« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »

2010年9月の記事

2010.09.30

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(6)

翌朝。

刻み葱の白粥に卵をおとし、梅干と名産の干瓢の煮つけで遅めの朝餉(あさげ)をとっていると 松造(まつぞう 26歳)が、十手持ちの瀬兵衛(せべえ 34,5歳)がきたことを告げた。
「そちの部屋で待っていてもらえ」

口をゆすぎ、呼びいれた。
4年前、今市へ旅していた老僕の太作(たさく 70歳近く)が、宇都宮の通りで盗賊・〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 60歳近い)を見かけ、動静を土地(ところ)の十手持ち・瀬兵衛にたのんだ。

参照】2010年2月14日~[日光への旅] () (
2010年3月2日[竹節(ちくせつ)人参] (

宇都宮へきたついでに、その後のことを訊こうと思ったのだが、昨夜は旅籠の亭主や〔越畑(こえはた)の常八(つねはち 25歳)などもいたので、話題にするのをひかえ。
が、それとなく人品を評価してはいた。

松造は、郷方(さとかた)によくいる悪の十手持ちだと断じていたが、昨夜の酒席では、そうも見えなかった。

「昨夜、話にでた、虚無僧寺・松岩寺の納所と親しかったというお(こん 38歳)だが、その後の探索では---?」
「ほんの2ヶ月ほど前から伝馬町裏の呑み屋で酌取りとして働いてい、たちまち、納所とでき、3日にあげず寺へ泊まりにいっていたらしいのですが、事件の翌(あく)る日から、呑も屋へも姿をみせなくなったと---」

「なるほど、それで手がかりなしか。ふむ。それはそれとして---」
平蔵(へいぞう 32歳)は、〔荒神〕の助太郎のことを、こう、訊いた。
太作爺やが探索を頼んだ、消えた男が住まっておった、戸祭の家に、そのあとにはいったのは、どういう筋の者かな?」
「------」
瀬兵衛は、返答につまった。
「あれから、ほとんど4ヶ年経った。そのてあいだに、その家へ住んだ者どもの人別のあるなし、人別のある者はその仔細、住まっていた歳月、引越した者の先がわかればその所を調べ、江戸のわが屋敷へ送ってくれないか。その探索料と飛脚代。いそがなくてもいい」
押しやった紙包みの中は、小判1枚と表からわかった。

瀬兵衛は、ただでさえ大きな目を、さらに大きくして驚き、恐縮した。
「気がつきませんでした、ご勘弁ください」
「いいってこと。だが、あてにしいおるぞ」

余談】このときから15,6年後、江戸から火盗改メ・長谷川平蔵の噂が宇都宮までとどくと、呑み屋で酔った瀬兵衛は、相手かまわず、
「おれはな、10年も前に、鬼の平蔵さまの探索のお手伝いを、この城下でやったただ一人の十手持ちだぜ。1両とお誉めのお言葉をいただいたによ。もっとも、その1両はいまはないがな」


昼すぎに宇都宮を発(た)った平蔵主従と〔越畑〕の常八の一行は、あたりの道筋に通じている〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)の先導で、もっとも近道をしながら安塚村をすぎ、壬生藩領の国谷(くにや)村の辻へ達した。

A_360
(青○=宇都宮、緑○=七ッ石、赤○=壬生 明治20年参謀本部製)

杉平が道なりに午(うま 南)を指し、
「まっすぐに行ってくだせえ。1里(4km)とちょっとでお城でやす。あっし---手前は、道を酉(とり 西)へ、七ッ石村へ行きやすから」

城下の下通町の門構えの本陣〔蓬莱屋〕庄兵衛方には、江戸からの同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)と壬生藩の町奉行所の同心・角田左善(さぜん 42歳)が待っていた。

常平は、すぐ先のふつうの旅籠〔楡木(にれぎ)屋〕に宿をとった。

| | コメント (0)

2010.09.29

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(5)

材木町の旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕での酒盛りがはじまった。

越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)、〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)、それに旅籠の亭主・次郎兵衛(じろべえ 45歳)と、j招かれた十手持ちの瀬兵衛(せべえ 30すぎ)、こちら側は平蔵(へいぞう 32歳)と松造(まつぞう 26歳)である。

差しさされつの場面は省略して、会話だけを書き写そう。

「〔越畑〕の常八どんの、越畑村というのは---?」
「こちらのご亭主どのとおんなじ、塩谷郡(しおやこおり)の内でやすが、喜佐見村から辰巳(たつみ 東南)へ2里半(10km)ほどのところにあるのが手前の越畑村でごぜえやす」
「ご領主さまも異なります。喜佐見は宇都宮藩---」
「越畑は足利(木連川(きつれがわ)藩主の古称)さま」

「足利といえば、あの戸田玄蕃忠喬 ただたか 14歳 1万1000石)さまのご城下だが、あそこに〔法楽寺ほうらくじ)〕のなんとか---そう、直右衛門(なおえもん 50すぎ)だったか、そういう盗賊がいたな」
次郎兵衛と瀬兵衛が顔を見合わせた。

「どうしたな?」
「先刻、お出かけの前に口にしました、曲師(まげし)町の虚無僧寺・松岩寺へ押し入った賊が、その〔法楽寺〕の一味ではないかといわれておりますので---」
「確か?」
「いえ。ただ、あの寺の納所(なっしょ)のなじみで、その夜、寺へ泊まったおんなが、翌日から行方がしれなくなりまして---」
「名は---?」
「(ちょっとためらってから)---お
「しらないな」
(あのおがなあ。あれから10年は経っておるから、38歳の大年増だが---)

参照】2008年4月30日~[〔盗人酒屋〕の忠助] () () () () ()) (
2008年7月19日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (
2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺] () (

「盗賊といえば、〔乙畑おつばた)〕のなんとかという名も耳にしたことがあったな」
長谷川さま。乙畑村は、手前の村のすぐ隣の村でございやす」
「これは奇遇。どういう村かな?」
「手前の村から午未(うまひつじ 南々西)の方角に隣りあい、宇都宮のご城下にからは子(ね 北)へ6里(24km)ほど。東乙畑と西乙畑にわかれている広い村でございます」
「乙畑といっているところをみると、田ではなく、畑ばかりかな?」
平蔵は、かつて訪れたことがある、甲斐の中畑(なかばたけ)村の、畑ばかりの風景をおもいだしたいた。そして、いまはいない〔中畑(なかばたけ)のお(りょう 享年33歳)なら、このことをどうさばくはかを、ちらっと、おもってみた。

参考】2008年9月13日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] () (

「いえ。東西あわせて、田方が330石ばかり、畑方は100石をきれましょう。畑という字をあててはおりやすが、むかし、乙幡というさむれえがいたそうで---」
「豊かそうだな」
「とんでもありやせん。豊なら、手前のように村を出てはおりやせん」

「乙畑村で盗賊になった者のことを耳にしておらぬかな?」
常・次「とんと---」
瀬兵衛さんはどうかな?」
「さあて---」
「こころあたりがありそうだな?」
「いえ」
「ご城下では盗(しごと)みをしていないとみえるな」

杉平どんは、さっきから、何かいいたそうだが--?」
「〔〕、おもったことを申しあげねえか」
「おら---手前の村に近い七ッ石村の者が、小山(おやま)で〔乙畑〕の源八(げんぱち 40がらみ)とやらいうお頭の配下になったちゅう噂を、2年ほどの前に耳にしたことがありやすです」
「そうか。〔乙畑〕の源八---そうであった、源八とか源七とかいった。いや、源七げんしち)なら、そういう知り合いがいるから覚えているはず。源八であろう、杉平どん、よくおもいだしてくれました」
「へえ」

「明日は、昼餉(ひるげ)をすませてから、壬生(みぶ)へ発(た)つことにしよう。壬生までの道のりは---?」
「2里半(10km)たらずでしょう」
杉平どんは、途中で別かれて、七ッ石村、鯉沼村をあたり、〔乙畑〕の源八の一味に加わった七ッ石村の男の名前を聞きだし、(あく)る日でいいから、本陣〔蓬莱屋〕へ報せにきてほしい」
「合点でやす」

瀬兵衛親分は、ご足労だが、明日六ッ半(午前7時)に、もういちどここへき、例の男についてのその後について聞かせてほしい」
「かしこまりました」

その夜、平蔵は、長いあいだ寝つかれず、おとそのむすめのおみね(17歳)のことを考えていた。

| | コメント (2)

2010.09.28

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(4)

「〔釜川(かまがわ〕の元締の下で、小頭を勤めさせていただいとりやす、〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)でやす。ごあんないさせていただき、うれしゅうござえやす」
常八がきちんとあいさつしているのに、旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕の亭主がたまらず割りこんだ。
「兄さん、もしかして、塩谷(しおや)の越畑村の---?」
「へえ。さいで---こちらさんは塩谷の喜佐見村にご縁のある家、と前から承知しておりやした」

平蔵が笑い、
「故郷ばなしは、今夜、呑みながらゆっくりやることにし、とりあえず、元締さんへのごあいさつを急ごう」
「さいでした。ごあんないいたしやす」

曲師(まげし)町の横手の材木屋が、城下の盛り場の元締・〔釜川〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)の表の顔であった。
藤兵衛は、長身に引きしまった筋肉をつけた精悍さを、温和な笑顔で隠しいた。
平蔵が包みをさしだいすと、
「いただけませんや。兄貴分の〔音羽(おとわ)の元締の顔をつぶしやす。お直しくだせえ」

2度3度、包みの押したり戻したりの末、平蔵は脇へずらし、
「お言葉に甘え、お頼みごとを述べさせていただきます」

西丸の若年寄・鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)の城下の壬生寺(にんしょうじ)の身代り地蔵の木像が、何者かに盗まれた。
寺は、150年ほどむかし、日光西街道でもあり、慈覚大師のご生誕の地ということで、日光山輪王寺の門跡(もんぜき)・天真親王の声がかりで、幕府がそのころの藩主・三浦氏に下命、飯塚から太子堂を移して祀ったという経緯があった。
その本尊が盗まれたとあっては、現藩主・鳥居伊賀侯は幕府に対して顔向けができない。

「そういうわけで、拙に依頼がきました」
長谷川さまは、目黒・行人坂の大火事の放火犯を、みごと、逮捕なさったとか---」
「いえ、それは亡父・備中守宣雄(のぶお)です」
「なんでも、〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 47歳)元締が助(すけ)っ人をなすったと、関東一円の元締衆がうらやましがっておりやす」
(この世界の噂の伝播は、広がりも早い)

参照】2009年7月2日~[目黒・行人坂の大火と長谷川組] () () () () () () 

「〔愛宕下〕の元締には、ほんとうによくやっていただきました」
「こんど、壬生寺のことは、手前に助っ人を---。なんなりと申しつけてやってくだせえ」

小頭の〔越畑〕の常八のほかに、壬生の生まれの〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)をつけるから、こきつかってくれといったあと、
「この仕事がめでたく終着しましたら、お荷物ですが、〔越畑〕の常平を江戸へお連れいただき、宇都宮ても[化粧(けわい)読みうり]が出せるように仕込んでいただきたい」
常八ともども、頭をさげた。
(なるほど。〔釜川〕の元締は、高崎の〔九蔵屋〕の九蔵(くぞう 30がらみ)元締とは、だいぶに器量がちがう)

「元締。下野(しもつけ)、常陸(ひたち)の主だった元締衆に、身代り地蔵像の売りものがでたら、買いとっておいてほしいと、回状をおまわしていただけますか?」
「売り人のことは---?」
「拙は、捕り方ではありませぬ。地蔵像が大師堂へ戻れば、幕府への鳥居伊賀侯の面目はたちましょう」


| | コメント (2)

2010.09.27

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(3)

「それでは高井さま。明日、七ッ(午後4時)に、壬生城下・通町の本陣〔蓬莱屋〕でお会いしましょう」
「つつがないご道中を---」

日光街道を下石橋の辻で左にとって壬生城下へじかに行くのは、火盗改メ・土屋組の同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)と供の小者であった。

平蔵(へいぞう 32歳)と数年来の供・松造(まつぞう 26歳)は、そのまま日光街道を宇都宮城下へ向かう。
下石橋から宇都宮は3里(12km)ちょっとの距離。

3日前に江戸を発(た)ち、粕壁(かすかべ)宿、小山(おやま)宿へ泊まり、今朝五ッ(午前8時)に本陣を出た。
下石橋の辻までほぼ4里(16km)。

高井半蔵とは、本家の大伯父・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 69歳 1450石余)が、先手・弓の7番手の組頭をしていたころからの顔なじみであった。

参照】2008年3月5日[明和2年(1765)の銕三郎] (

平蔵が、西丸・若年寄の鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)の依頼で壬生へ探索へ行くことになったとき、高井同心が古くからのなじみということで、同伴を申し出たのである。

宇都宮城下では、池上町の本陣・脇本陣を横目にみながら左折、材木町のふつうの旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕次郎兵衛方を選んだのは、平蔵の生来の勘ばたらきといえよう。

荷物をおき、松造を曲師(まげし)町の元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)のところへ訪門(おとない)の許諾をとりにやっているまに、宿主の次郎兵衛に訊いた。
「この町内の観専寺裏に住んでおる十手持ちの瀬兵衛(せべえ 30すぎ)という者のところへ、この結び文をとどけてもらいたい」

参照】2010年2月24日[日光への旅] (
2010年3月24日[竹節(ちくせつ)人参] (

瀬兵衛は町内でも顔とみえ、とたんに亭主の態度が変わった。
「本陣へお泊りになるはずのところ、わざわざ当宿をお選びいただいたのは、そういうわけでございましたか?」

「これ、ご亭主。そういうわけとは、どういうわけかな?」
「おとぼけくださいましても、手前の目には、江戸の火盗改メのお役人さまがお忍びで、曲師町の虚無僧寺・松岩寺へ押し入った賊のおしらべでございましょう?」

「洩らしてもらっては迷惑がこの旅籠におよぶやもしれないから、われらのことは、厳に伏せておいてもらいたい」
「かしこまりましてございます」
「ところで、ここの屋号の由来は---?」
「手前が、塩谷郡(しおやこおり)の喜佐見村の生まれでごさいまして---」
「喜佐見村というのは---?」
「宇都宮のご城下から北へ6里(24km)ほどの山間(やまあい)の郷(さと)でして---」
「おもしろそうだな。今夜でも、酒を相手をしてもらいながら、聞かせてもらいたい」

