〔馬場(ばんば)〕五左次
「馬場(ばんば)〕の五左次(いさじ 22歳)さんを招(よ)んであげなかったのですか?」
さっきまでの小料理〔蓮の葉〕での、相模・西駿河の貸元、元締衆による、それぞれの城下・宿場の大店の跡継ぎたちの江戸見物のことを話してきかせたときの、里貴(りき 38歳)から出た疑問であった。
里貴の目には、五左次は、品川一帯の香具師(やし)の元締である父親・〔馬場〕の与左次(よさじ 57歳)より、はるかに人望があり、智力もすぐれた若者と映っていたらしい。
たしかに、火盗改メ・増役(ましやく)の懇請のかたちで、平蔵(へいぞう 37歳)が嶋田宿の事件に出張るとき、西六郷の安養寺・古川薬師と矢口の小料理屋での五左次の気くぱりようが、里貴はいたく気に入ったらしい。
でしゃばらず、 父親をたてながら、先々を読んで手くばりをさりげなく質(ただ)していく要領のたしかさであった。
「銕(てつ)さま。10年後をおかんがえになってごらんなさいませ。銕さまは47歳の火盗改メ、〔音羽(おとわ)〕の元締・(重右衛門 じゅうえもん)どのは66歳、〔馬場〕の与左次元締は67歳、たとえお元気だったとしても、銕(てつ)さまの力になってくれるのは、五左次さんでしょ。器量のある人は、若い世代を大事にしてこそ、10年後、20年後に腕がふるえのです」
そういえば、田沼(主殿頭意次 おきつぐ 44歳=当時)侯が父・宣雄(のぶお 44歳=当時)にすすめ、銕三郎(てつさぶろう)が初めて木挽町(こびきちょう)の中屋敷へ参上した17歳の夕べのことをおもいだした。
【参照】2007年12月17日~[平蔵の五分(ごぶ)目] (1) (2) (3)
「なにを、にやにや、かんがえておいでです?」
平蔵とこうなって足かけ9年、躰のすみずみまで互いに究めつくしていた。
今宵も、腰丈の寝着でむかいあって片膝をたて、太股の奥までまる見え、それこそ、あられもない姿態でいながら、言葉つきだけは9年前とかわらず丁寧であった。
ほんの半日でぞんざいというか、気やすく友だち言葉になったお三津(みつ 22歳とは大違い。
これがその家の躾け差ということであろうか。
里貴は、百済だか高麗だかの渡来人が古風を伝えまもっている紀州の志貴村の育ちであった。
「いや、なに、里貴の考え方が、いまほどの地位におのぼりになる前の田沼侯とそっくりなのでな。側に仕えるだけでも考えが伝わるものとおもったのだ」
(人は、大きな人物に接するだけで、自らを太らせていく)
片口から自分の茶椀へ冷酒を継ぎ足した里貴が、
「銕さまの10年後を案じるより、自分ことをかんがえろとおっしゃりたいのでございましょう?」
10年経てば、里貴とて48歳の姥(うば)で、茶寮〔季四〕の女将でございます---などと力んでもはじまらない。
今夜、ひょっとしてややの種を宿しても、10年後にはまだ10歳---。
「それで、紀州の貴志村の縁者のところから14,5歳のむすめを引きとり、いまから躾ければ、10年後に老醜をさらさないですみます」
しかし、そうなると、14,5歳のむすめがいっしょにいるのに、銕とこんな格好でのじゃれあいもでない---。
「そろそろ、もうすこし部屋数のある家を考えておくべきですね」
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