〔神座(かんざ)屋〕の伊兵衛(2)
小僧の千吉(せんきち 14,5歳)を連れて〔神座(かんざ)屋〕を出るとき、松造(よしぞう 31歳)に、〔扇屋〕の辰次(たつじ 60がらみ)に、手がすいていたら、本陣へ足労かけたいと告げにいかせた。
蔵元〔神座屋〕と置屋〔扇屋〕とは、1丁(100mほど)と離れていない。
出迎えたお三津(みつ 22歳)に、千吉が丁寧にあいさつをした。
部屋へ戻る前に、三宅・古屋の2同心に、おびえさせては本音がきけないからと断った。
「千吉は、三津どのとは顔なじみか?」
「酒をとどけにくるときに、あいさつをしております」
「そうか---あれだけの美形だ。いろいろ、噂を耳にしておろう?」
「若女将さんにかぎって、まったく、噂がございません」
「やけに肩をもつではないか。さては、惚れたな?」
「お武家さまこそ、若女将さんにご執心のようございます」
「そうだ、まさに《ホ》の字でな---」
「せっかくでございますが、お武家さまに勝ち目はございません」
「はっきりいったな。しかし、お前の目は正しい。あきらめるとしよう。はっ、ははは」
(これで、お三津の名誉は守られた)
千吉が、それみたことかといわんばかりに、鼻をうごめかした。
「ところで、《ホ》の字の話のつづきだが、おてつに《ホ》の字であったのは、お前か、伊兵衛旦那か?」
千吉が下をむき、首すじを赤らめた。
男の子も、14歳ともなれば、おんなの裸躰を妄想する齢ごろだ。
(げんに、おれはお芙佐(ふさ 25歳)に男にしてもらった。悲恋というより、破恋ではあったが--)
「旦那さまは、遊びと酒がすぎて、おなごに用のないお躰です」
「用がないとは---?」
「役に立たないです」
「どうして知っておる?」
「前にいた女中が言っていました」
「何年前だ---?」
「1年近く前です。そのことを口にしたので、首になりました」
(身勝手ではあるが、男なら、とうぜんの処遇だ)
いまでいう糖尿の気による、起立不全ででもあったのであろう。
(そういえばも、かすかに薬草の匂いが口からもれていたようだ)
伊兵衛旦那のことは口が裂けても洩らしてはならぬ、おてつの入浴をのぞき見たひとことをしっこく訊かれたとでも応えておけというと、図星だったらしく、口ほぽかんとあけて帰っていった。
店にでる前に客商売のおんなが湯をあびることは、常識のうちであった。
千吉が出たのと入れ違いにお三津がお茶をささげてあらわれた。
「おっつけ、客がくる」
媚(こび)をふくんだ笑顔で、紙片を差し出した。
地図であった。
本陣・〔中尾(置塩)〕の東端の御陣屋小路の北東に印がついていた。
「ないしょの独り住いの家です。五ッ(午後8時には帰っております。風呂もあります」
辰次が案内されてくると、お三津がなに食わぬ、若女将の表情ででていった。
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