亭主の次郎兵衛が張りきってさがっていったのと入りちがいに、松造が、
「〔釜川〕の元締さんは、〔音羽(おとわ)の元締さんからの飛脚便で、今日か明日かとお待ちになっておいでだったそうで、殿さまさえお疲れでなければ、すぐにもお越しを、とのことでございました」

宿の〔喜佐見〕の門口には、〔釜川〕の小頭のひとり・〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)が控えていた。
音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)の顔は、高崎ばかりでなく、関東の北の端の宇都宮まできいていた。

参照】2010年8月29日[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (

| | コメント (2)

2010.09.26

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(2)

「地蔵のなにをお識(し)りになりたいのかな?」
寛永寺の執事僧の頭代・聡達(そうだつ 50がらみ)が、救いがたい衆生(しゅじょう)といって目で平蔵を見くだしながら訊いた。

上野の山では、早くも冬じたくにとりかかっていた樹々が目立った。

4594_360
(寛永寺 4図中の1 『江戸名所図会』  塗り絵師:ちゅうすけ)

「身代り地蔵というありがたいお名前の地蔵さまがあるそうですが---」
「別名、延命地蔵ともいわれておる地蔵じゃな。縄目地蔵の別称で尊ばれている地蔵の話をしてしんぜよう」

そのむかし、足利方に追われていた香匂(こうわ)新左衛門という関東武者が、身代り地蔵のある寺へ逃げこんだ。
(姓がいかにも後作の感じ)

出あった僧が念珠をさしのべ、
「そなたはんの血刀をこっちゃへ寄こしなはい」
やってきた追手は、その血刀を証拠に、僧を縛り、牢へぶちこんだ。

翌朝、僧の姿は牢になく、縄とかぐわしい匂いがのこっていた。
足利方の者が件(くだん)の寺を行ってみると、縄目のついた地蔵像が待っていた。
爾来、その地蔵は、世の人たちから縄目地蔵と呼ばれるようになったと。

「どうじゃ、霊験あらたかであろうが」
「みごとな、身代りでございますな」
「身代り地蔵の由来は、いまの話はかかわりない。冥土で地獄におちた者を救い、代りに地獄へ身をお沈めくださるからの尊名じゃ」
「しかし、いまのお話のような念力で、すぐに、地獄から出てお行きになる---」
「あたり前のことを訊くでない。ずっと地獄に沈んでおられたら、身がいくつあってもまにあわぬわ。それほど、現世には、地獄におちるべき運命(さだめ)の者が多いということ---」

「なるほど。それで、山門のそばには6体の地蔵がならんでいらっしゃいます」
「これ、なんという罰あたりなことを申す。あれは、六地蔵というて、仏法の地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天で迷いながら輪廻(りんね)しておる衆生を済度(さいど)なさる地蔵さまたちじゃ」

平蔵が信仰心が篤(あつ)かったことは、史実に記録されている。
その一つ---処刑された盗賊たちの慰霊と鎮魂の施舎(せしゃ)を、毎年、欠かしていない。

だから、六地蔵の意味も、地蔵がサンスクリット語の地母神---大地の子宮の漢語訳であることもこころえていたろう。
相手に得意としているところを語らせながら、その中から核をひろっていたのである。

「子安(こやす)地蔵、子育(こそだて)地蔵、子宝(こだから)地蔵、子代(こがわり)地蔵、童子地蔵---といった、子どもにかかわりのある地蔵さまが多いのは---?」
「さまざまな説話に、地蔵さまは子どもの姿をしておあらわれになっとるな。そのせいじゃろう。これは大きな声ではいえぬが、水子の供養にも、地蔵さまが拝まれておる」

訊くだけのことを訊くと、懐から「お布施」と書かれた包みを奉じた。
「ご供養、仏前にあげさせていただこう。南無阿弥陀仏」

平蔵を見送ると、お布施がそのまま聡達の懐におさまったことは、あらためていうに及ぶまい。

すぐ近まの感応寺門前、

武士はいや 町人好かぬ いろは茶屋
いろは茶屋 梵字いろはで 書きのめし

に消えることは、平蔵も見こしての施行(せぎょう)であった。


| | コメント (2)

2010.09.25

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次

冬が近いことを告げるように、真綿のような雲が青空に浮いていた。

佐野豊前守政親(まさちか 44歳 1100石)は、堺奉行にふさわしい---というよりも幕府の体裁重視のしきたりにしたがった、もったいぶった隊列で高輪の大木戸を発(た)っていった。

発令は2ヶ月前の7月26日と記録されていたが、10月朔日に豊前守への叙勲を待ち、赴任を見合わせていたのである。

別離にあたり、大木戸まで見送りにきた平蔵(へいぞう 32歳)へ、
「昨日までは、(てつ)どのの兄としてふるまってきたが、きょうからは、どのが与七 よしちろう 22歳)の兄者のつもりで鍛えてもらいたい」
隣の継嗣を指さし、しみじみと頼んだ。

側の内室・於妃呂(ひろ)も涙目でうなずいた。

夫妻---いや、内室は、それから夫が大坂町奉行を罷免されるまで、10年間というもの、江戸の土を踏むことはなかった。

政親が西丸からいなくなったことで、平蔵の柳営での生活は、きゅうに寂しいおもいが濃くなった。
いささかは心細くもあった。

火盗改メ・土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やだゆう 58歳)を組屋敷にそれとなく訪ねてみようかと胸算段していた。

参照】20108月6日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] () () () () () (

そのときもとき、西丸若年寄・鳥居丹波守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)からお召しだしがきた。

ご用部屋の控えの間へ伺候すると、番頭(ばんがしら)・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 55歳 3500石)と与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)もそろっていた。

参照】2010年2月1日~[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (

鳥居丹波守は、実母は藩士のむすめだったが、嫡母に養育されたと『寛政譜』にある。
実母はさらに、2男1女を産んでいるが、些事といっておく。

とにかく、藩邸で嫡子としてのりっぱな教育をうけた。
その、おおらかな資質は、平蔵にもただちに感じとれた。

「火盗改メの土屋組頭(くみがしら)どのから、そなたの力を借りては---との推挙があっての。ぜひ、助勢してほしい」

脇に待機していた用人が、金包みをおしだし、
「路用のお足(た)し---なお、城下の本陣にご滞在の諸がかりはすべて藩におつけまわしいただきます」

探索するのは、壬生城のすぐ北の天台宗・台林寺(だいりんじ)大師堂の本尊の身代り地蔵像とのこと。
この寺の由緒は、日光山輪王寺の門跡・天真親王に乞われた当時(江戸時代初期)の藩主・三浦氏が太師堂を建立したことにはじまる。
そこが慈覚大師円仁の生誕の地といい伝えられていたのである。

参考】慈覚大師円仁

平蔵が、番頭・水谷出羽守をうかがうと、
「いかほどの日程をみておけばいいかの?」
「むつかしい探索になりそうですから、2ヶ月では?」

用人がため息をつき、藩主をうかがった。
鳥居丹波侯はおおように、
「3ヶ月かかろうと、半年を要しようと、かならず、見つけだしてほしい」
侯とすれば、京都御所にたいする幕府の面子(めんつ)をおもんぱかっていた。

平蔵は、とりあえず、江戸での探索に数日をみこんだ。

牟礼与頭に、天台宗の関東総本山でもある上野・寛永寺の執事僧の頭(かしら)に会える手はずをとってほしいと頼んだ。
「執事僧の頭---?」
「関東の天台宗の寺々まわりのことを教わっておきたいのです」


_360
_360_2
_360_3
(壬生藩主  西丸・若年寄 鳥居丹波守忠意の個人譜)


| | コメント (0)

2010.09.24

佐野与八郎の内室(5)

藤田 覚さん『田沼意次』(ミネルヴァ書房)を非難しているのではないし、その意図もまったくない。

ただ、同書が上梓された2007年夏、さっそくにあがない、次のくだりに首をかしげた。
第1章 権力掌握の道のり の、「意次の子供」の項である。

意次の三女が結婚した西尾忠移(ただゆき)は、遠江横須賀3万5000石の譜代大名である。忠移は、天明4年(1784)に奏者番(そうじゃばん)になっている。忠移は、天明7年12月、意次の居城であった相良城の破却と武器の保管を命じられた。相良と横須賀の距離が近いということもあろうが、この姻戚関係にも意味があったろう。

相良城の破却に西尾隠岐守忠移も動員されたことは、すでに記している。

参照】2006年12月7日[相良城の請け取り

それよりも、西尾隠岐守忠移の内室だった、意次(おきつぐ 享年70歳=天明8年)の3女・於千賀(ちが)だが、意次が失脚する14年前の安永3年(1775)11月23日に歿している(20歳)。忠移28歳。
このことを、著者はご存じあったかどうか。

ついでに書くと、生前に男子・千次郎を産んでいるが、この子も3歳で夭折。

参照】2007年1月20日[西尾隠岐守忠移の内室
2007年1月21日[意次の三女・千賀姫の墓]

千賀という名前から、千賀道有を連想するが、そのことはおいて、忠移への輿入れを18歳のときと仮定すると、意次が側用人取次となった翌年ごろであろうか。

ともあれ、著書は、事項だけで即断していくところがないでもない。

佐野備後守政親(まさちか)の名が2度目に出るのは、大坂西町奉行であった第三章 幕府全権掌握期の政治 の「幕府財政と御用金」のところである。

天明三年(1783)、大坂町奉行所は、大坂の有力な両替商である鴻池(こうのいけ)など一ー軒を融通方(ゆうずうかた)に指名し、金繰(かねぐ)りに苦しむ大名への金融にあたらせた。(略)
両替商は、大名からの融資の申込みをうけると、年利八パーセントの範囲内で貸し付け、受け取った利息のうち年利五パーセント分を益金)(えききん)として幕府に上納する。幕府は、上納金のうちから年利ニ・五パーセントを両替商に戻す。(略)
この融通貸付策を担当したのが、大坂西町奉行の佐野政親)(まさちか)だった。佐野政親の妻は、河野通隆(みちたか)の娘である。幕府奥医として権勢があり、意次と深い仲の河野通頼(みちより 仙寿院)の妻も通喬の娘である。佐野政親と河野仙寿院は、妻を介した義兄弟で、さらに佐野政親の息子の政敷(まさのぶ)の妻も河野通頼の娘であり、河野仙寿院とかなり濃い関係を結んでいた。

たしかに、閨閥といえるし、徳川時代にかぎらず閨閥は強い。

しかし、河野仙寿院と田沼意次との関係が、同著ではさほど具体的でない。

さらに、第五章 田沼時代の終焉 『田沼意次の失脚」に、家治の臨終の月日をめぐる記述で、

それまで、将軍の信用の厚い奥医師、河野仙寿院が薬を調合していたが、一向に快方に向かわなかった。そこで八月十五日に医師を代え、奥医師の大八木伝庵が診察した。さらに十六日には、町医者の日向陶庵と若林敬順が、意次の推薦により新規に召し出され、お目見え医師になり家治の治療に加わった。

意次と河野仙寿院の仲はまずくなっていたのであろうか。

大坂町奉行に東・西、2人制であった。
1500石高、役料1500俵。
佐野備後守政親が西町奉行として融通貸付策にかかわったときの、東町奉行は小田切土佐守直年であった。

佐野備後守政親(50歳 1100石)
天明元年(1781)5月26日堺奉行ヨリ
天明7年(1787)10月6日御役御免

小田切土佐守直年(なおとし 45歳 2930石)
天明3年(1783)4月19日駿府町奉行ヨリ
寛政4年(1792)正月19日町奉行

佐野政親の内室は、女子1、男子(政敷 まさのぶ)をもうけたのみであった。
葬地は雑司ヶ谷の日蓮宗の大行院だが、現存していないので、歿年は確認できない。


_360
_360_2
(小田切土佐守直年の個人譜)

| | コメント (0)

2010.09.23

佐野与八郎の内室(4)

いつもと違い、[佐野与八郎の内室]の項にかぎり、歳月を無秩序に行き来している。

藤田 覚さん『田沼意次』に書かれている---

幕府奥医師で将軍家治の信任が厚く、勢力のあった河野仙寿院(せんじゅいん  通頼)の関係者などがいる。天明元年(1781)から同7年まで大坂西町奉行を務めた佐野政親(まさちか)は、その妻が仙寿院の妻と姉妹であり、政親の子の妻は仙寿院の娘、という関係にある。
佐野の家には、堺奉行から大坂町奉行になるような出世をした人物はいないし、天明7年10月に罷免されているので、政親が仙寿院--意次という人脈上の人物だったことは疑いない。
姻戚関係に限らず意次の人脈上の人物を探せば、佐野政親のような事例がかなり存在するのではないか。

学者でもないのに、上の当否に近づこうなどと、身のほど知らずなことをおもいついている。。

河野仙寿院(せんじゅいん 通頼 みちより)の「仙寿院」は、父・通休(みちやす)医師が、将軍・吉宗から賜った称号である。

これは、紀伊大納言頼宣の生母・おの方が赤坂の中屋敷内に祀った小庵にちなむ庵号でもある。
小庵はその後、千駄ヶ谷へ移され、法雲山仙寿院という日蓮宗の山梨の本遠寺の末寺となったが、境内の景観が日暮里に似ているところから、新日暮里(しんひぐらしのさと)とも呼ばれた。
千手(せんじゅ)観音の語呂にあわせたものであろうか。

仙寿院通頼(49歳)が家治の篤い信頼を得たのは、宝暦11年(1761)に御台所・五十宮倫子の不予を快癒させたことによると『寛政譜』に記載されている。

このころ、田沼意次(おきつぐ 44歳)は、1万5000石を領して相良藩主、御側御用取次であった。
佐野与八郎政親(まさちか 31歳)は、家治の本丸入りにしたがって小姓組番士として本丸へ出仕していたし、河野通喬(みちたか)の末女を妻(めと)って8年が経っていた。
長谷川銕三郎宣以(のぶため)は17歳で、初見は7年後のこと。

