テキスト[網虫のお吉]
久しぶりの[鬼平クラス]リポート。
クラスは、唯一のこしているJR静岡駅ビル7階で月1(原則 第1日曜日午後1時~)SBS学苑。
4月3日のテキスト、文庫巻16[網虫のお吉]。
粗筋(あらすじ)はわざわざ紹介するまでもなく、鬼平ファンなら、ああ、あの女賊の話と了解されよう。
そう、〔苅野(かりの〕の九平(くへえ 60歳近い)一味にいた〔網虫(あみむし)〕のお吉(きち 35歳)が、日本橋橘町3丁目の琴師の歌村清三郎(せいざぶろうに見初(そ)められ、後妻に入っていた。
ところが偶然に、その所在を火盗改メ・長谷川組の同心の黒沢勝之助(かつのすけ 40歳)にしられてしまう。
お吉の人相書は3年前に火盗改メによってつくられていたのであった。
3年前に次の押し込み先を下見していたお吉を見かけたのは、かつて〔苅野〕一味の盗(おつとめ)みに2度ばかりかかわったことで見知っていた密偵・おまさであった。
黒沢同心は、お吉をゆすったばかりか、その女躰まで奪っていた。
いきさつをここで書くまでもない。
ちゅうすけが小首をかしげたのは、3年前、おまさに見かけられたお吉がさぐっていたのが、本所・四ッ目の呉服問屋〔丁字屋〕四郎太郎方---
これであった。
もっとも高級な業種の一つである呉服問屋が、場末に近い四ッ目とは、信じがたかった。
現代でこそ密集した住宅がたてこんでいるが、江戸時代の本所・四ッ目といえば、まあ、下町の場末に近いといっていいほどの場所であった。
本所と深川のあいだを東西に縦断している竪川(たてかわ)に架かっていた橋も、四ッ目までであった。
その先は渡し舟。
鬼平ファンなら、おまさの父親・〔鶴(たづがね)〕の忠助(ちゅうすけ 50歳近い)>が〔盗人酒屋(ぬすっとさかや)〕などという物騒な店名の飲み屋を開いていたのも四ッ目橋近くであったことからして、想像がつこうというもの。
仕入れにも不便なそんなところに呉服問屋が---と疑念が湧いた。
で、『江戸買物独案内』をくってみた。
そもそも『鬼平犯科帳』は、池波さんが史料『江戸買物独案内』を所有していたからこそ、書き続けられた物語、ともいえないこともない。
ほかの江戸もの作家には、『江戸名所図会』と『切絵図』が座右にあれば足りる。
しかし『鬼平犯科帳』には、盗賊が押し入る商店が必要である。
しかも、狙いがつけられるほど富裕な商店が---。
『江戸買物独案内』は、長谷川平蔵宣以(のぶため 享年50歳)の歿後30年ほど経った文政8年(1824)に刊行された、問屋・店舗の名刺広告を業種別に集めた名鑑だが、鬼平の時代と、店の配置にそれほどの変貌はなかったろう。
「呉服」の項の末尾、本所四ッ目に呉服太物問屋はあった。
ただし、屋号は〔萬屋〕。
とはいえ、その隣枠に〔丁字屋〕もあった。
実際にあった商店の、町名なり店主の名前なりを入れ替えるのは、池波さんの常套の心得でもあった。
(『江戸買物独案内』 呉服太物問屋の項ー)
盗人に押し入られる小説である。
もし、子孫が残っていて、
「縁起でもない」
苦情をもちこまれては面倒---との配慮であったろう。
池波さんも、『江戸買物独案内』をめくっていて、
(へえ、こんなところに呉服問屋が---)
不思議におもって利用したのかもしれない。
編集者が指摘したら、
「いや。実際にあったのだよ」
ちょっと得意げに---いや、さりげなく、応じようとおもって仕掛けたのかも。
ついでだが、後妻にむかえ、骨がないみたいにしなるお吉の躰にぞっこんであった琴師・歌村清三郎が修行した師・歌村七郎右衛門つながりとおぼしい店が、京都の『商人買物独案内』の琴三味線処の項に---
(『商人買物独案内』 琴三味線問屋の項)
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