〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)
「ご老職・右京太夫さまから、ご苦労であったとのお言葉とともに、ご褒美をあずかった」
番頭・水谷出羽守勝久(かつひさ 55歳 3500石)に呼ばれ、金包みをわたされた。
右京太夫とは、高崎藩主の松平輝高(てるたか 53歳 7万2000石)である。
輝高の老職在任中は、〔船影(ふなかげ)〕ー味が城下の商家へ押し入ることはないとの約定ができたことを賞しての、金一封(5両 80万円)であった。
〔船影〕が襲わなくても、他の盗賊が押しこむこともあるではないか、それでは、絹市に集まる絹商人たちの安全にはつながらないとおもうのは素人考えである。
盗賊界の情報網は、おもっている以上に緻密で、速い。
〔船影〕の証(あか)しである宝船の雛形づくり名工・佐次郎が質(しち)にとられていること、平蔵(へいぞう 32歳)がいつでものりだしてくることが首領たちに伝わっていた。
高崎城下で仕事(つとめ)をしたことがわかれば、〔船影〕はもちろん、盗賊首領たちが語らいあい、その盗賊を生かしてはおかない。
それに、香具師(やし)の元締・〔九蔵屋(くぞうや)〕の九蔵一家も目を光らせていた。
九蔵は、絹市に集まる絹仲買人たちを博打に誘う博徒とも、裏でつながっていた。
「ついては、番頭であるわれからの賞は、1ヶ月は高崎から帰府するにおよばず---であるが、どうじゃ?」
隣の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)が、自分の息のことのように、莞爾とうなずいた。
(せめて、1ヶ月半くれれば、紀州の貴志村へ行ってこれるものを---)
「なんじゃ、不足げな---?」
「とんでもございませぬ。ありがたくお受けいたします」
火盗改メ・土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)も、老中から礼辞があったのであろう、褒美として3両(54万円)包んできた。
1ヶ月の休暇をどう使おうか、旅費にはこと欠かない---駿州・小川(こがわ)の先祖の墓参りをかね、遠州・三方ヶ原で戦死した祖・紀伊守正長(まさなが 享年37歳)が討ち死にした古戦場でも訪ねてみるか、それとも、上総の知行地・寺崎で竹節(ちくせつ)人参を栽培している太作(たさく 70歳近い)の顔でも見てくるか。
そんなことを思案しながら御厩の渡しからの三好町で、かつての女賊〔不入斗(いりやまず)〕のお信(のぶ 36歳)が女将におさまっている茶店〔小浪(こなみ)〕に立ち寄った。
「あら。長谷川さま。お久しゅうございます」
「見違えたぞ、肌が光っておる。いい男(の)ができたとみえる」
「ほっほほほ。おんなは、いくつになっも、綺麗になったという言葉にころりとまいります」
(上総 下の緑○=不入斗 右青○=神崎 左青○=五井)
ひとわたり、客が出ていったところで、新しい茶を卓において向いに腰をおろしたお信が、
「お城のほうは、お休みでございますか? 6年越しのお見限りでございます」
「そんなになるか?」
【参照】2009年6月25日~[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] (1) (2) (3) (4)
この茶店は、火盗改メの隠れ蓑として、亡父・宣雄)(のぶお 享年55歳)が購入し、代々の本役(ほんやく)に引き継がれてきた。
安倍兵部信盈(のぶみつ 2000石
先手・鉄砲の8番手組頭)
赤井越前守忠晶(ただあきら 1400石
先手・弓の2番手組頭)
そして、いまの土屋帯刀守直につながっているが、そのあいだ、どの組からも〔小浪〕のことは耳に入ってこなかった。
(---ということは、お信は密偵になっていないのであろう。無料で使わせてもらっているわけはないから、家賃を払っているのかもしれない)
「6年ものあいだ、無音でいたこと、許せ」
「上州の空っ風の吹きまわしか、春一番か、こうして、お顔をお見せくださったのですから、許してさしあげます」
「上州でのこと、もう耳に入ったのか?」
「上州が、どうかいたしましたか?」
「なんだ、知っていたわけではなかったのか」
客が入ってきたので、会話がとぎれた。
すぐに寄ってき、
「申しわけごさざいません。お店の子が春風邪で休んでしまいまして---」
そうこうしているうちに渡し舟が着き、また客があった。
立つに立てず、ぼんやり、大川の船の往来を眺めていると、新しい茶を前に置き、また向いに腰をおろした。
「上州で、なにがございましたの?」
「〔船影〕の忠兵衛という盗人(つとめにん)をしっておるか?」
「〔船影〕の忠治(ちゅうじ)お頭(かしら)なら、お名前だけは---」
「忠兵衛はそれの2代目だ」
「おもしろそうなお話ですこと。暮れ六ッ(午後6時)の仕舞い舟でお店を閉めます。そのころ、もう一度、いらっしゃって話してくださいますか?」
【参照】2010年6月11日~[安永6年(1777)の平蔵] (6) (7) (8)
2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] (1) (2) (3) (4) (5)
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コメント
1年ちょっと前でしたか、お信が初めて登場したとき、不入斗 いりやまず という通り名でした。
どこからおつけになったのか、いかにも女賊らしいと思いましたが、実在していた上総の村名だったのですね。
ものすごい気くばりと感じいりました。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.09.01 09:13
>文くばり丈太さん
不入斗(いなりやまず)という村は、
相模国 三浦郡
武蔵国 荏原郡
安房国 平郡
上総国 天羽郡
市原郡
遠江国 山名郡
などにあるようです。さほど珍しい村名ではないような。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.01 10:44
>ちゅうすけさん
不入斗 いりやまず の村名がするするとでてくる秘訣はなんなんでしょう?
それに、300人以上もの盗賊の出身地を調べていらっしゃいますが、この秘密もあわせてお漏らしくださいませんか?
投稿: 文くばり丈太 | 2010.09.02 04:31
>文くばり さん
秘密でもなんでもありません。
お気に入りに、歴史博の[旧高旧領]のdatabaseを入れているのです。
[不入斗]で検索をかけると、ズラッとでてきます。
URLは、ザンネンですが途中までしかわかりません。
http://www.rekihaku.ac.jp/up-cgl/loginpl?
p=pqeqm/kyudo/db_pqrqm
盗賊の呼び名のリサーチは、吉田東伍博士『大日本地名辞書』と郵便番号索引のCDを活用しました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.09.02 11:02