意次が側用人にすすんだのは、この5年後の明和4年(1767)7月1日であった。

家治に見込まれた佐野与八郎は、宝暦12年(1762)の年末には西丸へ返され、家基に仕えた。
使番、目付を経て、堺奉行を拝命したのは、15年後の安永6年7月15日、46歳。内室は42,3歳になっていたろう。

さて、佐野与八郎政親の前任10人中、目付(1000石高)から堺奉行(1000石高)へ転じた仁を書き出してみよう。

桑山三郎左衛門一慶(かずよし 44歳~ 1200石)
宝永3年(1706)正月11日目付ヨリ
正徳元年(1711)5月1日大坂町奉行

山田十大夫利延(としのぶ  37歳~ 2000石)
寛保2年(1742)5月28日西丸目付ヨリ
延享4年(1751)2月2日普請奉行

池田修理政倫(まさとも 40歳 900石)
宝暦6年(1756)9月15日西丸目付ヨリ
   8年(1758)12月7日大目付

石野八大夫範至(のりとを 70歳 1100石)
安永元年(1772)4月28日西丸目付ヨリ
   6年(1777)7月8日卒

佐野与八郎政親(まさちか 46歳 1100石)
安永6年(1777)7月26日西丸目付ヨリ 
天明元年(1781)5月26日大坂町奉行

10人中、佐野与八郎政親を含めて5人が目付から転じている事実があるから、与八郎政親は決して異例ではない。

さらにつけたすと、池田修理政倫の「個人譜」には、大坂町奉行が参府していたあいだその代理をつとめたとあるから、堺奉行には、そういう職務もあったらしい。

佐野与八郎政親の後任も書き添えておく。

山崎四郎左衛門正導(まさみち 61歳 1000石)
天明元年(1781)5月26日駿府町奉行ヨリ     
   4年(1784)7月26日京都町奉行 

京都町奉行も大坂町奉行とおなじく1500石高であった。 

佐野豊前守政親の大坂町奉行は、ほとんど本人の力量によるといってもいいのではなかろうか。

もっとも、松平定信側の幕閣が、政親田沼派と断じたことと、本人の力量・人柄とは無縁である。

| | コメント (0)

2010.09.22

佐野与八郎の内室(3)

このブログでは、佐野与八郎政親(まさちか 27歳=宝暦8年 1100石)を長谷川平蔵宣雄(のぶお 40歳=-宝暦8年 400石)に引きあわせたのは、宣雄が小十人組頭に抜擢された宝暦8年(1758)で、仲立ちしたのは本多采女(うねめ)紀品(のりただ 44歳=宝暦8年 2000石)とした。

確たる史料があってのことではない。

本多紀品と前・田中藩主の本多正珍(まさよし 49歳)とのあいだがらから推測した。

宣雄は、、佐野与八郎の人柄を見こみ、一人っ子の銕三郎(てつさぶろ 14歳)の精神的な支柱である兄者となって振るまってほしいと頼んだ。
一人きりの弟・与三郎を早くに逝かせていた与八郎は、二つ返事で引きうけた。

さて、藤田 覚さんの『田沼意次』(ミネルヴァ書房)の、佐野与八郎田沼と近づくために、奥医師・河野仙寿院通頼(みちより)夫人の妹を娶ったという推測の当否を検証するために、ながながと、『江戸の中間管理職・長谷川平蔵』(文春ネスコ)を引用したわけではない。

藤田 覚さんも、あからさまに田沼意次に「近づく」ためにとは書いてはいない。
推測をうながした史料も明かされてはいない。

ただ、与八郎政親の西丸・目付から堺奉行、さらには大坂西町奉行への栄転が異例であることを指摘しているのと、田沼意次が失脚した天明7年(1787)8月27日をおっかけるように、(田沼派とみなされて)10月7日に大坂町奉行を解職と書いている。

寛政譜』は、

天明元年(1781)5月26日大坂の町奉行にすすみ、天明7年10月7日職をゆるされ、寄合に列し、寛政2年(1790)8月24日御先鉄砲の頭となり、10月7日より盗賊追捕の事を役し、3年3月17日これをゆるさる。

もちろん、田沼派とみられたから大坂町奉行を罷免---などと『寛政譜』が記すはずはない。

ところで、与八郎政親が奥医師・河野仙寿院通頼(みちより)夫人の妹を娶ったのはいつか? 
寛政譜』に拠(よ)って推理してみよう。

手がかりは、長子・与八郎(幼名 元服名=政敷 まさのぶ)の生年である。
初見の寛政2年(1790)35歳から逆算すると、宝暦6年(1756)の生まれである。
父・政親は25歳、西丸の小姓組番士として出仕3年目、このときの西丸の主は家治(いえはる 20歳 幼名・竹千代)であった。 

番頭(年齢は宝暦4年)は、1の組---
三枝土佐守守応(もりまさ 44歳 7500石)
2の組---
藪 主膳正忠久(ただひさ 40歳 5000石)
3の組---
松平内匠頭康詮(やすあきら 52歳 3000石)
4の組---
横田備中守清松(きよとし 56歳 9500石)

どの組であったかは、記録が見あたらない。
三枝家横田家は、武田系
藪家紀州系で、このあと10数年間は影響力をもっていたと推察できる。

ちゅうすけ注】別の史料『柳営補任 三』の使番の項に、

大久保因幡守忠翰
宝暦13年正月11日西丸御小姓組大久保因幡守組ヨリ
同年7月上州厩橋城松平大和守修復見分御用
明和4年12月朔日西丸御目付

とあり、大久保因幡守忠翰(ただなり 44歳=宝暦13年 5000石)は西丸4の組の番頭であった。


佐野政親の長子は宝暦6年に誕生と書いた。
内室の年齢の推測には、河野豊前守通喬(みちたか 1000石)の8男7女の末女だから、すぐ上の末兄で大久保家(1300石)へ養子にはいった康寛(やすひろ)の宝暦6年の年齢を『寛政譜』によって計算すると、23歳。
政親の内室が、佐野家へ帰嫁したのを出産の前年とすると、宝暦6年は23歳以下、20歳前後か。

その宝暦6年に、河野仙寿院と内室はいく歳であったろう?
夫の仙寿院は没年(80歳)が分明しているから、逆算すると43歳。
内室のすぐ上の兄の清和(きよかず)が、養子先・桑山家(1000石)の家譜から、この年には31歳、また、すぐ下の弟・国英(くにひで)は、養子先・小菅家(1500石)の『寛政譜』から29歳であったこともわかる。

兄と同年か30歳、あるいは弟と同年ということもあろうが、それにしても、仙寿院との年齢差がありすぎるのがくせもの。

というのは、この内室の子であるらしい金之丞は早世しているが、某女が産んだ第2子で、のちに家督した平次郎通久(みちひさ)が宝暦6年には16歳だから、早世した子を14歳か15歳で産んだ計算になる。

年齢調べをしたのは、仙寿院の政治的な力量を推測してみたかったから。


_360
2_360
(再録:仙寿院と佐野政親の内室の実家・河野通喬の個人譜)


_1
_2
_3
__2
(大久保因幡守忠翰の個人譜)


| | コメント (2)

2010.09.21

佐野与八郎の内室(2)

佐野与八郎政親(まさちか 46歳 1100石)は、小姓組から32歳で使番に抜擢(ばってき)されてすぐ、17万石の厩橋藩の水災のありようの監察に派遣され、居城を利根川から遠い川越へ移すように藩主の松平大和守親愛(ちかよし)へすすめたとして老中から賞されて以来、幕臣仲間のあいだでは、明察の仁、といいつたえられていた。

が、政親はそのことを、ちらとも表にださなかった。

早くに父を失い、祖父から家督を継いだのは与次郎と呼ばれていた12歳のとき。
以来、肩には家名の重みがずっとかかっていたのだ。

このとき---安永6年(1777)から13年後、堺奉行のときに豊前守を受叙、大坂町奉行をへた政親は先手・鉄砲(つつ)の16番手の組頭となり、火盗改メ・助役をつとめた。
本役は、長谷川平蔵であった。

相手の長所だけを見ることを課した自律の半生といえた。
平蔵(へいぞう 32歳)のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量のもち主を友にできたことに感謝した。
平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。
もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。

_120_2助役(すけやく)の組頭は、組下の者たちが出役のときに羽織る役羽織へつけている組頭の家紋はこれこれ、と町々へふれさせるのが従来からの慣習(しきたり)だったが、佐野豊前守は秘した。

「丸に剣木瓜(もっこう)……わが家の紋どころは、いかめしくもなければおもしろくもない。だいいち、助役の家紋など、町方へ知られていないほうが、なにかと都合がよろしい」(丸に剣木瓜)

なるほど助役の任期は半年だから通達が行きわたるころにはお役ご免になっている。

長谷川平蔵の受けとめ方はちがった。
世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
豊前守の組の者が神田の岡っ引きである勘太を捕らえたとき、長谷川組の同心たちは所轄ちがいの所行といきまくのを、平蔵は、
豊前どののやりようを学ぶによい機会だわ」
笑ってとりあわなかった。

所轄ちがい……とは、本役の所轄は日本橋から北、助役(すけやく)は日本橋の南を担当、ときまっていたことによる。
神田は本役の管轄内だ。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店からむしりとった金て米屋株を買ったり、箸にも棒にもかからないような男たちを中間として番所や見付などへ口入れしている悪(わる)との評判をとっていた。
平蔵も、いずれ引っ捕らえるつもりだった。

豊前守はまず、中間の1人を博打の現行犯で捕らえ、その後見……身元引き受け人というふれこみで、勘太が偽の名主や大家をこしらえて豊前守方へ出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった三日もしないうちに、佐野組勘太を放免した。
「うちの長官も焼きがまわったかな」
組下たちのこんなささやきがつづいていたとき、佐野組はもう中間に化けて見附へもぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)によった。

「あの仁の悪の使いぶりは、おれ以上だよ」
誉言(ほうげん)をおしまない平蔵から、長谷川組の配下たちは敬意のささげようを学ぶ。


堺奉行や大坂町奉行の前歴を生かした豊前守は、組の与力同心をてきぱきと指揮して裁きをすすめ、幕府の最高裁である評定所へは1件も量刑を伺っていない。
火盗改メとしては異例といえる。

ぼくたちは、佐野豊前守政親のもう一つの顔を知っておきたい。

天明4年(1784)3月24目、殿中で若年寄の田沼山城守意知に斬りつけた500石どりの佐野善左衛門政言(まさこと)は、山城守が出血多量で死に、切腹を申しつけられ、家は断絶。
ひとびとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして墓前に紫煙のたえることはなかった。

政親は本家筋の大伯父にあたる。
善左衛門のことはほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者のとり柄は正義感---したが、強すぎたがゆえに扇動に乗りやすい。あれの父の伝左衛門が50をすぎてからの子なので甘く育てられたうえ、産んだのは美人が自慢の芸者で自分が中心になりたがりました。それを継いでいたので、反田沼派にたくみに利用され……」


政親を清廉の士とちゅうすけが断じたのは、以下の史料を目にとめたからであった。

贈りものの多い堺や大坂の町奉行をしていたにもかかわらず、蓄財していない。
わずか半年間、火盗改メの助役をやっただけで400両(6,400万円)もの借財をつくったと史料にある。
家禄1100石で400両の借りをかえすには数年はかかる。

| | コメント (4)

2010.09.20

佐野与八郎の内室

与八郎。西丸の目付は何年になるかの?」
問うたのは、元・田中藩主の本多正珍(まさよし 68歳 4万石)老侯であった。
宝暦8年(1758)に老職(老中)の辞任を強(しい)られ、藩主の座もゆずることになってから19年になる。
隠居所ともなっている、芝・二葉町の中屋敷の庭にのぞんだ一ト間には、浜風はとおっているが、蝉の声がうるさかった。

おりよく非番がかさなった佐野与三郎政親(まさちか 46歳 1100石)と平蔵(へいぞう 32歳)が申しあわせ、久しぶりにご機嫌うかがいに伺候していた。

正珍の継嗣・紀伊守正供(まさとも 享年32歳)が先月亡じ、孫・三弥正温(まさはる 14歳)が遺領を継いでいたが、諸事は宿老たちにまかせ、正珍は藩政には口を容喙(はさん)でいなかった。

「11年にあいなります」
政親が応えたが、
「蝉めの恋歌がうるさいのにもてっきて、予の耳がかすんできおっての---何年と申されたかの?」
声を大きくし、
「足かけ、11年になりましてございます」
「西丸の少老はどこを見ておるのかのう、長すぎるわな」
「手前がいたりませぬゆえ---」
人柄そのままに恐縮した。

仙寿院通頼(みちより 500石)法印どののご前妻は、たしか、与八郎のご内室の姉ごであったな?」

佐野与八郎の内室は、伊予・越智氏の河野((こうの)庶流のひとつ、豊前守通喬(みちたか 享年64歳=宝暦6年 1000石)の7女であった。
正珍が話題にした仙寿院法印は、同じ河野庶流だが、奥医師が家職であった。

この河野仙寿院とのかかわりについて、藤田 覚さんは『田沼意次』(ミネルヴァ書房)に、田沼意次(おきつぐ 60歳=安永6年)との姻戚関係はないものの、きわめて親しい関係を取りむすんだ人物として、


幕府奥医師で将軍家治の信任が厚く、勢力のあった河野仙寿院(せんじゅいん 通頼)の関係者などがいる。天明元年(1781)から同7年まで大坂西町奉行を務めた佐野政親(まさちか)は、その妻が仙寿院の妻と姉妹であり、政親の継嗣の妻は仙寿院の娘、という関係にある。
佐野の家には、境奉行から大坂町奉行になるような出世をした人物はいないし、天明7年10月に罷免されているので、政親が仙寿院--意次という人脈上の人物だったことは疑いない。
姻戚関係に限らず意次の人脈上の人物を探せば、佐野政親のような事例がかなり存在するのではないか。


ことわっておくが、藤田 覚さんのこの著書の刊行は、2007年7月10日である。
このブログで、佐野与八郎政親を初めて登場させたのは、2007年6月3日だったように記憶している。

