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2010年7月の記事

2010.07.31

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(4)

浅野さまと長谷川さま、それにあなた---どういうもおつながりですの?」
裸の男女が蚊帳の中で、さっきから睦言(むつごと)をつづけていた。

おんなは、すぐ近くの小料理〔蓮の葉〕の女将・お(はす 31歳)であった。
なめらかで艶のある白い裸身を、おしげもなく行灯のあわい光にさらしていた。
そうしていたほうが、男がよろこぶことを、しりつくしていた。

男は、先日、食事にきた3人組の一人---長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)であることはいうまでもない。

いわれたとおり、五ッ半(午後9時)まえに高橋(たかばし)北の横筋の小料理〔蓮の葉〕を訪れると、すっかり灯をおとしてい、あらわれたおが、
「泊りこみの板場の者と仲居がいますから、そこまで---」

連れてこられたのは、高橋を南へわたった海辺大工町、本誓寺(現・江東区清澄3-5)の脇のふつうの二階家であった。
軒をくぐる前に、
佐左(さざ)さま。お泊りになれますか、それとも、お帰りに---?」
「泊まれるのか?」
「ええ」
「それでは、泊まろう」
「うれしい」

二階には、蚊帳と寝床がしつらえられた一部屋しかなかった。
「行水もできますが、あとでよろしいでしょ?」
なれた口調だったが、すぐにいいわけをした。
「お連れさまとのお客さまの中には、お食事のあとに、こういうところをお求めになる方が少なくないのです。それで、出店みたいに整えているのです。わたしは、今夜が初めて---」
つくり笑いを、小舌をちょろりとだしてごまかした。

「いつまでも、暑さが去りませんねえ」
さっと帯を解いて蹴だし一つになり、うながした。
乳房は豊かであった。
吸ったのは前夫だけではあ.るまいが、佐左は考えないことにした。
横にならぶと、すぐに腰巻をはずし、佐左の下帯にも手をかける。

「お(ひで)さんとおっしゃいましたか、お子とともにお亡くなりになったのは---お幾つだったのですか?」
「---19歳」
「これから、というお齢でしたね」
「なにも覚えないうちに、ややができてしまった」
「でも、乙女だったのでしょ?」
「それはそうだが---」
「今夜は、熟れきって、なにもかも存じているおなとのおなごでございます、お覚悟をなさって---あ、そっと、やさしく---」
の指の動きは、微妙で、これまで体験したことがない巧みさであった。

気がつくと、上半身が蚊帳の外にはみでていた。

「小名木(おなぎ)川が傍(そば)ですから、蚊にお気をおつけになって---」
「蚊は驚いて、退散したであろう」
「そんなに、声をあげましたか?」
「うむ」
「だって、すごくよかったんですもの。ほら、まだ、こんなに濡れて---」
指をみちびいた。

冒頭の会話は、このあとのものである。
男は指をそのままあずけて、
「8年前に初見(はつおめみえ)した仲だ」

参考(2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) 
2009年5月12日~[銕三郎、初見仲間の数] () () () () (
2009年5月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (

「殿方のそうした仲って、8年もつづくのでございますか。うらやましい」
「おんなは、つづかないのか?」
「いい人ができると、疎遠になりがちです」

参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () () 


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2010.07.30

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(3)

「あの出来事は、喧嘩両成敗にあたる事件ではない」
親類筋の浅野大学長貞(ながさだ 30歳 500石)が断定し、小料理〔蓮の葉(はすのそは)〕の女将・お(はす 31歳)が不服そうな表情をみせた。

平蔵(へいぞう 31歳)は、おもわず、僚友・大学を瞶(みつめ)た。
もいう一人の僚友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)は、おの肩をもつつもりで乗りだした。

大学の趣旨は、喧嘩というものは、双方が争う気持ちになったときをいう。
しかし、内匠頭長矩(ながのり 35歳 播州・赤穂藩主5万石)はその気になって斬りつけたが、吉良上野介義央 (よしなか 61歳 4000石)は口論にも応じていないし、刀を抜いて応戦もしていない。
つまり、長矩が一方的に仕掛けたのだけであっから、喧嘩ではないと。

長矩どのは、[宿意あり]といってから斬りつけておられる。遺恨が堪忍ならぬほどのあつかいをうけた上での刃傷沙汰であろう?」
「それとこれとは、別のことだ。堪忍がならぬほどのあつかいをうけていたであろうが、そのことは家臣と計って解けたであろう。だが、殿中では禁制とされている抜刀をすれば、藩の取りつぶしは当然のこと、200人を越す家臣たちが禄を失なう。にもかかわらず、一方的に刃傷におよんだ」

「家中の忠義の方々が、お仇討ちをなさり、赤穂藩の名をお高めになりました」
が、江戸庶民の大方のとおり、浪士たちの肩をもった。

「47人は、たしかに、な。喧嘩両成敗とは離れるが、討ち入りに参加しなかった160余人は、その後、息をひそめて生きなければならなくなったし、47人の遺族で、他藩へ仕官がかなった者も寥々とした数であったと聞いておる」
((だい)は、人の上に立つ者、将たる者のこころがけを説いている)
平蔵は、こころして聞いた。

佐左(さざ)が異を口にした。
。論が逸(そ)れた。屈辱が積もれば、それを晴らすのも喧嘩の一つではないのか?」

大学は反論せず、
「もちろん、そういう喧嘩もあろう。が、時と所を間違えると、はた迷惑になる。そういう喧嘩は、大人はしないものなのだが---」

平蔵が収斂(しゅうれん)させた。
「しかと、こころえておこう」

佐左が、おに、厠の位置を訊いた。
その脊に掌をあて、押すようにしておが導く。
「酔うまではいっていないはずだが---」
さん。佐左は、淋しいのだよ」
「男は、寂しいものだよ」
「だから、こうして、ときどき、飲む」

佐左。遅いな」
「案ずることはない。子を失った者同士、いたわりあっているのであろう」

参照】2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆] (

「女将も、亡くしているのか?」
がお(ゆき)と呼ばれた人妻だったときのことは口にせす、ただうなづいておいた。
胸の内では、心に傷をもった者同士、霊感のような交信があるのに、いささか驚きをおぼえていた。

参照】2008年10月27日[〔橘屋〕のお雪] (

(おれが、里貴に去られた、悲しみの渕をかかえていることを、だれがうけとめてくれようか?)

厠のすぐ隣りの小さな部屋で、佐左はおの口を吸い、尻を引きよせていた。
長野さま。こんど、お一人でいらっしゃてください」
「そうしよう。いけない日があるか?」
「そんな日があるはずはありません。五ッ(午後8時)すぎにいらっしゃれますか?」
「わかった」

桜紙を手わたされた。
「唇の紅をおぬぐいになって---」


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 【参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () (


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2010.07.29

浅野大学長貞(ながさだ)の異見(2)

女将・お(はす 31歳)が、流し目を長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)にくれたのを、平蔵(へいぞう 31歳)は見のがさなかった。
(人の好みはさまざまというが、おの好みは、佐左(さざ)のような男か---岸井左馬之助(さまのすけ 31)とは、どこが似ているのであろう?) 

は、左馬之助と親しく付きあっていたころは、雑司ヶ谷の鬼子母神脇の料理茶屋〔橘屋〕の座敷女中をしており、お(ゆき)という名であったが---。
夜中に、家の中をふらふらとさまよう心の病いは、すっかり癒っているのであろうか。

参照】2008年10月17日~ [〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (5) (

いまは、〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 50代半ば?)の世話になっている。

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () () 
参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮の葉〕のお蓮] () () () () () (

もし、佐左がひょんな気でもおこしたら、盟友としては放っておけなくなるが---。

気を先ばしらせている平蔵には頓着しないで、おは、浅野大学長貞(ながさだ 30歳)に問いかけていた。
「四段目で、判官(ほうがん)のお駕篭を見送った由良之助(ゆらのすけ)が、残りの諸士に告げたなかに、おん弟・大学さまによるお家再興のお願いといった科白(せりふ)がありましたっけ」

野暮な解説を加えると、歌舞伎の竹田出雲『仮名手本忠臣蔵』の四段目のハイライトは、切腹の検死役としてやってきた石堂馬之丞(立役 たちやく 白塗り)と、薬師寺次郎左衛門(敵役 かたきやく 赤塗り)を待たせ、判官は国家老・大星由良之助を待ちこがれている。
判官が腹へ刀を突き入れたとき、ようやく、かけつけてきた由良之助に、最後の一句を告げることができた。
「この九寸五分は汝(なんじ)への形見---」

が口にしたのは、判官の内室・顔世(かおよ)午前や腰元、諸士が遺骸をのせた駕篭に付き添って菩提寺へ去ったあとの場面であった。

史実では、内匠頭長矩(ながのり 35歳)は、即日切腹を申しつけられ、預けられた一ノ関藩の愛宕下の藩邸の小書院前の白洲に筵(むしろ)を敷いて畳を裏返して据え、毛氈(もうせん)で蓋った座で割腹したと、戸板康二さん『忠臣蔵』(東京創元社)にある。

一ノ関藩から、遺骸を引きとるように、舎弟・大学長広(ながひろ 34歳)へ言いわたしがあり、本邸から要職の者が出頭して泉岳寺へ埋葬した。

ちゅうすけ注】この事実からの推測だが、兄から新しく開拓した領内の新田3000石分を分与されていた長広は、築地の上屋敷の一隅に別棟を建てて住まっていたのではなかろうか。
事件後は、閉門して謹慎していたが、宗家の領地が収公されるとともに、長広の新田分も収められた。
翌年の夏に閉門は許されたが、親藩の広島藩(42万6000石)へ蟄居を命じられた。

参照】2010年5月17日[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] (


それで類推したのだが、長男・長矩と次男・長広は、1歳ちがいの同腹である。
母は正妻で、内藤飛騨守忠政(ただまさ 享年57歳 伊勢国鳥羽藩主 3万5000石)の四女。
兄と3人の姉とすぐ下の弟・和泉守忠勝(ただかつ 29歳で乱心)が同腹。

忠勝の乱心は、江戸城・松の廊下での事件の25年前の延宝2年(1674)夏、増上寺で厳有院(四代・家綱)の法会に役していた忠勝が、永井信濃守尚長(なおなが 27歳 丹後国宮津藩主 7万石)に斬りかかり、殺害した。
理由はいまのところ不明で、忠勝の突然の乱心とされ、家は断絶となった。

浅野家長矩長広は、忠勝のすぐ上の姉と同じ血を引いていた。
その血が、内匠頭長矩にも---というのではなく、ただ、それだけのことである。

「芝居を見ていないので、そのことは知らないが、内蔵助大石良雄 42歳=元禄14年)どのは、事件後の早々に、藩士を江戸へ送り、わが祖・長広に家再興の働きかけをすすめたようだが、祖父も親藩の芸州も、幕府の思惑をおもんぱかり、躊躇したと伝わっておる」
「どうしてでしょう? 喧嘩両成敗が天下のご法度(はっと)でございましょう?」


参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] ()【参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () () 

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2010.07.28

浅野大学長貞(ながさだ)の異見

「この家は、二本差しがくるところではないから、徒(かち)目付なども目をつけていない」
平蔵(へいぞう 31歳)がわざわざ披露すると、長野佐左衛門孝祖(たかのり 31歳 600俵)の前に坐って酌をしていた女将・お(はす 31歳)が、
「裏庭の向こうは小名木川(おなぎがわ)で、話し声をきいてるのは、鯉か鮒(ふな)か鰻(うなぎ)だけです」
客の3人が笑った。

浅野大学長貞(ながさだ 30歳 500石)の前へ移ったおが、ふっと気がついたふりをして、
浅野さまといえば、赤穂の---?」

大学がちらっと平蔵に目をやり、うなずいたのを認め、
「祖父が、内匠頭(たくみのかみ)の弟であった」
「あら。お芝居に描かれているお方にご縁のお人に、生まれて初めてお目にかかりました。末代までの語りぐさでございます」
あけっぴろげのはしゃぎぶりに、大学は困惑顔をした。

佐左衛門が話題を変えた。
(へい)さんは、白書院・松の廊下で内匠頭(長矩 ながのり 35歳)さまを抱きとめた、梶川(与惣兵衛頼照 よりてる 54歳 700石=当時)どのがなされようを、どう、おもう?」

料理をつつくふりをしながら、、
佐左(さざ)の考えは?」

咳ばらいを一つしてから、
「おれの考えでは、ちと、早すぎた---と」
「早すぎた?」
浅野侯が、柳営での刃傷沙汰におよべはその身とお家がどうなるかということは十分にご承知の上で、小刀をお抜きになったからには、それだけのお覚悟と理由(わけ)があったのであろう。ならば、ことを成しとげるまで待ってから、抱きとめるのが武士の情けだとおもう」

「それは、西丸の書院番3の組の番士衆、大方の見解か?」
平蔵が、確かめるように佐左の双眸(りょうめ)をのぞきこんだ。

事件がおきた元禄14年(1701)3月14日の経緯を、徳川幕府の公式記録である『徳川実紀』を現代文ふうになおして掲げる。

今朝、勅使の公卿方が将軍・綱吉(つなよし)に拝謁のために本丸へおわたらせになったころ、留守居番・梶川与惣兵衛頼照は、将軍夫人のお使いをいわれ、公卿の宿泊先へおもくむくについて、そのことのを打ち合わせようと白木書院の廊下で、高家・吉良上野介義央(よしなか 61歳 3000石)と立ち話をしていたところ、接待掛の浅野内匠頭長矩が、宿意があるといいながら、脇差しを抜いて斬りかかった。

おどろい振りかえった義央の眉間が斬られた。
与惣兵衛頼照はすぐさま、長矩を抱きとめているところへ、義央の同僚もかけ集まり、義央を別室へ連れた。

よって、公卿の謁見は黒木書院でおこなわれた。

目付・天野伝四郎富重(とみしげ 57歳 750石)、曽根五郎兵衛長賢(ながかた 54歳 1600石)が長矩を受けとり、蘇鉄(そてつ)の間の杉戸の内へ入れた。
監視につきそったのは、目付・多門伝八郎重共(しげとも 43歳 700石)と複数の徒、小人目付たちであった。

まず、義央に意趣をただされたが、まったく覚えなしとのことであったので、乗り物にのらせ、平河門から帰宅させた。
長矩、陸奥国一ノ関・田村采女右京大夫建顕)(たけあき 46歳 3万石)へあずけられた。

(中略)

(世に伝わるところでは、吉良上野介義央は歴代高家を継いでおり、朝廷との儀礼にかかわっていたので、公武の礼節典古を熟知精通しており、その右へでる者はいなかったため、名門大家の族もみな、礼をつくして義央に阿順し、その役に任じられた都度、教えをうけた。そんなことから賄賂をむさぼり、家には巨万を貯めこんでいたというが、長矩は阿諛(あゆ)しなかった)

