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2010年8月の記事

2010.08.31

{船影(ふなかげ)]の忠兵衛(5)

「なぜに、あっしに目をおつけになったので---?」
30歳にはまだ間がありそうな、背の高い、角ばった顔つきの男が質(ただ)した。

「おぬしは、人を探していたふうであった」
「へえ---?」
「それから、磔柱に縛られた宝船の雛形を見たとき、顔色が変わった」
たったこれだけの平蔵(へいぞう 32歳)の解説を聞いただけで、男は恐れいってしまった。

ところは、九蔵町(くぞうまち)の塩売り店〔九蔵屋〕(くぞうや)の奥の九蔵の部屋であった。
男は、烏川端からまっすぐにここへ連れてこられていた。

牢屋へ入れられると覚悟をしていたらしく、不審げにあたりを見回していたが、ついに自分から問いかけたのである。

男の両側を、長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳)と多田伴蔵(ばんぞう 41歳)同心、脊後は矢島同心と九蔵とその配下が固めていた。

「お武家さまは、火盗改メ方で---?」
「そうではない。拙は、長谷川平蔵宣以といい、西丸の書院番士だ。お主の右にいるのは長野佐左(さざ)といって、同じ書院番士だ」
「番方のお武家さまが、なにゆえに---?」
「〔船影ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 30代半ば)を追っているのかと質(き)きたいのであろう?」
「へい」

忠兵衛を追ってなぞ、いない」
「へえ---?」
「ま、九蔵元締のせっかくのお志しのお茶でも呑め---」

平蔵も茶碗をとりあげながら、
「そなた、名前しはなんといったかな?」
仁三郎(にさぶろう)と申しやす」
「では、仁三郎どん。訊くがな、なぜに〔船影〕一味を追いだされた?」
「えっ?」
忠兵衛が忌みきらうようなことをしでかしたか?」
「お分かりになりやすか?」
「おお。宝船の雛形が槍で突かれておる時の仁三郎、おぬしの痛がるような顔といったらなかったぞ」
「恐れいりやす」
「いまでも、〔船影〕の忠兵衛を敬っておるな。しかし、追い出された。押しこみの時、おんなを犯したか?」
「へえ」
「どこでだ?」
「沼田でございやした」

「やはり、な。だが、宝船づくりの佐次郎が暮らしている沼田あたりでは、仕事(つとめ)はしないことになっていたのではないのか?」
佐次爺(と)っつぁんのことまでお調べが---?」
「お上を甘く見るでない」
「へえ」

仁三郎が白状したところによると、忠兵衛の使いで、沼田の在で宝船をつくってもらっている佐次郎のところへ、出来あがったいくつかの雛形を受けとりに仲間と行ったとき、なんとかいう酢問屋の奉公人長屋の雨戸が開けっぱして、2人の女中の寝みだれた姿を目にしたので、つい、犯す気になったと。

ちゅうすけ注】それで追放された顛末は、聖典の文庫巻18[一寸の虫]に明かされている。

「どうであろう、仁三郎。おぬし、拙のお使番(つかいばん)となり、忠兵衛どんのもとへ顔をだし、今後、高崎城下では盗み(つとめ)はしないという約束をとりつけてきてくれないか。質(しち)は、佐次郎だ。〔船形〕のがこれから10年---とはいわない、いまのご藩主がご老中職に就いておいでのあいだ、約定を守ってくれれば、佐次郎には手をつけない」

約束は守られたし、平蔵も高崎藩も、仁三郎をおかまいなしと見逃した。
内密のことゆえ、この密約は、藩史には記されていない。

藩主・右京太夫輝高(てるたか 53歳 8年2000石)は、これから4年のち---天明元年(1781)9月24日、老中職のまま亡じた。


参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () () 

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2010.08.30

{船影(ふなかげ)]の忠兵衛(4)

安永6年(1777)2月20日---。

真っ青に晴れてはいたが、春がそこまできているというのに、高崎は上州特有の冷たい大気におおわれていた。

にもかかわらず、烏川(からすがわ)の川原に設けられた処刑場の見物人の矢来柵には、朝から200人を超える物見高い者たちがつめかけ、町名を書いた区画に陣どっていた。

高札に書かれていた時刻---四ッ(午前10時)近くには、人数は倍にもふくれあがった。

江戸から出張ってきた火盗改メ同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)と、南町奉行所の矢島同心が立会い役の席に着くと、見物人たちの私語が制止された。

真新しい磔柱が運びこまれ、見物席がどよめいたのは、十字の柱に人がくくられていなかったためであった。
磔柱の後ろの矢来には、黒幕がかかってい、平蔵(へいぞう 32歳)と賊に襲われた旅籠〔越後屋〕の番頭が、黒幕にあけられた小穴になにやら差しこんで見物人席をたしかめていた。
そのころ、江戸で流行っていた遠眼鏡であった。

〔越後屋〕の番頭があたりをつけていたのは、町名が指定された区画ではなく、「その他の区域」と示されている区画の見物人たちであった。

平蔵は、まんべんなく、改めていた。

矢島同心が立ちあがり、見物人に向かって声高に語りかけた。

「〔越後屋〕を襲った賊は、磔柱にしばられている宝船の雛形を残して去った。ゆえに、この雛形を片割れと断じて処刑する。始めい」

槍を構えていた2人の小者が、小さな宝船の雛形を何度も突き、雛形はばらばらにこわれて川原へ落ちた。
見物たちは、期待をうらぎられてがっかり顔のや、話の種がひろえておもしろ顔のや、いろいろであったが、矢島同心の声に、あらためてことの重大さを読みとった。

「町ごとに、組頭が顔をあらためるから、退去は、お城に近い町内から順に出口へ。町の区画外にいたものは、いっとう、最後になる」

そういわれてみると、区画外の席は、もっとも奥に指定されていた。

区画外の群れが出口へ向かったとき、そこには平蔵長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳)、それに捕り方の5人が待ち伏せてい、ある男に狙いをつけていた。


参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () (

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2010.08.29

〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(3)

3日目。
まだ陽のあるうちに、高崎へ入り、城に近いあら町の旅籠〔豊田屋〕に部屋をとった、

高崎藩からは、参勤交代の往来のほとんどない季節で、本陣格の〔大黒屋〕九兵衛が空(す)いているからとすすめられていたが、あえて避けた。
〔大国屋〕には、一日先行していた火盗改メ方の同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)が宿泊していた。
平蔵(へいぞう 32歳)は、〔豊田屋〕の一番番頭に、1刻(2時間)ほどのあいだでよいから、藩や多田からの問い合わせには、
「まだ、お着きではない」
と答えるように命じ、独りでふらりと町へでかけた。

蓮雀町、元紺屋町、田町を北へぬけ、九蔵町(くぞうまち)の塩売り店で、
九蔵どのに、江戸の長谷川が参ったとお伝えありたい」

前もっていわれていたらしく、小僧がすっとんで奥へかけこみ、すぐに戻ってき、脇の三和土(たたき)の内通路から庭の離れへ導いた。

九蔵屋〕の九蔵は、平蔵と同じくらいの年配だが、相撲取りのような巨躯で、首の脂肪のせいか声がかん高かった。
「〔音羽(おとわ)の重右衛門(じゅうえもん 51歳)どんからいいつかっとりやす」
5両(80万円)のつつみをだし、
「手みやげ代わりにもならないほどのもので、かえって〔音羽〕の元締のお顔をつぶすようで、お恥ずかしいかぎりだが、お納め願いたい」

「お気づかい、痛みいりやす。高崎にご滞在中は、自分の家の者同様に、こき使ってくだせえ」
「お言葉にあまえ、この20日の警備、なにぶんともに---」
「委細は、〔音羽〕のから申しつかっておlやす。おまかせを---」

三国街道口であり、安中への中山道口でもある札の辻の高札をあらため、〔豊田屋〕へ戻ると、すでに多田同心と藩の南町奉行所の矢島同心が待っていた。

高崎藩の町奉行所は、江戸を見習い、南北に分かれて月ごとに交替で開いてい、それぞれ留役1、同心5が勤めていた。
ほかに牢屋同心3、助郷人馬改方2。
この月は、南が月番であった。

暗くならないうちにと、烏川の川原しつらえられた処刑場の矢来(やらい)囲いを下検分に誘った。

割り竹を組んだ矢来の柵が2重にしつらえられており、一方の端は袋の底のようにつながり、それより先へは行けなくなっていた。

つまり、入り口が出口をかねていたのである。
平蔵がうなずいた。

矢島同心が、磔(はりつけ)柱は明日のその時刻に運びこむこと、その後ろの矢来にかける黒い幕もその時に張ることになっていると告げた。

平蔵が訊いた。
「各町内の顔役たちの手くばりも、ぬかりないでしょうな?」
矢島同心ずうなずき、
「町方の顔役は組頭(くみがしら)といい、町内のほとんどの組子と顔なじみです。捕り方の人数も十分に集めてあります」
「けっこう。矢来の外側の見張りは、〔九蔵屋〕の手のものがあたるから、奉行所側の捕り方は、出口をしっかり固めていただきたい」


参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () (


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2010.08.28

〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(2)

「それにしても、よくも指名してくれた。組内(くみうち)での風向きが変わった」
明け六ッ半(午前7時)に、本郷通りの壱岐(いき)坂上で落ちあった、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳 600俵)が、供の恭助(きょうすけ 22歳)の耳をはばかりながらささやいた。

高崎への旅の始まりであった。
本郷通りを北上し、加賀藩邸の先で中仙道へ切れこむ。

「なにをいう。われわれの助けあいは、一生つづくのだ」
「恩に着る」
「ばか---」

長谷川平蔵(へいぞう 32歳)と長野佐左(さざ)とは、9年前の明和5年(1768)9月4日の初見(はつおめみえ)同士の仲であった。
平蔵は西丸・書院番4の組に出仕しているが、歴代の火盗改メから頼りにされ、きょうは、本役・土屋帯刀守直もりなお 46歳 1000石)---というより、老中・松平右京太夫輝高(てるたか 53歳 高崎藩主 5万7000石)から特別に頼まれ、盗賊の探索に出張(でぱ)るところであった。

そのとき、助手(すけて)がいると探索がはかどるといいたて、西丸・書院番3の組の番士の佐左を指名した。
佐左が、お(はす 32歳)というおんなにおぼれていたのを見かねた経緯(いきさつ)は、すでに明かした。

松造、高崎藩から借りた冬合羽の2人分を、恭助へ渡してやるがよい」
平蔵の供の松造(まつぞう 26歳)が、荷の一つを恭助へゆずった。
上州名物の空っ風除けの羅紗の道中合羽を、用人がこころ遣いを示した。

松造。合羽はわすれても、あのお宝だけは忘れるな」
平蔵の注意を、佐左が聞きとがめ、
「お宝とはなんのことだ?」
「高崎へ着けば、分かる」
はぐらかした。
「助手にも秘密なのか」
「孫子曰く。敵をあざむくには、まず、味方から---と。悪くおもうな。佐左の第一の役目、あざむかれ役に徹すること」
「いい加減にしろ」
2人とも、屈託なく笑った。

日本橋から2里八丁(9km弱)の板橋駅でお茶にした。

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(板橋駅 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「幸い、晴れがつづきそうだから、今宵の泊まりは、上尾(あげお)ではなく、桶川宿にしよう」
平蔵の案に、佐左がうなずいた。
平蔵にしてみれば、京からの帰りに泊まった宿場ではないところを体験したかった。


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(『木曾街道 蕨之駅 戸田川渡 英泉画)

浦和で昼餉(ひるげ)とした。


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(浦和宿 浅間山遠望 英泉画)


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(大宮宿 富士遠景 英泉画)


上尾宿で、横目で本陣・〔井上〕五郎右衛門の前を通りすぎるころには、冬の陽はだいぶ傾いていた。
4人とも、もう口をきかない。


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(上尾宿 加茂之社 英泉画)


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(桶川宿・曠野之景 英泉画)


上尾宿から30丁(3..5km)で桶川宿に着いた。
〔玉屋〕弁蔵方で草鞋を脱いだ。
すぐ、風呂を頼み、平蔵佐左が先につかい、酒をなめながら、松造恭助があがってくるのを待った。

松造。お(くめ 36歳)どのが10夜も独り寝で、さみしがっていよう」
たまの遠路歩きで酒がまわったらしい佐左のざれごとを、
「いいえ。さみしがったのは、2人の子どもたちのほうでございます」
軽くうけ流した。