参照】2007年6月3日[田中城の攻防] (3) (4) (5) (6)
2007年6月4日[佐野与八郎政信] () (
2007年6月5日[佐野与八郎政親]

このはるか前、『夕刊フジ』に平成11年10月5日から12月4日まで、[江戸の中間管理職 長谷川平蔵]のタイトルで連載した中に、佐野政親を紹介した。
もとネタは『よしの冊子』である。

夕刊フジ』の連載は、2000年4月288に文春ネスコから単行本として刊行された。

2回にわけて、こその「尊敬しあえる徳をもつ」を引用しよう。


「いや、長谷川どのはわれらなどがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましい」
鉄砲(つつ)16番手の組頭である1100石どり佐野豊前守政親が、火盗改メの助役(すけ)に任じられたあいさつにきた寛政2年(1790)10月のことだ。
この仁は46歳で堺の町奉行、50歳で大坂西町奉行に就いたぐらいだから、能吏、出来ぶつとの噂が高かった。
助役発令の前後にも、
「ここのところの先手組頭で、加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野をおいてほかにいない」
と殿中でささやかれていた。
そんな豊前守政親の真意をはかりかねた平裁は、
 「なんの、なんの」
 ことばを濁した。
 [お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思っていても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大坂の町奉行を病いをえて退き、3年があいだ療養していて、ハタと悟りましてな。人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
 「遊蕩が資すると……?」
 「いかにも。人にもよりましょうが……は、ははは」
旗本の家に生まれ、それなりにしつけられはしたものの、番方(武官)としての出仕前……若いころの遊蕩の価値を、14歳も年長の先達に認められたのだから、平蕪も悪い気はしない。

両人の親交がはじまった。
豊前守はなにかにつけて[長谷川どのは先任者……]
「本役は平蔵どの……」
を口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。
平蔵も、
[豊前どのこそ人生の先輩……]
立てた。
菊川(いまの墨田区)の長谷川邸へ招いたり、氷田馬場南横寺町(いまの千代田区平河町二丁目)の彼の屋敷へ招かれたりして、情報を教えあい、盃をかわした。年齢差、家禄差をこえての深い交際となった。(明日につづく)


_360
2_360
(河野豊前守通喬は5女を仙寿院通頼の内室に、7女を佐野与八郎政親の内室に帰嫁させた)


_360_2
2_360
(河野仙寿院通頼法印の前妻は通喬の5女)


1_360
2_360_3
(佐野与八郎政親の内室は、河野通喬の7女。息・政敷の前妻は、仙寿院通頼の末の3女)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2010.09.19

ちゅうすけのひとり言(62)

飯倉町2丁目の紙問屋〔萬(よろず)屋〕を襲った盗賊が、〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち 享年62歳)と、平蔵(へいぞう 32歳)が取引きしたところまで報じた。

依頼したのは、火盗改メ・助役(すけやく)を安永6年(1777)4月16日まで勤めた長田(おさだ)甚左衛門繁尭(しげたけ 尭は下に走 56歳 1300石)であったことも記した。

火盗改メの助役が、火事の多い冬場のもので、その担当区域は日本橋から南と深川、佃島であることもしばしば書いて述べてきた。
本役は、土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)が安永8年正月15日に大坂町奉行に栄転するまで担当している。

で、安永6年の秋の助役は誰が任じられたか、『別冊・歴史読本 実録『鬼平犯科帳』のすべて』(新人物往来社 1994)の後藤正義さんの労作[火附盗賊改就任一覧表]をのぞいてみた。

_130ないのである。
安永6年秋から7年春へかけの助役がないばかりではない。
安永7年秋から8年春にいたるあいだも助役の名がない。

そんなことは、ありえない、なにかの間違いではないかと、『柳営補任』先手組頭のページをひらいてみた。

「これかな?」
というのはあった。
鉄砲(つつ)の7番手の組頭に任じられた 安部平吉信富(のぶとみ 48歳 1000石)のところに、見慣れない記述があった。

「其ノ後、増加役相勤ム」

日付はないが、安永6年の秋---9月か10月と考えると、加役---すなわち助役で、「増」は火盗改メが、本役、助役、増役と3人となったときに使われている。
だから「増加役」も文字どおりに受け取ると、助役がいなければならない。

それで、『徳川実紀』の安永6年をあたってみた。
あったのは、

5月10日 けふ使番安部平吉信富 先手頭となる

これだけであった。

しかし、『柳営補任』の編者は、なにかの史料に拠り、「其ノ後、増加役相勤ム」の一行を加えたにちがいない。
そのとき、「加役」をあやまって「増加役」としたこともかんがえられないではない。
というのは、『実紀』のこの年のその後に、助役に任じられたものが記録されていないからである。

_150
(『柳営補任』)

もちろん、後藤正義さんは[火附盗賊改就任一覧表]をおつくりになったときに、『実紀』も『柳営補任』もおたしかめになった上で、「其ノ後、増加役相勤ム」の解釈に悩まれ、記録からおはずしになったのであろう。

寛政譜』(下欄)の平吉信富の項にも、増加役のことは記されていない。

そのため、後藤正義さんは『寛政譜』にある天明2年(1782)10月9日の「盗賊追捕の役」を[火附盗賊改就任一覧表]に採用された。

柳営補任』にある天明7年(1787)5月23日の、

「組召し連れ相廻るべき旨」

は、江戸で起きた打ちこわしに、先手組10組にくだった鎮圧命令のことであろう。

参照】2006年4月27日[天明飢饉の暴徒鎮圧を拝命

このとき、弓の2番手の組頭だった平蔵も出動した。
そのときの組頭・平蔵のエピソード---

参照】2006年4月26日[長谷川平蔵の裏読み

けっきょく、安永6年冬と、翌7年冬の助役は、いまのところ未解明のままである。

とのあえず、長田甚左衛門繁尭が転任した安永6年4月17日以降の先手・弓と鉄砲の30組の組頭の氏名をあげておく。
発令されれば、この中からである。
西丸の4組頭が火盗改メに就くことは、まず、ないから外した。

弓組10組の組頭
 (年齢は安永6年。1番組から順 ○=火盗改メ)

 市岡左大夫正峯(まさみね 73歳 1000石) 
 長谷川太郎兵衛正直まさなお 69歳 14350石)  
 長田甚左衛門繁走尭しげたけ 56歳 1300石)
 蒔田八郎左衛門定賢(さだかた 41歳 1800石)
 能勢助十郎頼寿よりひさ 75歳 300俵)
 京極左門高虎(たかとら 64歳 500石)
土屋帯刀守直もりなお 44歳 1000石)
 中山伊勢守道彰(みちあきら 62歳 500石)
 山中平吉鐘俊〔(かねとし 57歳 1000石)
  篠山吉之助光官みつのり 62歳 500石)


鉄砲(つつ)20組の組頭(同上)

 三浦五郎左衛門義如よしゆき 59歳 500俵)
 大岡忠四郎忠居(ただをり 47歳 1430石)
 杉浦長門守勝興かつおき 57歳 620石)
 大久保弥三郎忠厚(ただあつ 5や歳 550石)
 倉橋三左衛門久雄ひさお 68歳 1000石)
 小菅備前守武第たけくに 59歳 1500石)
 安部平吉信富のぶとみ 48歳 1000石)
 鳥居織部忠該(ただかね 77歳 500石)
 遠藤源五郎常住つねずみ 61歳 1000石)
 松田善右衛門勝易かつやす 55歳 1230石)
 浅井小右衛門元武もとたけ 68歳 540石)
 建部荒次郎広般(ひろかず 44歳 1000俵)
 松平仁右衛門近富
(ちかとみ 77歳 1,500石)
 村上内記正儀(まつのり 61歳 1550石) 
 中嶋久左衛門正勝(まさかつ 58歳 1500石)
 織田図書信方(のぶかた 60歳 1500石)
 戸田五助勝房(かつふさ 54歳 1500石)
 清水与膳豊春(まつのり 59歳 380石)
 逸見八左衛門義次(よしつぐ 54歳 530石)
 田屋仙右衛門道堅(みちかた 63歳 300俵)


_360_2
Photo
(安部平吉信富の個人譜)


参考】、安部平吉信富の「其ノ後、増加役相勤ム」にはかかわりがないというより、この仁の着任の寸前、安永6年4月8日の『実紀』の記述は、気になる。

けふ、令されしは、近頃府内ならびに近国に無頼の徒、あまた徘徊なすゆえに、火賊も数多くなりてしづかならず。
なべての憂苦となるよし聞こゆ。
これまったくかの徒を宿すものあるゆえ。
かの徒も処々に徘徊して、いと、ひが事多し。
都鄙しもに里正等よく査検し、さきざきの令を守り、一夜なりとも、かかる徒を宿らしめずももし来たらば、速やかに捕らえて、府は直月の奉行所、八州はけ村々逓送してこれも直月の庁に引き出すべし。(以下略)

| | コメント (2)

2010.09.18

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(6)

紙問屋〔萬(よろず)屋〕の小僧・梅吉(うめきち 12歳)と〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ 58歳)を交換する件は、平蔵(へいぞう 32歳)が仲立ちし、火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)と助役(すけやく)の長田甚左衛門繁尭(しげたけ 56歳 1300石)が連名で嘆願書を若年寄へ呈した。
「人命がかかっているため、伊三をわたしたい」

これには裏があり、実際の根まわしをしてくれたのは、亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の時代から面倒をみてくれていた奥祐筆組頭・奥村政次郎利安(としやす 57歳 15O俵)であった。
役人は、情報通と寝技師とに通じていることが大切なのである。

参照】2008年6月24日[平蔵宣雄の後ろ楯] (10
2008年7月5日[宣雄に片目が入った] (
2010年5月11日[隣家・松田河内守貞居(さだすえ)の不幸]

月番若年寄の許諾があり、平蔵が〔萬屋〕の柿K木の枝に手拭を巻き、泊まりこんだ。

おまさという名の女中にも会った。
ひと目で、おまさ違いとわかった。
「仙吉と添いとげたかったら、暇をとり、別のところに奉公することだ」

2日目には、〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち 50がらみ)の連絡(つなぎ)役らしい50がらみの男がやってきた。
名乗らなかった。
柿木にむすんだのと同じ柄の手拭を示しただけであった。

奥へと誘うと、びくりともしないでついてきた。
平蔵が、〔下ノ池〕の伊三は大伝馬町の囚獄で無事であると告げても、男は口もきかず、うなずいただけであった。

人質交換の場所と日時を問うと、懐から紙片をだした。
「権之助坂下、大鳥明神社の御手洗(みたらい)所の前
3月30日 明け六ッ半」
とあった。

240
大鳥明神社 『江戸名所図会〕 塗り絵師:ちゅうすけ

「駄目だ。伊三の釈放は、お上が有章院家継 いえつぐ)さまのご命日に、三縁山増上寺でご供養さなる。そのご恩赦の一人に加えていただいた」

「---?」
あくまでも無言であった。
「4月の晦日(みそか)だ」
うなずいた。

「承知だな。勘八お頭へ伝えてもらいたい。これは、若年寄の許諾があっての処置ゆえ、お上の威信にかけても、卑怯な真似しない、とな」

「それと、も一つ。勘八お頭の度量を見こんでのことだが、持ちさられた金子は、ここ〔萬屋〕のものではなく、ほかの数軒の〔萬屋〕の連れ仕入れの預かり金であったそうな。半分でも返してやってくれないかな。たぶん、無理とはおもうが---」


後日談
15年ほどのちのことである。
平蔵が舟宿〔鶴や〕で〔小房こぶさ)の粂八(くめはち 38歳)を相手に呑んでい、新しい銚子をもってきた女中頭のお(もと 32歳)に、
どんは、木更津の出だそうだね? そういえば、粂八は、あのあたりの出の〔飯富〕の勘八のところにいたこともあったそうな---」

それをきっかけに粂八が、
「お役人さまの中にもずいぶんと出来のいいのが---失礼---あっしの言いぐさじゃありませんので。勘八お頭と、その弟分だった〔下ノ池〕の伊三爺ィってのが言ってましたことで---」

まず、勘八の感嘆。
いや、あの若いお武家には参ったよ。泥棒にむかって、盗(と)った金を返してやれ。「無理とはおもうが」と下手(したで)にでておき、「盗(と)られて困る者からは盗らない」の三ヶ条を逆手にとられ、吸いこむように瞶(みつめ)られちゃあ、半金、返さねえじゃあ、器量がさがらあな。

人質交換で戻ってきた伊三の口ぐせは、お上の配下にも惚れぼれするほど〔恐ろしい若いの〕がいやがった。ああいうのが火盗改メにでもなったら、おれたち、手も足もでなくなる---であった。

伊三爺ィさんが長谷川さまを知ったら、〔恐ろしいの〕が2人はいるねえと、申したことでしょうよ」
平蔵は手をふり、
「いや。おれは、その〔若いの〕には及ぶまいよ」

ついでに、もう。ひと言。
この人質交換の体験は、巻24[誘拐]のおまさ救出のヒントになったろう。


参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] () () () () () 

| | コメント (6)

2010.09.17

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(5)

伊三(いさ)。たしか〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三といったな?」

大伝馬町の囚獄の別間で、平蔵(へいぞう 32歳)に、引きこみ先で使っている伊三(いぞう)でなく、生まれたときからの(いさ)---しかも、〔飯富いいとみ)〕一味での〔通り名(とおりな 呼び名ともいう)をつけて話しかけられた伊三は、
(もう、いけねえ)
あきらめきった。

伊三。下ノ池の盗み水が初めての盗(おつとめ)であったのか?」
伊三は、力なく首をふった。

「ほう。その前にもなにかやったのか? そのときも勘八もいっしょだったか?」
稲富〕の名をそれとなく口にしてみたが、もう、気づいたふうは見せなかった。

「んにゃ。兄ィは、そんときはいっしょでねえ」
「ひとりきりでやったのか?」
「あんまりひもじかっただで、お婆ァさのとこの鶏の卵2ヶ、盗(と)っただ」
(50年もむかしのことを、きちんと覚えているんだ。ばかではない)

「のう、伊三。お前が紙問屋の〔萬(よろず)屋〕へ薪を売りにいっていたときの、〔稲富〕の住jまいはどこだった?」
「いわねえと、ぶつだか?」
(16歳のときの下ノ池での恐怖がいまでも伊三をおびやかしているらしい)