いや、ことは浅野内匠頭のやったこととか、吉良上野介の賄賂とりの真偽うんぬんではない。

長野佐左衛門平蔵に問うた、梶川の即座の制止が、武士として誉められるかどうかである。
平蔵は西丸・書院番4の組である。

そして、西丸・書院番3の組や本丸に梶川批判がひろまっていたために、それから80余年後の天明4年(1784)3月24日に若年寄・田沼山城守意知(おきとも 36歳 稟米3000俵)に斬りつけた佐野善左衛門政言(まさこと 30歳代? 500石)を抱きとめたのは近くにいあわした大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)であった。

歴史書には、このように書かれているが、じつは、対馬守忠郷は、善左衛門政言意知に致命的な傷をおわせるまで、抱きとめなかったともいう。

もし、忠郷がもっと手ばやく善左衛門をとめていたら、歴史は別の様相をしめしたかもしれない。

参照】2007年1月5日[平岩弓枝さんの『魚の棲む城] ()
2007年11月26日[田沼意次◎その虚実] ()

が、媚びをふくんだ流し目を大学長貞にくれ、
「なんだか、むつかしいお話ですなあ。芝居のほうは、もっと分かりやすくできてますよ」


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(梶川与惣兵衛頼照・個人譜)


参照】2010年7月28日~[浅野大学長貞(長貞)の異見] () () () () () (


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2010.07.27

次女・清(きよ)

安永5年(1776)の長谷川家の慶事といえば、桜花が終わるころに、次女・(きよ)が誕生したことであろう。

産事は辰蔵(たつぞう 7歳)、長女・(はつ)のときのように、久栄(ひさえ 24歳)が実家、和泉橋通りの大橋家へ帰って果たした。

久栄はいつもそうなのだが、21日目の宮参りの前日に、三ッ目の長谷川邸へ戻ってきた。
産道がまだ本復していないのに、平蔵(へいぞう 31歳)に求められると拒めないとおもっているからである。

辰蔵の産辱についていたときに見舞いにき、手をにぎり、
「苦労であった。礼をいうぞ。ところで、まだ、帰れぬか?」
これが、なんと、7日目のことであった。

もっとも、平蔵(当時は銕三郎 てつさぶろう)は一人っ子で育ったため、産婦を見たことがなかったせいもあった。
平蔵の精力の強さからいって、久栄の要心は当然ともいえた。

長谷川邸へ戻ってきた久栄は、夫の変化を瞬時に察した。
もちろん、里貴(りき 32歳)が紀州へ帰ってしまったことは知らなかった。

「外遊びは、おしまいになりましたか?」
「わかるか?」
「私は、あなたさまの妻で ございますよ」
「そうだな。お前はいいおんなだ」
笑って、久栄はそれきり追求しなかった。
家庭をかえりみなくなる平蔵とは、おもっていなかったせいもあった。

平蔵ほどの男を、おんなたちが放っておいてくれるとは.おもっていなかったから、終わるのを待っていればいいと、悋気(りんき)を抑えてはいたが、寂しくなかったといえば嘘になる。

盟友の浅野大学長貞(ながさだ 30歳 500石)のところの於四賀(しが 23歳)が初産(ういざん)で男子を産んんでいた。
久次郎(きゅうじろう)とつけた」
「長男なのに、どうして次郎なのだ?」
四賀の実家の諏訪家方がそのようなしきたりらしいのだ。次郎としておくと、悪疫のほうが太郎がいるとおもい、次郎をみのがすというのだ」

「悪疫からの目こぼしなら、八郎とか十郎のほうがもっと効きそうなものだが--」
「どうせ元服するときには改名するのだから、実家のいうとおりにしておいた」
「いや、つい、口がすべった。許せ。なにはともあれ、長子の誕生はめでたい。〔貴志〕は店を閉めたが、別のところでよければ、祝杯をあげようか」
「いいな」
長野(佐左衛門孝祖 たかのり 31歳 600俵)にも声をかけてみよう」

当初は、お(くめ 35歳)が女中頭をしている薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕とおもったが、〔蓑火(みのひ)〕の一件が女将・お新(しん 33歳)の口からぽろりとでもこぼれたら、詭計がばれないともかぎらない。
とくに浅野長貞は〔志貴〕の里貴がお気にいりであった。
に、里貴の色気を求めるのは無理というものである。

それで、女将の色気を主眼において、深川・高橋(たかばし)北詰の西側横丁の小料理屋〔蓮の葉(はすのは)〕に決めた。
〔蓮の葉〕の女将・お(はす 31歳)なら、里貴とはちがう雌獣のようでいて、下品さのない色気を発散する。

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(小料理〔蓮の葉〕)下は小名木川 ↑北
池波さん愛用の近江屋板)

ただ、市ヶ谷牛小屋の浅野邸からも本郷元町の長野邸からもいささかへだたっていることが気になったが、帰りは駕篭か小舟で送ればいい。

前もって、連れの2人は気のおけない盟友であるから、とりたてての料理を出すことはない、と告げてあった。
頬のこけたほうの長野は、昨年、情人とそのおんなが産んだ赤子をうしない、厭世気分におちいっているから、気を引きたててやってほしいとも、おへの結び文をもたせてあった。

参照】2010年4月8日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (5)
2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆] 

そういう沈滞なら、大学長貞にもあった。

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () () (

おんなの20代には性の炎が発火を待っており、男の30歳前後には、避けることができない家族のわずらわしさがのしかかってくるということであろうか。


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2010.07.26

藤次郎の初体験(6)

「13歳は、なんとしても早すぎる」
藤次郎の初体験をめぐって、こんなご意見もあった。
そうかもしれない。

初体験は、機会とはずみの結果ともいえる。
もちろん、道徳観、家庭のしつけ、社会的しばりのせいもある。

銕三郎(てつさぶろう)にしても、東海道を上る旅に出なければ、25歳の若後家・お芙佐(ふさ)と寝所をともにすることもなかったであろう。

が、あったからこそ、ふたしかな妄想ではなく、実の肉体を通して、異性という生涯の探求の的を14歳で得たともいえよう。

初体験は、早い、遅いより、だれから、どんな手ほどきをえたかのほうが、あとあとの性の意識の方向がきまるのかもしれない。

たとえば、岸井左馬之助
上総国・印旛沼のほとりの臼井から江戸へ出きたものの、高杉道場の隣家・草分名主とちもいうべき田坂の孫むすめ・おふさに対しては、22歳の田舎出の純情な若者にすぎなかった。

参照】2008年4月9日[〔初鹿野(はじかの)〕の音松] (
2008年4月10日[岸井左馬之助とふさ

それが、ふとしたことから、盗賊の子持ちの後家・お(こん 28歳)と知り合った。

参照】2008年5月4日~[〔盗人酒屋の忠助] () () (

は、急死した亡夫の遺骨収めに足利へ行ったばっかりに、色好みの首領・〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 40がらみ)に性戯をしこたましこまれた。
ふつうなら、仕立てものの賃仕事をしている裏長屋の後家として、終わっていたかもしれない。
江戸へ戻り、左馬之助を遊びの相手に選んだ。
左馬之助とすれば、初の性体験であった。

参照】2008年8月27日[〔物井(ものい)〕のお紺] () (

いちど体験してしまうと、機会さえあれば、いや、機会は自らつくってでも、お習(さら)いをすすんでやるようになるのが、まともな若い男(おんなも)の、この道の常である。

参照】2008年10月17日~[〔橘屋〕のお雪] (1) (2) (3) (4) (5) (

もう一人の剣友---井関録之助はどうであろう。
30俵2人扶持の軽輩の脇腹の子として生まれてしまった。
どうしたはずみか、本所・出村の高杉道場に入門し、銕三郎左馬之助を兄(あに)弟子にもった。
それで、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕源右衛門の妾の子・鶴吉としりあい、その乳母のお(もと 31歳)とねんごろになった。
は、瓦焼き職人の後家であった。

参照】2008年8月21日~[若き日の井関禄之助] (

ちゅうすけのお断り】[若き日の井関禄之助](2)は、バソコンの誤操作で消去してしまった。

大筋は、高杉道場の稽古を、窓からのぞくのが鶴吉(つるきち 6歳)の日課のようになっていた。
鶴吉が野良犬に悪さをして吠えられているのを録之助(18歳)が助けたのが縁で、鶴吉とおが暮らす日本橋室町の茶問屋の寮に起居することになり、どちらからともなく抱きあった。
もちろん、教えたのはおだが、録之助が覚えこむのも早かった。

 (2) (3) (4) (

もう2,3人、年増の手ほどきで男になった仁を紹介したいのだが、当ブログの中では、おもいあたらない。
ま、聖典『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火きつねび)]を読み返し、おまさ(22歳)が1歳下の又太郎を男にしてやったくだりでも連想するんですな。


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2010.07.25

藤次郎の初体験(5)

佐和の身のふり方だが---)
菅沼家の門を出、目の前の大川に架かる新大橋の上に立ちどまって川面(かわも)へつぶやきを落としていた。、
(---誰に、どう、頼んだものか)

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(新大橋 菅沼家は橋の左端の広小路の向い
『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)  

仮りにも、大身の幕臣の奥向きに勤めたおんなである。
顔のきく香具師(やし)の元締衆に頼むのは、筋ちがいもはなはだしい。

(かつ 36歳)の下で化粧(けわい)師範見習いというのも---
(いかん、市井向きを探している。実家が乾物屋だったとはいえ、7000石の大身幕臣の情けと精を受けた衿持(きょうじ)が佐和にもあろう。
その上、藤次郎の子でも孕(はら)んでおると、世継ぎはお上が認めまいが、1000石くらいの分家にはしてもらえよう)

市井の気易(きやす)い付きあいにひたりすぎた反省はしたものの、それを停(や)めようとはおもわなかった。
(おれ流の生き方を編みだせばいい)

係累の多い菅沼家のこと、どこかにはめこめないか?
土地(ところ)の者たちが〔エテ公ばし〕と呼びならしている猿子橋をわたったとき、ひらめいた。

火盗改メ・本役を勤めている菅沼藤十郎定亨(さだゆき 47歳 2025石)の、端正ではあるが艶のない肌色の顔をおもいだした。
いつだったか、一族の年配者らしい口調で、頼まれた。
藤次郎をよろしく」

参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () () () () () (

佐和が新大橋西詰の(野田菅沼家にいては、藤次郎の教育上よろしくないと訴えれば、内緒で引きとってくれるのではないか。

藤次郎佐和の出事(でごと 交接)は、情事というより幼稚な火遊びに近い。
母親・於津弥(つや 37歳)へ告げてことを大きくするまでもなく、秘密裡にすませるのがいい。
それには、菅沼定亨から、佐和の貰いをかけさせるという案はどうであろう。

定亨に事の次第を打ちあけると、笑って、
「おかしなものよのう。32歳の大年増が、13歳の少年を犯しても、精が出たのどうので済んでしまう。これが逆で、32歳の幕臣が13歳の未通の乙女を犯したことが公けになると、家をつぷしかねない。は、ははは。藤次郎のためだ、その大年増を貰いうけよう」

ちゅうすけ注】定亨は、この年---安永5年(1776)の12月12日付で奈良奉行へ転じ、継室を江戸の大塚の屋敷へおき、佐和を伴って赴任した。
継室を連れなかったのは、3人の子---いずれも女子が幼なかったせいもあった。
12歳、11歳、7歳であった。

赴任はしたもののstrong>菅沼奉行は、ほとんど病気勝ちで、佐和は、5,6年前iに織部定庸(さだつね 享年35歳)にしたのと同じ好情をほどこした。
定亨は着任8ヶ月でみまかった。
享年48歳。

末期養子の定富(さだとみ 9歳)に遺跡を継ぐことが認められたのは、重臣・久世一門で長崎奉行の丹後守広民(ひろたみ 46歳 3000石)の次男であったからであろう。
定富の内室には、定亨の12歳の長女があてられたが、婚儀があげられた年齢は不詳。
入れ代わりに、11歳の次女が久世家へ養女に出されている。

またも主(ぬし)に病歿された佐和のその後も未詳。

佐和に去られた藤次郎には、平蔵が馬術、弓術、水練の師をつけ、漢籍の講義も強(し)い、寝屋へはいるとたちまち熟睡するように仕向けた。
それでもときには夢の中で剣友・有馬の妹・智津(ちづ 14歳)を抱き、下帯を汚したという。

15歳で元服し、由緒ある新八郎を襲名、平蔵のすすめで、知行地・三河国設楽郡(しだらこおり)東・西杉山や新城などの村々、宝飯郡(ほういこおり)三蔵子村などの視察のための初旅をした。
若殿は大年増の後家がお好みとの噂がひそやかに流れ、村長(むらおさ)たちが村の後家に夜伽の話をもちかけたところ、みな二つ返事ではあったが、藤次郎の率直な感想は、
「知行地は二度と訪れたくない。おんなといえるのは江戸に集まっておる」


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(菅沼定亨・定富、次女の個人譜)


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(久世広民・定富、養女の個人譜)

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2010.07.24

藤次郎の初体験(4)

藤次郎(とうじろう 13歳)が召使い頭・佐和(さわ 32歳)を説きふせるには、いささか時が必要なようであった。

そのあいだに平蔵(へいぞう 31歳)は、〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 29歳)と小浪(こなみ 37歳)のあいだからにおもいをはせていた。

小浪は、いまは店を売り、元締の席についた今助の新造として、今戸の料亭〔銀波楼〕の女将らしくやっているが、御厩河岸の舟着き前の茶店は、4年前に逝った先代の元締・林造(りんぞう 享年62歳)がもたせてやったものであった。

【参照】2009年6月20日~[〔銀浪楼〕の今助 ] () () () () (
2009年4月17日~[一刀流杉浦派・仏頂(ぶつちょう)] () () () () (

確かめてはいないが、小浪のほうから今助を誘ったのであろう。
今助も、小浪の容貌と才覚を憎からずおもっていたろう。

仏になった林造は、2人の仲をしらないで逝ったとすれば、しあわせだったかもしれない。
しったとしても、男として、女を満足させられなくなっていたし、隠し子の今助ならと、見ないふりをつづけたか。

佐和が仮に織部定庸(さだつね 享年35歳)の側女(そばめ)の一人であったとしても、主(あるじ)は5年前に逝去していた。
5年という歳月は、おんなざかりの佐和にすれば、10年にも20年にもおもえたろう。

佐和が玄関脇の客間へはいってきた。
年齢よりも2つ3つ若く見えたのは、すっきりした顔立ちと薄化粧のせいかもしれない。

佐和でございます。ご用のお筋がおありと、若さまから伺いました」
丁寧に頭をさげ、あげた目もとがかすかに微笑んでいた。
(自信たっぷりだな。(とう)を擒(とりこ)にとっているともきめてかかっておる)

どのから仔細は聞いた。あれの好きごころの悩みを助(す)けてやったそうで、師として礼を述べさせてもらう」
「恐れいります」
「なに、あの齢ごろは、おんなへのこだわりがひどく高まる時期でな。ひとたび経験してしまうと、潮が退(ひ)くようにすっきりし、剣の道にも学問のほうもすすむものだ」
「若い男の方のこころの動きは、とんと存じませぬので---」
「おお、それよ。若くない男の心情はお分かりのようであるな」
「は?」
織部どのが亡じられたのは、お幾つのときであったかな?」
「35歳---の、年末でございました。別荘で---」
「そのお齢まで、おとことして、そなたをお求めになった?」
ぎょっとし、言葉を失った。