火盗改メからは、平蔵佐左に、供の分ふくめて、それぞれ1日2分(4万円)ずつの旅費と、別に3両(48万)の手当てが渡されていたから、平蔵佐左は別々の部屋をとった。


翌日は、鴻巣、熊谷と9里(36km)近くをこなし、


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(鴻巣 吹上富士遠望 英泉画)


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(熊谷宿 八丁堤ノ景 英泉画)

深谷宿で、〔近江屋〕彦右衛門方へ投宿した。


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(深谷之駅 英泉画)


佐左の部屋には、芸者がはべった。
恭助も朝帰りであった。


参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () (

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2010.08.27

〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛

高崎行きを承諾した平蔵(へいぞう 32歳)に、高崎藩の江戸藩邸から用人が金包みをとどけてきた。

「首尾よくいきました折りに、いただきましょう」
押し返したが、老齢の秋池某と名のった用人は、
「そのときはそのときに。藩主・右京太夫さまのご存念は、絹市につどう商人(あきんど)衆に、安んじて滞在できる城下とわかってもらえれば、それでよろしいのです」
無理に押しつけた。
10両(160万円)という半端な金額が包まれていた。

「あと3日ののちに、ご藩邸へ書状をおとどけします。公用の早飛脚を仕立ててお国元へお送りいただき、高札へ写し、ご城下への出入りの辻々へお立ておきを願います」
「いともお易(やす)いこと---」

火盗改メ・土屋帯刀守直(もりなお 46歳 2000石)の組下同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)が作図のひと組を持参してきた。

作図は、盗賊・〔船影(ふなかげ)〕一味が、高崎城下あら町の旅籠〔越前屋〕に押しいったときに残していった宝船の雛形を採寸した精緻なものであった。

参照】2010年8月7日~[安永6年(1777)の平蔵宣以] () () () () () (

それを手に、平蔵は今戸橋際の料亭〔銀波楼〕に、元締の今助(いますけ 30歳)を訪ねた。

「浅草寺の仲見世に、さまざまな手遊び(玩具)や人形を商(あきな)っている店の納め先の工匠なら、この図面どおりの宝船を、2日のうちに組み立てられようか?」
今助(いますけ 30歳)が貫禄をみせ、太鼓判をおして引きうけた。

参照】2009年6月20日~[〔銀波楼〕の今助] () () () () () 

その晩、〔木賊(とくさ)〕の今助が、白髪の男を伴い、三ッ目通りの長谷川邸へやってきた。
男は、時次郎(ときじろう 68歳)と名と齢を告げ、宝船の作図を示し、実物がどこにあるかと質(ただ)した。
火盗改メの役宅---と答え、高崎城下で手に入れたものだと教えると、大きくうなずき、
「おもったとおり、佐次(さじ 70歳)兄ィの技(わざ)でござんしたか」

時次郎の兄弟子---佐次郎は腕利きの手遊び工匠であったが、15年前、55歳を過ぎたときに流行り病いで女房を逝かせると、さっさと工房をたたみ、上州・沼田の在へ引っこんでしまった、とつぶやくように打ちあけ、
「これだけの細工ができるのは、佐次兄ィのほかにはおりませんです。およばずながら、弟弟子の意地にかけても、あすの晩までにやってみます」

金づくではないと謝絶する時次郎に、平蔵は無理やり包んだ1両を押しつけた。
かたわらで、今助も元締らしい口ぶりで、
さん、長谷川さまのお志しだ、いただいておきねえ。長谷川さまが、もし、高崎で佐次兄ィさんにお会いなさるようなことがあったら、なんと託(ことづ)けてもらうかね?」

その夜、平蔵はおそくまで案を練り、

あら町の旅籠〔越後屋〕へ押しいった賊の片割れを逮捕したから、2月20日の四ッ(午前10時)、見せしめのために、烏川(からすがわ)の洲(す)で、磔(はりつけ)の刑に処する。

認(したた)め終わると、にんまりと笑みをうかべ、冷酒をあふって床へ臥(ふ)した。


参照】2010年8月27日~[〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛] () () () (

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2010.08.26

西丸・書院番3の組の番頭(3)

「先日、右京太夫松平輝高 てるたか)さま 53歳 高崎藩主 5万7000石)侯から、内々のお言葉があっての」
平蔵(へいぞう 32歳)が与(く)みしている西丸・書院番4の組の番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 55歳 3500石)が、かたわらの与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)をかえり見ながら打ちあけた。

これから先は、汝が話せ---とうながされたと察した牟礼与頭が、咳ばらいをひとつしてから、
松平侯のご城下でおきた盗賊の取調べのこと、火盗改メ・土屋帯刀守直 もりなお 46歳 1000石)どのの探索を助(す)けるため、枉(ま)げて、暇(ひま)を給してやれぬか---との ことであった」

この宵、平蔵は、三田寺町の水谷邸へ呼ばれていた。
あいさつに私邸へ伺候することはあっても、勤めのことで呼びつけられることはまずないから、なにごとかと思案しながらきてみると、牟礼与頭までが脇にいたので、内心、どきりとした。

水谷侯とは、とくべつな因縁のある平蔵であった。

参照】2007年4月11日~[寛政重修l諸家譜] () (
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] () () 
2008年1月25日~[銕三郎、初お目見(おめみえ)] () () (

老中じきじきに土屋組を手伝えとは、恐れいった公私混同だが、願ってもない指示なので、
「お暇は、何日ほどでございましょうか?」

ついでのことに、費(つい)えはどうなっているのか、また、とつぜんおもいつき、
「助手(すけて)はつきましょうや?」

「どのような助手かな?」
「できますれば、書院番3の組の番士・長野佐左衛門孝祖 たかのぶ 32歳 600俵)を助手に---」

酒井対馬守 忠美 ただあきら 51歳 2000石)どのにかけあわねばなんともいえいが、おぬしの指(さ)しであることを、高崎侯へ申しあげてみよう」
水谷出羽守が引きうけた。

水谷番頭とすれば、本丸の老中に会う口実---しかも、私用がらみのそれが一つでもふえたことのほうがめでたい。

「3の組の与頭・内藤左七尚庸 なおつね 67歳 465石)どのへの根まわしは、さっそくに手前がつけておきます」
牟礼与頭も もはや、ひと働きする気になっていた。
みんな、きまりきった勤めに、退屈していたのだ。

(これで、3の組内での佐左(さざ)への評価が変わればもうけもの。だめでもともと---)
してやったり---と、平蔵は腹の中でほくそえんでいた。

もっとも、事件が紀伊国の内であればもっとよかった。
貴志村へ里貴(りき 33歳)を見舞ってやることができたかもしれない。
まあ、高崎での事件をうまく解けば、あちこちからこのような依頼が来、公費で出張(でば)れる、うまい話がつづくやもしれない。

参照】2010年2月2日~[組頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (


 

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2010.08.25

西丸・書院番3の組の番頭(2)

「これまでしらなかった、深い快感を与えてくれるのだ」
「ばかは、休みやすみにいうものだ」

平蔵(へいぞう 32歳)は、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳 600俵)をからかったが、
(待て。佐左(さざ)をたしなめる資格は、おれには、ない)
里貴(りき 32歳)とのことであった。
渡来人の子孫がかたまって純潔をたもっている村---紀州の貴志の育ちで、透けるように白い肌が、あのときの興奮が高まると、桜色に染まる躰に溺れた。

その里貴は、両親の介護に紀州へ去ってしまった。
できることなら、もう一度、桜色に染めさせてみたい。

佐左は、武家育ちの内室が、3人目のややを産んだときに産道の口が裂け、そのことが快楽ではなくなっていた。
失ったj町むすめの愛人は18歳かそころで、性戯もおぼつかなかったろう。
そんときに、お(はす 31歳)につかまってしまったのである。
男として、一途になって当然かもしれない。

外泊がつづけば、内室や屋敷の者たちはおんなの存在をかんがえよう。

「まさか、〔蓮の葉〕に泊まっていたわけではあるまい?」
「店の、そういう2人連れの客のためにもうけてあるという、高橋(たかばし)を南へわたった稲荷の脇の2階家だ」
(おれが、里貴と抱きあっていたのも、御宿(みしゃく)稲荷の脇の家であった。

参照】2010118~[御宿(みしゃく)稲荷脇] () (
2010年1月20日~[貴志氏] () () (
2010年2月9日[庭番・倉地政之助満済(まずみ)]
2010年2月17日[笠森おせん

とうじ、稲荷は、江戸の町ごとに一社はあり、
 江戸名物 伊勢屋稲荷に 犬の糞
と、「い」づくしの川柳が詠まれていた。

「大方、室の里の藤方家が目付衆に頼み、小人目付の手先に尾行(つ)けられたのであろうよ」
「〔蓮の葉〕が発覚(ば)れていたとすると、事件(こと)は大きくなるぞ」
「なぜだ?」
「おのうしろにいるのは、ふつうの男ではない」
「何者だ?」
「はっきりはわからないが、盗賊ということもかんがえられる」
「盗賊!」
「だから、早く切れたほうがいい」

それから、佐左が与(くみ)している番頭・酒井丹後守忠美(ただあきら 51歳 2000石)へ手をまわしてもみ消す仁のこころあたりを相談した。

佐左は、長野家へ23歳のときに末期養子として入っていた、
入ってすぐに遺跡相続が認められたのは、実家が久松松平の流れであったからである。
その1ヶ月後の安永2年(1773)12月5日の初見で平蔵としりあった。

久松松平は、家康の生母、於大の方が再婚先で産んだ子たちの流れである。
「一族の中に、酒井丹後守さまに押しのきく仁がいるであろうか---」
「実家の本家の祖は、久松の3男で、いまの当主は豊前守勝全(かつたけ 27歳 多古藩主 1万2000石)というのだが---」

多古藩は陣屋が下総国香取郡(かとりこうり)多古(千葉県香取郡多古町)にあった。
上屋敷は小石川富坂上(現・文京区小石川2丁目 富坂警察署あたり)にあった。

「おれは、西丸・目付の佐野与八郎政親(まさちか  46歳 1100石)どのが兄者代わりだから、そっちから探りをいれてみる」
「頼む」
「今夜は、おとなしく、屋敷へ帰れ」


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(孝祖・養子前の久松松平家時代の個人譜)

参照孝祖長野家へ養子後の個人譜 2009年5月17日[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] (

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((久松)松平豊前守勝全の個人譜)

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2010.08.24

西丸・書院番3の組の番頭

「与(くみ 組)頭の内藤左七 直庸 なおつね 67歳 465石)さまから、虎の間の控えの間へ呼びだされ、伺候してみると番頭・酒井対馬守(忠美 ただあきら 51歳 2000石)さまもおられた」

対馬守忠美は一昨年の閏12月から、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳 600俵)の番頭であった。

対馬守さまもご同席であったとは---」
「うむ。組下の私事は与頭にまかせっきりのお人なのだが---」

対馬守忠美は酒井姓なので、家康軍団の東軍の旗頭であった酒井左衛門尉(さえもんのじょう)忠次(ただつくぐ)一門の流れとおもいがちだが、ちがう。
祖は、飛騨で金森を称し、信長に属していた。
家光に仕えて酒井と改めた。

佐左(さざ)、それで、どのような詮議であったのだ?」
盃をおいた平蔵(へいぞう 32歳)が話の先をうながした。

「室の里方の藤代家から、おれの屋敷の寝所が冷えっきりと愚痴を告げたらしい」

「なんだって---? 与頭どのばかりか、番頭どのまでが、組下の寝所が熱いか冷えておるかの心配までするようになっては、武家の世も末世だな」

佐左(さざ)孝祖の室の父親・勘右衛門忠英(ただひで 61歳 600石)が、西丸の小納戸に勤仕していることは、以前にも記した。
ために、内藤与頭とつうつうであった。

参照】2010年4月2日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] () () () () (
2010月4月19日~[同期の桜] () () () (
2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖の悲嘆

