400俵。御先手弓組頭)の組子のよし。
一、伝通院前の大工のところへ入った賊は、妻ばかり犯して道具は何も盗らず、「蝋燭はあるか」と聞き、「ない」と答えると、「そんならよい。また来る」といって帰っていったよし。
一、水道町の両替屋へ入った賊は、ただ鳥目20貫(4両弱=80万円)ださせ、「それ以上は要らない」といって帰って行ったよし。
本所で老夫婦だけの貧しい家へ入った賊は、何も盗んでいくものがなかった上に、金子1分(約5万円)を置いて行ったよし。
麻布・日ヶ窪の女医師の家へ入った賊は、大勢で妻(嫁?)を犯して引上げて行ったよし。
【ちゅうすけ注】
葵小僧のような悪党は、けつこういたわけで、これでは、長谷川
組だけでは手がまわりかねた。
レイプを受けた家で、届けていない被害者も多かろう。
先手組で番についていない組が夜回りを命じられたのも当然。
『よしの冊子』(ここより寛政3年(1791)と見込む)
一 神楽坂の橋本元昌(『寛政譜』に収録されていない)方へは5、6人の盗賊が入ったらしいが、元昌はそうはいっていない様子。
飯田町の黐(もちの)木坂の代官:稲垣藤四郎(豊強 とよかつ 250俵。この年、49歳)、小川町の金岩左京(『寛政譜』に収録されていない)方へも押し入ったところ、家内で騒ぎ立てたら、桑原伊予守(盛員 もりかず 505石5口。長崎奉行から作事奉行。この年、71歳)方の屋根伝いに4人逃げたよし。
同所、津田某へも入ったよし。
同所、赤井弥十郎(直盈…みつ。500石。小姓組。この年、42歳)へも入ったよし。
下谷御徒町の松浦市左衛門(信安 のぶやす 1300石。西城の納戸組。この年、36歳)などの屋敷がある一町には、御徒が14、5五軒も軒をつらねているが、たいていの屋敷がやられているよし。
当節はみなみな不寝の番をしているよし。
4、5日前、水戸様の表門通り(水道橋通 現・白山し通)で白昼、女の懐へ手を入れて懐中物を盗み、さらに裸にしようとしたが、女が大声で泣きわめいたので、水戸様の辻番が聞きつけてこの盗賊を召し捕り、柱へ縛つりけたよし。白昼にとんだことだといいあっている。
加賀っ原(昌平橋北詰)では、暮れごろに小間物屋が追剥ぎにあったよし。
御書付が出た夜、白銀町で3人が押し込んできたが、家人があまりに多かったので逃げたと。
その夜、人形町では押し込んだ3人が捕らえられたよし。
一、本多中務殿屋敷の向かいの松平主殿頭(忠恕…ただひろ 天草2万3200石。この年、65歳)の屋敷で、窓から手を入れて衣類を盗んでいる様子なので、中からその手をつかまえ、早く外へ出て捕らえろと声を立てたら、泥棒は自分の手を切って逃げ去ったとのこと。
ある屋敷では表から門の錠をこじあけたので、中からその手をつかまえて門を開けてみたら首がなかったよし。これは2、3人でやってきた盗賊のうち、1人がそのように捕まったので仲間が首を切って立ち去ったのだろうとうわさされている。
一、無宿島の人足の100人ほどを、長谷川(平蔵宣以 のぶため)が更生じゅうぶんとみて、金子1分(約5万円)ずつ遣わし、「もはやその方たちはまともな人間になったのだから、これから先は自分で稼げ」と放したところ、どいつもこいつも元の盗賊へ立ちかえり、この節、あちこちに押し込んでいるのだと。
【ちゅうすけ注】
この聞き込みおかしい。この時期、石川島の人足寄場に収容さ
れているのは、いわゆる人別帳に載っていない無宿者であって、
犯罪予備軍ではあって、犯罪者ではない。
とうぜん、盗みなどのはっきりした犯罪歴があれば、これは伝馬
町送りのはず。
石川島の人足寄場に恵犯罪者も収容されるようになったのは、
長谷川平蔵が寄場取扱を免ぜられて、後任責任者に村田鉄太
郎昌敷(まさのぶ)が寄場奉行になつて以後である。
このリポートによっても、『よしの冊子』に全面的な信頼を寄せるこ
との危険性がうかがえよう。
一、町々へ、盗人は打ち殺せとの書付が出ているので、町人どももすこしは力を得て、このごろは町方もすこしは威勢がよくなっている様子。
先日などはなかなか恐れ入って盗賊に一本を取られたよし。
この節も4、5人で抜き身をもって町を歩き、
「おれたちは抜き身をさげているが、泥棒ではない。用心にこうしているのだ。なに、縛りたければ縛れ。こうだぞ」と刀を振りまわしたので、道をあけ通したと。
しかしながら、叩き殺せとのお触れが出たから、少々心強くなったと町人たちは悦んでいる様子。
一、長崎も江戸のように町々へ押し入りがあり、あちこち物騒。
長崎奉行(永井伊織直廉? なおかど 1000石 使番から長崎奉行 この年、53歳 『寛政譜』では寛政4年閏2月6日没と)も叩き殺されたとか。
井上図書(正賢 まさよし ならば 1500石 小姓組番士から進物掛 この年、33歳 長崎からの帰路に没)はその検分に行くのだ、などと沙汰されているよし。
【ちゅうすけ注】
井上図書の長崎行きは寛政3年4月---ということは、このリポー
トは同年2月か3月のものか。
一、この節、世間一般に物騒な話のみで、このご時節にどうしたことだか、これはどうやら御防方がありそうなものだ。打ち捨てとのお触れが出ても、どうすればそれが実行できるのだ。請け合ってこっちが勝つとはいいきれまい。
やり損じたときは大馬鹿扱いだ。それだったら黙っているがいい。
そのような馬鹿者にかかずらわって傷でも受けたらそれこそ不忠というもの。
2~3000石もの屋敷へは入らない。
小身で金のありそうなところへ入る。
または勤番留守、あるいは当番の留守を見込んで入るのだから、切り捨てることもできない、不人情な仰せ出だ。
米屋騒ぎでさえ10組の手先組を動員して静かになったではないか。米屋騒ぎは狙われたのが米屋ばかりだったのに10人の先手組頭に出動を命じたではないか。
こんどの騒ぎは世間全般、一度に起きているのだから、左金吾殿一人ではどうやっても手がまわるはずがない。
どうもこれではご時節がら、余りにも不釣合、お上の御不徳というもの。困ったものだともっぱらの噂。
【ちゅうすけ注】
先手の長谷川組をはじめ10組が騒擾鎮圧に出動したのは、
天明7年(1786)5月23日からのこと。
松平左金吾定寅が火盗改メに再任されたのは、寛政3年4月
7日から。発令の理由は葵小僧の蠢動によると推定。葵小僧は
長谷川組がを捕らえたので、翌年5月11日に解任。
| 固定リンク
「221よしの冊子」カテゴリの記事
- 『よしの冊子(ぞうし)』(4)(2007.09.05)
- 現代語訳『よしの冊子』(まとめ 1)(2009.08.16)
- 隠密、はびこる(2007.09.02)
- 『よしの冊子』中井清太夫篇(5)(2010.01.28)
- 『よしの冊子(ぞうし)』(33)(2007.10.05)
コメント