「いえ。お亡くなりになる半年ほどは、お躰がお弱りで---」
「別荘で養生なさったのは1年と---?」
「10ヶ月ほど---」
「そのあいだ、ずっと、そなたが看護を---?」
「はい」
「22ヶ月から6ヶ月を差し引くと、18ヶ月ものあいだ、お求めに応えていたと?」
「お薬代わりになればと---」
「病いは---?」

間をおいて、消えいるよう声で
「---労咳(ろうがい)」
「労咳の者に、秘めごとは禁物ではなかったかな?」
佐和は黙した。

「いや、織部さまとのことを、とかく申しておるのではない。ただ、はいまが伸びざかりでな。その齢ごろの放精は、おとこの躰に毒にはなっても薬にはならぬ。控えてくれようか?」
答えはなかった。
唇を噛んで沈黙していた。

は、まだ少年ゆえ---」
平蔵がいい終えるのも待たず、
「若さまは、もう、立派な男におなりになっておられます」
「男にしたのは---」
おことであろう、といわせず、

「最初から、私の中へ、精をお放ちくださいました。そのあとも、ずっと、頂戴しております」
「男といっているのは、そのことではない---」

「どのことでございますか。おんな子どもを養うということでこざいましたら、4年前に遺跡7000石をお継ぎになり、家臣にもとどこおりなくお手当てをあてがっておられます」

「いや。いまのお齢で、しげしげとおんなへ精をあたえていては、躰の成長にさしさわりがあろうと、師として心配しているのだ」
「では、前髪をお落としになってからだと、およろしいとでも---?」

「先代の殿は、前髪をおろす前から側女に親しみすぎておられたために病気がちで、お上のお役にもおつきになれなかったと、内室さまから伺っておる。までもそのようになっては、7000石がお取り上げになるやもしれぬ」
またも佐和は黙し、平蔵を睨みかえした。

「そなたほどのおんなぶりであれば、嫁への引く手は、あまたあろう」
「---若さま}

「あきらめてやってくれ。このとおりだ」
平蔵が頭をさげた。

「若が、おあきらめくださいましょうや?」
「そなたが姿を消せば、あきらめるであろう。なにぶんにも、19歳もの齢のへただりは、大きすぎる」

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(栄泉『春情指人形』 イメージ)


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2010.07.23

藤次郎の初体験(3)

「不孝者でしょうか?」
菅沼藤次郎(とうじろう 13歳)の問いに、長谷川平蔵(へいぞう 31歳)は答えられなかった。

三島で、銕三郎(てつさぶろう  14歳=当時)時代の平蔵が、男として初めて芙佐(ふさ 25歳)と交わったとき、
「初めての殿方、わたくしも初めて。こうして安らかに睦みあっていますと、母子の添い寝のようです」

添い寝なんかですむはずがなかった。
芙佐が演じたのは、成熟したおんなの性技であった。
銕三郎としても、もちろん母とはおもうはずがなかった。
あくまでも性の未知の渕への、最初で優美な水先人であった。

芙佐の家を去るとき、帰路の再会を約しあい、
「こんども、母孝行をしてくださいますか」

参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] () (

旅先での用件を終えた帰路、芙沙とまた交じわることができるとおもうだけで、前夜は興奮でほとんど眠れなかった。
夜中をかけても、三島へ走りたかった。

藤次郎の初体験の歓喜と苦悩は、銕三郎とは異なる。

銕三郎のは、一夜きりの睦みであった。
それだけに印象が深く、それから数年のあいだ、反芻して追憶をやめず、その都度、甘美の渕に沈んだ。

そのことを話したのは、4年後に芦ノ湯村で阿記(あき 21歳)と板風呂に浴していたときであった。
部屋の外のせせらぎの音が消えた。

参照】2008年1月1日~[与詩(よし)を迎に] (12) (13

話したことといえば、2年前に田沼主殿頭意次(おきつぐ 56歳=安永4年)のすすめ上手にほだされて告白したことがあっただけである。

参照】2010年3月29日[松平賢(よし)丸定信]

(とう)とおれとでは、事情が異なる)
芙佐とは、血縁がまったない他人同士であった。
佐和(さわ 32歳)は、藤次郎の父・菅沼織部定庸(さでつね 享年35歳)の側女(そばめ)として精をうけいれたかもしれないという疑いがでてきた。

恍惚のうちに、声をもらしたという。
「殿。殿さま---あぁ---」
それが、16歳で奉公にあがって嫁入りするまでの6年間のことであったのか、離縁されて復帰、定庸を看病しているあいだの2年間のことであったかは、いまのところ、不明である。
定庸が逝って5年経つ。

そのあいだ禁欲をつづけ、清浄な---いや、正常な女躰(にょたい)になっていたとしても、その継嗣を誘っているとは---。
30歳を越えた大年増としては、初穂がつまめた僥倖---一生の手柄かもしれない。

「で、その夜も、おんなは来たのか?」
「はい」
「抱いたのか?」
「裸躰で添われると、股間が承知しないのです」
藤次郎は、大身の家の継嗣らしく、こだわらずに答えた。
(この年齢なら、裸身の実母にそうされると、同じ結果になるかもしれない。於津弥(つや 37歳)でなかったのがせめてもの救いか)
実母と結ばれたという話も世間にないではないが、〔上通下通婚(おやこたわけ)〕と呼び、人の道ではないと切って捨てられる。

側女とはいえ実父の情けを受けたおんなとはしらずに、抱いてしまった藤次郎の悩みは、ここ、しばらくつづくであろう。

甘美であるべきせっかくの思い出に、染(し)みがついたようなものかも。
世間では、藤次郎が陥ちた事態を〔親子鍋(おやこなべ)〕と蔑笑した。
当人にとっては、笑いごとどころではない。

しかもなお藤次郎は、佐和との性の深みからのがれられなさそうだ。
側女を何人もっても許された身分だからとばかりはいえまい。

津弥の告白によると、夫---藤次郎にとっては父親の定庸には、於津弥が嫁(か)してきたとき、幾人もの側女がいたということであった。

その於津弥も、いまはふつうでない性にひたっている。

平蔵は師として、藤次郎に命じた。
佐和と2人きりで話したい」

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2010.07.22

藤次郎の初体験(2)

(とう)どの。その笛吹かせおんなだが、齢はいくつだ?」
「お佐和(さわ)は、母者より5歳若く、32歳とか---」
平蔵(へいぞう 31歳)の問いかけに、菅沼藤次郎(とうじろう 13歳)は、悪びれたふうもなく応えた。

「ふむ。そのおなご、いちど、嫁入りしたとか、申したな?」
「はい。3年ほどして出戻ってきました。なんでも、3年を経て子なきは去るとかいわれたと---」
「まさかに、どのの子は宿すまいが---」
「赤子をでございますか? 困ります」
「だから、そのおなごとの出事(でごと 体の交合)は、むやみに他人へ話すではないぞ。母ごどのにもだ。竹尾道場の仲間がそのような話をしていても、あくまで、知らない態(てい)をつづけよ。7000石の大身・菅沼家どのの人品にかかわることである」
「はい。でも、長谷川先生には、打ちあけてかまいませぬか?」

去年、藤次郎がおんなの乳房のことをおもうと股間が熱くなると訴えたとき、平蔵は、
(とう)どのに、男としての力がみなぎってきておるのだ。男としての力が満ちてくれば、剣も、さらに強くなる」
とはげました。
(6歳の辰蔵が、藤次郎のように13歳で、どこぞの後家に初穂をつまれたとき、冷静に、このような言葉が吐けるであろうか。そうおもうと、お芙佐(ふさ 25歳=当時)とのことに、ひと言もお触れにならかった父上は偉かった)

参照】2007年8月4日[銕三郎、脱皮] (

藤次郎が、どうしても話したがった。

昨日の午後のことであった。
小野派一刀流・竹尾道場から戻り、湯殿で水を浴びていると、湯文字ひとつで入ってきた佐和が、
「若。背中の垢こすりをいたしましょう」

背中がすむと、前をむかせて両腕の垢こすりをはじめたが、膝がしらを藤次郎の両股を割ってさしいれた。
その瞬間に湯文字がとけ、下半身もさらした。

膝がしらが触れているのと眼下に見える黒い部位の刺激で、藤次郎のものが挙立しはじめた。

伸ばして脇の下をこすられている藤次郎の指先が、佐和の乳頭にとどいたので、つまんだ。
すでに硬くなっていたが、藤次郎はその意味をまだしらない。

察した相手も、糠ぶくろで直立したものをしごくようにこすりおろし、表皮の先端がめくれた。
つい、1ヶ月前まで、先端はつまんでしばったように蓋っていたが、いまは、佐和とのことが数度かさなったので、半分ほど真新しい坊主頭あらわれていた。

その坊主頭の先端の割れ目から涙に似た透明な液がにじんできたのをたしかめたおんなは、先端を2本指ではさみ、あてがい、尻をおろした。
そこは待っていたようにしたたるほどに濡れており、藤次郎のものはするりとおさまった。
三角部位が密着したぶん、寝間での体位よりも深みへ達し、かすかな音をたてた。
耳にした佐和が満面に笑みをたたえた。
藤次郎のものが期待どおりに育ってきているといった風情であった。

佐和が湯桶の縁をつかんで躰を支えながら、ゆっくりと腰をゆさぶった。
目を閉じ、下唇を噛んでいた口が半びらき、
「殿。殿さま---あぁ---」

_200相手の尻部にまわしていた少年の腕が、一瞬ゆるんだが、昂ぶりにむかっていたおんなは気づかなかった。

「先生。佐和は通旅籠町の干物屋のむすめです。嫁に行った先も同業であったと聞いております」
「殿とは、お父上織部定庸 さだつね 享年35歳)さまのこととおもうのだな?」
「不孝者でしょうか?」
「暇をだせるか?」
「いま、しばらくは---」
「ならば、秘しておけ」
「はい」(栄泉『ひごずいき』部分)

夢幻のうちに洩らした失言を意識にとめなかったおんなは、起ちなおると、
「若。今宵もお楽しみにしていてくださりませ」
嫣然と流し目をくれ、濡れた湯文字を丸めてしぼり、股間をぬぐと浴衣をはおって出ていった。、

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2010.07.21

藤次郎の初体験

「先生。覚えました」
先刻からなにか話したげな菅沼藤次郎(とうじろう 13歳)であった。
太刀ゆきが甘いとおもっていたが、木刀をおさめ、汗流しに湯殿へ入るなり、告げた。

真夏なので全身汗まみれ、だが、井戸端で全裸になるわけにはいかない。

「覚えたとは、なに、をだ?」
稽古着を脱ぎ、下帯一つで手おけで湯桶にはられていた水をかぶっていた平蔵(へいぞう 31歳)が、これも裸の藤次郎を見た。

「女躰(にょたい)です」
「なに?」
おもわず、藤次郎の股に視線をとばした。
1分(3mm)ほどのうっすらとした若芝生が水滴にぬれていた。
まだ、男のそれとはいえなかった。

「女の股に、はいったのです」
(とう)。まさか、道場仲間の有馬うじの妹ごの---」
「いいえ。智津(ちづ 14歳)どのではありませぬ」
藤次郎は、おたふく顔の智津を見ると、体が熱くなると打ちあけていた。

参照】2010年5月20日[藤次郎の初恋

7000石の大身の屋敷で、一人きりの嫡男として、なんの苦労もなく育っている藤次郎は、性を話題にするのは恥ずかしいことと教えられていなかった。


旬日前の夜中、顔にあたっている異質な感触に目覚めた。
おたふくの面(めん)をかぶった者が添い寝していた。
手でまさぐると、肉置(ししおき)の豊かな腰があった。
全裸だった。
「誰?」

おたふくが藤次郎の口をふさぎ、面の下からくぐもって
「お声をお立てになってはなりませぬ」
乳母同様の佐和(さわ 32歳)としれた。

面をとり、唇を耳元へよせ、ささやく。
「若は、有馬さまの智津さまがお好きなのでございましょう?」
「わかったか?」
「お母ご代わりとして5年もお仕えしておりますもの」

佐和は、小間使い頭という重い地位にいるが、16歳で菅沼家の奥向きに奉公にあがり、嫁入りということで22歳のときに暇をとったが、26歳で戻ってき、当主・織部定庸(さだつね 享年35歳)の病室に2年近く仕えていた。

定庸が歿すると、年功で腰元頭となり、奥向きのおんなたちを支配した。
藤次郎の身のまわりも、乳母のように世話をしてきた。

「若。智津さまはいけませぬ」
「なぜだ?」
「7000石の若のご内室として、ふさわしくございませぬ。家格がちがいすぎます」

横をむこうとした藤次郎の躰を引きよせ、指をとり、芝生をわけた秘部へみちびき、横笛の穴をおさえて音(ね)を変えるように、指でやさしく、すばやく、たたかせた。

「女子(じょし)の股をお訪れになる前の作法でございます」

指を交互にとんとんと触れ、ときにはじいていると、、佐和は気分が昂(たかま)ってきたか、尻があがったので、藤次郎の小指が、つい、割れ目にはまり、濡れを感じた。

佐和は、指の動きをそのままつづけるようにいって少年の上にかぶさり、膝と肘で躰をうかせ、躰位をずらし乳首をふくませた。

が、すぐに少年の硬直してきたものをつかむと、股のあいだにくわえこんだ。

藤次郎が恥じる気配もなく、打ち明けたのは、その瞬間の感じであった。
「女躰の股ぐらが、あのように滑らかで、奥深いとはおもいませぬでした」

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(北斎『縁結出雲杉』 イメージ)

(はは。その佐和とやらいう出戻りおんな、主家の世継ぎの初穂をいただいてしまったな)
平蔵は、17年前の東海道の三島宿で男にしてくれたときのお芙佐の感きわまったような深いつぶやきをおもいだしていた。

「---お初めてとうかがいました」
「----」
「わたくし、後妻だったものですから、初めての殿方、わたくしも初めて。こうして安らかに睦みあっていますと、母子の添い寝のようです」

参照】2010年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

「その晩、母ごどのは、どうしておられたのだ?」
藤次郎の母親・於津弥(つや 37歳)は、7万石の大名・牧野備後守貞通(さだみち)の17男13女の10番目の女子として生まれ、19歳で菅沼織部定庸(さだつね)に帰嫁したが、1女1男(藤次郎)を産んだだけで床(とこ)すべらかし同様のあつかいをうけた。

参照】2010年4月7日[菅沼家の於津弥] (

「母者(ははじゃ)は、2日前から、召使のお(きく 18歳)を伴い、四ッ目の別邸へ参っておりました」
津弥にその道を手ほどきしたのは、お(かつ 35歳)で、ここの風呂場においてであった

