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2011.04.03

長谷川家と林叟院(5)

(てつ)さんにわざわざご来駕いただいたのは、本家の太郎兵衛大伯父の賛同のことなんだよ」
「なるほど---」

平蔵(へいぞう 36歳)のことを幼名の銕三郎(てつさぶろう)と呼んだのは、家禄が4070石と飛びぬけている長谷川分家の一軒の当主---栄三郎正満(まさみつ 37歳)であった。

本家の太郎兵衛大伯父とは、長谷川正直(まさなお 72歳 1450石)のことである。

太郎兵衛正直は、かねがね、分家の分際で禄高が高いと思い上がりおって---と気分を白らけさせていた。
なにしろ徳川幕臣には、家格が第一、家禄はその次の気風の者が多かった。
というのも、家康が譜代の者の家禄を低めにおさえたことから、目には見えずはっきりとは計算できない三河以来の家格を言い立てて自己満足するしかなかったことにもよる。

栄三郎正満が、いまのところは営中の役についていないのを幸いに、駿河の益頭郡(ましづこおり)小川(こがわ)村の坂本郷まで出むき、長谷川家の祖の法永長者の墓域を整えることを幕府に申請しようとしていた。
路用はもちろん、寺への寄進と供養料も栄三郎正満がすべてもつつもりであった。
それだけの余裕もあった。

栄三郎とすれば、自分の幼名の「」が、法栄長者からきていることをしっているだけに、家督してからのこ4年間、練りつづけてきた案であった。
ぜひとも実現したかった。

林叟院へも便を送って打診ずみである。

(えい)さん。こうしたらどうだろう---?」
平蔵が案じたのは、太郎兵衛正直が、この天明元年4月28日に、持筒(づつ)頭'から槍奉行へ栄進した。
前職の先手弓の頭や持筒頭は1500石格であったから、家禄1450石の太郎兵衛とすると、ほとんど持高勤めに近かった。

槍奉行は2000石格だから、550石の足高(たしだか)がつく。
これは慶事であり、本家としてはご先祖へ報告せずばなるまい。
長谷川本家の菩提寺は、近々の祖・三方ヶ原の合戦で徳川方の武将として戦死した紀伊守正長(まさなが 享年37歳)の墓のある小川湊の脇・信香院である。

しかし、ご当人の太郎兵衛大伯父は重職現役、嫡男の主膳正鳳(まさたか 46歳)は、太郎兵衛隠居する気配もないのでいまだに家督はしていないのを幕府が気の毒がり、5年前に非正規ながら小姓組番士(仮手当300石)として召しだした。

もちろん、幕府としては暗に太郎兵衛に致仕・家督相続をすすめたつもりだったが、老は自分のこれまでの功績が認められての父子勤めだと、いよいよ得意になっていた。

そこでだ、嫡子の息・金蔵正運(まさかづ 17歳)を祖父の名代として小川へ差しむけ、栄三郎は後見役としてつくということでどうだろう。

「本家にも分家---といっても、さんのところをはずすとわが家だけだが、この際だから、又分家の2家にも、僅少なりとも費えを分担してもらう形をとる。これなら、大伯父どのも否とはいえまい」
「名案だな。さっそく明夕にも、一番町新道(太郎兵衛の屋敷)へ相談にあがろう」

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