三嶋宿の本陣ウォーキング
いささか遅れぎみではあるが、静岡のSBS学苑の[鬼平クラス]が5月14日(土)におこなったバス&ウォーキングによる三島宿本陣および箱根関所めぐりのうち、三島本陣の部をリポートする。
このウォーキングの狙いは、明和9年(1772)秋に、銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)の父・備中守宣雄(のぶお 54歳=当時)が火盗改メ時代に、目黒行人坂の大火の放火を:検挙(あげ)るという大手柄をたて、その報償のような形で京都西町奉行という要職に任じられた。
【参照】2006年6月1日[目黒・行人坂の火事]
京都町奉行への発令は明和9年10月15日で、赴任の許しがでたのは丸1ヶ月後の11月15日であったことは、すでに『徳川実記』から引いている。
このブログでは、銕三郎が御所役人の不正内偵の密命をうけ、宣雄に先行して上京したことにしたが、史実の記録はない。
久栄(ひさえ 20歳=当時)と辰蔵(たつぞう 3歳=当時)が宣雄に同行したことは間違いない。
赴任の道中は幕府要職としての威信を誇示しろとの方針であったから、一行は三島宿では本陣〔樋口〕伝左衛門方に宿泊したろうと見る。
というのは、11月下旬というのは、参勤の諸大名の参府・下府はほとんどないからであった。
大熊嘉邦さん『東海道宿駅とその本陣の研究』(日本資料刊行会 11979.07.30)によると、東海道を上下していた藩は、
2月 6家
3月 3家
4月 52家
5月 3家
6月 41家
という。
52家や41家だと、三島の本陣に宿泊できたのは、その半分の藩であったかもしれない。
とにかく、宣雄と嫁・久栄は、小田原城下の本陣からのつぎは三島宿の〔樋口〕であったろう。
前掲書によると、
樋口伝右衛門 建坪 238坪
世古六太夫 279.5坪
東海道と下田街道が交差する西北側に〔世古〕本陣、西南角に〔樋口〕本陣が向いあっていた。
〔鬼平〕クラスの面々は、それぞれ石碑をカメラにおさめながら、いまはかけらも残さずに寸断された敷地から、往時におもいをはせた。
このブログにアクセスしているメンバーは、、14歳の銕三郎をはじめて男にしてやったお芙沙(ふさ 25歳=当時)がその後女将になおった姿とか、女賊に落ちたお賀茂(かも 26,7歳)を連想してくれたであろうか。
【参照】2007716[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
2007年11月15日~[与詩(よし)を迎えに] (26) (30)
2009年1月10日[http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2008/01/30_61f7.html] (3)
2007年3月17日〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (10)
参加者へ配った、大熊さんの労作にあった{樋口}の間取り図を、こころ覚えまでに掲げておく。
(本陣〔樋口〕の間取り図 『東海道宿駅とその本陣の研究』)
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コメント
三嶋大社・箱根神社も荘厳で、偶然にも何人かの白無垢姿の花嫁さんも拝ましていただきました。暑いくらいの日差しのなかを、箱根関所の遠見番所にも登り、階段を上ったり、下りたり、万歩計は1万を軽く突破、懇親会のビールがおいしかったです。有難うございました。
投稿: 安池 | 2011.05.22 17:42
歩きました、というより、箱根神社の石段---平蔵と凄い奴が決闘した本門寺の96段に近い数でした。本門寺のときはみんな4つばかり若かったけど---。
さらに箱根関所の物見台の急な石段。ぼくも酒がよくまわり、小田原あたりで眠ったらしく、東京駅で車掌に起こされました。絶えてなかった現象です。
投稿: ちゅうすけ | 2011.05.25 16:58