参照】2010年4月18日[お勝と於津弥

佐和が上から腰をゆさぶるたびに、少年の快感が昂まりはじめた。
「あっ、というまに、生まれて初めての感覚が、稲妻のように股から頭まで躰をつらぬき、ふくらはぎが硬直しました」
「少年から、若い男に脱皮したのだ」
「脱皮?」
「さなぎが殻をやぶって抜けだし、一丁前の蜻蛉(とんぼ)になったのだ。いささか早すぎはしたが、まあ、いいであろう。その後、その腰元頭とは?」
「昼間は、顔をあわせてもそ知らぬふりをしております。しかし、母者が四ッ目の別荘へ出かけますと---」
「指で笛を吹いてくれとせがみにくるのか?」
「はい」


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2010.07.20

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵からの書状(2)

殿(との)さま〕栄五郎(えいごろう 30代半ば)を、長谷川平蔵(へいぞう 31歳)の慈悲の峰打ちで、一生歩けない躰にしたのは、聖典『鬼平犯科帳』文庫巻14[殿さま栄五郎]を何度も読み返した結果である。

参照】2010年7月1日[〔殿(との)さま〕栄五郎] (
2009年3月1日[銕三郎、二番勝負] (

聖典[殿さま栄五郎]では、鬼平岸井栄五郎になりすましたものの、〔五条ごじょう)〕の増蔵(ますぞう)に見破られた。

聖典から増蔵の横顔を引用する。

五条の増蔵という盗賊は、故・狐火(きつねび)の勇五郎の下ではたらいていたのだが、どうしたわけか、勇五郎から勘当(かんどう)を受け、その後はずっとひとりばたらきをつづけている。
それは、まだ、増蔵が狐火一味だったころ、二度ほど蓑火(みのひ)の喜之助(きのすけ)の盗めを手つだったことがあった。蓑火・狐火の両頭目(りょうとうもく)には長い親交があり、手不足の折は双方が補(おぎな)い合っていたものだ。
こうしたわけで、五条の増蔵は〔殿さま栄五郎〕の顔を見知っていたのである。

増蔵は、上州・高崎城下の隠れ家に暮らしており、時折り、諸方の盗賊の手つだいをして稼いでいた。
この篇でも、〔火間虫ひまむし)〕の虎次郎(とらじろう 45歳前後か)の盗(つと)めを助(す)けるために江戸へやってきていた。

文庫巻14[殿さま栄五郎]が寛政何年の事件かは、わからない。
聖典が、史実の平蔵の天寿(50歳)をすぎても、なお語りつづけられたことは先日も記した。

が、仮に、平蔵の生存中---寛政6年(1794)の事件ということにすると、平蔵の49歳のときで、いま進行中の安永5年(1776)より18年後ということになろうか。

寛政6年の[殿さま栄五郎]のときの増蔵の齢かっこうは記されていないが、これも仮に45歳前後とふみ、栄五郎が〔蓑火〕一味で才覚をふるい、盗賊仲間に令名を高めていた時期の当人を見ていたとすると20年前---増蔵の25歳前後のころであったろう。

栄五郎の令名は20年間も、盗賊界であがめられていたというのだからそうとうなものだが、聖典をつぶさに検討してみると、じつは、[殿さま栄五郎]の篇のほかでは 池波さんは栄五郎を登場させていないし、その姿を見たという者も見あたらない。

田舎盗人の〔長沼(ながぬま)〕の房吉(ふさきち 中年)が出会ったことがないのはあたりまえとして、顔のひろい口合(くつあい)人の〔鷹田たかんだ)〕の平十(へいじゅう 57歳)や、熟練の甞役の〔馬蕗うまぶき)〕の利平治(りへいじ 56,7歳)までが噂をたよりにしていたというのは異常としかいいようがない。

変だと気がついた。

栄五郎は、ちゃんとした姿で人前に出られない躰になっていたのではないか?
たとえば、顔に刃傷を受けて頬が欠けたとか、片腕がなくなったとか。

しかし、栄五郎の噂だけは、盗賊界にひろがっている。
とすると、なにかのために噂を流したともかんがえられる。

なんのために?
神格化されていた〔蓑火〕の喜之助お頭の名声をまもるために。

それならば、栄五郎が歩行が不能になってしまった躰をはかなんで、自裁したことを隠しもしようとおもいいたった。

その場に立ち会ったのが〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう 39歳)であれば、一生、口を割るまいとの見当もついた。

蓑火〕のお頭への自裁の報らせも延ばせるだけ延ばすであろう。
叱声覚悟の、五郎蔵のおもいやりであった。 

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2010.07.19

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵からの書状

京・五条大橋東詰の宿屋〔藤や〕の隠し部屋は、〔蓑火みのひ)〕のお頭(かしら)の専用の居間であった。
8畳間で、入り口の土間の北側に、しつらえられていた。

土間をはさんだ向い側は、草鞋(わらじ)脱ぎ場をかねた客迎えの帳場となっている。

隠し部屋の土間に面した側は、、ひのき材の厚い板壁で仕切られており、旅人はそこに部屋があることに気づきもしない。

中庭と厠へ通じている1間(1m80cm)幅のたたきの通路は、隠し部屋の端で左へ折れ、2間半(4m50cm)先で右に曲がると、ずっと奥へ突き抜ける。

最初(はな)に左へ折れたとっかかりに、秘密部屋への板戸の狭い入り口がしつらえてあった。

奥への通路は、2度目の曲がりから2重壁になってい、中は半間(90cm)ほどの通路づたいに中庭を突きぬけ、奥の離れの押入れの壁裏から五条東通りにつながっている上人町の道路へ忍び出られるように作られていた。
つまり、ふいに手入れがあっても、隠し部屋から脱出できたのである。

その秘密の部屋で、独りきりで、喜之助(きのすけ 55歳)が眉をひそめ、さきほど定飛脚が配ってきた江戸からの書状に、目をおとしていた。

蓑火〕組の小頭筆頭・〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう 39歳)のくせの強い筆跡であった。

参照】2010年7月5日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () (

読みやすい文章に書きかえてお目にかけよう。


浦和宿の五井ごい)の亀吉どんにお頭のご存念をつたえました。
亀吉どんは熊谷宿の〔富士見屋(旧・藤や)へうつり、半年後にあっしと並び頭(がしら)となって立つことを喜んでうけいれました。

浦和の〔藤や〕は、〔浅間(あさま)屋〕と看板を変えました。浅間(せんげん)神社は富士山の守護女神で、藤に通じるといっております。

殿(との)さま栄五郎(えいごろう 30代半ばすぎ)どんは、江戸から帰ってきてはおりませなんだ。
江戸の猿江町のつなぎ(連絡)宿で、そのまま、養生しているとのことでした。
あす、入府し、つなぎ宿で栄五郎どんに仔細をたしかめ、認(したた)めます。

昼前に、蕨(わらび)宿の〔藤や〕の仁兵衛(にへえ 45歳)どんに会いました。
軍者(ぐんしゃ 軍師)・〔神畑(かばたけ)の田兵衛(でんべえ 48歳)どんからの指令により、高崎城下の商人宿へうつる準備をととのえており、あっしに引き渡したらすぐに高崎へ発つそうで、とりあえず、番頭役の〔三ヶ尻(みけじり)〕の瀬之吉(せのきち 35歳)どんにあとの差配を頼み、江戸へ向かいます。

ちゅうすけ注】蕨宿のこの商人旅籠は、8年後に屋号を〔藤や〕へ戻し、引退して武蔵国へ引っこんだ喜之助が、でっぷりと肉づきのいい寡婦(やもめ)・お(こう 39歳)とその連れ子といっても、19歳になるむすめざかりのおもんとともに営んでいた。
翌々年、おもんに婿・伊助(いすけ 23歳)を迎えて当主とした。(文庫巻1『老盗の夢』)
すでに喜之助は65歳、41歳のおの汁気が少なくなった躰を抱くのもいとわしくなってきていた。
で、66歳の晩秋、ついに決心、ゆずり渡した京都の宿屋〔藤や〕で、源吉(げんきち 42歳=去年)の世話になりながら余生を送ることにした。

だから、いま、綴っている物語は、上の聖典から12年前の安永5年(1776)の梅雨前のころとおもっていただきたい。

定飛脚がとどけた紙包みには、書状が2通入っていた。

喜之助は、無表情に次の書状を開いた。

東深川のつなぎ宿で養生していた〔殿さま栄五郎どんの躰の具合は、ひどく悪いようで、この1ヶ月半、寝たっきりで、下(しも)のことも宿の番人の久兵衛(きゅうべえ 64歳)どん夫婦の世話になっているようです。

どうしてそんなひどいことになったのか問い質(ただ)したが、答えません。
久兵衛どんの話によると、(いわ)の奴が捕縛された7夜月の五ッ半(午後9時)すぎ、駕篭に倒れこむようにして運ばれてきたといいます。
駕篭屋がいいうに、なんでも本所・竪川(たてかわ)の南土手、松井橋の先でうめいていたので、声をかけたら、猿江町のこのつなぎ宿へ運んでくれといったそうです。
戻り駕篭で通りかかっただけなので、怪我の経緯は知らない、放ってもおけないから乗せてきたと。

参照】2010年7月1日[〔殿(との)さま〕栄五郎} (

近くの外科・骨継ぎの良庵医者の診立てでは、腰骨にひびが入っており、副え木をしても一生歩くことはかなうまいとのことだそうです。
いえ、このことは、栄五郎どんの耳には入れていません。
久兵衛夫婦にもかたく口どめしておきましたが、いずれは、栄五郎どんも察するでしょう、そのときのことが心配ではあります。

読み終わった喜之助は、ふっーと深いため息をついた。


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2010.07.18

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (7)

「いいか。元締か小頭、若い者頭へじかに渡すんだぞ。長谷川さまのお顔をつぶすようなことになっては、これからのおれたちの生業(なりわい)にもさしつかねえ---と、わしがいっておったと、念をおせ」

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 50歳)は、平蔵(へいぞう 31歳)からの書状を筆写し、小頭の〔大洗(おおあらい)〕の専二(せんじ 38歳)ほかの主だった手下(てか)にもたせて盛り場の元締衆のところへ走らせた。

依頼状は、平蔵が〔(世古(せこ)本陣)〕と仮りの呼び名をつけたお賀茂(かも 40歳前)を、似顔絵と照らしあわせた店を調べてほしいというものであった。

それがわかれば、お賀茂とそのむすめが出歩く先ざきの推測が、ある程度はつくかもしれないとおもったのである。
もちろん、引っ越したであろうが、たぶん、あわてての引越しだから、〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 58歳)とすれば、そう遠くへは動いてはいまい。

音羽〕の重右衛門の手くばりは、さすがであった。
おもいのほか、早くにその店が知れた。

なんと、浅草寺の仲見世の一軒、人形屋〔助十〕とわれた。

浅草、今戸、橋場をシマにしている〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 29歳)が、〔助十〕のおんな主(あるじ)を伴い、菊川橋西詰の酒亭〔ひさご〕でお待ちしていると、権七(ごんしち 44歳)のところの若い者(の)が、下城したばかりの平蔵に伝えにきた。

菊川橋ぎわの酒亭〔ひさご〕といえば、去年だったか、白粉問屋〔福田屋〕の番頭や権七などと使ったことがあった。

参照】2010年4月14日[お勝からの手紙] () (

権七がなじみというので、今助がしたがったのであろう。
小座敷が借りられていた。

今助も、元締の座に坐って5年近くになり、貫禄もそれなりについてきた。
「お内儀は達者かな?」
それでも、小浪(こなみ 37歳)のことを平蔵から訊かれた今助は、小鬢をかきかき、
「婆ぁになってるのに、達者なもんで---」
「それは、けっこう。おんなは灰になるまであきらめないというぞ。子でも授けてやるんだな」
「そっちは、見込みがありやせん」
「はげめ、はげめ」
平蔵は、真面目な顔ですすめた。
音羽〕の重右衛門と権七が笑いをこらえていた。

ひとわたり酒が入ったころを見はからい、今助が〔助十〕のおんな主をうながすと、ひと通りのことを話してから、
「妙だなと感じたのでございますが、京人形を買ってもらった子と、似顔絵のおんなは、どうも、いっしょには住んでいないみたいでした」

「なに?」
平蔵があらたまると、人形屋は口ごもってしまった。
「女将どの。おもったままでいい。なぜ、そう感じたな?」
うながされ、
「おんなの子が、おたあん家(ち)に、預かっといてんか、といったんです」


参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () () 

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2010.07.17

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (6)

「目くらましの、仕かけにお気をおつけなさいませ」
中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)の声であった。

_100いや、このとおりに言ったのではなかった。
ささやくように読みあげたのは、『孫子』行軍篇の中の一節---、
「衆草(しゅうそう)の障(おおい)多き者は、疑(ぎ)なり」

孫子』は、草を結んだ上をなにかで覆っているのは、行軍を遅らせるためだと警告しいたのだが、平蔵(へいぞう 31歳)の耳元で、おはこう、ささやいてくれたと、受けとめた。
「目くらましの、仕かけにお気をおつけなさいませ」(歌麿 お竜のイメージ)

参照】2008年9月13日~[中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう)] () (
2009年8月4日[お勝、潜入] (

目くらまし---とは?
荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 58歳)が、どうかして、似顔絵が配られていることを知ったとしよう。

いずれかの元締のシマの床店へ、お賀茂(かも 39歳)とむすめ(6歳)が買いものにあらわれたとき、手くばりされていたお賀茂の似顔絵をわざわざとりだして照合でもするへまをしでかしたものがいたかもしれない。

気づいたお賀茂が訊いたであろう。
「なんのためなの?」
あわてた床店の女あるじが、
「元締さんから言いつけられただけでして---」

その経緯(いきさつ)を、お賀茂が、〔荒神〕の助太郎に告げたとする。

助太郎は、かねてから目をつけていたお賀茂にそこそこ似たおんなに、相応の金をわたし、すぐさま、横山町横町の古手屋〔衣棚(ころものたな)屋〕のおんな主(あるじ)をすりかえる。

横山町の近くに住んでいたお須賀たちを引っ越させ、そのあとには代人を入れたろう。

小頭・〔於玉Tヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)の耳に、見まちがえた〔ころものたな屋〕の代人のことを告げたのは、両国広小路のどの店かの者であったろう。

(これは、伝六にたしかめてもいいが、どうというほどのことではない。肝心なのは、〔荒神〕の助太郎が、なぜ、お須賀を隠したかだ)

(いや、お賀茂を隠すためでなく、ほかのこと---たとえば、6歳にまで育ったむすめを隠すためだとしたら?)

