« お静の死(2) | トップページ | 西丸・書院番3の組の番頭(2) »

2010.08.24

西丸・書院番3の組の番頭

「与(くみ 組)頭の内藤左七 直庸 なおつね 67歳 465石)さまから、虎の間の控えの間へ呼びだされ、伺候してみると番頭・酒井対馬守(忠美 ただあきら 51歳 2000石)さまもおられた」

対馬守忠美は一昨年の閏12月から、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 32歳 600俵)の番頭であった。

対馬守さまもご同席であったとは---」
「うむ。組下の私事は与頭にまかせっきりのお人なのだが---」

対馬守忠美は酒井姓なので、家康軍団の東軍の旗頭であった酒井左衛門尉(さえもんのじょう)忠次(ただつくぐ)一門の流れとおもいがちだが、ちがう。
祖は、飛騨で金森を称し、信長に属していた。
家光に仕えて酒井と改めた。

佐左(さざ)、それで、どのような詮議であったのだ?」
盃をおいた平蔵(へいぞう 32歳)が話の先をうながした。

「室の里方の藤代家から、おれの屋敷の寝所が冷えっきりと愚痴を告げたらしい」

「なんだって---? 与頭どのばかりか、番頭どのまでが、組下の寝所が熱いか冷えておるかの心配までするようになっては、武家の世も末世だな」

佐左(さざ)孝祖の室の父親・勘右衛門忠英(ただひで 61歳 600石)が、西丸の小納戸に勤仕していることは、以前にも記した。
ために、内藤与頭とつうつうであった。

参照】2010年4月2日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] () () () () (
2010月4月19日~[同期の桜] () () () (
2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖の悲嘆

(ひで 享年19歳)と子を逝(い)かせた傷みと、冷えきっている寝所もあり、佐左は小料理〔蓮の葉〕の女将・お(はす 31歳)との外泊が重なっていた。

2010年7月31日~[浅野大学長貞ながさだ)の異見] () () (

その外泊が咎められた。
出仕している幕臣の、届けなしの外泊は、公けには許されていない。
形だけは、戦時体制であった。

舅(しゅうと)・藤方勘右衛門はそこを衝いてきた。
もちろん、いいがかりにすぎない。

「切れるのか?」
「できればそうしたいが、相手が許すかどうか---」
「なぜだ---?」
「-------」
「いえないのか---?」
「うむ---」
佐左。まさか、禁じられていることを話しているのではあるまいな?」
洩らしてはならないこととは、柳内の秘事である。

たしえば、金蔵の配置とか警備。
大奥の出入商人への支払い日---。

「それは、ない」
「では、なにだ---?」
「じつは---」
「ふむ---」
「おには、うしろに男がいた」
「---やっぱり---」

「そうなんだ。あれは---いいおんなだ」
「熟れきっているだけだ」
「いや。男を魅(ひ)きつけて放(はな)さない術(すべ)をこころえている」

「どういうことだ?」
小網町の小ぎれいな呑み屋の一室であった。
初めての店であったが、小部屋があるというのであがった。


_360
2_36
(酒井丹後守忠美kの個人譜)


|

« お静の死(2) | トップページ | 西丸・書院番3の組の番頭(2) »

076その他の幕臣」カテゴリの記事

コメント

おお、今日の個人譜は、西城の書院番第3組の酒井対馬守忠美でしたか。
じつは、ちゅうすけさんには眉をひそめられるかもしれませんが、ちゅうすけさんがおしげもなくアップしてくださる、ちゅうすけさん特製の幕臣の個人譜をひそかにコピペし、PC上に幕臣人名録---つまり、私流のWho's Who をつくって楽しんでいるんです。
ちゅうすけさんがアップなさるのは長谷川平蔵にかかわる仁ばかりですから、『犯科帳』を読み返すときの深まりがますんです。
これ、私流の『犯科帳』の楽しみ方です。歴史観も深まりますしね。
ちゅうすけさん、ありがとう。

投稿: 左衛門佐 | 2010.08.24 05:15

書院番士ともなると、将軍あるいは継嗣のそばちかく勤仕するので、身辺調査もきびしいのですか?
よほど、人員があまっていたのですね、
仕分けして、幕府の支出を減らさないと。

投稿: やっこさん | 2010.08.24 05:22

えっ! 個人譜をコピペ整理していらっしゃるんですか! 先をこされました。
つくった個人譜が500人を超えたとおもい、そのリスト化のためのデータベースのシステムを友人のatsudhi さんに依頼して6ヶ月になります。
左衛門佐さんの秘密のシステムを知りたいなあ。

投稿: ちゅうすけ | 2010.08.24 07:01

>やっこさん さん
そうなんです。ご家人というのは、ほんとうは徳川の禄を食(は)んでいるいる者という意味で幕臣のすべてをさした言葉なんですいが、いつのまにか、小普請入りしている役についていない家禄の少ない者というのが常識になりました。

小普請入りしている者は、いまでいえば失業手当で生活している人に近いかもしれません。

ポストのほとんどを複数制にしてもなお、人あまりしていたようです。

投稿: ちゅうすけ | 2010.08.24 14:23

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« お静の死(2) | トップページ | 西丸・書院番3の組の番頭(2) »