「わしは、火盗改メではない---」
「んだら、ぶたねえだか?」
「ぶつわけがなかろう」
「でも、この牢獄にはいる---」
「お前を助けてやろうとしているのだ」
「ほんと?」
「嘘をついても仕方がない」
兄ィの住いは、こんにゃく島の船方宿---」

こんにゃく島---大川から日本橋川へ入り、最初の堀割---亀島川へ折れた霊巌島の築地(埋め立て地)をそう呼んだ。
土地がこんにゃくのようにへにゃへにゃしていたからとも、あたりに上方からやってきた船頭たちの一夜の相手をしたおんなたちの抱きごこちをたとえたのだともいわれていた。

「木更津船で運んできた薪を溜めておくにも足場がいいな」
「んだ」

「ところで、〔萬(よろず)屋〕一統からの仕入れ金が集まった日が、どうして分かった?」
「女中のおまさどんに---」
おまさ?」
「んだ。きれいなむすめっ子だ」
「で---?」
「手代の仙吉どんが話したのを小耳にはさんだだ。2人は、おらが小屋裏で乳くりあうだ」
「それをどうやって〔飯富〕のに知らせた?」
「金が入った日には、裏庭の柿の木の枝に、手拭いを巻いておくことになっていただ」

聞くだけ聞き、おまさらしい女中を気にかけながら、牢番に合図をおくり、
「近いうちにいいことがあろう。それまで、おとなしくしていることだ」
伊三がかしこまってお辞儀した。

牢番が連れさるその脊へ、平蔵が言葉を投げた。
「〔小房(こぶさ)〕のは、どうしているかな?」
伊三の足がとまり、金しばりにでもなったように、しばらく、動かなかった。


参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] () () () () (

| | コメント (0)

2010.09.16

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(4)

「〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ)に間違いないか?」
平蔵(へいぞう 32歳)は、日信尼(にっしんに 36歳)からご褒美をねだられていた。
乳首の外輪ぞいを、指でなぞってやっている。
尼がのぞんだ愛撫であった。

「あの、いつも口が開きかげんのところも、伊三どんの特徴です」
尼も布団の下は素裸で、右股は平蔵の両腿のあいだにさしこまれていた。
法衣は布団のかたわらに、下衣とともに無造作に脱ぎすててあった。

平蔵の口を吸いながら、とぎれとぎれに語ったところによると---。

上総(かずさ 現・千葉県南部)・下総(しもうさ 現・同県北部)と江戸を仕事(つとめ)場としていた〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち 享年62歳)と、浄信尼が〔不入斗(いりやまず)〕のお(のふ)と名乗っていたころのお頭〔神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ)とは親しかった。

おたがい、上総の生まれ育ちということもあったし、盗(つとめ)の3ヶ条を守りぬいていたことでも、相互に信頼しあっていた。

当時、伊之松がちょっと大がかりな仕事をするのに人手がたりなくなり、〔飯富〕一味から、気ばしの利いた〔小房こぶさ)〕の粂八(くめはち 20代前半)と、すこし足りないところがあるが見張りなどには役立つ〔下ノ池〕の伊三を借り受けたことがあった。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』巻6[大川の隠居]p192 新装版p202

伊三がそのときに、〔飯富〕の勘八とのあいだがらをぽつりぽつりと打ちあけた。
齢も同じなら家の貧しさも似ていた。

日照りがつづいた夏であった。
飯富村の田んぼが干あがりかけた。
村の長(おさ)と大人百姓たちが、夜陰にまぎれ、下ノ池(現在はない。上ノ池だけがある)から水を盗みにいく手を求めた。
小遣い銭ほしさに、16歳だった勘八伊三が応じた。

B_360
(赤○=木更津 緑○=飯富 その右上の水色=下ノ池
明治20年参謀本部製作の20万分の1)

真っ暗ななかで、飯富村への水門の堰板2枚)を外したところで水番にきていた牛久村の張りこみに襲われた。
勘八はうまく逃げたが、捕まった伊三はさんざんに殴られ、それから頭がおかしくなった。

村長(むらおさ)や組頭たちは、危険手当は払ってあるととりあわない。

責任を感じた勘八は、伊三の面倒は一生、自分がみると告げ、いっしょに村を捨て、盗みの世界へ身を沈めた。

(危険を冒してでも紙問屋〔萬(まん)屋)の小僧をさらい、人質交換ときたか。応じないことには梅吉(うめきち 12歳)の命があやうかろう)

「ねえ。さま。ご褒美---」
(躰をあわせてから1ヶ月と少ししか経っていないというのに、長谷川さまからさまに格落ちもいいところだ)


参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] () () () () (

| | コメント (0)

2010.09.15

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(3)

日信尼(にっしんに)どの。来たぞ。しっかり見定めてくれ」
平蔵(へいぞう 32歳)が駕篭にささやきかけた。
尼がにんまりうなずく。

小舟j町3丁目、荒布(あらめ)橋の東詰であった。
駕篭がおかれ、舁き手か煙草をすっていた。
舁き手は、深川・黒船橋の北詰、〔箱根屋〕の加平(かへえ 27歳)と時次(ときじ 25歳)らしい。

道側の垂れをおろし、簾窓(すまど)ごしに目をこらしているのは、尼頭巾をかむっているが、あいかわらず艶っぽいお(のぶ 36歳)であった。

半月前に、深川・霊巌町の日蓮宗の名刹・浄心寺の塔頭(たっちゅう)のひとつ、尼寺・浄泉庵で得度をうけたばかりで、法名は日信尼
庵主の日俊尼(にっしゅんに 70歳)が授名してくれた。

この変わり者の日俊老尼の挿話はのちほどということにし、いまは、浄信尼の視線の先に注目しよう。

うしろにまわした両腕を腰縄にむすばれ、両脇を小者に護衛された老囚がそれである。
大伝馬町の囚獄から、麹町・御厩谷(おうまやがたに)の火盗改メの役宅へ取り調べのために召されていた。

もちろん、老囚につきそっている同心・脇田裕吉平蔵が相談したうえでの、その日の連行であった。

上総(かずさ)国望陀郡(ぼうだこおり)百目木(どめき)村育ちという大伝馬町の牢番が、獄囚の伊三(いぞう 58歳)が上総なまりで話すと洩らしたので、平蔵にひらめいた案であった。

俗世で〔不入斗(いりやまず)〕のおと呼ばれていた日信尼も、百目木村に近い市原郡(いちはらこおり)の生まれということで、もしや、顔見知りの賊ではないかと、こっそりと面相あらためをさせることにした。

連行の道すがらにしたのは、日信尼のことを、火盗改メに知られたくなかったためであった。

老囚の一行が荒布橋を西へ渡りきったので、日信尼ことおが、垂れがおりていない側から墨染めをまとった身をのりだし、物陰にいた平蔵を手招きした。

さま。あれはまぎれもなく、〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ)という、〔飯富(いいとみ)〕の勘八(かんぱち 58歳)お頭(かしら)の弟分です」

B_360
(赤○=木更津 緑○=飯富 その右上の水色=下ノ池
明治20年参謀本部製作の20万分の1)

それだけ聞くと、舁き手に合図し、
「尼どの。先へ行き、待っていてください」

駕篭が向かったのは、なんと、法苑山浄心寺の東門前・山本町の小さな出会茶屋〔甲斐山〕であった。
出会の「会」を「甲斐」としゃれたのかとおもったらそうではなく、浄心寺の本山が甲斐の久遠寺からとった店名で、信徒たちや僧がこっそりこもって修行にいそしんでいるらしい。

ここをお---日信尼に教えたのは、庵主・日俊老尼で、
日信さんは、まだ、煩悩まっさかりじゃろが---煩悩は払わんと、おなごの躰には毒じゃ。煩悩おとしには、風呂場のあるところが一番。〔甲斐山〕は、寺の塔頭の1院としてとどけてあるからして、風呂場もついておる」


_360
(深川 赤○=〔甲斐山〕 緑○=浄心寺)


現実の浄心寺とは無縁の架空の話です。


参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] () () () () (

| | コメント (2)

2010.09.14

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(2)

「870両(1億3,700万円もの現金を、なぜに手元へ置いておかれたのかな?」
平蔵(へいぞう 32歳)ならずとも、まず、奇異におもう。

大きな現金を手元へおいておくのは、商人としては失格といえた。
高利貸しでもしないかぎり、現金はほとんど利を生まない。
商品に換えてこそ、金が生きる。

飯倉2丁目の紙問屋〔萬(よろず)屋〕の当主・小兵衛(54歳)は、その名のとおりの小顔を大きくうなずかせた。
「お武家さまのおっしゃりたいことは、痛いほどわかりましてございます。いえ。ほんとうに痛いのでございます」

小兵衛がいうには、870両のほとんどは自店の金ではなく、〔萬屋〕を名乗っている幾つかの紙問屋の金であったと。
それも、2日前に5店分がそろったので、明日にも為替に組み、仕入れ代金として上方へ送るつもりであった。
まとめて仕入れたほうが、各店がばらばらに仕入れるよりも1割方、安くなるので、これまで数年間、そうしてきていたのだと。

_360
(共同仕入れをしている〔萬屋〕グループ
『江戸買物独案内』を合成)

「現金が集まることを知っていたのは、誰と誰かな?」
脇田祐吉(ゆうきち 33歳)同心が問いをはさんだ。
「それは、もう、ぜんぶの者が承知しておりました」
「人質になったという小僧どのものかな?」
平蔵が念いれた。
梅吉(うめきち 12歳)でござすますね。もちろんでございます」
伊三(いぞう 58歳)もかな」
「知ろうとおもえば、知ることは容易(たやす)かったでございましよう」
そのことがなんか?---と訊きたいj顔つきになった。

平蔵は応えず、
「870両を一つ店で返済するのはことだな---」
そのつぶやきに、
「身代かぎり、すべて投げだしても追っつきかねますでございます」

伊三について、なにか気がついたことは?」
半年ばかり、薪を売りにきていたので、なにかのついでに下男を一人求めているというと、自分ではどうか、齢なので薪の行商がつらくなっているというので雇ったと。

「そのほかに、なにか?」
「言葉に、田舎者らしいなまりがありましたが、さて、どちらのなまりやら---」

つぎに平蔵脇田同心があらわれたのは、大伝馬町の牢獄であった。
伊三が入れられている獄舎の番人が呼ばれた。

「おぬしの生まれは?」
平蔵の問いかけが、予期していなかったものらしく、番人はきょとんとした顔で見返してきた。
「おぬしの故里(ふるさと)を訊いておる」
「おらの---てまえのてすか?」
「そうだ」
「上総(かずさ)の望陀郡(ぼうだこおり)、百目木(どめき)村だが---、ですだが」
「村をでて、何年になるかな?」
40がらみの番人は、それでも指をおってたしかめ、
「25年だで---です」

目元に笑みをたたえた平蔵が、
「百目木村のなまりの入牢(じゅろう)人がいるかな?」
番人が、こっくりとうなずいた。

「誰だ?}
伊三だで---です」

「牢内でしゃべっておるのか?」
「(牢)名主の問いかけに答えないと、仏にされてしまうだで---ますから」


参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] () () () () (


お願い】牢番の百目木弁、あるいは上総なまりに直して、コメント欄でご教示いただけないでしょうか? お礼は残念ながら、鬼平ファン同士ということでお許しいただき、謝辞のみ。

| | コメント (0)

2010.09.13

〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三

先手・弓の3番手の筆頭与力・古郡(ここおり)数右衛門---と書いても、ほとんどの方は覚えいていまい。

いま(安永6年 1777)から4年前---火盗改メだった庄田小左衛門安久(やすひさ 41歳=当時 2600石)のときに、平蔵(へいぞう 28歳)が、この組を手伝った。

参照】2010年2月8日[火盗改メ・庄田小左衛門安久 ] () (

(1)と(2)つながりがおかしい?
そのとおり。 この1話を抜いている。

参照】2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ)]

そして、(2)の先は、

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () (

ブログは、クリック一つで過去コンテンツに飛べるから便利だが、わずらわしくあることも事実。

これから数日は、〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三(いさ 58歳)---というより、聖典巻10[大川の隠居]で語られた、〔飯富いいとみ)〕の勘八(かんぱち 享年=62歳)と〔浜崎はまざき)〕の友蔵の、あの好篇から14年前の手柄話だから、〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛への回顧は、ほどほどにし、こっちの展開に集中していただきたい。


安永6年春---。

火盗改メ・本役は、土屋帯刀守直(もりなお 44歳)であった。
昨秋から4月16日までの加役---つまり、火事の多い冬場の助役(すけやく)を、先手・弓の3番手の組頭の長田(おさだ)甚左衛門繁尭(しげたけ 56歳 1300石)が勤めていた。

長田組の筆頭与力が古郡数右衛門
長い導入部になってしまったが、古郡与力から平蔵へ声がかかったことを説明するには、この遠まわりもいたし方なかった。

「組のほうは、まもなく、お役ごめんとなりますが、手をつけている事件だけは解決しておきたいので、お知恵をお貸しいただきたい」

高崎の事件で味をしめた平蔵は、
「番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久 かつひさ 55歳 3500石)さまの許しをおとりいただければ---」
出仕と引きかえなら、探索を引きうけてもいい、と返事をした。

与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 58歳 800俵)の問いに、
「15日もあれば---」
さばを読んで応えた。

うまく、せしめた。

長田組頭の役宅は、麹町・御厩谷(おうまやがたに)であった。

組屋敷は四ッ目南割下水。
(いまはない〔盗人酒屋〕の近く)

麹町の役宅へ出向くより、深川・横川に架かる菊川橋詰の酒亭〔いさご〕を、夕刻六ッに指定すると、古郡筆頭が゜、これも顔なじみの脇田祐吉(ゆうきち 32歳)をしたがえてあらわれた。
組屋敷から近いので、まるで隣家へでもいくような羽織袴なしの、くつろいた姿であった。

平蔵のほうは、芝一帯の香具師(やし)の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞ゛う 47歳)に声をかけておいた。