(ひで 享年19歳)と子を逝(い)かせた傷みと、冷えきっている寝所もあり、佐左は小料理〔蓮の葉〕の女将・お(はす 31歳)との外泊が重なっていた。

2010年7月31日~[浅野大学長貞ながさだ)の異見] () () (

その外泊が咎められた。
出仕している幕臣の、届けなしの外泊は、公けには許されていない。
形だけは、戦時体制であった。

舅(しゅうと)・藤方勘右衛門はそこを衝いてきた。
もちろん、いいがかりにすぎない。

「切れるのか?」
「できればそうしたいが、相手が許すかどうか---」
「なぜだ---?」
「-------」
「いえないのか---?」
「うむ---」
佐左。まさか、禁じられていることを話しているのではあるまいな?」
洩らしてはならないこととは、柳内の秘事である。

たしえば、金蔵の配置とか警備。
大奥の出入商人への支払い日---。

「それは、ない」
「では、なにだ---?」
「じつは---」
「ふむ---」
「おには、うしろに男がいた」
「---やっぱり---」

「そうなんだ。あれは---いいおんなだ」
「熟れきっているだけだ」
「いや。男を魅(ひ)きつけて放(はな)さない術(すべ)をこころえている」

「どういうことだ?」
小網町の小ぎれいな呑み屋の一室であった。
初めての店であったが、小部屋があるというのであがった。


_360
2_36
(酒井丹後守忠美kの個人譜)


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2010.08.23

お静の死(2)

「〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろそう 40歳)という一番小頭は、どのような仁ですか?」
平蔵(へいぞう 32歳)が訊いた。

蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 55歳)のところには、3人の有能な小頭がいたことは、〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年53歳)が話してくれたことがあった。
大滝〕の五郎蔵、〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち 39歳)、〔尻毛しりげ)〕の長吉(ちょうきち 33歳)の3人であった。

参照】2008年8月30日[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (2) 

3人のうち、〔大滝〕の五郎蔵、〔五井〕の亀吉が組み、ならび頭(がしら)ということで独りだちすることになっている、と〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 61歳)が洩らした。

参照】2010年7月6日[〔殿(との)さま〕栄五郎] (

源七のお頭・〔狐火きつねび〕の勇五郎(ゆうごろう 57歳)と〔蓑火〕が親しいので、そういう話もたちまち伝わった---というより、勇五郎が相談にのったというほうがあたっていた。
その機に、一番小頭へ昇格する長吉は、名を長右衛門とあらためるということなので、今後はその名で記すことにする。

亀吉長右衛門には会ったことがあるので、五郎蔵の人柄を聞かせてほしいとうながすと、
亀吉どんを刃物にたとえると、よく研(と)がれた剃刀(かみそり)、五郎蔵どんは大仕事につかう鉞(まさかり)---どこまでも頼りになる仁です」

参照】2008年10月10日~[〔五井(ごい)〕の亀吉] () (

「まさかり---なあ」
うなずいた小波(こなみ 38歳)が、8歳齢下の亭主・今助(いすけ)をこづき、
「ほかのお座敷のお客人のご機嫌をうかがってきますよって、どうぞ、ごゆるりと---」
消えた。

_130平蔵が酌をしてやりながら、さりげなく、
おまさに、その後、会いましたかな?」
源七の盃から酒がこぼれた。
あわてて手拭でぬぐい、
「〔乙畑おつばた)のお頭のところと聞いておりますが---」
目をふせたままで応えた。(清長 イメージ)

平蔵の中のおまさは、13,4歳から成長していなかった。
「達者でいれば、それでいい。出会うようなことがあったら、たまには顔をみせよ、久栄(ひさえ)---奥です、久栄も案じていると伝えていただきたい」

参照おまさの年譜

そりきり、おまさまのことは忘れたように、酒を含み、料理をつまんだ。
源七も口を開くきっかけがつかめず、気のりがしない様子で箸をうごかしていた。

_120ちゅうすけ注】〔狐火〕の又太郎(20歳=今年)がおまさ(22歳=情事当時)に抱かれて男に脱皮したのは翌年21歳の春で、そのためにおまさは〔狐火〕から追放されている。すでに接触があり、源七おまさの心のうごきを予想していたのではなかろうか。

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2010.08.22

お静の死

5日後の夕方、竹屋の渡しで今戸へ着いた平蔵(へいぞう 32歳)は、今戸橋脇の〔銀波楼〕を訪ねていた。
瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち 61歳)と会うためであった。

3年ぶりの源七は、60歳をこえて、鋼(はがね)のような筋肉質の躰つきのかつてのおもかげはなく、皺がふえ、真っ白な頭はうすくなっていた。

女将・小浪(こなみ 38歳)の酌の盃を干し、
「その後、川原町米屋町のほうはお変わりなく---?」
あいさつ代わりI訊いた。
川原町米屋町には、〔狐火(きつねび)〕一門の首領・勇五郎(ゆうごろう 57歳)が表の家業としてやっている高級骨董の〔風炉(ふうろ)屋〕があった。

参照】2009年7月8日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () (

返事は、おどろくべき報らせであった。

「お(しず)姐(あね)さんがお歿(なくな)りになったことは、お耳に達しておりましょうか?」
「えっ?」
平蔵ばかりでなくでなく、〔狐火〕のうさぎ人(にん)・小浪も亭主・今助(いますけ 30歳)も仰天した。
(享年26歳)は、〔狐火〕の勇五郎の内妻同然の愛妾であった。

源七が語ったところによると、去年の師走に風邪をじらせ、あっけなく逝ってしまったのだという。

参照】 2008年6月日~[お静という女](1) (2) (3) (5)

「お姐さんまで---」
ようやく声をだした小浪に、
「---までとは? 親父さんはおどのの死を---?」
「いえ。平井新田のお父はんのことやおまへん。一作年(おととし)、お(きち)姐はんが逝(い)かはったばっかりやったんどす」

(享年 38歳)は、小田原で勇五郎に囲われていたが、本妻のお(せい)が3歳の文吉を残して逝ったので、文吉と同年に生まれた又太郎ともども京都へ引きとられた。

銕三郎(てつさぶろう 27歳=当時)が京都Iにいたときは、蛸薬師通りの家に、ともに16歳の2人の男の子たちと暮らしており、お(かつ 32歳=当時)が居候していた。

「それでは、〔狐火〕のお頭もお気をお落としであろう」
「それが、人間、いつ、なにがどうなるものわかったものではないと、お仕込みに熱がはいってきまして---」

「それはよかった---と、拙が言ってはお上(かみ)に申しわけが立たぬが、知友としての言葉と受けとってもらいたい」
小浪今助も笑って聞き流した。

平蔵は、小粒を懐紙に包み、
「ほんの気持ちだ。仏壇のおどのに線華をたむけていただきたい」
「お預かりいたします。ところで、長谷川さまのご用の向きは---?」

蓑火みのひ 56歳)のお頭のことで、なにか耳にはいっておらぬかな?」
源七は、探るような目つきを向け、平蔵が視線をそらさないで受けとめてうなずいたのをたしかめ、
「軍者(ぐんしゃ 軍師)の一人---〔殿(との)さま栄五郎(えいごろう 30代半ば)どんが自死なさったとかで、大きく落胆なさっておられました」
「自死---?」
「身動きが不自由になったのを悲観してのこととか---」
「それは気の毒---」
「竪川(たてかわ)の南本所側の河岸に倒れていなさったのを、戻り駕篭が見つけたんだそうですが、怪我はなかったのだとか---」

「〔蓑火〕のお頭とは、不思議なご縁があってな---」
平蔵は遠くを見るように眼差しになった。

参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

「〔蓑火〕のお頭に、長谷川さまのご弔辞をお伝えいたしますか?」
「いや。それには及ばぬ。先方も、拙のことなど、お忘れであろう」
「〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう 享年33歳)どんをお手放しになったことが凶とでたようだと、一番小頭の〔大滝(おおたき)の五郎蔵(ごろうぞう 40歳)どんがひそかにこぼしているそうで---」
源七の口調には平蔵をなぐさめる気持ちがこめられていたが、小浪は、おの名がでても銕三郎時代に躰の深いかかわがあったことまでには気がついていなかった。

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2010.08.21

〔銀波楼〕の女将・小浪(3)

午餐(ひる)を食べていってくれ、と〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 30歳)と小浪(こなみ 38歳)が口をそろえてすすめるので、好意に甘えることにした。

「日没までは盃を手にしないことにきめている」
平蔵(へいぞう 32歳)の言葉に、いささか気ぬけした面持ちですすめたのが、すずめのたたき煮だんごであった。
口の中でくずれるようにほどけ、鳥とはおもえない香ばしさがひろがった。

「初めて口にした味。舌が驚いておる」
「これやったら、お向いの〔金浪楼〕はんに負けてェしまへんどっしゃろ?」

〔金浪楼〕への対抗意識は、いまは帳場をすっかり小浪にゆずって隠居をきめこんでいる先代の女将・お(ちょう 59歳)以来の執念であった。
もっとも、〔金浪楼〕は江都高名料亭番付の上位をとっているから、すずめのたたき煮だんごぐらいでその牙城がくずせるものではない。

参照】2008年10月24日[うさぎ人(ひと)・小浪] (

隣の膳で箸をつかっている今助に、
「毎日、このような珍味を口にできて、幸せだな」
「とんでもねえ。朝昼晩、お茶づけに毛がはえたほどのお膳でやす」
苦笑いが返ってきた。

「料亭のご主人はんが、こないなぜいたく料理を三度さんど口にしてはったら、料亭はやってェいけしまへん」
齢上女房は、けろりとしたものであった。

「そやそや、長谷川はん。〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 61歳)はんが江戸くだりしてはるのん、ご存じどすか?」
平蔵はしらなかった。

いまは、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 57歳)の継妻のかたちでおさまっているお(しず 29歳)の父・金兵衛(きんべえ 60歳)が歿したので、その後始末に下ってきているのだという。
飛脚便で事情を報せたのは、もちろん、小浪であった。、

金兵衛は、深川の東の平井新田(現・江東区東陽町2~5丁目)の漁師であったが、むすめのおが〔狐火〕の世話になって京都へ移ってからは、その仕送りで独り暮らしをしていた。

「宿は--?」
「いつもの、通旅篭町菊新道(きくじんみち)の〔山科屋〕はんどす」

参照】2008年5月28日~[〔瀬戸川〕の源七] () () () (
2009年8月1日~[お竜の葬儀] () (2) (

「女将どの。相すまぬが、源七どのに、数日のうちの夕刻でも、ここで会える手くばりを願えまいか?」
請けたのは今助であった。
「合点でさあ。日にちの案が出たら、お屋敷へお知らせしやす」


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2010.08.20

〔銀波楼〕の女将・小浪(2)

「その〔船影ふなかげ)〕一味の孫八とやら、ひと仕事の分け前を手に、江戸へでも白粉の匂いをかぎにでてきたのだろろ」
平蔵(へいぞう 32歳)の推測に、うなずいた小浪(こなみ 38歳)が、
「ひと仕事---いうたら?」

「上野(かずさ)の高崎城下---」
長谷川さまは、上野にまで手ェだしてはりますのん?」
「そうではない。今日の話の主(ぬし)は、〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ )だ」

蓮沼〕だけがしっている内緒ごとが、どうして〔船影〕一味の者に伝わったのか、そこの筋が読めない---というと、小浪は笑って、
長谷川さまほどのお方が、口合人(くちあいにん)をご存じやおへんの、信じられしまへん」

口合人とは、間口を盗人だけにかぎってあつかう口入れ屋のことである。

ニョーヨークできいたところでは、広告のクリエイターだけを専門のしているパーソナル・エージェンシーというのがあり、たとえばAコピーライターをB社に口利きすると、B社からAの給与1年分相当額を紹介料として受けとるとか。
1年分を高いとみるかどうかは、B社が独自に求人した場合の、新聞広告料、高給を得ている幹部社員数人の面接・選考時間などについやされた目に見えない金額をどうかんがえるかによる、といわれた。

もっとも、パーソナル・エージェンシーは紹介手数料でなりたっているので、紹介したAクリエイターを3年もするとC社へ転じさせるようなあこぎなこともやるらしい。

「江戸で実績の高い口合人というと---?」
「仁義いうのんがおます。なんぼ長谷川さまやかて、名ァはお教えできしまへん」
小浪は、相変わらず口が硬い。それに相変わらず美しい」
小浪は睨んでから、夫の今助(いますけ 30歳)に、いまさらのような流し目をおくった。