ちゅうすけ注】6歳にまで育ったむすめは、その後25歳となり、文庫巻22[炎の色]でお(なつ)と名のってあらわれた。

(そうでは、あるまい。〔ころものたな屋〕からお須賀へたどりつく線は、引越しによってきれいに消された)
となると、助太郎の狙いは、こちら側を混乱させるところにあったのかもしれない。

とつおいつ考えているうちに、屋敷へ着いた。
舁き賃をわたそうとしたが、つよく拒まれた。
無理に押しつけて、舁き手たちがあとで権七(ごんしち 44歳)から雷を落とされても気の毒と、あっさり引っこめた。

部屋へ座り、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 50歳)へとどけ文を認(したた)めた。
明日、登城したあと、松造(まつぞう 25歳)にとどけさせるつもりであった。


参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () (


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2010.07.16

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (5)

「明日、もう一度、さぐってみやしょうか?」
耳より〕の紋次(もんじ 33歳)の興味津々の問いかけに、
「それは、やめておいてくれ。隣りのたばこ屋の婆あさんにも近づかないほうがいい」

平蔵(へいぞう 31歳)は、水茶屋の美人の女将に茶代をわたし、深川・黒船橋北詰の駕篭屋〔箱根屋〕の権七(ごんしち 44歳)を訪ねた。

「ご新造は---?」
すぐに事情を察した権七は、店の者を、畳横丁の住いへ走らせた。
以前の住いは、同じ深川でももうすこし西寄り---諸(もろ)町に接した熊井町内の正源寺(浄土宗 現・江東区永代1丁目)の横手にあったが、駕篭屋業にはずみがついたころ、店に近いいまの2階家へ越していたのである。

弥生(旧の3月)も月末近くになると、日の暮れもぐんと延びてきていた。
折れて西向きに大川へ注いでいる横川の河口の空が、深紅の夕焼けになっていた。

その夕焼け空を背負うようにしてやってきたお須賀に、
「夕餉(ゆうげ)の支度の最中(さなか)のご足労、申しわけない」
「とんでもございません」
「ご新造の目には、〔衣棚(ころものたな)屋〕のおんな主(あるじ)は、お賀茂(かも 40歳前)ではないと、はっきり、見えましたか?」
「お賀茂さんを最後に見かけたのは、いつかもお話としましたように10年も前ですが、どんなに面(おも)変わりしておりましても、寸時たてば、むかしの面影があらわれるものでございます。ましてわたしは、本陣の女中、呑み屋の女将と、客商売が長ごうございましたから、人さまのお顔を覚えるのには長(た)けております。見まちがえるようなことは、まず、ございませんです」

参照】2008年3月27日[〔荒神(こうじん)の助太郎] (10) 
2009年1月10日[銕三郎、三たびの駿府] (

(おんながおんなの顔を見るときは、どれほど化粧をほどこしていようと、その仮面をはぎとって素の顔を見てしまうほど残忍なものだと、いつか、お勝(かつ 35歳))が打ちあけてくれたことがあった)

「いや。ご内儀どのの申し分、重々にごもっとも。まさに、他人のそら似であったろうう」
平蔵は、お須賀たちが〔ころものたな〕屋をでて間もなく、おんな主が表戸を閉めてどこかへ出ていったことは、お須賀にはかかわりのないことであったから、告げなかった。

(ここから先は、おれの思案どころだ)

権七が、駕篭を用意してくれた。
「あちこちお歩きになって、おくたびれでございやしょう。使ってやっていくだせえ」

駕篭に揺られて思案を凝らしていたとき、お(りょう 享年33歳)の声が聞こえて、おもわず膝を打った。
「そうであったのか!」

参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () (

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2010.07.15

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (4)

(そうだ、紋次(もんじ 33歳)という手があった)
(つう 9歳)を柳原岩井町の惣介長屋まで送っていきながら、平蔵(へいぞう 31歳)は、胸の中でつぶやいていた。

は、買ってもらった着物をしっかり抱いて、
(てつ)おじさん。たったあれだけのことで、こんないいものいただいてしまっていいのですか?」
つづいて、
「また、こんな仕事をください。もっとうまくやりますから」

先刻手くばりした横山町の〔衣棚(ころものだな)屋〕から近い米沢町裏のしもうた家に、読みうりの刊行元を訪ね、紋次(もんじ 33歳)を呼びだした。

〔化粧(けわい)読みうり〕で、江戸の香具師(やし)の元締衆から世話焼き代をけっこうもらっているので、平蔵のことは、なにをさておいても役に立とうとしてくれる。

両国橋西詰Iに立ちならんでいる茶店の中で、静かに話ができる店へ導かれた。
紋次どん。これは、読みうりに書いてもらっては困る頼みなのだが---」
「お天道(とんとう)さまが西からのぼってきても、書くようなことは、ありゃしません」

古手(古着)を商っている〔ころものだな屋〕の女主人の素性がしりたいーーーというと、
「ここで、お茶のお代わりでもなさっていてくだせえ。ちょっくら行ってきまさあ」
茶店の女将に、なにごとかいいつけ、さっさと出ていった。

女将は、30すぎの細面の美人であったが、紋次から言いふくめられたのであろう、色気抜きで真向かいに坐り、
「巷(ちまた)では、4月13日、日光へお参りのお行列を拝もうと、お成り道の場所どりがいまから始まっております」
「残念だが、拙は西丸勤めだから、参列しないのだ」
「西丸と申されますと、大納言(家基 いえもと 15歳)さまはご参詣なされないのでございますか?」
「お上とお世継がごいっしょにもしものことがあってはと、大事をとっておられる」
「ご不便なものでございますねえ」
「不便といえば、不便でもあるな。はっははは」
「ほ、ほほほ。わたくとしましたことが---」

「美形の若いむすめばかりそろえおられるが、集めるのはどのように---?」
「どのようにも、なにも。器量自慢の子は、自分から売りこんでまいりますのですよ」

「女将どののむすめ時代も、そうであったのかな?」
「おんなごころには、むかしもいまも、変りございません」
「女将どのも、売りこんだ口?」
「わたしは、母のあとを継いだだけでございます」

「これは、失礼つかまつった」
「とんでもございません。あの、(いく)と申す婆ぁでございます。これをご縁に、お引きたてくださいますよう」

無駄話をしているうちに、紋次が小首をかしげながら戻ってきた。
(不首尾であったか?)

〔表戸を立ており、いくらたたいても返事がありやせんでした」
「1刻((2時間)前までは、商売していたのだが---」
「隣りの煙草屋の婆さんに訊いてみやしたら、ほんのちょっと前に戸をしめて、帰っていったそうで---」
「帰っていった? 住んでいるのではないのか?」
「通いだそうでやす」

紋次が聞き出してきたところによると、〔ころものたな屋〕の看板があがったのは1年半ほど前で、5年前の火事のあとは、別の者が古手屋をやっていたのを、おんなが居抜きで買いとったようだ。
いつも、おんながつめているが、ときには下男らしい男(の)も店番にきていることもある。
商売のほうは、ぽつぽつらしい。
仕入れは、上方から荷がつくところをみると、そっちから仕入れているようだ。
おんなの住いは聞いたことがない。

(はて、お須賀(すが 38歳)を見たから店戸を閉めたとすると、お須賀がお賀茂(かも 40歳前)と告げたはずだが。そう断言しなかったのは、やはり、お賀茂ではなかったらしい)
すると、人相絵のお賀茂は、どこに?
店にいたおんなは、何者?


参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () (

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2010.07.14

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (3)

「似てはいましたが、わたしの顔を見ても顔色一つ変えませんでしたから、お賀茂(かも 39歳)さんじゃなく、他人のそら似でしょう」

浜町堀に架かった緑橋の東たもとの茶店で待っていた平蔵(へいぞう 31歳)に、お須賀(すが 38歳)が見た目のとおりを告げた。

じっと考えこんだ平蔵に、お(つう)が、
(てつ)おじさん。わたし、変だなとおもう」

村松町が火元の火事のとき、どっちへ逃げた? と聞いたが、お賀茂かもしれないおんなは、返事をしなかった。
そのくせ、10年前から〔衣棚(ころものたな)屋〕をつづけていると言った。
「村松町の---」というのは、5年前の明和8年(1771)2月の夜、村松町から出火、春の南風にあおられて隣の橘町、横山町、西両国の米沢町などを焼きつくした火事である。
そのとき4歳だったおは、すぐ近くに見えた巨大な火焔におびえ、母・お(くめ 30歳)に手をひかれて神田川ぞいの南側の土手を、八ッ小路のほうへ逃げた。

は、2歳の善太を脊負い、片手に子どもたちの衣類のふろしき包、もう一方にはお通の手をにぎってはなさなかった。
横山町横筋の〔ころものたな屋〕も焼失したにちがいないのに、そのことを話さなかったのは、江戸に住んでいなかった---少なくとも、横山町にはいなかったに違いないと、おが断じた。

「お。賢いぞ。よくも、村松町の火事に気がついた」
誉めておき、あのときの亡父・宣雄(のぶお 53歳=明和8年)は火盗改メ助役(すけやく)を命じられる半年ほど前の先手・弓の8番手の組頭であったが、家紋つきの高張提灯を家臣たちにもたせ、人混み整理のために出動した。
平蔵も、父にしたがったから、あの夜の騒ぎはよく覚えていた。
両国橋は、東の本所のほうへ逃げる人でごったがえし、わたりきるの手間どった。

江戸の半分近くを焼尽した目黒・行人坂の大火は翌9年(1772)の2月28日の真っ昼間であった。

参照】2009年7月2日~[目黒・行人坂の大火と長谷川組]  () () () () () (


おじさん。薬研堀に架かっていた尼ヶ橋がなくなったのも、わたしが4歳のとき、5年前の夏からで、焼け跡のいろんなもので堀が埋め立てられたのです」

尼ヶ橋の由来は、薬研堀の中ほどにかかった橋のたもとにものもらいの尼が坐って乞うていたからことによる。
いつのころからか、尼が赤ん坊を抱いているようになった。
町役人が調べたら、捨て子だと答えた。

それから、あたりでは、子どもがいたずらをすると、親たちのおどし文句がしばらく流行った。
「尼ヶ橋に捨ててしまうから」

10年前から横山町で店をだしていたら、堀の埋め立てで消えてしまっていまはない尼ヶ橋のことも覚えているはずだと、小さなおんなシャーロック・ホームズ---いや、間違えた、おんな半七は不思議がった。

の勘の鋭さ、機転のきかせ方に、平蔵は感嘆した。
(9歳で、これだ)
普段から、勤めにでている母親にかわり、弟・善太の身のまわりを世話したり、食事をつくったりしているうちに鍛えられた勘であろう。

(おれが火盗改メに任じられたら、密偵として使いたいほどだ。まてよ、おに似た境遇のむすめ---おまさだ。父親・忠助(ちゅうすけ)の身のまわりに気をくばりながら、店を手伝っていた。いま、20歳になっているはずだが、どこでどうしていることやら---)

参照】2009年11月30日~[おまさが消えた] () (

参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () (

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2010.07.13

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (2)

「お(つう 9歳)。銕(てつ)おじさんの仕事を助(す)けてくれるか?」
不安げな表情であったが、それでもこっくりとうなずいた。

(まつ)父(とう)ちゃんは、善太(ぜんた 7歳)が手習い所から帰ってくるのを、ここで迎えてやれ」
松造(まつぞう 25歳)に言った。

平蔵(へいぞう 31歳)と並んで歩いているうちに、おはいつもの気丈さをとりもどしていた。

小伝馬上町の千代田稲荷(現・中央区小伝馬町91)の社前で、駕篭の〔箱根屋〕権七(ごんしち 44歳)の内儀・お須賀(すが 38歳)が待っていた。

「小母さんが、このときだけ、おっ母(か)さんだ」
引き合わせると、おが頭をさげた。
「よろしゅうに---」
「お、って呼ぶけど、許してね」
「はい、おっ母さん」

須賀の一人むすめ・お(しま)も9歳だが、平蔵には、別の考えがあったのである。
通塩町の角で別かれ、浜町堀に架かる緑橋ぎわの茶店で待つことにした。

須賀とおは、古手(古着)屋が多くて糊の匂いのする横山町で、〔衣棚(ころものたな)屋)〕をさがした。
1丁目と2丁目のあいあいだの横丁にあった。
間口1間半の奥に長い店で、壁の両側に着物をぶらさげ、中央の台に半端な品をつみあげてたいる。

須賀が、(あれがそうかな)とおもった、肌から精気が失せた40歳近いおんなが、
「なに、さがしてはりまんのん?」
「この子の夏着---」
「それやったら、こっちの台どすえ」

須賀が、手にとった絣模様をおの躰にあててみながら、
「つい、こないだ7つになったとおもったのに、もう、9つで---」
「お子は、なあ---」
「ご新造さんのところも---?」
「うちは、いてえしまへん」

が、桃色地に紺の矢絣を選んだ。

勘定を払いながら、
「〔ころものたな屋〕さん---変わった屋号ですね?」
「都にそんな名ぁの通りがおますんどす」
「あ、通りの名でしたか---」
「ようは、知られてぇへん通りどす---」
「縁があったら、いちど、のぼってみたいところです、清水寺や祇園さん」
「ええところやけど、夏は暑うて冬は底冷えどすえ」
「江戸は何年に?」
「もう、10年に---」

が、つぶやい。
「村松町のとき、どっちへ逃げたの?」
おんなは、聞こえなかったか、応えなかった」

「尼ヶ橋の捨て子、怖かった」
このときも、おんなは反応しなかった。


参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () (

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2010.07.12

〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂

「むさくるしいところにお上がりいただくわけにはいきやせん。ちょっとそこまでお運びを---」
於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)の家は、小泉町のしもうた家であった。

伝六 は、気軽に板割草履をつっかけ、於玉稲荷社の脇の小さな茶屋へ誘った。

於玉稲荷社は、於玉の祟(たた)りを鎮めるために建立された。

於玉は、この地の桜ヶ池へ入水自殺をし、祟ったという。
池は、於玉ヶ池と改められた。

ものの本にこうある。

里老(りろう)伝えていふ、昔、この地は奥州への通路にて、桜樹あまた侍りけるところにありし池なるがゆゑに、桜ヶ池とよべりとぞ。
その傍らの桜樹のもとに、玉といえるおんな出て居て、往来(ゆきき)の人に茶をすすむ。容色おおかたならざりければ、心とどめぬ旅人さへ、掛想(けそう)せぬはなかりきとなん。

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([於玉ヶ池の古事] 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)

2人の色男があらわれ、同じようなしつこさで口説いた。どちらとも決めかねた玉は、池に身を投じて果てた。
哀れ;とおもった里民(りみん)が亡骸(なきがら)を池の辺(ほとり)に埋め、柳を植えて記念(かたみ)の柳と呼んだ。

中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)が琵琶湖に沈んだのは、自裁ではなく、まったくの事故であった。 
(京都へのぼったおれに、一刻も早く会いたいと、夜、彦根から船を仕立て、大津湊の寸前で突風にあおられた)

参照】2009年7月26日[千歳(せんざい)のお豊] () (
2009年8月1日~[お竜(りょう)の葬儀] () () (

平蔵(へいぞう 31歳)にとって、おの哀れさ、いじらしさは、於玉に、はるかにまさる。
(そもそも、2人の男のどちらか決められないから、入水して結末をつけるというような、か弱いおんなが、いまどき、いるものか)