賊に襲われたのが、飯倉町2丁目の紙問屋〔萬(よろず)屋〕小兵衛だったからであった。

_340
(赤○=飯倉2丁目の紙問屋〔萬屋〕小兵衛
『江戸買物独案内』 1824刊)

飯倉も、増上寺まわりや西久保八幡が伸蔵のシマだからである。
伸蔵は、息子の伸太郎(しんたろう 27歳)をともなっていた。

小部屋の近くには客がいないように気がくばられていた。

脇田同心が説明した。

裏塀の通用口から賊たちが押し入るとき、くぐり戸を開けた下男の伊三(いぞう 56歳)を、小用に起きた小僧がみとめたのだという。

小僧はそのまま雪隠から出なかったので縛られなかった。
だから、賊たちが860両(1億3,760万円)を持ちさると、近くの辻番所へ走った。

下男小屋で自分の荷物をまとめていた伊三がつかまった。
ところが伊三はなにも白状しないばかりか、ひとこともしゃべらない。

最初の3日は、御厩谷の役宅の仮牢で取り調べたが、いまは大伝馬町の牢へ移し、尋問のたびに麹町の役宅の白洲へつれてきているという。

ところが、事件は別の様相になった。

伊三をがくぐり戸をあけて手引きしたところを目撃した小僧が行方知れずになった。
2日目に〔萬屋〕へ文が投げこまくれた。
表の大戸をあけたとき、戸のどこかにはさまれていた結び文が落ちた。

伊三を釈放しなければ、小僧を帰さない

---と、あった。

大伝馬町の牢へ移す前の、役宅の仮牢にいるあいだなら、釈放も闇から闇へ始末できたのだが、いまは留め書にのこってしまっているためーそれもできないと。

参照】2010年9月13~[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] ) () () () (

| | コメント (4)

2010.09.12

〔蛙(かわず)〕の長助

鬼平犯科帳』巻10の[蛙の長助]と、タイイトルにもなっている元盗人---といっても、いまでもついでの小さな盗みはやっている。

主たるかせぎは、煤竹(すすだけ)の耳かきづくり。
長助の手になった耳かきは評判がいいのである。
じつは、耳かきが生地を割りだす手がかりの一つになったが、この経緯はのちほど。

[蛙の長助]に登場したときは、56歳で片足が膝から下がなく、杖をついていた。
脚を失ったのは盗みには関係がなく、15年ほど前に酔った浪人との喧嘩で切断された。
それがもとで、長年配下として勤めていた〔神崎(かんざき)〕の伊之松(いのまつ)から引退金(ひきがね)を50l両(800万円)もらい、その金で掏摸(すり)の業(わざ)の教授をうけたというから、目はしは利いていた。

隣家が金貸し・三浦某から借りたものが返せなくて困っていたのを見かねて交渉に行き、逆に見込まれて三浦の取立て人となった。
したがって、現在の主な収入は、取立ての歩合である。

その取立て事件から、長谷川平蔵とかかわりができ、最後には死に水までとってもらいかねないほどの仲になった。

_10

容貌:タイトルが暗示しているごとく、目玉が大きい、いわゆる蛙(かわず)面である。
小柄で、両足がそろっていたときは身軽で、〔神崎〕の伊之助も重宝していたらしい。

年齢::享年56歳(寛政6年初夏)

生地:竹の耳けずりに長(た)けていること、お頭・〔神崎〕の伊之助が上総(かずさ)国市原郡(いちはらこおり)神崎村(現・千葉県市原市神崎)の出身であること、その配下だったころに仲のよかった〔戸田(とだ)〕の房五郎が同じく上総の武射郡(むしゃこおり)戸田村(現・千葉県山武郡(さんむまぐん)山武(さんぶ)町戸田)の生まれであることなどが、千葉県で竹の産地を調べたら、夷隅(いすみ)郡大多喜が候補にあがってきた。
大多喜町役場に竹細工の村を問い合わせたら、平沢と田代を教えられた。
『旧高旧領』で、石高の少ない夷隅郡(いすみこおり)田代村の貧しい小作人の息子説をとった。

いまの住いは、江戸の池之端の下谷(したや)茅(かや)町である。
心行寺(現存しない)門前の小間物屋の路地の奥---小さな一軒家で独り暮らし。

物語は、長助が30歳前後で、駿府での盗みをおえ、骨やすみで品川宿であそんでいたとき、平旅籠で女中をしていた痩せたおきちに手をつけてしまい、2年間同棲したあと、生まれた娘おきよとおきちを捨て、ふっと次の盗みへはせ参じた。

結末では、おきよの養い親の借金の一部を三浦某へ返したあと、卒中で平蔵の膝に倒れてしまい、捕縛をまぬがれた。

| | コメント (2)

2010.09.11

〔笹子(ささご)〕の長兵衛

『鬼平犯科帳』巻11[密告]に登場する盗賊の首領---といっても、物語の舞台である寛政6年(1794)秋の時点では、7年前---天明7年(1787)には、後妻のお百(ひゃく 34歳)に見とられて畳のうえで往生をとげていた。
連れ子の紋蔵(もんぞう)こみでお百を後妻にしたのは、長兵衛が52,3歳のころであったという。
本拠は木更津だが、仕事(つとめ)の地域は安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)から上州あたりまで手びろかったが、
「将軍さまの御ひざもとを荒らしてはいけねえ」
と、妙な理屈をつけ、江戸府内には足をふみいれなかった。
流血を好まず、〔盗み(つとめ)〕の3ヶ条はきちんとまもった。
ふだんは、木更津で〔笹子屋〕という旅籠の主人であった。
宿泊する旅人たちの話から、盗み先の見当をつけていたのかもしれない。

_11

享年:68歳(?)
生国:上総国望陀郡(ぼうだこおり)笹子村(現・千葉県木更津市笹子)

A_400
(赤○=木更津 青○=笹子 緑○=犬成 明治20年製)

A_200


発覚の発端:お百の連れ子・紋蔵(25歳)が畜生ばたらきをやめないので、母親のお百(41歳)がかつて温情をうけた平蔵に、その押し込み先を密告した。

さっそくに深川・仙台堀ぞい今川町の足袋股引問屋〔鎌倉屋〕方へ出張り、紋蔵一味を捕縛したことから、義父・長兵衛の存在が知れたが、既に物故しているので、おかまいなし。

長兵衛の旧配下もばらばらに散っていて行方は知れなかった。

紋蔵は、銕三郎時代の平蔵が餞別にお百に与えた遺品の珊瑚玉の簪(かんざし)を抱いて獄門についた。

| | コメント (0)

2010.09.10

〔戸田(とだ)〕の房五郎

鬼平犯科帳』巻10[(かわず)の長助]で、長助が五体満足で〔神崎(かんざき)の伊之松(いのまつ)の配下にい、駿府の盗(おつとめ)をしたとき、気のあった仲間として、一度だけ名前が書かれた。p79 新装版p84
長助は、品川宿の平旅籠の女中をしていたおきちと同棲し、女の子を産ませたが、盗みのために置き去りして出てきたなどと、自分勝手ななことを打ち明けた。
それに対する房五郎の感想は書かれていない。

生地:〔戸田〕という通り名(呼び名ともいう)、〔神崎〕一味のかせぎ場所が関東一円ということから、中山道の板橋宿の先、戸田村の出ときめこんでいた。
ところが、このブログで〔神崎〕配下の〔不入斗(いりやまず)〕のお信(のぶ 30歳=自首時)という女賊(おんなぞく)を設定するときに『旧高旧領』をあたったら、神崎を(かんざき)と読むのは、関東では上総(かずさ)国市原郡の神崎村だけとわかった。
不入斗(いりやまず)〕という奇妙な名の村はあちこちにあったが、伊之松の関連で市原郡の不入斗村に決めた。

_10_2

お信の女賊時代にめんどうをみ、情も通じた若い者頭(がしら)の〔戸田〕の房五郎も上総で調べたら、市原郡と武射郡(むしゃこおり)に村名があり、長谷川家の知行地の一つ・寺崎村から3k,mと離れていない武射郡のほうの戸田にした(現・千葉県山武町戸田)

Ac_360
(赤○=長谷川家知行地 下=片貝 上=寺崎 緑○=戸田
江戸時代に最も近い明治20年制作 参謀本部)
A_250_2

年齢:^平蔵が29歳で父について京都にいたときに、大多喜城下で伊之松とともに捕まり、処刑されたときが42歳ということで、お信とは10歳の開きがあった。
妻子をなにかで失ったとみる。
それがもとで盗賊になったか。

しかし、お信は30歳のときに、伊之松の正体を知り、翻意をうながす房五郎をふりきって自首している。
2人のあいだにも、深刻に問題が生じていたのであろう。

| | コメント (2)

2010.09.09

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(9)

潮が引くのを躰中でたしかめるように裸のままお(のぶ 36歳)は、手を平蔵(へいぞう 32歳)の太腿にあずけたまま、じっと仰向けで動かない。

締めきった部屋には、情事のにおいが満ち、春宵のなまあたたかい大気とまざりあっている。

横向きになり、平蔵の耳もとでささやいた。
「〔戸田とだ)〕の房五郎(ふさごろう 42歳=処刑時)さんのこと、気になさっていたでしょう?」
「いまは、逝った男のことより、自分のことをかんがえろ」
「〔犬成(いんなり)〕の伍平(ごへい 37歳)さんのことですか? それより、房五郎さんとのことをお話ししておかないと---」

の尻丘をぴしゃりと叩き、
「現役(つとめにん)時代のおがなにをしていようと、おれにはかかわりのないことだ。〔笹子ささご)〕の長兵衛(ちょうべえ 60がらみ)というのは、どういう盗人(つとめにん)なのだ?」
「訊いて、どうなさるおつもりですか?」
「おれは、盗賊改メではない。ただ、おへの火の粉を案じているだけだ」
「うれしゅうございます」
顔を寄せ、頬に唇をあてた。

そっと押しもどして身をおこし、衣服をつけながら、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 52歳)に相談をかけることを思案した。

「お腹立ちですか?」
「そうではない」
「〔笹子〕のお頭は、盗み(つとめ)の3ヶ条をきちんとお守りになる方です」
「それと、これとは別のことだ。案じるな。あすの晩には、決まった話をもってくる。明日も、じかにここへくる」


翌(あく)る晩---。
平蔵がもってきた2つの案から、おに選ばせた。

ひとつは、京都の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛(かくべえ 47歳)にかくまってもらう案。

参照】2009822~[左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] () (

「お会いできなくなります。いやです」

もうひとつの案。
尼になる。有髪のままでよい。まねごとに経は読むが、色事は禁じられない。
「尼寺の仏さまの前で、長谷川さまと睦むのでございますか。おもしろそう」
「ばか。出会茶屋で会うのだ」

平蔵は一瞬、貞妙尼(じょみょうに)の庵所での睦みをおもいだした。
(おれも、どうかしている。鎌倉の尼寺へ入るまえの阿記(あき 21歳=入山時)をおもいうかべないとな)

参照】2000年10月13日{誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに)} (
2008年2月4日[与詩(よし)を迎えに] (41

2年も尼寺に潜んでいれば、〔犬成〕の伍平もあきらめるであろう。
「2年---38のお婆ぁちゃんになってしまいます」
「なにをいう。美人は齢をとらない」
「うれしからせてくださいます。でも、ほんとうに、色事は自由なのでございますね?」
「駄目な話を、〔音羽〕の元締がするわけがない」

が尼寺へこもっている間の茶店〔小浪(こなみ)〕は、火盗改メの高遠(たすとう)与力の了解をとれば、今戸の〔銀波楼}の女将・小浪(こなみ 38歳)がみてくれよう。

框(かや)寺裏の家も、小浪が面倒をみてくれることになった。

こんどのことで平蔵が肝に銘じたのは、幕臣として盗人(つとめにん)と識りあうことは、その者の命を預かることだから、その覚悟でつきあうこと---であった。


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (2)

2010.09.08

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(8)

「〔戸田とだ)〕の房五郎(ふさごろう)さんも、〔神崎かんざき)〕のお頭と処刑されたんですね。南無阿弥陀仏」
平蔵(へいぞう 32歳)に手わたされた書状をあらためながら、お(のぶ 36歳)が眉根をよせた。

大多喜藩の町奉行所の鎌田与力からの書状であった。
木更津の旅籠〔矢那屋〕の番頭から、3年前に〔神崎〕の伊之松(いのまつ 52歳=処刑年)一味が大喜多藩の刑場で獄門になったとしらされた。

翌(あく)る日、6年前にしりあった大多喜・久保町で呉服と小間物の店〔大原屋〕茂兵衛をとおして鎌田与力に処刑された者たちの通り名(呼び名ともいう)と人別の名を教えてほしいと、木更津で仕立て飛脚をたておいた。

その返書が、南本所の長谷川屋敷へとどいたのである。

神崎〕の伊之松、若い者頭〔戸田〕の房五郎(42歳=処刑年)のほかに、
祇園(ぎおん)〕の清ニ郎(せいじろう 41歳=同上)
葛間(くずま)の重三(しげぞう 32歳=同上)
烏田(からすだ)の四兵衛(よへえ 38歳=同上)

は、じっと〔戸田〕の房五郎の文字に視線をおとし、その双眸(りょうめ)は潤(うる)んでいた。
(逝った者を妬(や)いてどうする---?)