受けとめて、
「仲間うちの仁義もあろうが、江戸に何人ほど口合人がいるかぐらいのことは、長谷川さまへ洩らしても、仁義をやぶったことにはなるまい?」

うなずいた小浪は指折って、
「かかりきりのお人が3人。片手間仕事でやってはるのが4人ほど---」
「片手間仕事というと---?」
「嘗(な)め役も兼ねてはるんどす」
「かかりきりの口合人のところには、日に何人ほどの頼み人(にん)が出入りしておるとみればいいかな?」
「盗(つと)め口頼みが3人から5人。受け手ェの側が---ひと口かふた口」

平蔵は、盗人仲間の風聞が江戸から伝わっていくのは3日もあれば高崎や大月、小田原、宇都宮へ達するとふんだ。

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2010.08.19

〔銀波楼〕の女将・小浪

それから10数日後の九ッ半(午前9時半)。

非番の日に平蔵(へいぞう 32歳)は、浅草・今戸橋の料亭〔銀波楼〕に、女将の小浪(こなみ 38歳)を訪ねた。

浅草・今戸・橋場をとりしきっている香具師(やし)の元締・〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 30歳)ともども、待っていてくれた。

_100手なれたあいさつを交わし終えると、さっそくに切りだした。
「なにか、長い耳にはいりましたか?」
小浪が首をふった。
「やっぱり---」
ととのった京美人ふうのところは、大年増になっても失われるどころか、いよいよ濃艶さをましていた。(歌麿 イメージ)

小浪は、御厩河岸の舟着き前で茶店の女将をやりながら、〔狐火きつねび)〕〔の勇五郎(ゆうごろう 57歳)一味のうさぎ人(にん)を勤めていた。

店を火盗改メの隠し拠点にゆずり、〔不入斗(いりやまず)〕のお(のぶ 36歳)が女将になっている経緯(いきさつ)は、5年前の〔神崎(かんざき)の伊之松(いのまつ 50歳=当時)に記した。

参照】2009年6月25日~[〔神崎(かんざき)の伊之松] () () () (

小浪については、〔狐火〕の勇五郎から、お役にたつことがあったら、いつでも使ってくれといわれていた。

2008年10月23日~[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)

長谷川さま。〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 50すぎ)お頭の風評(うわさ)でのうてもよろしゅおすか?」

平蔵とすれば、深川・高橋(たかばし)近くの小料理〔蓮の葉〕で、火盗改メ・土屋組(先手・弓の7番手)の同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)と打ちあわせたことが、女将・お蓮(はす 31歳)の口から〔蓮沼〕のに伝えられ、盗賊たちのあいだでどのようなさざ波がたつかを知りたかったのである。

【参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () (

つまりは、盗賊組織の伝達網を試してみるためりに投じた一石であった。

「かまわぬ。話してくれ」

小浪によると、3日前の昼どきの2人づれの客のことであった。
座敷にあいさつにで、その一人が〔馴馬なれうま)〕の三蔵(さんぞう 40歳すぎ)という、左官あがりのひとり働きの盗人(つとめにん)とわかった。

かつて、〔狐火〕が東海道の藤枝で仕事をしたときに助(す)けにきたので顔をしっていた。
「〔馴馬〕の三蔵---?」
「はい。.常陸(ひたち)国稲敷郡(いなしきこおり)の馴馬村(現・茨城県竜ヶ崎市馴馬町)の生まれやら、いうてはりいましたんえ」
「もう一人は---?」
粂八どん---と呼ばれてはまりしたけど、引きあわされしまへかったよって、通り名のほうまでは---」
「いや、かまわぬ。で、〔馴馬〕がどうした---?」

小浪があいさつをすますと、席をはずすように三蔵が目顔でうながしたので部屋をで、廊下で聞き耳をたてたら、
「〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛(ちゅうべえ 30代半ば)どんのとこの孫八どんから仕込んだのだが---」
---まで聞きとれた。

「ふーむ」
「「長谷川さま。〔船影〕の忠治(ちゅうじ 60がらみ)お頭はんは、江戸では盗(おつとめ)してやおへんと聞いてましたよって---うちの耳まちがいかもしれしまへん」

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2010.08.18

安永6年(1777)の平蔵宣以(8)

「お(かつ 36歳)どの。三つ目の、破門した者へのいましめ---とは?」
平蔵(へいぞう 32歳)が、あらためて質(ただ)した。

(おわかりになっていらっしゃるくせに---)
そんな面持ちのおに、
「こちらの多田どのがご納得がいくように、話してはくれまいか」

多田伴蔵(41歳)は、土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)が火盗改メ・長官として新しく着任した先手・弓の7番手の同心であった。

{ 船影(ふなかげ)〕という盗賊一味の2代目・忠兵衛(ちゅうべえ 35,6歳)が、上野国高崎城下あら町の旅籠〔越後屋〕の泊まり客の絹糸買い付けの金を奪った事件(こと)を調べに出向いたのが、多田同心であったことはすでに記しておいた。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻18[一寸の虫]のサブ・キャラの〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛が当人。

平蔵の目くばせに合点したおが、三ヶ条の掟(おきて)にきびしかった〔船影(ふなかげ)〕の初代・忠治(ちゅうじ 60歳前後)ゆずりの気質を話した。

「なんでも、掟を破った配下は、男といわずおんな賊といわず、すはだかにして100叩きの罰にし、(二度とおれの前に面(つら)を見せるな)といってお解き放になるらしいのです。その刑のせいで、一生、躰が不自由になってしまった者もおり、うらみにおもっているとか」
「そういえば、あら町の旅籠〔越後屋〕の女中たちで、難にあったのはいなかった」
多田同心がうなずき、
「それにしても100叩きとは、ご公儀がおくだしになるより重いな」
感にたえた声でうなった。

「それで、〔船影〕一味の本拠をご存じあろうか?」
せっかちに訊いてきた多田同心に、一瞬、堅くなって、
「存じません」

平蔵は、女将・お(はす 31歳)の顔色や仕草を視野へ入れながら、
多田どの。おどのは化粧(けわい)指南師です。仕事がら、いろんなことが耳に入っておるにすぎませぬ。盗みの世界とはかかわりはない人なのです」
やわらかくたしなめた。

「失礼つかまつった。許されよ」
頭を下げたので、おはあわてて、
「いいえ。ほんとうに知らないのでございます。もし、耳に入れるようなことがありましたら、長谷川さまを通して、そちらさまへまっさきにお報らせいたします」

平蔵は、おが握りこぶしをひらいたのを認めながら、
「女将どの。この青柳(あおやぎ)の酢びたしだが---」
箸で貝柱をつまみあげ、酢かげんの微妙をほめた。

「さすが、お口が肥えていらっしゃいます。こんど入れた板長は東両国駒止橋詰の〔青柳〕さんで修業をつんだ者でございます」
「おお。あの〔青柳〕でのう。亡父が役付になつてのお披露目の宴は、〔青柳〕であったと聞いておる。宴のあと、おもたせの折箱にあった紅葉なますの赤かぶのあわい塩味が、子どもの舌にも、手のかかったものと判じられての」
そのとき、銕三郎は13歳であった。

参照】2007年6月11日[平蔵宣雄のコスト意識
2007年5月29日[宣雄、小十人頭を招待

手ばやく懐紙に小粒を包み、
「少ないが、板長へ。久しぶりの醍醐味であったと伝えてもらいたい」


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2010.08.17

安永6年(1777)の平蔵宣以(7)

「宝船の雛形をのこしていくのは、どういう意味あいだとおもうかね?」
女将のお(はす 32歳)が去りがたがっているの目の隅におきながら、平蔵(へいぞう 32歳)がお(かつ 36歳)に問いかけた。

「一つには、独りよがり」
「独りよがり---これは、あるな」
平蔵が大きくうなずいた。
それぐらいのことは、平蔵も承知していた。
しかし、おの口をなめらかにするために、あえて、大仰な身ぶりをとったのである。

果たして、おは、
「二つには、盗人仲間への誇示」
「ふむ。あるな」

「三つには、破門した者へのいましめ」
「---なに?」

の思惑によると、〔船影ふなかげ)〕のお頭の忠治(ちゅうじ 60がらみ)は、ちゃんとした盗人ならば守らなければならない三つの掟---

一、盗(と)られて困るものからは盗らない
一、殺傷をしない
一、おんなを犯さない

を配下にしっかりといいつけている。
破った者は、容赦なく放逐する。
そこが〔蓑火(みのひ)〕のお頭とのちがいだと。

喜之助お頭も、三ヶ条は守らせるが、破った者の言い分もちゃんと聞き、納得させたうえで自分から身を退(ひ)かすようにしむけていた。

盃の酒が冷えているのも気がつかないで耳を凝らしていた同心・多田伴蔵(ばんぞう 41歳)が溜め息をついた。

のことは、7年前にあることで〔蓑火〕の喜之助とかかわりがあったが、それは盗(つとめ)のことではない。
喜之助が京都においていたおんなの一人が化粧(けわい)指南師になりたいというので、口をきいてやったらしいと説明してあった。
だから、これ以上、詮索しないこと---と、あらかじめ、多田同心には釘をさしておいた。

平蔵が、おの盃に注いでやると、おがとってつけたように、
「気がきかなくて、相すみません」
あわてて、多田同心の酒を杯洗にあけ、手をうって新しい酒をもってくるようにうながした。

は、お(ゆき 23=当時)と名のっていた時代に、岸井左馬之助(さまのすけ 23歳=当時)とお(28歳=当時)を探したことがあった。

参照】2008年10月17日~[〔橘屋〕のお雪] () (2) (3) (4) (5) (6)

平蔵といっしょに店へきたおをみて見ても、
「あら、お姐(ねえ)さん。お久しぶり」
ほとんど興味をしめさなかった。
色じかけで平蔵をとりこむことは、とっくにあきらめたらしい。
「今夕は、佐左(さざ)さまはごいっしょではなかったのございますね」
の顔色をたしかめながら、長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳 600俵)の名を口にしてみた感じであった。

いまは、〔船影〕の忠治のことを、〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛にどう話すか、胸のうちで思案していた。
そのことを含んで、平蔵は今夕の席を〔蓮の葉(はすのは)〕に決めた。

もう一つ、盟友・長野佐左衛門孝祖とのあいだの深浅を推するねらいも兼ねていた。

参照】2010年7月31日~[浅野大学長貞の異見] () () (

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2010.08.16

平蔵、これまでの盗賊体験(5)

平蔵(へいぞう 32歳)ばかりでなく、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 32歳)、〔(たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 歿年54歳)、おまさ(21歳)にもかかわりがあるのが、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 50すぎ)であろう。

とっかかりは、〔盗人酒屋〕ではじまった。

参照】2008年4月29日~[〔盗人酒屋〕の忠助] () () () () (
2008年6月1日~[{名草〕の嘉平] (
2008年8月27~[〔物井(ものい)のお紺〕] () (
2005年9月2日[女賊おみね
2009年11月30日[おまさが消えた] (

聖典巻21[〔蓮沼(はすぬま)の市兵衛]は、比較的最近の分だから、覚えている方も多かろうが---。

2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () (

名前のついた盗人で聖典に顔を見せている盗人は、400名近い。
しかし、このブログ---すなわち、聖典がはじまる時期---長谷川平蔵が火盗改メ・助役(すけやく)を拝命した天明7年(1787)9月19日以前に首領となっており、逮捕をのがれていた者というのは、なかなかむつかしい。
まあ、天明7年まであと11年もあるから、じっくりと捜してみるが--。

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2010.08.15

平蔵、これまでの盗賊体験(4)

聖典『鬼平犯科帳』に登場している個性的な盗賊のうちで、大物の---
[蓑火(みのひ)]の喜之助(きのすけ 没年67歳)、
[狐火(きつねび)]の勇五郎(ゆうごろう 没年71歳)、
そして、変わり者ではある、
荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)
---と、その配下だった者たちに触れたシーンを再録した。

あと、『鬼平犯科帳』から借りたのが、3,4人ばかりいる。
まず、初代〔墓火(はかび)〕の秀五郎(ひでごろう)。

銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、香華寺が同じ戒行寺の火盗改メ・菅沼攝津守虎常(とらつね 55歳=明和6年 700石)から捜索をたのまれた。

安永6年(1777)のいま、平蔵(へいぞう 31歳)が剣を教え、初体験を打ちあけられた藤次郎(とうじろう 13歳 7000石)も、同族である。
また、藤次郎の初穂をつまんだ奥女中頭の於佐和(さわ 33歳)を引きとって奈良奉行に赴任していった菅沼藤十郎定亨(さだのり 48歳=安永6年)も一門であった。