長谷川さま」
年齢・容色ともに伝説の於玉とはかなりへだたりそうな茶汲みおんながひっこむと、伝六が懐から人相絵をだし、
「これによく似たおんなが、横山町で古手(古着)屋の店番をしているという報らせがあがってきやしたんで---」

「齢のころは?」
「37,8歳に見えるそうでやすが、もちっといっているやも---。骨っぽい、脂肪(あぶら)っけが薄い躰つきで---」
「6,7歳のおんな子もいっしょかな?」
「そっちは、見かけねえようだと---」

さぐっていることを先方が知ると、消えかねないから、いまのところは住まいもなにも探索していない、と断言した。

「それで、よかった。念のいった気くばり、礼を申す」

伝六は、平蔵がお(くめ 35歳)の身のふり方を最初にもちかけてからというもの、すっかり信頼するようになっていた。
それに、料亭〔草加屋〕の盗難をみごとに防いだ智謀にも一目おいていた。

【参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () () (

これから先は、〔世古(せこ)本陣〕のお賀茂(かも 36,7歳)と、仮の〔通り名(呼び名ともいう)〕をお賀茂にふることにしたい。
「世古本陣」は、三島の2番目の本陣で、かつてお賀茂が京育ちを売りこんで座敷女中をしていたことがあった。

参照】2008年3月27日[荒神(こうじん)〕の助太郎] (10

世古本陣〕のお賀茂のことは、火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき 47歳 2025石)に告げるつもりはない。

第一、お賀茂助次郎の情人(すけ)ではあるが、盗みに加わっているかどうかはさだかでない。
(いや。盗み金(つとめがね)を腹に巻き、箱根関所をやぶったのだから、加担はしているのだ)

しかし、お賀茂を見張る手がないことが、頭痛のたねであった。


参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] () () () () () (

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2010.07.11

ちゅうすけのひとり言・これまでのリスト(61)

これまでの[ちゅうすけのひとり言]
()内のオレンジの数字をクリックでリンクします。

60) 長篇[炎の色]の年代 2010.07.07
59) 家治の日光参詣に要した金額など 2010.O6.05
58) 松平賢(まさ)丸(定信)の養家入りの年月日 2010.06.04
57) 日光参詣に参列・不参列の先手組頭リスト 2010.05,26.
56) 世嗣・家基の放鷹で射鳥して賞された士 2010.05.09
55) 平蔵以前に先手・弓の2組々頭11人のリスト 2010.05.08
54) 世嗣・家基の放鷹へ出た記録 2010.05.07
53) 渡来人の女性の肌の白さ 2010.03.31
52) 三方ヶ原の精鎮塚 2010.03.04
51) 禁裏役人の汚職の文献など 2010.01.23
50) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.04

49) 安永2年11月5日の跡目相続者 2010.01.03
48) 安永2年10月7日の跡目相続者 2010.01.02
47) 安永2年8月5日の跡目相続者 2010.01.01
46) 安永2年7月5日の跡目相続者 2009.12.31
45) 安永2年6月6日の跡目相続者 2009.12.30
44) 安永2年5月6日の跡目相続者 2009.12.29
43
42) 安永2年2月11日の跡目相続者 2009.12.19
41)平蔵が跡目相続を許された安永2年(1773)の跡目相続人数 2009.12.18

40) 禁裏役人の汚職捜査の経緯
39) 3人の禁裏付
38) 禁裏付・水原家と長谷川家
37) 備中守宣雄の後任・山村信濃守良晧(たかあきら 
36) 備中守宣雄への密命はあったか?
35) 川端道喜
34) 銕三郎・初目見の人数の疑問
33) 『犯科帳』の読み返し回数
32) 宮城谷昌光『風は山河より』の三方ヶ原合戦記
31) 田沼意次の重臣2人

30) 駿府の両替商〔松坂屋〕五兵衛と引合い女・お勝
29) 〔憎めない〕盗賊のリスト
28) 諏訪家と長谷川家
27) 時代小説の虚無僧と尺八
26) 小普請方・第4組の支配・長井丹波守尚方の不始末
25) 長谷川家と駿河の瀬名家
24) 〔大川の隠居〕のモデルと撮影
23) 受講者と同姓の『寛政譜』
22) 雑司が谷の料理茶屋〔橘屋〕忠兵衛
21) あの世で長谷川平蔵に訊いてみたい幕臣2人への評言

20) 長谷川一門から養子に行った服部家とは?
19)  『剣客商売』の秋山小兵衛の出身地・秋山郷をみつけた池波さん 2008.7.10
18) 三方ヶ原の戦死者---夏目次郎左衛門吉信 2008.7.4
17) 三方ヶ原の戦死者---中根平左衛門正照 2008.7.3
16) 武田軍の二股城攻め2008.7.2

15) 平蔵宣雄の跡目相続と権九郎宣尹の命日 2008.6.27
14) 三方ヶ原の戦死者リストの区分け 2008.6.13
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
13) 三方ヶ原の戦死者---細井喜三郎勝宗 2008.6.12
11) 鬼平=長谷川平蔵の年譜と〔舟形〕の宗平の疑問 2008.4.28

10) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士たち---深井雅海さんの紀要への論 ]2008.4.5
) 長谷川平蔵調べと『寛政重修諸家譜』 2008.3.17
) 吉宗の江戸城入りに従った紀州藩士の重鎮たち) 2008.2.15
)長谷川平蔵と田沼意次の関係 2008.2.14
) 長谷川家と田中藩主・本多伯耆守正珍の関係 2008.2.13

) 長谷川平蔵の妹たち---多可、与詩、阿佐の嫁入り時期 2008.2.8
) 長谷川平蔵の妹たちの嫁ぎ先 2008.2.7
) 長谷川平蔵の次妹・与詩の離縁 2008.2.6
) 煙管師・後藤兵左衛門の実の姿 2008.1.29
) 辰蔵が亡祖父・宣雄の火盗改メの記録を消した 2008.1.17

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2010.07.10

安永5年(1776)4月13日の予告

西丸・書院番4の組の番士全員50名に出仕の触れがだされたのは、将軍・家治(いえはる)が大行列をつくって日光山へ参詣する1ヶ月前の、3月13日であった。

番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 52歳 3500石)が、当日は、大納言家基 いえもと 15歳)が寅の刻(午前6時)に本城へのぼり、お上のご機嫌をうかがうので、西丸大手門から内桜田ご門までのあいだの警備にあたる、と前置きを述べ、あとを与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 56歳 800俵)にまかせた。

参照】2006年4月28日~[水谷伊勢守が後ろ楯] () (
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] () (
2007年4月17日[寛政重修l諸家譜] (
2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2010年2月1日~[牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] () () (

丑の刻(午前2時)に、老中・松平右京大夫輝高(てるたか 52歳 7万2000石 高崎藩主)、同・松平周防守康福(やすよし 58歳 5万4000石 岡崎藩主)、同・田沼主殿意次(おきつぐ 58歳 3万石)が供ぞろえして登城する。

(ということは、供奉しなくても、その日は早出は当たり前と覚悟せよ、ということか)

当日の服装は麻上下とも指定された。

参考麻上下

お見送りは神田橋ご門内。

先導行列が次つぎとつらなり、お上の首途(かどで)は、寅の刻(午前8時)すぎであろうから、4刻ほど厠(かわや)へは行けないと覚悟するように。

ちゅうきゅう注】行列の先頭が日光に到着しているのに、まだ、江戸城の大手門を通っていない組があったと書いているものの本もあるが、いささか大げさとおもう。
日光まで、将軍は岩槻城で一泊。
第2泊目は、古河城で。

参照】2010年6月5日[ちゅうすけのひとり言] (59

第3泊目は、宇都宮城。
将軍が眠っている間も昼夜兼行で行列が進んだというのであろうか。信じがたい。

そんな真偽の詮索より、牟礼郷右衛門勝孟の説明を聞こう。

江戸城内で、家基は、将軍を大広間の四の間まで見送り、しばらく休みがてら居残りの宿老たちと歓談のあと、座所で一橋民部卿治済(はるさだ 26歳)に対面、将軍の無事の旅程を祈念した三献の儀をおこない、祝いの囃子のなかばで座を立ち、西丸へ。

もちろん、書院番士である平蔵たちは、将軍の輿(こし)が神田橋ご門を通ったら、ただちに和田倉門から西丸へ帰城、大納言の帰還にそなえる。

将軍が日光から帰還する21日の注意は、3日後にあらためて触れるが、13日より20日までは、宿直(とのい)を倍に増やし、諸門・諸事の警戒をきびしくするから、そのように心得ておくこと、との達しであった。

解散後、この日、非番にあたっていた士は下城がゆるされた。
たまたの、出口で顔があった寺嶋縫殿助尚快(なおよし 44歳 300俵)が、
「〔丹波屋〕の蒲焼でも、どうだ?」
気をひいてきた。
他用があって、と断った。

於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)に、お暇をつくってほしいと頼まれていたからであった。

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2010.07.09

牛久(うしく)藩用人・山口四兵衛(2)

「牛久(うしく)藩の用人どのに、ご領内の八坂(やさか)神社の由来でも訊いたのか?」
「八坂神社---?」
平蔵(へいぞう 31歳)は、怪訝な目つきで、佐野与八郎政親(まさちか 45歳 1100石)を瞶(みつめ)た。

(てつ)どのは、京へ住んでいた時期があったな?」
「あ、祇園社さま!」

参考八坂神社

与八郎政親は笑い、牛久藩の祈願所は、京都の祇園社(八坂神社)から勧請した八坂なのだと説明した。

いわれて、平蔵がとっさに頭に描いたのは、祇園社の脇で茶店[千歳(せんざい)]のおんなあるじのお(とよ 25歳=当時)の、すらりと伸びてながらたっぶりした肉づきの姿態であった。

参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () () () () () () () () (10) (11

里貴(りき 32歳)を偲んでいるときに、おれとしたことが、なんということ---貞妙尼(じょみょうに)をおもいだすならともかく、女賊ということがはっきりした、あのおがまっ先に浮かぶとは---よほどにおんな好きということか。いや、若い男なら、やはり、おのおんなとしての躰の魅力に、たいがい、勝てまい)


京都盆地は、その昔、広大な湿地であったという。
そこへ渡来して住みつき、米作と干拓に使う諸道具をつくる鍛冶の技術をもった秦氏(はたうじ)が拓き、一族のむすめが産んだ桓武天皇に都づくりの土地として進呈した。

その氏族の一つとおもわれる八坂造(やさかのみやつこ)が素戔嗚尊(すさのうのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)を八坂の郷に祭ったのが祇園社といわれている。

備中 宣雄 のぶお 享年55歳)どのなら会得しておられたろうよ」
「いたりませぬでした」
「京には、技術と文化をつたえた渡来人の末裔が多かったはず---」
「そういわれてみると---」
゛おもいあたることが多いか?」
「はい」
貞妙尼の肌のすきとおり加減もそうだ---いけない、またもおんなをだしにして納得しておる)

参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (

気分を切りかえ、祇園一帯を仕切っていた元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60歳すぎ=当時)のおだやかな丸みのある顔と、名前のとおり、その息で、下顎が少々角ばっていた角兵衛(かくべえ 40歳すぎ=当時)をおもいうかべてみた。

円造元締が貞妙尼の肩入れしていたのは、慈悲ごころばかりでなく、同氏(うじ)のよしみもあったのかもしれない)

そういえば、牛久藩の江戸詰・用人の山口四兵衛弘世(ひろよ 42歳)の面ざしを、だれかに似ているとひっかかっていたのは、角兵衛であったか。

あれこれ思念していた平蔵を見守っていた与八郎政親が、
どのの番頭(ばんかしら)の(水谷 みずのや)出羽(守)どののご尊父が、祇園社の別当・宝寿院の執行(しぎょう)であられたことは存じておろうな?」
「越前の酒井家からご養子にお入りになったお方と、亡父からかすかに---」

参照】2006年4月28日~[水谷伊勢守が後ろ楯] () (
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] () (
2007年4月17日[寛政重修l諸家譜] (
2006年11月8日[宣雄の実父・実母

酒井家はご譜代の中でも、重臣中の重臣であるから、きちんとおぼえておくことだ。小浜藩の忠隆(ただたか)さまのご舎弟・忠稠(ただしげ)さまが、1万石を分与されてお立てになったのが敦賀(鞠山)藩である。その藩祖の四男が祇園・宝寿院の季麿執行さまということになる」
「ずいぶんと、まわりくどい---」
「そう、おもってはならぬ。つぎに用人どのに会ったとき、祇園社・八坂神社との因縁を語れば、いささかなりと威敬の目で見られよう」
「胆(きも)に銘じました」

2人とも、見合って高笑いした。
あわせたように、春一番が雨戸をたたいた。

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2010.07.08

牛久(うしく)藩用人・山口四兵衛

長谷川うじが捜していた、紀伊藩名賀郡(にがこおり)貴志村にゆかりがありそうな仁が見つかったが、会ってみるかな?」
西丸・書院番4の組---ということは、平蔵(へいぞう 31歳)が出仕している水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 52歳 3500石)の組ということだが---に、長いこと勤めている先輩・寺嶋縫殿助尚快(なおよし 44歳 300俵)から、告げられた。

参照】2008年12月4日~[水谷(みずのや)家] () (
2006年4月29日[水谷(みずのや)家]

尚快寺嶋家は、先代が有徳院殿吉宗)にしたがってご家人となった家柄であった。
それで、里貴(りき 32歳)が帰っていった貴志村のことを訊いてみた。

参照】2010年6月24日~[遥かなり、貴志の村] () (

江戸育ちで紀州の地理にくわしくはなかった縫殿助尚快は、宿直(とのい)の晩にふるまわれた蒲焼に義理を感じていたらしい。

溜池(ためいけ)の南端に藩邸のある、牛久(うしく)藩(1万17石)の用人・山口四兵衛弘世(ひろよ 42歳 80石)であると。
弓術の道場仲間だという。

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(常陸国河内郡 緑○=牛久藩邸 近江屋板)

「牛久藩と申せば、ご当主は修理亮弘道(ひろみち 37歳)さま---同じ山口姓ということは---?」
「さすが、進物番士。ご明察のとおり、ご一族につらなっているご仁である」
「しかし、牛久藩士が、どうして紀州の貴志村と?」
「それは、お会いして、じかに訊かれい」

七ッ(午後4時)と半(5時)のあいだに、双方から至近の麹町4丁目、蒲焼〔丹波屋〕の2階の小部屋で出会った。

酒の肴にでた白焼きを、国許では、牛久沼のうなぎをよく食したが、白焼きは初めてと、世なれた山口用人はお世辞を忘れなかった。

平蔵は、山口用人が盃をさしだすたびに袖口からあらわれる腕が、里貴に似て、なめらかで青白いことにおどろいた。

山口家の太祖は、周防国佐波郡(さはこおり)多々良の浜についた百済の王族・余氏であったらしい。
のちに大内(おおち)の姓を賜った。
その後裔に紀州へ住み着いた一団があったが、貴志村もそうかどうかは分明でない。