清二郎という配下の〔祇園〕という呼び名は、京都の祇園あたりから流れてきた男か?」
「いいえ。京から上総(かずさ)へ勧請し、牛頭(ごず すさのう)天王を祀っている村の出身と自慢してました」

さりげなく巻紙をとりあげ、
「洩れている者はいないか?」
平蔵の凝視にはっと気づくと、とってつけたようにとりつくろい、
「〔(かわず)〕の長助さんは、私より4年も前に退(ひ)き金(がね)を貰いなさっていたから---そうです、〔犬成(いんなり)〕の伍平(ごへえ 37歳)さんの名がありません」

変装が巧みなので、連絡(つなぎ)役として、よく、〔笹子(ささご)〕の長兵衛(ちょうべえ 60がらみ)のところへ借りりられていたから、その時もそうだったのかもしれない、と首をかしげた。

{〔笹子〕の長兵衛というと---?」
「お姿を見たことはないのですが、木更津湊から山側へ1里半(6km)ほど行ったところにある村の名です。犬成はその手前の村ですから、〔神崎〕のお頭が処刑されたあとは、〔笹子〕一味に加わったのかもしれません」

ちゅうすけ注】聖典巻11[密告]のヒロイン---〔珊瑚玉さんごだま)〕のお(ひゃく 41歳=[密告]当時)が再婚した〔笹子〕の長兵衛がその仁。
笹子村から木更津湊へ出、ふだんは旅籠〔笹子屋〕の主人としてふるまっていた。
の連れ子の紋蔵もんぞう 26歳=[密告]当時)に盗みを仕込んだが、紋蔵は、義父ゆずりの三ヶ条の掟てを守らなかった。

A_360
(赤○=木更津 青○=笹子 緑○=犬成 明治20年製)

A_200

「今宵は、布団を敷くのがゆっくりだな」
盃を伏せると、
「すぐに---5日ぶりですもの」

しかし、おは燃えなかった。
指先で誘(いざな)っても、乳頭を甘く噛んでやっても、なにかをかんがえこんでいた。
腕をとって背中へ置いても、いつもとちがい、力がまるで入らなかった。

「やはり、〔犬成〕の伍平が気になるとみえるな?」
「申しわけありません。つい---」
「〔不入斗(いりやまず)〕のおが、不入(いれず)村へ奉公にでも行ったか?」
「市原郡(いちはらこおり)の村は、不入(ふにゅう)と読みます」
「どのように読んでも、意味はおなじだ」
「あんな山の向こうになんか、行くわけ、ありませんッ!」
叫ぶなり、平蔵のものをつかむと、あてがった。

_360
(湖竜斉 イメージ)


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2010.09.07

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(7)

「〔戸田とだ)〕の---なんとか---」
房吉とか、房五郎とか、だ。江戸へ帰ったら、たしかめてみよう」
実りのなかった松造(まつぞう 26歳)だが、平蔵(へいぞう 31歳)はかまわず注いでやった。

「聞き込み先で、けっこう呑まされましたから---」
それでも、平蔵が徳利を傾けると、ちゃんとうけた。

今宵、湊の呑み屋の老女将と交わしたあれこれは、尾ひれがついて3日のうちに〔神崎かんざき)〕一味の耳に入っていよう。
(お(のぶ 36歳)の働き場所は市ヶ谷八幡社の下とごまかしておいたが、ひと月もあれば、御厩河岸の茶店〔小浪(こなみ)〕にたどりつくだろう。帰ったら、さっそくに対策を講じないといけないな)

「これほど生きのいい刺身は、とてもじゃないが、江戸では口にできません。ひと切れでいいから、お(つう 10歳)と善太(ぜんた 8歳)に食わせてやりたいものです」
「いつか、連れてきてやればいい。もっとも、木更津くんだりまで、わざわざ来なくとも、深川の東の砂村あたりの海辺の料理屋でも出してくれよう」
「さようでございました。こんど、連れてってやります」

新しい銚子をさげた番頭が遠慮がちに顔をだした。
「さきほどのご知行地の寺崎に近い戸田村のことでございますが---」
「おお。先刻はお世話になった。でなにか---?」

番頭が酌をおえてから話したことをかいつまんで書くと、6年前に平蔵が宿泊したとき、連れの役人が火盗改メだったのをおもいだし、ひょっとしたら、3年前に大多喜城下で処刑された〔戸田〕の房五郎にかかわりがありそうと気がついた。
それで、まわりの者たちにそのことをたしかめてみたが、3年前に大多喜城下で捕まり、処刑された〔神崎(かんざき)〕の伊之松(いのまつ 44歳)一味の中に、〔戸田〕の房五郎という若い者頭の名もあったと断ずることができた。

「城下の商店通りの久保町の小間物屋を襲い、でてきたところを、夜廻りの火の番に見つかり、「火事だ、火事だ」と騒がれ、町内の力自慢の男たちに叩きふせられたらしい。

久保町という町名で、平蔵は6年前に顔をあわせた呉服商〔大原屋〕茂兵衛をおもいだしていた。
茂兵衛は、あのとき44,5歳に見えたから、いまは50歳を越えていよう。
苦労人とは見えない風格をただよわせていた。
呉服のほかに小間物もあつかっているといっていたが、襲われたのが〔大原屋〕でなければいいが---。

参照】2009年5月24日~[真浦(もうら)の伝兵衛] () () (

「番頭どの。その処刑の顛末をもっとくわしく存じている人というと---」
「さて、7里も東へ離れた大多喜城下のことでございまいすから---湊の船持ち衆のところには、大多喜藩では食えなくなり、荷役の者として流れてきているのが結構おりましょう。明日にでも、そちらでおたしかめになってはいかがでございましょう?」


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (2)

2010.09.06

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(6)

楓川の北端---木更津河岸から往還船に乗りこんだ。

供は6年前と同じ松造(まつぞう 26歳)だが、このたぴは役務ではない。

参照】2009年5月21日~[真浦(もうら)の伝兵衛] () () (

現地での探索をはかどらすよう、火盗改メ・土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)のところの筆頭与力・高遠(たかとう)(専九郎 46歳)に船番所への手くばりをしてもらおうと思ったが、事情(こと)が〔神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ 40代半ば)に洩れたら、かえってお(のぶ 36歳)の命があぶないとさとり、連絡(つなぎ)をつけないことに決めた。

旅費が少ないのが気になった。
高崎藩邸から旅の前にとどいた10両(160万円)と、土屋組からの旅費の残金などに、[化粧(けわい)読みうり]の板元・〔箱根屋〕の権七(ごしち 45歳)が律儀にとどけてきた板行元の分け前12両(192万円)をたして25両(400万円)にし、紀州・貴志村で両親を介護している里貴(りき 33歳)に、薬代のたしにと飛脚便で送ってしまっていたのである。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () (

返信は、深川・黒船橋北詰の〔箱根屋〕気付でいいとも指定した。
(どうせ、添えないなのだから、未練たらしく思われなければいいが。それと、こころの重荷に感じないでほしい。天から降ってきたというような金子なのだ)

海上は2刻半(5時間)たらずであった。
港からさして離れていない、6年前の愛染院脇の旅籠〔矢那屋〕に落ちついた。
番頭も女中たちも、主従の顔をおぼえており、
「お役人さまは、このたびはご一緒ではございませんので---?」
興味津々の目つきであった。

「上総(かずさ)に戸田という村があるかな?」
むだとおもいつつ訊くと、意外な答えが返ってきた。
「ここから内陸へはいった武射郡(むしゃこおり)に戸田村というのがございます」
「わが家の知行地のひとつが、武射郡の寺崎だが--」

参照】2006年5月21日[家風を受けつぐ] 
2007年6月27日[田中城しのぶ草] (
2010年4月8日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (

「寺崎から山あいを、小1里(3km)も北へ行ったところでございます」

平蔵は、荒川の戸田の渡しの「戸田」とばかりをおもっていたのである。
(寺崎村の太作(たさく 70歳近い)爺ィやを訪ねたほうがよかったかもな)

Ac_360_2
(赤○=長谷川家知行地 上=寺崎 下=片貝 緑○=戸田
江戸時代に最も近い明治20年制作 参謀本部)

A_250

着津(ちゃくしん)時にあたりをつけておいた呑み屋へ、夕刻はやばやと出向いた。
松造とは、別々の店をえらんだ。
そのほうが、噂がひろいやすいと感じたからである。

2軒目で手ごたえがあった。
「市ヶ谷八幡社の下で茶店k茶汲みおんなが、木更津へ行くのであれば、この店で呑むといいとすすめてくれたのでね」
さっきの店と同じことを切りだしてみた。

「なんという娘(こ)ですか?」
「お(のぶ)とかいっていたかな」
(のぶ)ちんだわ。10年よりもっと前の話ですよ」
50に近いのに厚化粧して髪を黒々と染めた女将が、なつかし顔で話した。

客にきた40男と気があったらしく、辞めていったが、35歳を過ぎても茶汲みをやってるようでは、あの男に捨てられたんだ、とくやしがった。

「捨てられたとはかぎるまい。肌も光沢(つや)つやしていた」
「うちの店を辞めて、幸せでいられるはずはありませんよ」
断言した。

「その男というのは---?」
「なんでも、市原郡(いちはらこおり)のどこやらの出で、ちんも近くの不入斗(いりやまず)村の生まれだというので、気があったみたいでした---」
「女将さんは、どこの---?」
「生まれですか? 不入斗からちょっと北の戸田村です」
「えっ?」
「そういえば、ちんを口説いた男の連れだった中年は、〔戸田(とだ)〕の房吉だか房五郎とか呼ばれていましたが、その男の戸田は、あたしとはちがう、武射郡の戸田村といってましたなあ」

「おさんを攫(さら)っていった男は、神崎村の生まれと称していなかったかな」
「思いだした。あたしの戸田村から2里(8km)ほど山のほうへ入った、神崎村といってました」
(符合している。おはつくり話はしていない。)

参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (2)

2010.09.05

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(5)

その日、平蔵(へいぞう 32歳)は、七ッ半(午後5時)の渡し舟で対岸の御厩河岸へ渡った。

舟着き場の向いの茶店〔小浪(こなみ)〕へ寄り、迎えた女将・お(のぶ 36歳)へ、
「あとで、じかに框(かや)寺裏へ行く」
耳元へささやくと、ついと蔵前通りのほうへ歩み去った。

それからのおは胸さわぎがおき、立ち居がぎこちなくなってしまった。
店の小女に、
「女将さん、その茶碗は洗い終わって水気をきっているところです」
とか、
「あちらのお客さまのお茶代はいつも付けで、節季払いのお約束です」
注意されたりした。

いっぽうの平蔵も、不可思議な行動におよんでいた。
しばらくして、茶店〔小浪〕の斜向(はすむか)いの料亭〔片倉屋〕を訪ね、かねて顔見知りの女将になにごとかささやき、玄関脇の小部屋に入れてもらい、〔小浪〕を見張りはじめたではないか。

とくに念入りになったのは、おが店じまいし、板戸を立てて戸締まりをするあたりからであった。
框寺裏へ帰っていくおを尾行(つ)けている者がいないか、たしかめていたのである。

が蔵前通りを渡りきったのをみきわめると、〔片倉屋〕へ頼んでおいた折詰めを手に、ゆっくりと正覚寺(框寺)門前町へ足をはこんだ。

いつものとおりの酒盛りとなったが、肴は、〔片倉屋〕の折詰めから皿へ移した、大鯛と平目の刺身、白魚の佃煮、田にしの酢味噌---、
「お酒がすすみます」
がはしゃくほど豪華さ。

「どこでご調達なさいましたの? このあと、留守番の婆ぁやがたいへん」
「薬研堀の〔草加屋〕が顔なじみでな」

参照】2010年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂 ] () () () () 

_160の酔いは深く、ようやくに果てた。
「ちょっと、訊いていいか?」
「うれしいお話ですかぁ?」
「そうなるかどうかは、おの応え一つだ」

女賊〔不入斗(いりやまず)〕のお(30歳=当時)が足を洗うと告げると、首領・〔神崎かんざき〕の伊之松(いよまつ 40代半ば=当時)は、気前よく30両(480万円)もの引退金(ひきがね)代わりの餞別をくれたというが、ほかに誓わされたことはなかったか? と訊いた。

参照】2009年6月25日[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] (

上に乗ってきたおは、内股をすりつけ、
「一味のことは、どんなことがあっても洩らしてはならぬ---と、念を押されました。長谷川さまもお訊きにならないし、洩らしてはおりませんでしょ」

平蔵が案じたのもそのことであった。
高崎での〔舟影(ふなかげ)〕一味との取引きの噂が伊之松の耳に入れば、平蔵と寝ているおが危ない。

参照】2010年8月31日[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (

2人のあいだがらは、あくまでも秘密にしておかないとならない。
しかし、うれしがっているおの口から、どう洩れるかもしれない。
いや、すでに、おは見張られていると見ておいたほうがよかろう。

の肉づきのいい尻丘をなぜてから、割れ目にそって下へ。
秘唇をひろげながら中指をすべらせた。
「私、入れやまずのお---」
「わかっておる。伊之松と出会ったのは、木更津(きさらづ)の居酒屋であったと言っておったな」
「応えたら、入れやまず、してくださいますか?」
「よし---」
「湊の居酒屋」
「小頭は?」
「〔戸田(とだ)のふさ---さん〕
「ふさ---なんというのだ?」
平蔵の腹の上で軽いいびきをかいていた。

そっと降ろして仰向けに横たえ、寝衣の前をあわせてやり、耳もとで、
「木更津へ行ってくる」


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (2)

2010.09.04

小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(4)

それから数日後、平蔵(へいぞう 32歳)は、茶店〔小浪(こなみ)]のお(のぶ 36歳)を訪ねた。
輝やくほどの笑顔で、迎えられた。

奥の3畳ほどの小座敷へみちびかれた。
かつて、〔木賊(とくさ)〕の林造(りんぞいう 享年62歳)の生前に、今助(いますけ  22歳)と小浪(こなみ 30歳)が密会をつづけていた区画だ。

参照】2008年12月21日[銕三郎、一番勝負] (

「もうすこし自重しないと、店の者に察(ば)れるぞ」
茶を運んできたおに小言で叱った。
それがまた、おにとっては、うれしいらしい。
「はい。気をつけます」
ばか丁寧に頭をさげてみせた。

暮れ六ッ(午後6時)近いので、客はいない。
「お喜美(きみ)ちゃん。お店をしまう用意をしなさい」

はやばやと框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)裏のおの家で、酒となった。

肴は、分葱(わけぎ)の酢味噌、人参と牛蒡と蓮根の煮しめが膳にのった、
あいかわらず、おの酒がすすむ。

平蔵が懐から〔荒神(こうじん)の助太郎(すけたろう 60歳近い)とお賀茂(かも 40歳)の例の人相絵をひろげ、
「密偵(いぬ)になれというのではない。店や舟着きで見かけたら、どっちへ向かって歩いたかだけ覚えておいてほしい」
箱根の山抜けで、親しい〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 45歳)が職を失った顛末を手みじかに話した。