鬼平犯科帳』文庫巻2[谷中いろは茶屋]に顔を見せているのは、息子の2代目のほうである。 

参照】2009年3月22日[菅沼攝津守虎常] (
2009年3月23日~[墓火(はかび)の秀五郎・初代] () () () () () (

高畑(たかばたけ)〕の勘助(かんすけ)は、文庫巻7[盗賊婚礼]に顔をみせた、〔傘山(かさやま)〕の弥太郎(やたろう)の後見役の老盗賊である。
もっとも[盗賊婚礼]は、寛政5年(1793)2月、火盗改メ・長官の長谷川平蔵が48歳のときの事件であった。
こちらは、銕三郎(てつさぶろう)が24歳のとき、すなわち明和6年(1769)でのことであった。

2009年2月2日~[〔高畑(たかばたけ)〕の勘助] () () () () () () () () () (10

ちゅうすけ注】勘助は、生地は、出羽・高畑と聖典p262 新装版p275 にある。
高畑〕は、戦後は「たかはた」と読む傾向があるが、『旧高旧領取調帳』のデータベース版iに「小貫高畑(おぬきたかばたけ)」(現・秋田県大曲市)とあったので、江戸時代の呼称らしいこれににしたがった。

聖典の巻10の[(かわず)の長助]の元のお頭(かしら)である。

2009年6月25日~[〔神崎(かんざき)〕の伊之松] () () () () 


参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(ながさだ)の異見]  href="../07/post-7f00.html">1) () () () () (

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2010.08.14

平蔵、これまでの盗賊体験(3)

初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎と平蔵(へいぞう)とのつながりは、〔盗人酒屋〕の主(ぬし)・〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)といってもいいかもしれない。
もちろん、その端緒は、〔狐火〕の右腕・〔瀬戸川せとがわ)〕の源八(げんぱち 51歳=当時)であった。

参照】2008年5月28日~[〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七] () () () (

なんだか、脇役からはいってしまったのが、いかにも型やぶりの勇五郎に、うってつけの感じである。

2008年6月2日~[お静というおんな]](1) (2) (3) (4) (

ついでだから、も一人の変わった脇役を加えておこう。
いまの言葉でいえば諜報員。
うさぎ人をあちこちに配置しているところが、いかにも情報を重んじる〔狐火〕らしい。
その器量の大きさは、お銕三郎が乳くりあったことをしっても、〔小浪〕の(1)にあるセリフで許してくれたこひとでもわかる。

[〔うさぎ人(にん)・小浪] (1) (2) (3) (4) (5) (6)  (

銕三郎久栄(ひさえ)との蜜月の宿泊先として、向島の寮を提供してくれもした。
そこでの〔瀬戸川〕の源七との会話。

2009年2月13日~[寺島村の寮] () () () (

銕三郎が父の赴任にさきだって上京したときに、真っ先に訪ねたのも〔狐火〕の店であった。

2009年7月20日~[[千歳(せんざい)のお豊] () () () () () () () () (10) (11

こうして拾っていくと、初代〔狐火〕の勇五郎自身の登場が、〔蓑火〕より少なかったことがわかってしまった。

聖典『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]によると、21歳の又太郎(2代目[狐火])を抱いて男にしてやったのはおまさだという。

順当にいくと、[狐火]は寛政3(1791)の事件になるはずです。
おまさ、33歳
2代目勇五郎、32歳。

又太郎(2代目勇五郎)が、22歳のおまさによって男に脱皮したのは21歳のときとなっている。
寛政3年からさかのぼると、計算上は安永9年(1780)となり、物語の進行では、あと3年後のこと。


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2010.08.13

平蔵、これまでの盗賊体験(2)

荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう)・お賀茂(かも)は、その遺児・お(なつ)まで平蔵(へいぞう)とかかわる。

銕三郎時代にかかわりができた盗賊は数が多い。
年代順に紹介というテもあろうが、ここは、大物中の大物ということで、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助(きのすけ)お頭から---。

最初の出会いは、明和4年(1767)、銕三郎(22歳)が阿記(あき 25歳)の病気見舞いの道中で。

参照】2008年7月25日~[明和4年(1767)銕三郎] (

次に、銕三郎が、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の名を耳にしたのは、

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16


ここで、2人のキャラを補足しておかないと、理解がはんぱになる。

まず、お(なか 33歳)が雑司ヶ谷(ぞうしがや)の〔橘屋〕の座敷女中になり、宿直の夜に銕三郎が訪れることになった、盗人がらみの経緯。
これには、〔初鹿野はじかの)〕の音松(おとまつ)と、その軍師・〔舟形ふながた)〕の宗平(そうへえ)がからんでいた。

〔初鹿野(初鹿野)〕の音松] (1)  (2) (3) (4)  (5) (6) (7) (8) (

賊が持っていた印伝の革袋のこをおぼえていた座敷女中のお留(とめ 33歳)の命が危なくなった。
銕三郎が父の縁を頼って、お(のち、おと改名)を、雑司ヶ谷の〔橘屋〕に入れたはいいが、同行していたとき、舟酔いしたおを休息させた。

2008年8月3日~[〔梅川〕の仲居・お松] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)

も女賊(おんなぞく)だから、省略しないであげておいた。

[〔橘屋〕のお仲] (1)  (2) (3)

上に引いた〔蓑火〕の項目(5)(6)に記した、高輪の牛小屋の騒擾事件で、お(りょう 29歳)に興味をいだいた銕三郎は、

2008年10月21日[お勝というおんな] (

つなぎ(連絡)がついた。


2008年9月13日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] () (
2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (8) (9) 
2008年11月24日[〔蓑火(みのひ)〕一味の分け前
2008年11月24日[屋根舟
2008年11月26日[諏訪左源太頼珍(よりよし)] (

〔蓑火〕の配下の幹部の2人を紹介しておく、

2008年10月8日~[〔尻毛(しりげ)]の長右衛門]  () (
2008年10月10日~[〔五井(ごい)〕の亀吉] () (

2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () () (

2010年7月19日~[〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵かにの書状] () (

2009年1月27日~[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)] () () 

自然に〔狐火(きつねび)〕の初代・勇五郎(ゆうごろう)が並んだ。
次は、〔狐火〕とのかかわりにしたい。

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2010.08.12

平蔵、これまでの盗賊体験

「考えの手がかりだけでもいただければ---」
高遠(たかとう 専九郎 46歳)筆頭与力に頭をさげられては、平蔵(へいぞう 31歳)としても、思案しないわけにはいかない。

さいわい、西丸・書院番4の組に出仕しても、さしたる用務があるわけではなかった。
これまでに出会った盗賊や事件をおもいだし、検討をしていても、頭の中のことだから、だれはばかることなくできた。

人生で最初に出会った盗賊は、そのときは趣味の絵師とおもっていたが、その後、ずっと気になる男女になった。
(あれは宝暦9年(1759)、おれが14歳、お芙佐(ふさ 25歳=当時)に男にしてもらった年であった)
銕三郎は、老中を罷免されて隠居中の本多伯耆守忠珍(ただよし 50歳)のために、[駿河・田中城をしのぶ集(つど)い]の史歴の下しらべに、東海道をのぼっていた。

参照】2007年7月15日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (1) (2)

これをあいだに挿入しないと、話しがつながらないので---、
2007年7月17日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]

2007年7月15日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] (3) (4)

それから4年後の宝暦13年(1763)、銕三郎は18歳であった。
2人目の養女・与詩(よし 6歳)を受けとるために駿府へ旅する途中の小田原で助太郎に再会した。
箱根では、雲助の頭〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 31歳)と里帰りの人妻・阿記(あき 21歳)と知り合い、助太郎につながった。
これも、前段を復元してかからないとも話がつうじまい。

参照】2007年12月29日~[与詩(よし)を迎えに] () () (10) (11) (12) (13) (14) (15

銕三郎の人品に惚れた権七が、〔荒神〕の助太郎の仕事らしいことを告げた。

2008年1月25日~[〔荒神(こうじん)〕の助太郎] ( (5) (6) (7) 

阿記銕三郎の子・於嘉根(かね 3歳)を縁切寺で産んでいたことを知った、銕三郎の母・(たえ 42歳)はあわただしく箱根へ旅立った。
このことを長谷川家へもたらしたのは、〔荒神〕の助太郎とその連れを山抜けさせて関所破りの罪を着せられ、江戸へ逃げてきた権七とお須賀(すが 29歳)であった。
銕三郎は、権七を大伯父で火盗改メのお頭をしていた太郎兵衛正直(まさなお 59歳 1450石)へ引きあわせ、盗賊逮捕を手伝うことで山抜けの罪を免じてもらった。

2008年3月27日~[〔荒神〕の助太郎] (8) (9) (10

この一連の経緯から銕三郎は、助太郎の奇妙な性癖をしった。
まさに性癖---男女の交合のふしぎである。
ところが、ひょんな筋立てから、銕三郎(24歳)は、おんな男の立役のお(りょう 30歳)に初めておんな
の躰の奥の喜びを教えてしまった(このことは、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)や〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)ところでも再録するがとりあえず、ざっと。

参照】2009年1月1日~[明和6年の銕三郎] () () () () (

明和6年、駿府と掛川で、盗難事件がおき、火盗改メ・長山讃岐守直幡(なおはた 58歳の要請)で、銕三郎が出張った。

参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13

2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () (3

明和9年(1772)、江戸庶民が「迷惑(メイワ9)な年にならなければ」と願っていたが、江戸の半分近くが焼ける大火となり、火盗改メ・本役であった父・宣以(のぶため 54歳)が放火犯人を挙げた。
その功績で京都西町奉行に栄転、その赴任に先行するかたちで、銕三郎(27歳)は京へ。
そして奉行所の加賀美同心とともに、荒神口の〔荒神屋〕へ踏みこんが、あっさり逃げられてしまった。

2009年9月13日~[同心・加賀美千蔵] () () () () (

消息を絶っていた〔荒神〕の助太郎を、日光へ竹節(ちくせつ)人参の教えを乞いにいった太作(たさく)が見かけた。

2010年2月24日~[日光への旅] () (

なぜ、こんなに〔荒神〕の助五郎とお賀茂(かも)にこだわっているかというと、17,8年後、おまさ(36歳)が助五郎の遺児・おに誘拐されたらしい(文庫巻24[誘拐]未完)から、その救出までをこのブログの使命としていねからである。

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2010.08.11

安永6年(1777)の平蔵宣以(6)

「奇妙な盗賊がいまして---」
平蔵(へいぞう 32歳)が坐るなり、高遠'(たかとう)筆頭与力(58歳)が切りだした。

先手・弓の7番手、火盗改メ本役の組頭の土屋帯刀守直(もりなお 46歳 1000石)の小石川の江戸川端の役宅玄関脇、控え間であった。
守直との閑談が終わり、帰ろうとしたところを、高遠に足止めされた。

「盗賊はみんな奇妙ですよ。まともなこころの持ち主は盗みなんかしませぬ」
「それはそうですが---」
しごくまっとうな言い分に、高遠筆頭はしばらく言葉につまった。

「どう、奇妙なのですか?」
「獲物をさらって引きあげたあとに、宝船の雛形を置いていくのです」
「宝船の雛形?」
「さしわたしが3寸(9cm)ほどの造ものです」
「実物がありますか?」

出ていき、戻ったときには、一人の中年の同心を伴っていた。
多田さん。お久しぶりです」
平蔵のほうから先に言葉をかけた。

つい1ヶ月前までの足かけ14年ほどのあいだ、弓の7番手の組頭は本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 69歳 1450石)が勤めていたから、西丸・書院番士として出仕する前の平蔵は、番町の屋敷にはよく出入し、ほとんどの組下と顔なじみになっていた。

「高崎の現場へは、手前が出張(でば)りましたゆえ---」
「事件(こと)は、松平右京太夫輝高 てるたか 53歳 高崎藩主 5万7000石)侯のご城下で?」
「ご老中から、とくにとのご要請がありましたので---」
「新年早そう、ご苦労さまでした」
多田伴蔵(ばんぞう 41歳)の祖も、武田方の同心であったと聞いたことがあった。
一族のだれかの引きで、徳川方の拡充・新設の先手組の同心に組みこまれた。