大内氏から別れた一団が尾張国愛智郡(あいちこおり)星崎に住し、織田に属し、山口を称した。

寺島尚快は、感嘆しているような相槌をうちながら、箸のほうは休みなく動いていた。

平蔵は、1語も聞きもらすまいと山口用人のほうを注視しており、うなぎどころではなかった。

「そんなわけで、渡来以来、1000年近い歳月を経ており、大和人(やまとびと)とも血が混ざりに混ざっておりますゆえ、百済人とは、もう、いえませぬ」

〔先刻、紀州に住みついた一団があったと申されましたが---」
「それも、600年もむかしのことゆえ、百済人といえますかどうか---」

山口用人とすれば、平蔵が出世が確約されている進物の士であるから、この際、藩のためにいささかなりと恩を売っておくつもりであったが、相手の関心が、宗家から別れた一団にしかないことを察し、落胆をおぼえていた。

新しくきた酒をすすめた平蔵が、
「もし、牛久藩の方の中に、紀州へ移った人たちのことが伝わっている仁がおられたら、お話をうかがいたがっていること、ご存念おきいてただけましょうか?」
{もちろんですとも」

「いつにても、よろこんで伺いますゆえ---」
寺島が割ってはいった。
「その節も、わしめ仲立ちいたしますぞ」

神田小川町の定火消屋敷裏へ帰るとしう寺島尚快と〔丹波屋〕の前で別れ、
「そこまで、お送りします」
山口用人と連れだち、紀尾井坂で見送ったのち、西丸・目付をしている佐野与八郎政親(まさちか 45歳 1100石)邸を訪ねた。

形式的な前触れなしに訪ねても、こころよく迎えてくれる年長者の数少ない一人であった。
「先日、相良侯から褒賞をいただいたそうだな」
「はい」
「なにか購(あがな)ったか? ああいう銭は、形にのこして孫子(まごこ)へ伝えるものぞ」
「病人をかかえた者に、薬料代といって送ってやりました」
「相変わらず、気前がいいな。貧乏するぞ」

与八郎政親は、田沼意次(おきつぐ 58歳)から里貴のことを洩れ聞いているであろうに、弟同様の平蔵の傷心にはあえて触れなかった。

「夕餉(ゆうげ)は、どこで?」
「丹波屋です」
「あそこだと、改まった相手ではないな」
「牛久藩の用人どのと---」
「ほう」


       ★     ★     ★

朝日出版の『週刊 池波正太郎の世界』が予定通り30巻をもって終了。
[鬼平犯科帳 七]がそれ。

30

シリーズ「わたしと池波さん」のラストは、中 一弥 さんで、なるほどとおもった。

ついでだから、鬼平がらみで登場した人をあげておくと(数字は号数)
1, 中村吉右衛門丈
4. 梶 芽衣子さん
5. 蟹江敬三さん
6. 三浦洸一さん
9. 江戸屋まねき猫さん
11. 綿引勝彦さん
13.. 藤巻 潤さん
14. 沼田 爆さん
16. 尾美としのりさん
20.. 多岐川裕美さん
21. 勝野 洋さん

で、レギュラー、準レギュラーで現在もご活躍中で残っているのは、岸井左馬之助役の江守 徹さんか、井関録之助役の夏八木 勲さんあたりかと予想していたのだが、もっと大物の、中 一弥画伯とは。

 


 

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2010.07.07

ちゅうすけのひとり言(60)

鬼平犯科帳』の巻23のほとんどの紙数をあてられている[炎の色]の年代を、寛政年間(1857~1800)の何時にとるかは、むずかしい選択である。

小説なんだから、きびしいことはいうまい---という意見も、もっともだし、ちゅうすけも、そうしたいとはおもっている。

主人公の長谷川平蔵宣以(のぶため)は、実在していた男である。
略歴を簡潔に記すと、

延享3年(1746) 生まれ。
安永2年(1773) 28歳 遺跡相続。
   4年(1775) 30歳 西丸・書院番4の組出仕。
               進物の役に選抜。
天明4年(1784) 39歳 徒の組頭(1000石格)
   6年(1786) 41歳  先手・弓の2番手組頭(1500格)
   7年(1787) 42歳 火盗改メ助役。
   8年(1788) 43歳 火盗改メ本役。 
寛政2年(1790) 45歳 人足寄場創設、同取扱兼任。
   4年(1792) 47歳 人足寄場取扱解任。
   7年(1795) 50歳 卒(6月10日) 

したがって、[炎の色]の年代は、寛政6年以前でなければなるまい。

ところが、巻1[唖の十蔵]からそれぞれの話の内容を確かめながら年代を割りふっていくと、巻13[熱海みやげの宝物]あたりで平蔵は卒していることになる。

で、ファンとしては、[熱海みやげの宝物]以後は、年代と年齢を自分なりに想定して読みつづけるわけである。

炎の色]の年代想定だが、おまさは〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう)と夫婦として暮らしている。
舟形ふながた)〕の宗平(そうへい)は80に近いというから、77,8歳か?

荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)は、13年前に病死。

参照】2007年7月14日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] () () () () () () () () () (10
2008年6月8日~[明和3年(1766)の銕三郎] (2) (3)
2008年10月28日[うさぎ人(にん)・小浪] (
2009年1月4日[明和6年(1769)の銕三郎] (
2009年18日~[銕三郎、三たびの駿府] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] () () (
2009年9月13日~[同心・加賀美千蔵] () () () () () (
2010年2月24日~[日光への旅] () (
2010年2月26日゜[とけい草

その隠し子のおなつ)は、25歳。

未完の巻24[誘拐]を平蔵の生前の寛政6年(1774)の事件と仮定すると、〔荒神〕の助太郎が歿したのは天明元年(1781)という勘定になり、おは12歳(明和7年(1770)の生まれ)。

巻24で、おまさが誘拐されたのを寛政5年とすると、助太郎が亡じたのは安永9年(1780)で、おの誕生も1年くりあがる。

年代にこだわっているのは、平蔵の青・壮年時代とのかかわりをどう扱うかによるからである。
どうも、計算を誤ってきたふしがある。
なぜ計算ミスをしたかは、おもいだせない。

とにかく、このブログでの舞台はいま、安永5年(1776)で進行させている。
助太郎の年齢はともかく、おは7歳か8歳というところ。
母親・お賀茂(かも)は36,7歳あたりか。
炎の色]には、おの母親のことは書かれていないが、母親なしで子は生まれない。

助太郎が没したときのお賀茂は41歳前後として、12,3歳の少女に異相の性癖を伝えたのは、後家となったお賀茂か。
池波さんは、どういう母親像を描いていたか?

さらにいうと、おまさが〔荒神〕の助太郎の求めに応じて仕事をしたのは何時ごろであろう。
助太郎の死の3年前あたりだと〔炎の色〕から16年前で、おまさ20歳ごろとなり、また勘定があわなくなってしまう。

参照】[おまさの年譜

       
     

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2010.07.06

〔殿(との)さま〕栄五郎(7)

京の五条大橋・東詰の宿屋〔藤や〕である。
そこは、伏見・大和への街道の起点でもあり、利用客はひきもきらなかった。

秘密の地下部屋への階段のふさぎ板がわずかに開き、一番番頭・源吉(げんきち 43歳)が、ひそめ声で呼びかけた。
「旦(だん)はん」

地下にしつらえられた部屋では、3人の男が相談ごとをしていた。

階段の降り口から(旦はん)と呼ばれた、5尺2寸(1m56cm)ほどの小柄で白髪の主は、盗賊の世界では〔蓑火(みのひ)〕のお頭(かしら))と尊称されている喜之助(きのすけ 55歳)であった。

声をかけた藤吉の手には、仕立て飛脚でとどいたばかりの書状が握られている。
仕立て飛脚とは、その書状の届けのためにのみ走る飛脚で、それだけに料金も目玉が飛びでるほど高かった。

6尺(1m80cm)はあろうかという〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろぞう 39歳)が立ち、手をさしのべただけで受け取り、喜之助へわたす。

その身動きでおきた風にあおられた燭台の炎につれ、男たちの影がゆれた。

喜之助は、眉間にかすかな縦じわをつくり、書状を炎に寄せ、あらためた。
老眼が一段とすすんでいるらしい。

その所作を冷静に見守っているのは、軍者(ぐんしゃ 軍師)・〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 48歳)である。

喜之助が、ぽつりと吐いた。
(いわ)め、素人(しろうと)衆を巻きぞえにしおった」

浦和の小さな商人旅籠〔藤や〕を関八州の盗人宿として預かっている〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 38歳)からの、料亭〔草加屋〕事件の続報であった。

亀吉がじかに江戸へ出向いて集めたこまごました手がかりが記されていた。

〔草加屋〕に飯炊き男として引きこみにもぐりこんだ岩造こと岩次郎(いわじろう 52歳=当時)は、〔殿(との)さま〕栄五郎(えいごろう 30代半ば)から、
「こんどは、しくじるなよ」
きつく念を押されていたという。

「怖れごころを植えつけられたら、失敗(しくじ)るに、きまっておるのに---」
喜之助が、また、つぶやきに似たぼやきをもらし、書状を五郎蔵に手渡した。

【参照】【参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

「お頭。色じかけでたらしこんだ女中頭は、の奴が寝床でしゃべったことを、ありこまっち吐いちまっているようですが---」
「素人はそれだから---」
なじった喜之助に、
「そのことですが、浦和の〔藤や〕は始末したほうがよろしいかと---」
神畑〕の田兵衛が提案した。

浦和宿の〔藤や〕を始末するとともに、中山道ぞいにくさりでつなげたように8軒にもひろげた〔藤や〕という屋号の商人宿をまかしている店主たちを、交互に入れ替え、その機に旅籠名もばらばらにつけ替え、表向きにはそれぞれ別々の金主がやっているようにしておかないと、やがて、火盗改メが〔藤や〕しらべを始めることにまでなるかも---と。

蓑火〕は、中山道をこのんで往来する近江商人たちの噂ばなしから、盗み(つとめ)の商舗をさぐりとるために、旅籠を買い増してきていた。

すぐに決断した喜之助は、それぞれの宿をまかせている配下の者たちに伝えるように、田兵衛にいいつけた。

栄五郎どんが、なにかを隠しているように書かれていますが---」
「そのことは、わしが始末をつける。〔神畑〕のは、命じられたことの手くばりを急ぐことだ」

それとともに、五郎蔵に、浦和宿へ旅立つように命じた。

五井〕の亀吉と2人で、〔ならび頭(がしら)〕として独立の方途を立てること、〔殿さま栄五郎を京都へ上らせることをいいつけ、地下部屋からあがっていった。

「〔大滝〕の。お頭も、齢のせいか、だいぶ、気が短くおなりなった---」
「いや。齢のせいではなかろう。7年前にお千代(ちよ 享年43歳)姐(あね)さんがお亡くなりになってこのかた、だんだんと覇気が薄れてきてきているようにおもえて仕方がないいのですよ、〔神畑〕の---」


参照】2008年9月14日[中畑(なかばたけ)のお竜] (
2008年9月18日[本多組の同心・加藤半之丞] (


参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () () 


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2010.07.05

〔殿(との)さま〕栄五郎(6)

数日後。

京都では、〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ 55歳)が、持ち家の五条大橋東詰jの宿屋〔藤や〕の地下に設けられた秘密の部屋で、2人の男と、しきりに首をひねりながら話しこんでいた。

350_7
(五条大橋 〔藤や〕は橋の手前なので描かれていない。
『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

手には、浦和宿の旅籠〔蓑や〕に陣どって江戸での仕事(おつとめ)を仕切っている〔五井(ごい)〕の亀吉(かめきち 38歳)から送られてきた[読みうり]があった。

いうまでもなく、[読みうり]は、〔耳より〕の紋次(もんじ 33歳)の手になったものである。

「〔大滝おおたき)〕の。〔五井〕のが、わざわざの仕立て飛脚(したてびきゃく)でよこしたこの江府の読みうりなんだよ。うちの者たちがやってもいない薬研堀の料亭〔草加屋〕の仕事(おつとめ)を、火盗改メは〔蓑火〕の仕業と断じている。どういうことだとおもう?」

自分では分かっていても、一応は、主だった幹部の存念を訊いてみるのが、喜之助のやり方であった。

身の丈6尺(180cm)はあろうかという大男の〔大滝〕の五郎蔵(ごろうぞう 39歳)は、問われて腕組みをとき、
「お頭の[お慈悲の六分・七分盗法]は、盗人(つとめにん)仲間の手本になっております。もっとも、きちんと真似る奴ぁいやしませんが---。しかし、真似られちまえば、〔蓑火〕が濡れ衣を着ることになるのは、いたし方がございません」

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』で、〔蓑火〕の喜之助の下で、小頭として腕を磨いてきていた〔大滝〕の五郎蔵と〔五井〕の亀吉が、「ならびお頭」となって組んだのは〔草加屋〕事件のあとであろうか。

喜之助がもう一人の男に視線を向けた。
喜之助と同郷の軍者(ぐんしゃ 軍師)・〔神畑(かばたけ)〕の田兵衛(でんべえ 48歳)は、五郎蔵からまわされた[読みうり]の595両の数字をさし、
「お頭。おかしいじゃありませんか。なんぼ[お慈悲の六分・七分盗法]とはいえ、うちの連中なら、算盤をはじきでもしたみてえに、七分きっちりにやるはずがねえ。有り金が850両とふんだら、550両とか600両とかの区切りのいいところで見切ります」
「そのとおり」
喜之助が、不機嫌顔でうなずいた。

参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () () () () () (
2008年10月26日~[うさぎ人(にん)・小浪] () () () 

「気にくわねえのは、押し入りの時刻が五ッ半(午後9時)前だったってことです。世間がまだ眠りこけてはいないこんな時刻に盗(みおつとめ)をする、間抜けた仕事人(つとめにん)なんざぁ、聞いたことがねえ。〔大滝〕のの尻馬にのっていわせてもらいます。(いわ)の奴が賊を引き入れたって書いてありますが、30年からこの仕事をしてきているが、つなぎ(連絡)もしているえ押しこみや、うちの者とそうでない者を間違えるようなドジをふむわけはありません」
「引きこんだ途端に、どうかされたんだろうよ」

神畑〕の田兵衛としては、〔殿(との)さま〕栄五郎(えいごろう 30代半ば)が重用されているのが、気にいらなかったから、さらに、
「去年、いわれもなくくドジったを、また使ったのは?」
訊かなくてもいいことまで口にした。

さすがに〔大滝〕の五郎蔵がとりなし顔で、
「死んだ子の齢は数えないものだ」

中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)を手ばなしたことへのあてこすりを、暗にたしなめた。
五郎蔵のこの台詞を聞いたら、平蔵(へいぞう 31歳)は苦笑したろう。

「だれがなんのために、2度もこちらの手のうちを読んで邪魔したのだろう?」
田兵衛をさとすように、〔蓑火〕が、
「江戸のたまり宿と、浦和の〔蓑や〕にいる〔五井〕のに、当分、江戸での仕事(おつとめ)はひかえるように、仕立て飛脚を立てておくれ」