参照】2008年3月23日[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (

「それから、これは一度きりだと思ってほしい。笄(こうがい)でも買うといい」
高崎での功績でもらった賞金のうちからの1両(16万円)を包んだものを手わたした。
押しいただき、
長谷川さまから、お足をいただこうとはおもってはいませんが、お言葉に甘え、いつも髪につけさせていただきます」

お礼もそこそこに、布団をとった。
「おも、好きだなあ」
「6ヶ年分をとりもどすのです---」
「6年前には、そんな気配は見せなかったぞ」
「こんなふうに、実のこれが入ってくださるとは、おもわなかったのですもの」

参照】2009年6月25日[〔神崎(かんざき)の伊之松] () () (

ことが終わり、おがつぶやいた。
「恥ずかしいこと、お願いしてもよろしいでしょうか?」
「おれにできることであれば--」
「長谷川さまにしかできませんし、お願いしません」
「それなれば---」

願いとは、〔不入斗(いりやまず)〕のおと呼ばれていたころ、盗人(つとめにん)仲間の男衆が話してしいるのを小耳にはさんだことだが、男は、秘部をしっかりと見たおんなのことは一生忘れないと。
しかし、これまで、そんな恥ずかしいことを許したことはない。
処女(おとめ)のあかしを摘んだ庄屋の息子もそのことを求め、拒んだために捨てられたともいえた。

長谷川さまには見ていただき、覚えておいていただきたいのです」
「初めて聞くことたが、おが望むなら、弁天さまを拝ませてもらおう」

平蔵に凝視されているとおもうだけで、おの躰中の血が沸きかえった。
2本指で秘唇が開かれたかすかな音を耳にした瞬間こは、腰が浮きあがった。
中指がそっと入り、上壁にふれたときにはふるえがきた。

_360
(国芳 イメージ)

「なにか、おっしゃってください。もう---」

「入れやまずのお
「入れて---きて---」


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (


| | コメント (4)

2010.09.03

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(3)

「私にも、お酌していただけますか?」
「これは、気が利かなかった。許せ」
「いちいち、お詫びになることはございません。ああ、おいしい」

近所の老婦の手になる小芋の煮っころがし、それに胡桃(くるみ)と葱をきざみこんだの炒り豆腐が肴であった。

(のぶ 36歳)はいける口らしく、平蔵(へいぞう 32歳)が高崎での〔船影ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 30代半ば)との取引きの経緯を話しおわるころには、手酌になっていた。

長谷川さまと、こうして差しで飲みあえるなんて、夢のようです。6ヶ年のあいだ、この日を夢に見ていました」
「酔ったらしいな。いうことが大仰になってきたぞ」
「酔ってはいません。いえ、酔わないでは申しあげられないこころのうちのことです」

前の膳を片寄せ、緋色の布団をのべた。
とうぜんながら、お(りょう 享年33歳)のときのとは色も柄も違っていた。

_250「身分が違いすぎますから、まさか、夢がかなうとはおもってもいませんでした。お脱ぎになって、お入りになりくませんか? 寝ながら語りあいましょう」
が先に脱ぎ始めた。

平蔵も、いわれるままに、脱ぐしかなかった。
脱がなければ、ここまで決意しているおに恥をかかすことになるとおもった。
「泊まることはできないぞ」
「いちどだけ、抱いていただくだけでいいのです」

向いあった。
平蔵がなにかいいかけると、唇でふさがれた。
お互い、股を指がまさぐりはじめた。

乳房から口をはなし、
「お。肌が光沢(つや)やかになったのは---?」
「盗人(つとめにん)だったころは、獄門にかけられる夢ばかりみていて、おちおち眠っていられませんでした」
「な.るほど。盗(つとめ)みとはそういうものか」
「あ。そこ、もっとおつづげになって---。長谷川さまのお蔭で、〔小浪〕をやるようになってからは、安心してよく眠れるのです。それに[化粧(けわい)読みうり]に載っていた肌を美しくする粉を、ここ3ヶ年、ずっと肌にすりこんでおります」
「ふふ。[化粧(けわい)読みうり]、のう---」
「化粧のことだけでなく、寝所での所作も書いてあると、もっと売れましょう」

長谷川さまは、不思議なお人です」
「なに?」
「私の男のことをお訊きになりません」
「いるのか?」
「いいえ、この6ヶ年は---」
「いてもいなくても、おれには、かかわりないこと。ここでこうしていることが、なにより大切」
「吉事---お待ちしていた甲斐がありました」

果て、仰向き、互いに手をあてがってじゃれあった。
「つぎも、抱いてくださいますか?」


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (0)

2010.09.02

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)(2)

いっときより日は長くなりつつはあるが、暮れ六ッ(午後6時)まで1刻(とき 2時間)近くもあった。
どこで時間をつぶすか、蔵前通りから神田川にかかっている浅草橋をわたり、両国橋西詰の広小路へ出てしまった。

あいかわらずの人出であった。
耳より〕の紋次(もんじ 34歳でも呼び出してお茶でも---と考えたところで、お(いく 31歳)とかいった美形の女将がやっている並び茶屋の前にきてしまった。

参照】2010年7月15日[〔世古本陣〕のお賀茂] (

女将のほうが平蔵(へいぞう 32歳)を認めた。
「いつぞやはどうも。お立ち寄りくださいませ」
声につられて、ふらふらと腰をおろしていた。
(長い非番に馴れていないからだ。たかが2ヶ年出仕がつづいただけで、このざまとは---)

「去年の初夏の、日光さまへのお行列、みごとでございましたね」
「うむ」
「お武家さまは、いらっしゃらなかったのでした」
「そうだ」
「もしや---と、お探ししたのでございますよ」
「骨折り損をさせたな」
「いいえ。お忘れにならないで、こうして、いらっしゃってくださったのですもの」
(同様な台詞(せりふ)を2度も耳にした。茶店の30おんなに流行っているのかな)

「きょうは、お城はお休みでございますか?」
「きょうだけではなく、ずっと休みなんだ。食わしてくれるか?」
「ご冗談ばっかり。ご浪人さんが、そんなにきちんとした服装(なり)をなさっているはずはありません」
「やはり、見る目がちがうな」
「ほんとうに長いお休みなら、うちで寝食をなさいますか?」
「本気にしていいのかな?」
「本気だと申しあげたら、どうなさいます?」
「子が3人いるぞ」
「ちょうど、4人ほどほしいとおもっていました。この齢で4人も産むのは無理。でも、1人ならなんとか---」
「本気になりそうだ」
「私は、本気でございますよ」

手を平蔵の袴にあててゆすった。

「そう、簡単に本気になってはいかぬ」
紋次さんからすすめていただきます」
「おいおい---」

客商売用のざれ言葉とわかってはいても、紋次の名がでた分、あとが面倒だ。
ざれごとから本気になった例も少なくはない。

平蔵は、1朱(1万円)ほどを置いて退散したが、内心では、あれほどの美形の女将の食客になるのも悪くはないと、とんでもないおもいを反芻し、
(32歳にもなって、つまらない空想を楽しむでない)
自分を叱りつけた。

御厩河岸へ向うと、左手はるか遠くの本郷台地の空が夕焼けで橙色から深紅に染まっていくのが望めた。
(桜花も近いな。せっかくの休み中、子どもたちといっしょの花見も悪くない)

茶店〔小浪(こなみ)〕は、お(のぶ 36歳)が独りで板戸を立てまわしていた。
横から見だと、腰まわりには齢なりの肉がついているのが目にとまった。
雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕に女中として預けたをお(なか 34歳=当時)の裸体の豊かな肉置(ししお)きをおもいだした。

「ご覧になっていないで、あと2枚ですから、助(す)けてくださいな」
の言葉づかいすがなれなれしいのに変わっていたのが気になったが、刀を腰からぬき、腰掛けの毛氈の上に置き、最後の1枚を2人ではめた。

くぐり戸から中へ入ると真暗であった。
馴れているお平蔵の手をとり、腰を支えて腰掛けまでみちびき、肩に両手をかけて座らせ、そのひざに腰をおとし、口を吸った。
平蔵の手が背中へまわると、しばらく舌でたわむれてから、
「ずっと、こうしてみたかったのです。ごめんなさい。いま、灯をつけます」

火鉢から付け木へ移した炎で蝋燭をともした。
の大きな影が壁に映った。

「夕餉(ゆうげ)は、どこか外で摂りますか、それとも私の家で?」
「おどのの家へ随(つ)いていっても差し支えはないのか?」
「差し支えがあるなど、とどうしてお勘ぐりになったのですか?」
「なんとなく---許せ」

蝋燭を提灯に立て、くぐり戸の戸締まりをした。
「どこに住んでいるのだ?」
「すぐ、そこ。店はお役所のものてすから、住いのほうは私が小浪さんから買ったのです」

蔵前通りを横切り、框(かや)寺(現・台東区蔵前3丁目22)裏---あの仕舞(しもう)た家であった。
(りょう 享年33歳)と睦んだことがあった。

参照】2009年1月1日~[明和6年(1769)の銕三郎] (1) () () (

しかし、いまさら、ほかにしようとはいいだしにくかった。

部屋の雰囲気は、すっかり変わっていた。
には、部屋を整える才能があるらしかった。


参照】2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (2)

2010.09.01

〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)

「ご老職・右京太夫さまから、ご苦労であったとのお言葉とともに、ご褒美をあずかった」
番頭・水谷出羽守勝久かつひさ 55歳 3500石)に呼ばれ、金包みをわたされた。

右京太夫とは、高崎藩主の松平輝高(てるたか 53歳 7万2000石)である。
輝高の老職在任中は、〔船影ふなかげ)〕ー味が城下の商家へ押し入ることはないとの約定ができたことを賞しての、金一封(5両 80万円)であった。

船影〕が襲わなくても、他の盗賊が押しこむこともあるではないか、それでは、絹市に集まる絹商人たちの安全にはつながらないとおもうのは素人考えである。
盗賊界の情報網は、おもっている以上に緻密で、速い。

船影〕の証(あか)しである宝船の雛形づくり名工・佐次郎が質(しち)にとられていること、平蔵(へいぞう 32歳)がいつでものりだしてくることが首領たちに伝わっていた。
高崎城下で仕事(つとめ)をしたことがわかれば、〔船影〕はもちろん、盗賊首領たちが語らいあい、その盗賊を生かしてはおかない。

それに、香具師(やし)の元締・〔九蔵屋(くぞうや)〕の九蔵一家も目を光らせていた。
九蔵は、絹市に集まる絹仲買人たちを博打に誘う博徒とも、裏でつながっていた。

「ついては、番頭であるわれからの賞は、1ヶ月は高崎から帰府するにおよばず---であるが、どうじゃ?」
隣の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟かつたけ 57歳 800俵)が、自分の息のことのように、莞爾とうなずいた。

(せめて、1ヶ月半くれれば、紀州の貴志村へ行ってこれるものを---)

「なんじゃ、不足げな---?」
「とんでもございませぬ。ありがたくお受けいたします」

火盗改メ・土屋帯刀守直もりなお 44歳 1000石)も、老中から礼辞があったのであろう、褒美として3両(54万円)包んできた。

1ヶ月の休暇をどう使おうか、旅費にはこと欠かない---駿州・小川(こがわ)の先祖の墓参りをかね、遠州・三方ヶ原で戦死した祖・紀伊守正長(まさなが 享年37歳)が討ち死にした古戦場でも訪ねてみるか、それとも、上総の知行地・寺崎で竹節(ちくせつ)人参を栽培している太作(たさく 70歳近い)の顔でも見てくるか。

そんなことを思案しながら御厩の渡しからの三好町で、かつての女賊〔不入斗(いりやまず)〕のお(のぶ 36歳)が女将におさまっている茶店〔小浪(こなみ)〕に立ち寄った。

「あら。長谷川さま。お久しゅうございます」
「見違えたぞ、肌が光っておる。いい男(の)ができたとみえる」
「ほっほほほ。おんなは、いくつになっも、綺麗になったという言葉にころりとまいります」

Ac_360_3
(上総 下の緑○=不入斗 右青○=神崎 左青○=五井)

A_240_2


ひとわたり、客が出ていったところで、新しい茶を卓において向いに腰をおろしたおが、
「お城のほうは、お休みでございますか? 6年越しのお見限りでございます」
「そんなになるか?」

参照】2009年6月25日~[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] () () () (

この茶店は、火盗改メの隠れ蓑として、亡父・宣雄)(のぶお 享年55歳)が購入し、代々の本役(ほんやく)に引き継がれてきた。

安倍兵部信盈(のぶみつ 2000石
 先手・鉄砲の8番手組頭)

赤井越前守忠晶ただあきら 1400石
 先手・弓の2番手組頭)

そして、いまの土屋帯刀守直につながっているが、そのあいだ、どの組からも〔小浪〕のことは耳に入ってこなかった。
(---ということは、おは密偵になっていないのであろう。無料で使わせてもらっているわけはないから、家賃を払っているのかもしれない)

「6年ものあいだ、無音でいたこと、許せ」
「上州の空っ風の吹きまわしか、春一番か、こうして、お顔をお見せくださったのですから、許してさしあげます」
「上州でのこと、もう耳に入ったのか?」
「上州が、どうかいたしましたか?」
「なんだ、知っていたわけではなかったのか」

客が入ってきたので、会話がとぎれた。

すぐに寄ってき、
「申しわけごさざいません。お店の子が春風邪で休んでしまいまして---」
そうこうしているうちに渡し舟が着き、また客があった。

立つに立てず、ぼんやり、大川の船の往来を眺めていると、新しい茶を前に置き、また向いに腰をおろした。
「上州で、なにがございましたの?」
「〔船影〕の忠兵衛という盗人(つとめにん)をしっておるか?」
「〔船影〕の忠治(ちゅうじ)お頭(かしら)なら、お名前だけは---」
忠兵衛はそれの2代目だ」
「おもしろそうなお話ですこと。暮れ六ッ(午後6時)の仕舞い舟でお店を閉めます。そのころ、もう一度、いらっしゃって話してくださいますか?」

参照】2010年6月11日~[安永6年(1777)の平蔵] () () (
2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () () (

2010年9月1日~[〔小浪(ひなみ)〕のお信] () () () () () () () (

| | コメント (4)

« 2010年8月 | トップページ | 2010年10月 »