多田同心によると、宝船の雛形をのこしていく盗人は、上野(こうずけ)や甲斐、信州、越中でばかり知られた存在で、初代を〔船影ふなかげ)〕の忠治(ちゅうじ 60代)といったが、いまは息子で2代目を継いだ忠兵衛(ちゅうべえ 30代)が首領となってかせいでいるらしい。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻18[一寸の虫]のサブ・キャラの〔船影〕の忠兵衛がその人物。

高崎城下でやったのは、あら町の旅籠〔越後屋〕で、絹市(きぬいち)の客たちの仕入れ金をねらった大がかりな盗(しごと)みであった。

旅籠〔越後屋〕では、絹市が立つ前後は一見(いちげん)の客はとらない。
それを見こんで3年前から季節はずれの時期に、奥州の種紙問屋〔あぶくま屋〕の番頭・茂兵衛(30代後半)というふれこみで投宿し、顔なじみとなったうえで、初市どきにやってき、ふとん部屋でいいからと泣きついたため、ほだされて泊めてやると、その男が引きこみであったという。

その夜、気がついてみると、20人ばかりの黒装束で抜き身の男たちが寝巻のままの宿泊客を一部屋へつめこみ、亭主・八兵衛をおどして客たちが帳場へ預けた総計1,540両を取りあげて逃げた。

藩としても、城下町のにぎわいを支えている絹市の信用にかかわると、火盗改メに出張りを、次席老中の藩主をうごかし、要請したらしい。

「申しわけないが、いまは西丸の番士なので、部屋住みのかつてのように、なかなか暇がとれませぬ」
「重々、お察ししております。が、考えの手がかりだけでもお示しいただけば---」
「考えておきます。多田さん、それより、一夕、お付きあいください。お帰りが遠くなりますが、深川あたりで---」
「いつなりと、ご指定ください」


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2010.08.10

安永6年(1777)の平蔵宣以(5)

「〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)どんには、何事もお隠しにならないで、ご相談なさいませ」
新任の先手頭・火盗改メの土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の問いかけに、平蔵(へいぞう 32歳)が名をあげると、
「江戸川ぞい一帯をシマにしている元締であったな?」
「殿さまのお屋敷の近くの牛天神も〔音羽〕の「縄張りのうちです」

牛天神(現・春日天神社 文京区春日1-6)を、ものの本はこう書き記している。

小石川上水道の端(はた)にあり、一に金杉天神(かなすぎてんじん)とも称す。この地を金杉と唱ふるによりてしか号(なづ)く。古(いにし)へは金曾木(かなそぎ)に作る。(中略).
別当は天台宗にして泉松山(せんしょうざん)竜門寺(現在はない)と号す。

牛天神の由来は、裏門の坂の下り口に牛の寝すがたに似た巨石(こせき)があったことによるが、いまは拝殿の左にあげられている。

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(牛天神・諏訪神社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

「シマのうちでは、やはり護国寺と護持院からのあがりが大きいかろうのう」
「そこもにぎわい土地(どころ)ですが、音羽の町の店々、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしんもじん)からのあがりもばかにできませぬ」
香具師(やし)たちの実(み)入りの経路については、平蔵は、あたりさわりのないように気をくばりった。
「〔音羽〕の元締は、お人柄で府内の元締衆から信頼をうけております」
「裏(うら)の町奉行だな」
(「裏の町奉行」とは、至言である)

ちなみに、このときの表の町奉行(3000石格)をあげておこう。
(着任年-退任年 あしかけ在職年数 安永6年の年齢)


牧野大隈守成賢(しげます 64歳 1500石)
 宝暦5年(1755)-天明4年(1784) 30年 
北 
曲渕甲斐守景漸(かげつぐ 53歳 1650石)
 明和6年(1769)-天明7年(1787) 28年

ちゅうすけ注】武田系の出世頭の一人---曲渕景漸については、平蔵宣雄が小十人頭に出世したとき、先任同僚として祝儀の料亭接待に招いた一人として、記述がある。

2007年5月29日[宣雄、小十人頭を招待
2007年5月30日~[本多紀品と曲渕景漸] () (
その後、町奉行時代の曲渕景漸については、
2007年8月30日町奉行・曲渕甲斐守景漸(かげつぐ
2007年9月1日[天明7年5月、御庭番風聞書

「もう一人、〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 47歳)どんも、亡父(宣雄 のぶお)は篤く信頼しておりました」
「ほお。備後守どの月旦(人物評価)なら信用度が高い」
ほめられたのだか、平蔵を軽くみられたのだか、複雑なおもいで受けた。

「その〔愛宕下〕のは、先刻はどのあたりの座にいたかの?」
「最後尾(どんじり)に。目立ちたがらい人柄なのです」
「こんど、それとなく引きあわせてもらいたい」
「かしこまりました」

言葉をつないだ。
「組頭さまのご先祖がお仕えになっておられた信玄公は、味方に取りこまずともよい。敵にまわすな、と配下に申されていたと聞いております。元締衆を敵にまわすと、大きなご損が生じます」
長谷川うじ。いつ、『甲州軍鑑』を学ばれたかの? 長谷川家の祖は、今川の重臣とご本家の太郎兵衛正直 まさなお 69歳 1450石)どのから伺っておったが---」
訊かれたが、お(りゅう 享年33歳)の名を告げわけにはいかない。
(おは、おれが戒行寺の墓所へ入るのを、先に鎮座して待っていてくれている)

【参照】2008年9月13日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜] () (
2008年9月1日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] () () (
2008年11月1日[甲陽軍鑑] () () (
200811月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月24日[〔蓑火(みのひ)一味の分け前
 
「われが着任するまでの先手の組頭であった、ご本家の太郎兵衛 どのは、組下をじつによく鍛えておいてくだされた。お礼をお伝えくだされ」
「こころえました」

閑談は終わったと平蔵はこころえた。
あいさつをし、席を立って玄関までくると、送ってきた筆頭与力・高遠弥太夫(やだゆう 58歳)が脇の控えの間の襖に手をかけ、
「お急ぎでなくば、寸時、お耳を拝借いたしとう---」

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2010.08.09

安永6年(1777)の平蔵宣以(4)

「書院で、閑談でも過ごしていかれよ」
火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)が誘(いざな)った。
「ご好意に甘えさせていただきます」

守直は、煙草盆を引きよせ、煙管に火をうつした。
煙草盆の灰おとしに炭火がしこまれているらしい。

「召されるのであれば、煙管をお貸し申すが---」
「不調法でございまして---」
平蔵(へいぞう 32歳)は、亡父・宣雄(のぶお 享年55)が喫煙をゆるさなかったことは打ちあけなかった。
柳営では火事を忌避して禁煙になっており、勤務中に隠れて吸うのは見ぐるしいから---というのが理由であった。
そのことを、いま、煙管をくわえている守直に打ちあけるのは礼を失することになる。

「組頭さまにお教えいただきたいことがございます。お声は、いかにしてお整えになりましたか?」
信玄公の麾下(きか)にあって使番を勤めていた祖から伝来の声の使い方、鍛え方があり、声変わりする前の幼少のおりから、朝夕、声を発して鍛えさせられる。寒気のきびしい冬は、喉が乾きすぎててひりひりしたものでな」
「お教え、ありがとうございました」
「煙草は、声には毒薬じゃがな。どうにもな---。そのことより---」

帯刀守直は、去年、日光山ご参詣の目付の任に就いていたとき、宇都宮の宿で老中・田沼主殿頭意次(おきつく 59歳)侯から聞いたことだが、その前年に、日光道中ぞいの麦畑の畝(うね)づくりを、往還路に対して直横ならびにしつらえるように進言なさったのが平蔵と知り、ほとほと、感じ入っていた告げた。

参照】2010年6月12日[麦畑の畝(うね)]
2010年6月24日~[遥かなり、貴志の村] () (

この話には、同席していた高遠(たかとう)筆頭与力(58歳)のほうが驚き、あらためて、平蔵を見なにおした。
(これで、これからの探索しごとが、少しはやりやすくなるかな)

平蔵は、お返しに、土屋守直の裸馬のことをもちだした。
右近将監さまが、櫓(やぐら)にお昇りになる癖がおりになることを、いかにして、お見ぬきになったのですか? おさしつかえなければ、後学のためにお洩らしいただけませぬか?」

大きく笑った守直は、
「さしたることではない。館林侯が隣家におわたりになることはしっておったから、僕(しもべ)に小金をにぎらせ、お癖と日時を洩らさせただけのこと」
得意の面相が、しばらくつづいた。

「ところで、私ごととしてお訊き申すのだが、本日、わが手札を下賜した香具師(やし)の元締たちのうちで、われの味方になってくれるのは---?」
「はっ---」
(ついに、土屋守直どの本音(ほんね)が出たな)
しばらく考えるふりを装いながら、どういえば効果的かを、平蔵は、考えた。

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2010.08.08

安永6年(1777)の平蔵宣以(3)

(数いる使番の中から、お上・(家治 いえはる)の日光山ご参詣のときに目付に選ばれたのも、参列された老中・首座の(松平)右近将監武元 たけちか 65歳 上野国館林藩主 6万1000石)さまの意向に、若年寄衆がそったのであろう)

平蔵(へいぞう 32歳)は、待っているあいだ、襖絵の松樹に目をやりながら、この屋敷の主(あるじ)の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)と閣僚たちのあいだからにおもいをはせていた。

高遠(たかとう)筆頭与力(58歳)が招じにきた。
「やっと、お身がおあきになりました」

案内されたのは、中庭に面した書院であった。

驚いたのは、小さな白洲に、それでも茣蓙が敷かれ、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)を先頭に、元締たちがひかえていたことであった。

参照】火盗改メ・役宅の白洲 2008年2月18日~[本多采女紀品(のりただ)] () 

平蔵が控えの間にいたあいだ、元締たちは急ごしらえで炭火もない内腰掛け所で待たされていたに違いない。
高遠与力たちからみると、香具師(やし)というのは、まともな町人ではないということであろう。

付きそってきているはずの小頭たちは、外腰掛けに待機を命じられているのか、白洲にはいなかった。

(このあたりの気くばりが、弓の2番手の(たち)さんや脇屋与力とちがうところだ)

高遠筆頭与力の横に、平蔵の席がつしらえられていた。

音羽〕の重右衛門をはじめ、〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 30歳)、(〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(ゐへえ 30歳)、〔愛宕下(あたごした)〕の伸造(しんぞう 47歳)といった、とりわけ親しくしていた元締衆が目礼のあいさつをおくってきた。
平蔵も、気づかれないように、まばたきで返した。

組頭・土屋帯刀守直があらわれた。
前もって申しわたされていた元締衆が平伏した。
44歳の帯刀守直は、眉毛が太く、鼻の高い、意思の強そうな面体をしていた。

「殿からお言葉がある」
同心筆頭・村田吉五郎(きちごろう 52歳)がおもおもしく口をきった。

「世話になる。お上のために、これまでと変わりなく、助(す)けてもらいたい」
口上は、それだけであった。
が、声は、使番に選ばれていただけあり、低いが澄んでよく透る、歌舞伎役者のような口跡であった。
 
あとは、村田筆頭同心が、順に住まっている町名と通称を呼びあげ、ひとりずつ進みで、高遠筆頭与力から「土屋帯刀守直」という署名と花押を筆書きした手札を拝領し、もとの茣蓙席へ戻った。

おもいがけなく、高遠筆頭がうながした。
「夜廻りをご発案の、長谷川どのからも、ひと言---」

平蔵は、苦笑でごまかしながら、
土屋のお頭さまのご期待にそむかぬよう---。とりわけ、〔花園(はなぞの)〕の肥田飛(ひだとび 32歳)の元締どの、ご承知のこととはおもいますが、こちらの組のお歴々の組屋敷は関口・角筈(つのはず)です。お歴々の屋敷へ押しいる頓馬な賊はあるまいとおもうが、精ぜい、気をくばっていただきたい」

元締衆の席から笑い声がおきた。
とりわけ、名指しされた〔花園〕の肥田飛の満足げな笑声が大きかった。

一瞬にしてやわらいだ雰囲気につられたように、
「組屋敷ばかりではない。余のこの屋敷を見廻ってくれるのは---?」
即座に、平蔵がそえた。
「〔音羽〕の重右衛門どの、です」
「おお。重右衛門どの。よろしく頼みますぞ」

平伏した重右衛門の肩がふるえていた。

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2010.08.07

安永6年(1777)の平蔵宣以(2)