手配を命じたものの、〔蓑火〕の喜之助の疑心暗鬼はとめどもなくつづいた。


参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () (

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2010.07.04

〔殿(との)さま〕栄五郎(5)

薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕の飯炊き・岩造(いわぞう 53歳)こと岩次郎は、幾度も犯してきた引き込みの罪状で、島送りとなった。
当人が白状したわけではない。

〔草加屋〕の女中頭・お(きん 38歳)が、島で男たちのなぶりものになってもいいのかと脅かされて、吐いた。

は女盗(にょとう)ではない。
6年間も女中頭を無事に勤めていた。
下ぶくれの浅黒いお多福顔---当時いわれていた女中づら---が、男客たちの好きごころをそそらないできたのであろう。
18のときに、盆踊り晩、数人の村の若いのに顔に手拭をかぶせて犯されてから、おもそのことを心得ていた。
男を忘れた分、江戸へでてきて、仕事に打ちこんだ。
なるべく客の前にいる間合いを少なくし、料理をはこぶ手ぎわのよさで満足してもらうようにつとめた。

ところが---、
去年の秋、〔草加屋〕の飯炊きに、岩造(53歳)が雇われ、裏庭の物置小屋に住みこんだ。
昼間の客が帰り、夕べの仕事の始まりまで、おが庭に咲いていた花を:く眺めていると、岩造が通りがかりに、
「おさんって、6つのときに死にわかれた母親の面ざしにそっくりだ。いまでも、乳をのませてもらっている夢をみるよ」
ほつりと洩らし、小屋へ入った。

その晩、みんなが寝静まってから、おは小屋へ出むき、乳首を吸わせてやったが、乳房だけでおさまらず、38歳の大年増Iに、おんなとしての火がつけられた。

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(栄泉『古能手佳史話』部分 イメージ)

10年前の盆踊りの夜のそれは地獄であったが、小肥りの岩蔵の性戯はやさしく、手間をかけたもので、おの躰からすべての力をうばった。

つぎの晩には、おが力めばりきむほど、いいおんなになれる部所を教え、試させた。
たしかに、甘美さが増した。
それからも、短いうちに次つぎと秘技を伝授し、おをすっかり色ごと好きに仕こんだ。

自分が盗人の一味で、どんな役割りを果たしてきたか、金もずいぶんたまったから、この仕事(おつとめ)がおわったら引退し、田舎で小さな畑を買い、のんびりと暮らしたい。
「おめえも、いっしょにくるかい?」
一も二もなかった。
もっとも、〔蓑火(みのひ)〕の名は教えなかった。

明晩は、江戸のほとんどの香具師'(やし)の元締衆が集まり、なんでも、旗本の長谷川という若いのをもてなすらしいから、忍んでこれるのは4ッ(午後10時)をすぎるかもしれない。宴会がそれよりのびたら、あすは独りで寝て---と告げたことは、そっくりつなぎ(連絡)の者に伝わり、〔殿(との)さま〕栄五郎(えいごろう 30代半)の耳へはいった。

平蔵は、岩造に元締衆の宴席の顔ぶれを洩らした者がいると睨み、お(くめ 35歳)から岩造とおの仲をひそかに訊きだしていたのである。

火盗改メ方が岩造とおを引き立てた2日後の読みうりの大見出し--、

〔蓑火〕の犯行は歴然。7分盗(と)りの3分残し


蓑火〕の喜之助という首領は、武田信玄公の「六分七分勝ちは十分の勝ちなり。八分の勝ちはあやうし。九分十分の勝ちは味方の大負けの下づくりなり」という軍法に惚れこんでいた。

だから盗みも、盗賊仲間で名を高めるには、押し入った先から奪うのは、「六分か七分にとどめる」と公言しているとおり、〔草加屋〕では、850両の有り金のうち、数えたように595両を持ち去り、255両が残されていた。

参照】2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)と〔狐火(きつねび)〕] (

賊徒を引きいれたのは、飯炊きとして昨秋、請宿(うけやど)・亀井町の堀ぞい:竹森稲荷(現・中央区小伝馬町194)横の〔天狗屋〕茂兵衛が入れた男・岩造(53歳)であった。

〔天狗屋〕茂兵衛のいい分によると、小諸から江戸へ仕入れにきて、〔草加屋〕に宿泊していた細面で小柄な中年の客・太物商〔亀屋〕五兵衛の頼みであったと。

五兵衛と〔草加屋〕のお(しん 33歳)との情事は伏せてあるばかりか、紙面を大きく占めた賊に縛られたおの仇婀(あだ)な絵姿は、数等上の美婦に描かれており、おの自慢となった。

耳より〕の紋太が案じ、刊行した「[江戸名物読みうり]のお披露目の大枠を〔草加屋〕が買い占めつづけてくれたという。


参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () (

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2010.07.03

〔殿(との)さま〕栄五郎(4)

その夜。
半月は、ほとんど雲に隠れていた。

薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕は、なぜか、早ばやと客が絶え、通いの女中、帳場、料理人、下男たちは五ッ(午後8時)には、それぞれの家へ帰っていった。

ちょうど、その時刻に、1筋西の寄合旗本・。村越頼母房成(ふさしげ 36歳 2500石)の表門へ3丁の町駕篭が入っていき、すぐに閉じられた。
小半刻(30分)もしないのに、脇の潜り戸から鼠色の盗み装束(おつとめぎ)の8人が辻番小屋のない道を料亭〔草加屋〕へ走り、鍵のかかってなかった大戸の脇口から侵入した。

酒を呑んでいた主人・安兵衛(やすべえ 48歳)、内風呂からあがったばかりで浴衣姿のままのお新(しん 33歳)それに〔草加屋〕で寝起きしていた女中頭・お(きん 38歳)がたちまち縛りあげられた。

裏庭の道具小屋で寝酒を喫していた岩造---じつは〔蓑火みのひ)〕一味の岩次郎は抵抗したが、岩次郎だけに狙いをつけていた盗人の一人に、たちまち、棍棒で鳩尾を衝かれ、気絶してしまった。

賊たちは、店の有り金850両から、きっちり7分にあたる595両だけを奪って出ていった。

賊は、村越家の潜り戸から中へ入り、表門が開くと3丁の駕篭が出ていき、薬研堀の掘留で2人の客をおろし、そのまま新大橋のほうへ消えていった。
すべての木戸は、空の戻り駕篭ということで難なく通された。

降りた2人の客は、薬研堀の大川口に迎えにきていた舟に乗りこんだ。
いつもの袴姿の長谷川平蔵(へいぞう 31歳)と〔箱根屋〕の権七(ごんしち 44歳)であったことはいうまでもなかろう。
岩次郎を気絶させたのは平蔵であった。

もっと驚いたことに、薬研堀留の辻番小屋の前を2人が通りすぎるとき、火盗改メ・菅沼組の見廻りの同心が話しこんでおり、番人は2人の姿を見ていなかった。

また、〔草加屋〕へも服部儀十郎与力と同心2人、小者5人が入り、安兵衛夫妻の縄を解き、岩次郎と女中頭・おを引き立てていった。

そのとき、うまくしたもので、読みうり屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 33歳)も随っており、訊き調べのいっさいを書きとり、2日後の読みうりで報じた。


参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () (

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2010.07.02

〔殿(との)さま〕栄五郎(3)

(ごん)どの。さきほどの〔殿(との)さま栄五郎(えいごろう 30代半ば)だが、どうして尾行(つ)けることができたのだろう?」

菊川橋たもとの船宿〔あけぼの〕で舟に乗りかかった権七(ごんしち 44歳)へ、平蔵(へいぞう 31歳)が問いかけた。
舟からあがってき、、
「元締衆の手下(てか)の中に、〔蓑火(みのひ)〕に通じているも者がいやすと---?」
「いや。〔草加屋〕の使用人の中であろうよ」

「あたってみます」
「火盗改メが手がけては、ことが大げさになる。拙からだと、こっそり、安兵衛・お新夫妻にいいつけ、この5年のうちに雇い入れた者のすべての名前、齢、職、生地、請宿(うけやど 口入れ屋)、住みこみか通いか、を書きださせておいてくれると助かる」
「承知いたしやした」

(〔蓑火みのひ)の喜之助(きのすけ 55歳)が企(たくら)んだ盗(つとめ)ではなく、軍者(ぐんしゃ 軍師)の一人である〔殿さま栄五郎と小頭の一人---〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち 37歳)あたりが手柄を立てようと仕組んだものかもしれない)

平蔵がそう勘ぐったのは、仕事(つとめ)よりも私怨を優先した栄五郎の先刻の仕打ちによってであった。

しかし、あ奴らに、なにごともなく〔草加屋〕から手を引かすための知恵は、しぼりださないといけない。
(しかも、それが、おれの細工としれないように。そうでないと、お(くめ)に危害がおよぶかもしれない)

権七が、聞きだした人別を屋敷へもってきた。
商売が商売だけに、雇い人の出入が多い。

その中で、去年の秋に雇われた信州・佐久の生まれの飯炊き・岩造(いわぞう 53歳)に平蔵の目がとまった。

去年の夏、〔蓑火〕の小頭の一人・〔尻毛しりげ)〕の長助(ちょうすけ 31歳=当時)を見つけ、南伝馬町2丁目の両替為替商〔門屋(かどや)〕へ潜入していた岩次郎(いわじろう 52歳=当時)と手代・由三(よしぞう 19歳=とうじ)を暴いた。

参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

岩次郎岩造、齢も符合する。
請宿(うけやど 口入屋)は、いちおう亀井町の堀ぞい:竹森稲荷(現・中央区小伝馬町194)横の〔天狗屋〕茂兵衛となっていたが、あとで〔草加屋〕の女将・お新(しん 33歳)が、小諸から江戸へ仕入れにきたという細面で小柄なちょっといい男の中年の客・太物商〔亀屋〕五兵衛にたのまれ、[天狗屋〕を通したことにして雇ったという。

「女将が、〔亀屋〕五兵衛と乳くった末のことでやしょうよ」
笑いながら権七が推察を述べた。
たしかに赤ら顔の亭主の安兵衛は、太りすぎてもおり、そっちのほうより酒かもしれない。

非番の日、平蔵が大塚吹上の火盗改メの役宅を訪ね、お頭・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき 47歳 2025石)、それに筆頭与力・脇屋清助(きよよし 48歳)と綿密な打ち合わせをした。

要は、田沼意次 おきつぐ)侯の息のかかっていた茶寮の女中頭の再就職先の〔草加屋〕への襲撃をあきらめさせ、かつ、お(くめ 35歳)に危害がおよばないような手段を構ずることであった。

打ち合わせた案にしたがい、脇屋与力が〔草加屋〕を説得し、盗まれる金を用意させた。

それとともに、薬研堀の埋立地に店をはっている[草加屋]の一筋西の通り、元矢ノ倉に武家門を張っている寄合・村越頼母房成(ふさしげ 36歳 2500石)を訪問し、ある了解をとりつけた。

参考】武家門

村越家は、譜代の家柄で、その屋敷は1300余坪。

_360
(緑○=寄合・村越家 元矢ノ倉 赤○=料亭〔草加屋〕
池波さん愛用の近江屋板切絵図)

当主・房成は一風変わっており、書院番士を体調をいいたてて34歳の若さで辞したものの、隠居はせず、たまに登城はするが役にはついていないことを幸いと、謡曲と釣りに打ち込んでいる仁であった。
それというのも、丹後国加佐郡(かさこおり)田辺藩(3万5000石)の藩主・因幡守明成(あきしげ 卒年47歳)の3男として生まれるとすぐに、親類筋の村越家へ養子に入って跡目相続をしており、何歳になっても気ままさが抜けていなかった。

脇屋与力が持ちこんだ案を、
「面白い。これは、おもしろい」
少年のようによろこんだ。

村越さま。絶対に口外なさらないこと、お誓いください」
「わかっておる。奥にも家臣にも、話すものではない」

「事後も、でございますぞ」
「洩らしたときには、腹かき斬ってみせるわ」
芝居がかった仁ではあった。


参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () (


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2010.07.01

〔殿(との)さま〕栄五郎(2)

提灯の灯を消し、2人が家蔭の躰を移すとともに、尾行者も足をとめた。

新月で、星明りだけである。

平蔵(へいぞう 31歳)は、相手のいるほうをすかしてみながら、権七(ごんしち 44歳)を押し、家と家のあいだの猫道へ押しこんだ。

掌で権七に動くでないと伝え、道の真ん中で大刀を抜いて星の光をうけとめてから背中へ隠し、川側へ移り、数歩出、柳の幹に添った。

近寄ってきた曲者は、大刀が光ったあたりの10歩手前で抜刀して上段にふりかざし、じりじりとすり足で出る。

平蔵の前を行きすぎたとき、
「そこではない」

曲者がふり向き、青眼に構えなおそうとした刀を、平蔵が峰ではねあげ、飛びこんで体当たりをくわせ、左に飛びぬける。

よろめいた相手の腰のあたりを、峰打ちで殪した。
あっけないほどの勝負であった。

権七に、
「行こう」

猫道からあらわれ、
「うっちゃっておきやすんで?」
「わかったのだ」
「誰です?」

それには応えず、曲者に、
栄五郎うじ。親指の傷は、もう、すっかり、癒えているであろう?」
曲者は倒れたままで、返事をしなかった。

「機会があったら、また、会おう。〔蓑火(みのひ)〕のお頭によしなに、な」

三ッ目ノ橋の橋灯台が見えてき、権七が、
「あの栄五郎という者---?」
「うん。7年ほどまえにな---」

いまは老蒙の身となって幽閉されている隣家の松田彦兵衛貞居(さだすえ 62歳=当時 1150石)が火盗改メに任じられていたとき、首領・〔蓑火〕の喜之助(きのすけ 45歳=当時)たちが練りあげた意図を、銕三郎(24歳=当時)が見やぶって未然に防いだ事件をかいつまんで話した。

参照】2009年2月17日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () () () () () () () () (

その仕返しとして、〔蓑火〕の軍者(ぐんしゃ 軍師)としてその押し入りの手順を組み立てた〔殿さま栄五郎(30代半ば)に斬りかけられ、その左親指を傷つけて追い払ったことも、さりげなく聞かせた。

参照】2009年3月2日[殿さま栄五郎] (

(左親指を半分失っていなかったら、はねあげは、ああもみごとにきまらなかったろう)

こちらは、事件に栄五郎がかかわっていると知らず、未遂に終わらせた1件なのだが---。

参照】2010年4月26日~[〔蓑火(みのひ)のお頭] () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16

殿さま栄五郎のために、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)が〔、狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)にゆずられたことも伏せた。

平蔵---というより銕三郎にとって、いいおんなであったおを偲んでいたときに、栄五郎があらわれたのも因縁かもしれにない。

三ッ目ノ橋の橋灯台の明かりが、おの魂のようにおもえた。
その灯に、平蔵は、胸の中で合掌した。

参照】2010年7月1日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () () () () (

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