「じつは、当方から時刻を指定させていただきながら、突然の来客がありまして。そろそろ終わるころとおもいます、申しわけにありませぬが、しばらくのご容赦を---」
筆頭与力・高遠(たかとう)弥太夫(やちたゆう 58歳)が、さほど申しわけなさそうな表情もしないで謝り、部屋を出ていった。

火盗改メ・本役のお頭の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の役宅(屋敷)の控えの間である。

参照】2010年8月4日~[先手・弓の2番手組頭の謎] () (

同心見習いらしい若者が茶と煙草盆をさしいれてきた。
「煙草は不調法で---」
平蔵(へいぞう 32歳)が断ると、不思議なものを見るような目つきをし、煙草盆は引きさげた。

帯刀守直があらわれるあいだ、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 59歳 150俵)がとどけてけてきた土屋家についてのあれこれを反芻した。

参照】2008年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)] () (
2009年1月6日[明和6年(1769)の銕三郎] (
2010年8月4日[安永6年(1777)の平蔵宣以] (

帯刀守直は、使番から43歳の若さで先手・弓組の組頭へ抜擢された。
先手の組頭は、すごろくでいうと、番方(ばんかた)の[あがり]か、そのひと目前といわれている。

もちろん、土屋守直や奈良奉行へ転じた菅沼藤十郎定亨(さだゆき 45歳=発令時 2025石)のように40歳代で任じられると、前途は洋々といえた。

ちゅうすけ注】亡父・宣雄は48歳で拝命し、54歳で京都西町奉行へ栄転した。
平蔵宣以(のぶため)が抜擢されたのは、これから9年後の、41歳での辞令で、とりわけて早かった。

参照】2008,年11月10日~[宣雄の同僚・先手組頭] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) () (8)

守直は、21歳で書院番士であった亡父の遺跡を継いだ。
翌年、西丸の書院番入りしたが、10年近く塩漬けののち、使番にとりたてられ、ここでも11年間、次の席を待った。

この風聞は、書院番士のときのことか使番であった時期のことかは、定かでないのだが---、

土屋家の近隣に、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)のむすめが嫁いでいた大名の藩邸があった---という。

松平豊後守忠泰(ただやす 享年27歳 桑名藩つながり)か、松平和泉守乗完(のりさだ 西尾藩主)か、安藤対馬守信成(のぶなり 磐城平藩主)なのか。
ただ、飯田町あたりには上記の藩の上屋敷や中屋敷は見あたらない。
他の姫の嫁ぎ先かもしれないが、まあ、とにかく、藩邸に火見櫓があり、むすめに会いに行くたびに、武元侯は櫓にのぼって市中を見おろした。

眼下には、土屋家の庭馬場があった。
と、下帯一つの武士(?)が馬を乗りこなしているのが目にはいった。
素裸なので、武士がどうかは見分けられなかったろう。

その馬術のみごとさに、氏素性をたしかめると、屋敷の主・帯刀守直であり、祖は、武田信玄の使番12人中の1人であったことがわかり、それが出世の糸口になったと伝わる。

老中・武元の習癖をのみこんでの守直の異態てあったことはいうまでもない。

武田軍の使番なら、戦場を馬で疾駆するのは当然であろう。
土屋家が徳川方に誓詞をさしだしたときの武田時代の職は、近習とあった。
名門といえる。


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2010.08.06

安永6年(1777)の平蔵宣以

安永6年(1777)が明けた。

長谷川平蔵宣以(のぶため)は、32歳となった。
内室・久栄(ひさえ)は、25歳。
嫡男・辰蔵(たつぞう)、8歳。
長女・(はつ)、5歳。
次女・(きよ)、2歳。 
母・(たえ)、52歳。

そろって息災に、雑煮で祝った。

本家の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 69歳)へ祝賀の辞をのべに、辰蔵を伴って訪問したところ、新しく組下となった先手・弓の2番手の与力たちが屠蘇をふるまわれていた。
筆頭与力・脇屋清助(よしのり 49歳)をはじめ、高瀬円蔵(えんぞう 41歳)、岡田勇蔵(ゆうぞう 37歳)、服部儀十郎(ぎじゅうろう 33歳らの末座に控えていた与力が、
(たち)朔蔵(さくぞう 33歳)でございます」
名乗ってから、
「父が、いこう、お世話にりましたそうで---」
「いや、お世話をこうむったのは手前のほうでした。本年も、大伯父をお助けくださるように---」
座の一同に頭をさげた。

もう、顔を赤くしていた正直が、
「おととい、柳営で、土屋帯刀守直(もりなお 44歳=安永6年 1000石)に会ったら、次席与力から、そなたに会うようにすすめられていると申されていたぞ。なんでも、夜廻りの助(す)けのこととか---」
脇屋筆頭が片目をつむって合図をよこした。

3日。
恒例の猿楽の緡(さ)し積みのときの衣裳は、紅緋(べにひ)できめた。

ちゅうすけ注】 熨斗目麻裃

A_360

参照】2010年6月18日[進物の役] (

あとで、与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)から、
「太夫から、目立たんばかりの色の大紋・長袴の進物の番士は、どちらのご子息か、と訊かれたと、番頭が仰せであった」

新年の諸行事が終わったころ、先手・弓の7組の筆頭与力の高遠(たかとう)専九郎(せんくろう 46歳)から、1月16日前後で躰があいている日の八ッ(午後2時)に役宅へお出向きくださらないかといってきた。

役宅とは、土屋守直の屋敷のことであるから、このときは、小石川・江戸川端であった。
土屋家はその後、なぜか、小川町広小路、飯田町中坂下と届け出を変えている。

16日は、たまたま非番であったので、指定された時刻に門番に訪(おとない)と告げると、高遠筆頭がじきじきに出迎え、玄関脇の控えの間へ通された。

組頭・土屋帯刀守直邸を訪れるのに日数があったので、いつものように、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 59歳 150俵)に遣いをやり、武田系土屋家のおおよそを求めた。
初めて会う幕臣にまつわるあれこれの予備知識を仕入れ、会話に齟齬(そご)をきたさないようにするためであった。
そのための費(つい)えは惜しまなかった。
 
参考】2008年9月29日~[書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら)] () (
2009年1月6日[明和6年(1769)の銕三郎] (
2009年12月26日[茶寮〔貴志」のお里貴(りき)] (

費えをおしまないばかりか、平蔵は去年の半ばあたりから、主馬安卿の評をいささかあらためていた。
遣いから帰ってきた松造(jまつぞう 26歳)から、こういう話を聞いた。

和歌を好んでいる主馬安卿が、近在へ郊行したとき、農家の庭で枝を四方へひろげていた松樹を見かけ、その家のぬしに、買いとたいとかけあった。
農家のぬしは、移栽もできない樹に妙なことをいう仁だとおもいながら、10両(160万円)とふっかけてみた。
安卿はすぐさま懐中から金をだして支払って帰っていった。
売り主が奇妙とおもっていると、日ならずして、安卿は侍僕に酒食や敷物をもたせてあらわれ、松陰に坐し、終日鑑賞諷詠して飽きなかった。
それからというもの、春秋のおだやかな季節にはかならずあらわれて和歌を詠むのがしきたりとなった。

この話を、主馬安卿の侍僕から聞いた松造は、
「まさに、清韵高致(せいきんこうち)の方です」
平蔵は笑って、
「うむ。その幾枝かの代は、わしが支払ったようなものだがな」

長谷川主馬安卿の和歌に、冷泉(れいぜい)から褒詞を加えられたのにこういうのがある。

 五月やみともしの鹿は中々に月を待(まち)てや身をかくすらむ

照射(ともし)の歌によいものがないと嘆いた友人に、即興で詠んだものと伝わっている。

書き忘れるところであった。
安永6年から2年目の11月晦日、安卿は61歳で歿した。
辞世の歌は、

 おき明す霜夜の鐘に心すむ浮世の夢のあけ方の空

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』文庫巻14に[五月闇]、巻16に[霜夜]という好篇があるのは偶然であろうか。
池波さんが、長谷川姓の幕臣を片っぱしから調べていて、長谷川主馬安卿の逸事にゆきあったとかんがえるのは、かんがえすぎかもしれないが。


_360
(書物奉行・主馬安卿の個人譜には逸事の記録はない)


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2010.08.05

先手・弓の2番手組頭の謎(2)

遠国(おんごく)奉行としては、京都、大坂が1ランク上で、1500石格 役料・現米600石。
奈良、長崎、山田、佐渡は1000石格、役料1500俵。
だから、平蔵宣雄(のぶお 享年55歳)の京都西町奉行は、たいへんな抜擢であった。

菅沼藤十郎定亨(さだゆき 47歳 2025石)は、持高勤めで、受けとれるのは役料1500俵。
しかし、藤十郎定亨にしてみると、召使い頭・於佐和(さわ 32歳)を伴っていたとはいえ、体調がおもわしくないのに、長い旅程、不馴れな土地での暮らしが寿命をちぢめたろう。

参照】2010年7月25日[藤次郎の初体験] (

先手組頭と遠国奉行の奈良奉行の幕臣としての違いは、前者が番方(ばんかた 武官)のあつかいであるのに、遠国奉行は役方(やくかた 行政官)ということであろうか。
戦火が絶えて久しい安永のころ、どちらかというと、役方のほうが内実は、重く見られていたと見るのだが。

菅沼定亨の奈良奉行への転出に、香具師(やし)の元締たちに夜廻りの手札を下げわたしたことがかかわったとはおもえない。
咎められたのであれば、出仕の差しひかえが、まず、くる。
藤十郎定亨の〔個人譜〕には、そのような記述は見あたらない。
出仕の差しとめの記載はない。

菅沼定亨が赴任地へおもむく前に、平蔵(へいぞう 31歳)は、小石川大塚の屋敷へお祝いの品を届けた。
定亨は諸方へのあいさつへ出向いていて留守をしていたが、与力筆頭の脇屋清吉(きよよし 48歳)が迎えてくれ、
土屋さまがご着任になる弓の7番手の筆頭与力・高遠(たかとう)どのが、長谷川さまのこと、ご存じでした」
「次席から筆頭におなりでしたか。ずっと以前に、〔初鹿野(はじかの)〕という盗賊のことで、かかわりをもったことがありました」

参照】2008年3月31日~[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (1)  (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (

「そうだそうですな。なつがしがっておられました」
(歳月がたつと、よけいな枝葉がおち、ものごとが美しくみえてくるものらしい)

「あの組は、番町の大伯父の太郎兵衛正直が組頭をしておりましたから、高遠どのもそれなりに気を遣ってくださり---」
「新しいお頭の土屋帯刀さまに、平蔵どのを推薦しておくと申されておりました。それと、元締衆への手札も、高遠どのがお手配なさるそうです」

_60「それから」と、脇屋筆頭が、菅沼家の釘抜の定紋を染め抜いた紫のふくさに包まれたものを、
「お頭から、平蔵どのへ、記念にと---」(釘抜の家紋)

包まれていたのは、火盗改メの長官用の銀ながしの長い十手であった。
「釘抜は、わが家の替え紋です。ふくさともども、大切にお預かりいたしすと、お礼をお伝えください。それから、くれぐれもお体、おいたわりになりますようにと---」

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2010.08.04

先手・弓の2番手組頭の謎

里貴(りき 32歳)に帰郷されしまった安永5年(1776)は、長谷川平蔵宣以(のぶため 31歳)にとっては、厄年であったといっていい。

もちろん、4月に日光山参詣の念願がかなった将軍・家治(いえはる 40歳)には、豊年であったろう。

あと20日もたたないで安永6年にあらたまるという12月12日から14日にかけて、長谷川本家平蔵にかかわる、奇妙な人事が行われた。

徳川実紀』から牽(ひ)く。

十二日 この日、先手(鉄砲(つつ)の16番手組)頭・小笠原兵庫信甫(のぶやす 39歳 2600石)小普請組支配となり。奈良奉行・小菅備前守武第(たけくに 68歳 1500石)先手(鉄砲(つつ)の16番手)頭となり。先手(弓の2番手)頭・菅沼藤十郎定亨(さだゆき 47歳 2025石)奈良奉行となる。使番・土屋刀帯守直(もりなお 43歳 1000石)先手(弓の2番手)頭となる。
( )および「・」はちゅうすけが補った)

ここまでは、なんの不思議もない。

十四日 先手(弓の2番手)土屋帯刀守直に捕盗を命ぜらる。

これも、あたりまえの任命であった。

ところが、『柳営補任』の先手・弓の2番手の項に、

菅沼藤十郎定亨
安永3年3月20日西丸御目付ヨリ
 直ニ火附盗賊改加役
同  5年12月12日奈良奉行

土屋帯刀守直
安永5年12月12日御使番ヨリ
同年   12月14日太郎兵衛と組替

長谷川太郎兵衛正直
安永5年12月14日他組ヨリ組替
同  7年 2月24日御持頭

つまり、菅沼藤十郎定亨組頭の後任として発令された土屋帯刀守直は、2日後に、弓の7番手へ転じ、その7番手の組頭であった長谷川太郎兵衛正直が弓の2番手へ移動したのである。

太郎兵衛正直は、宝暦13年(1763)8月15日から13年間、先手・弓の7番手の組頭を、さしたる落度もなく勤め、そのあいだに2度、火盗改メを命じられていた。

土屋守直のほうも、発令わずか2日で組替えされるほどの落度ということも、まず、ありそうもない。
ありそうもないどころか、土屋守直は、若いときに老中・松平右近将監武元(たけちか 館林藩主 6万6000石)に引きたてられ、つぎつぎと要職をこなした仁であった。
老中に才を認めさせた逸話はのちに詳述する。

とすると、問題は組下の側にあったと推定するしかない。
2番手側か、7番手側か。
たぶん、2番手側であろう。

柳営補任』の菅沼定亨の項に、再度、目をやっていただきたい。
組頭着任と同時に、「直ニ火附盗賊改加役」とある。

「加役」というのは、編者の誤記である。
この役称は、火盗改メの冬場に発令される火盗改メ「助役(すけやく)」に使う。
菅沼定亨は、ずっと本役であった。
その期間は、2年近くにおよんだから、組下の与力・同心たちも疲労困憊であったろう。

この人事異動は、定亨にとって左遷かというと、遠国奉行の奈良奉行は1000石高に役料1500俵、先手・弓の組頭は1500石格だから、家禄2025石で持ち高づとめをしていた定亨とすると、奈良奉行としての役料が入るだけ収入増といえる。

そういった詮議より、鬼平ファンとしては、太郎兵衛正直がこの組替えで弓の2番手に転じたことにより、その後、平蔵が組頭に任じられる筋道がついたことのほうを喜ぶべきであろう。

平蔵が組頭に就任したときには、いつかも紹介したように、2番手組は、゛平蔵以前の50年間で火盗改メの経験がもっとも長い組になっていた。
その経験と平蔵の名采配により、江戸期を通じて最高の火盗改メという名誉をもたらしたが、これは10年のちの物語である。

参照】2006年5月12日[平蔵の後釜に座る] 

もっとも弓の2番手は、土屋帯刀守直および太郎兵衛正直が組頭に就任した時点では、火盗改メの通算経験は、さほど豊かとはいえなかった。

ついでだから、あるとき、平蔵が菅沼藤十郎定亨と大伯父・太郎兵衛正直について話した記録を掲げておく。

参照】2010年5月28日[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨] (
(菅沼藤十郎定亨の個人譜つき)

もっとも菅沼定亨も離任時には、火盗改メの任期は21ヶ月に達し、太郎兵衛正直のそれと並んではいた。

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2010.08.03

[白蝮{しろまむし}]あるいは[はぐれ鳥]

2010年8月1日のSBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル内)[鬼平クラス]のテキストは、文庫巻12[白蝮(しろまむし)]であった。

クラスは講義の1時間半につづき、映像鑑賞。
ところが、ビデオ・テープの手持ちがなかったので、ともに学んでいる市川恭行さんにDVDを依頼した。

映像版は、タイトルが[はぐれ鳥]に変わっていた。
白蝮]は、この篇のヒロインである津山薫こと、森初子を象徴したものであるが、いまの若い世代は「まむし」蛇なんか見たこともないとの判断であったのか、あるいは彼女を世間からはぐれた存在とみたのか、そのあたりは、不明。

聖典では、物語は谷中の私娼街いろは茶屋〔近江屋〕からはじまる。

Photo_305
〔いろは茶屋〕。遠景は五重塔(『歳点譜』を彩色 塗り絵師:ちゅうすけ)

18歳の売れない妓とたわむれるのは辰蔵(たつぞう)だが、映像版では、巻2[いろは茶屋]での遊客であった同心・木村忠吾に代えられていた。 

参照】2007年3月4日[兎忠の好みの女性

ま、そのあたりは、物語の進展にはあまり影響しない。

聖典のクライマックスは、松尾喜兵衛師のもとでほとんど勝てたことのない澤田小平次が、森初子を斃すシーンのはずだが、小平次役の真田健一郎さんの体調が殺陣(たて)を許されないほどに悪化していたのか、原作にない人物がピンチヒッターとして書き加えられていた。

ま、それも万やむをえなかったろう。

決闘は、指ヶ谷(さしがや)に近い白山権現(現・文京区白山5-31)の山門前あたりでおこなわれた。

405_360
(白山権現 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

池波さんは、この絵に感興を刺激され、印判師でもある初子を指ヶ谷に住まわせたにちがいない。

ところで小平次初子がともに究めたことになっている小野派一刀流だか、綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大辞典』(新人物往来社)によると、

_150 小野次郎右衛門忠明(別名 神子上
 (みこがみ)典膳)の子、小野次郎右衛
 門忠常以降を小野派一刀流という。
 御子神(寛永系図)と書くのは誤りで、
 神子上(寛政呈譜)が正しい。
 勢州出身(武芸小伝)、信州出身(増
 補英雄美談)という説も正しくない。
 大和の十市氏の後裔で、上総国夷隅
 (いすみ)郡丸山町神子上の地に来て
 郷士となるも、やがて里見家に仕えた。
 (中略)
 伊藤一刀斉の推挙で徳川家康に仕え、
 嗣子秀忠の師範となっている。

む? 十市---かすかに記憶がある。
信長が本能寺で自死し、そのことを堺からの帰路で聞いた家康の一行が、急遽、伊賀越えを決心して駿府へ帰るとき、最初に懐柔したのが十市氏ではなかったか。

参照】2007年6月18日~[本多平八郎忠勝の機転] () () () () () (

ま、そういう古い話は措(お)こう。
長谷川平蔵と小野家とのかかわりである。
高杉銀平師も一刀流であった---などという小説の中のはなしではなく、史実である。

上に名がでた次郎右衛門忠常から四代後裔の次郎右衛門忠喜(ただよし 54歳=天明6年 800石)は、長谷川平蔵宣以(のぶため 41歳=天明6年)が先手組弓の2組頭へ栄進したとき、彼は先手鉄砲(つつ)の17組の組頭であった。

次郎右衛門忠喜が先手組頭に任じられたのは、天明3年(1783)だから、この職は平蔵より3年先任になる。

そのとき、辰蔵は18歳、市ヶ谷・左内坂上の念流・坪井主水の道場で8年も稽古しているから小野派へ変わるわけにはいくまいが、平蔵自身は、一刀流だから、次郎右衛門忠喜と剣の道の奥深さについて談義しているやもしれない。


Photo
(小野次郎右衛門忠喜の個人譜)


        ★     ★     ★

雑話】新聞によると、墜落ヘリの現場取材に行った日本テレビの記者とカメラマン溺死体が発見されたのは、秩父市大滝。
秩父市大滝には〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵がらみで取材にいったことがある。
地蔵橋でガイドと別れて山へ入っていって遭難したと報じられている。

大滝〕←クリック

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2010.08.02

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(6)

布団のかたわらに、皺になった桜紙が10ヶ近くも散らかっていた。

(へい)さまは、火盗とお親しいのですか?」
「火盗---? ああ、火付盗賊改メか。そういえば、もう5年も前のことだが、(だい)の頼みで、が安房国朝夷郡(あさいこうり)へ盗賊を捕まえに、そのときの火盗改メのお頭(かしら)・永井---おれとは字がちがう、永遠の「永」の永井采女直該(なおかね 52歳=当時 2000石 鉄砲(つつ)組の4番手組頭)さまの組下の同心と出張(でば)ったことがあったな」

参照】2009年5月16日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (
2009年5月21日~[真浦(もうら)の伝兵衛] (1) (2) (3) (4) (5) (6) () (

深川・海辺大工町の一劃---本誓寺の脇の二階家であった。
小料理〔蓮の葉(はすのは)〕の女連れの客のために整えられているのだという。

真夏の宵らしく、蚊帳の男女は巣裸で、腰のあたりにさえ布もまとわず、あられもない。
もちろん覗いているのは、行灯の細くした炎だけであった。
凝脂(ぎょうし)がみなぎった肌をさらしているおんなは、〔蓮の葉(はすのは)〕の女将のお(はす 31歳)。
同年配とみえる男は、幕臣で西丸・書院番3の組の番士の長野左左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)であった。

さまは、おんなは---?」
「おいおい---」
「そうじゃ、ないんです。奥方をお貰いになるまえにいらっしゃったんです、雑司ヶ谷の料理茶屋の座敷女中だった人---」
「知らなかったなあ」
「大年増---30も半ば---あら、わたしはそのころ、20(はたち)を出たばっかり---。なんですか、指をおって数えたりして---」

銕三郎(てつさぶろう 平蔵の家督前の名)が事情があって、お(なか 34歳=明和5年)を雑司ヶ谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛に頼みこみ、住みこみの座敷女中に雇ってもらったのは、8年前であった。

参照】2008年8月4日~[〔梅川の仲居・お松] () () () (
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () () () () () () () (
2008年8月29日[〔橘屋(たちばなや)〕忠兵衛]

「すると、おどのは29歳?」
「齢など、どうだってよろしいではないですか。佐左さまより齢上ってこはありません。お互い、これに満悦すればいいのです」
おとこの両股に差しいれていた太腿を軸に、上にのしかり、舌を差しいれた。

「そろそろ、お眠(ねむ)にしますか?」
「眠いのか?」
「わたしは大丈夫ですが、佐左さまには、明日のお勤めがおありでしょう?」
「ひと晩くらい、眠らなくても---」
「たのもしい」

腰を浮かせ、位置をきめながら、
さまに、いま、おんなは?」
「また、のことか。あいつは、年増にもてるのだ。なんでも、息子が剣術を習っている大身の後家に口説かれているとかいっていたが、どうなったことやら---む」
「膝の内側を引いてください」
「こうか?」


_360_2
(栄泉『艶本華の奥』部分 イメージ)

参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () (

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2010.08.01

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(5)

「いい人---?」
佐左(さざ)が聞きとがめた。
今宵、こうしてじゃれあっていても、佐野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)には、お(はす 31歳)の情人(いろ)になったという実感はない。
色欲のつよいおんなに、たまたま出会い、しばしの出事(でごと 交接)を悦しんでいるだけだと、あきらめている。

「いい人になってくださいますか? こんな好色婆さんでは、お嫌でしょう?」
「嫌ではないが、すぐにというわけにはいかない」
佐左は、茂みから指を離した。
の手がそうさせなかった。

「おことほどのおんなに、うしろ楯がいないはずがない。今宵のことは、はずみとおもっている」
「悲しいことをおっしゃいます。はずみなんかで、こんなこと、できましょうか?」
「おれのどこが---金はないし、権力もない」
「ここに、お力が---」
指がつまんで、動きはじめた。
刺激され、佐左の指も芝生の溝をひらき、潜る。

不思議なことに、最初のときよりも、快感が昂(たか)まっていた。
(早くも、おの躰に馴れはじめたらしい)

「行水を、いいつけてきましょうか?」
「いや。このままでいい」

「先だっての浅野さまのお話、感動しました。お身内の方を、あんなふうに、冷静に見られるのかって---」
(だい)は、なにごとにも醒(さ)めており、その目で対策を立てる男なのだ」
佐左さまは?」
「おれは、疑い深い」
「こうなっても---?」
「そうだな」
指が乳頭をなぶっている。
おんなの太股が差し入れられてきた。

「今宵のこと、(へい)さまだけにはおっしゃらないでください」
「誰にもいわないが、どうしてなんだ?」
「あの方、わたしの前のお勤め先のご主人とお親しいんです」
「前の勤め先---?」
「雑司ヶ谷(ぞうしがや)のほうの料理茶屋」

腰が押しつけられ、佇立していたものが迎え入れられた。


参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(ながさだ)の異見] () () () () (

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