牛久(うしく)藩用人・山口四兵衛
「長谷川うじが捜していた、紀伊藩名賀郡(にがこおり)貴志村にゆかりがありそうな仁が見つかったが、会ってみるかな?」
西丸・書院番4の組---ということは、平蔵(へいぞう 31歳)が出仕している水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 52歳 3500石)の組ということだが---に、長いこと勤めている先輩・寺嶋縫殿助尚快(なおよし 44歳 300俵)から、告げられた。
【参照】2008年12月4日~[水谷(みずのや)家] (1) (2)
2006年4月29日[水谷(みずのや)家]
尚快の寺嶋家は、先代が有徳院殿(吉宗)にしたがってご家人となった家柄であった。
それで、里貴(りき 32歳)が帰っていった貴志村のことを訊いてみた。
【参照】2010年6月24日~[遥かなり、貴志の村] (3) (4)
江戸育ちで紀州の地理にくわしくはなかった縫殿助尚快は、宿直(とのい)の晩にふるまわれた蒲焼に義理を感じていたらしい。
溜池(ためいけ)の南端に藩邸のある、牛久(うしく)藩(1万17石)の用人・山口四兵衛弘世(ひろよ 42歳 80石)であると。
弓術の道場仲間だという。
(常陸国河内郡 緑○=牛久藩邸 近江屋板)
「牛久藩と申せば、ご当主は修理亮弘道(ひろみち 37歳)さま---同じ山口姓ということは---?」
「さすが、進物番士。ご明察のとおり、ご一族につらなっているご仁である」
「しかし、牛久藩士が、どうして紀州の貴志村と?」
「それは、お会いして、じかに訊かれい」
七ッ(午後4時)と半(5時)のあいだに、双方から至近の麹町4丁目、蒲焼〔丹波屋〕の2階の小部屋で出会った。
酒の肴にでた白焼きを、国許では、牛久沼のうなぎをよく食したが、白焼きは初めてと、世なれた山口用人はお世辞を忘れなかった。
平蔵は、山口用人が盃をさしだすたびに袖口からあらわれる腕が、里貴に似て、なめらかで青白いことにおどろいた。
山口家の太祖は、周防国佐波郡(さはこおり)多々良の浜についた百済の王族・余氏であったらしい。
のちに大内(おおち)の姓を賜った。
その後裔に紀州へ住み着いた一団があったが、貴志村もそうかどうかは分明でない。
大内氏から別れた一団が尾張国愛智郡(あいちこおり)星崎に住し、織田に属し、山口を称した。
寺島尚快は、感嘆しているような相槌をうちながら、箸のほうは休みなく動いていた。
平蔵は、1語も聞きもらすまいと山口用人のほうを注視しており、うなぎどころではなかった。
「そんなわけで、渡来以来、1000年近い歳月を経ており、大和人(やまとびと)とも血が混ざりに混ざっておりますゆえ、百済人とは、もう、いえませぬ」
〔先刻、紀州に住みついた一団があったと申されましたが---」
「それも、600年もむかしのことゆえ、百済人といえますかどうか---」
山口用人とすれば、平蔵が出世が確約されている進物の士であるから、この際、藩のためにいささかなりと恩を売っておくつもりであったが、相手の関心が、宗家から別れた一団にしかないことを察し、落胆をおぼえていた。
新しくきた酒をすすめた平蔵が、
「もし、牛久藩の方の中に、紀州へ移った人たちのことが伝わっている仁がおられたら、お話をうかがいたがっていること、ご存念おきいてただけましょうか?」
{もちろんですとも」
「いつにても、よろこんで伺いますゆえ---」
寺島が割ってはいった。
「その節も、わしめ仲立ちいたしますぞ」
神田小川町の定火消屋敷裏へ帰るとしう寺島尚快と〔丹波屋〕の前で別れ、
「そこまで、お送りします」
山口用人と連れだち、紀尾井坂で見送ったのち、西丸・目付をしている佐野与八郎政親(まさちか 45歳 1100石)邸を訪ねた。
形式的な前触れなしに訪ねても、こころよく迎えてくれる年長者の数少ない一人であった。
「先日、相良侯から褒賞をいただいたそうだな」
「はい」
「なにか購(あがな)ったか? ああいう銭は、形にのこして孫子(まごこ)へ伝えるものぞ」
「病人をかかえた者に、薬料代といって送ってやりました」
「相変わらず、気前がいいな。貧乏するぞ」
与八郎政親は、田沼意次(おきつぐ 58歳)から里貴のことを洩れ聞いているであろうに、弟同様の平蔵の傷心にはあえて触れなかった。
「夕餉(ゆうげ)は、どこで?」
「丹波屋です」
「あそこだと、改まった相手ではないな」
「牛久藩の用人どのと---」
「ほう」
★ ★ ★
朝日出版の『週刊 池波正太郎の世界』が予定通り30巻をもって終了。
[鬼平犯科帳 七]がそれ。
シリーズ「わたしと池波さん」のラストは、中 一弥 さんで、なるほどとおもった。
ついでだから、鬼平がらみで登場した人をあげておくと(数字は号数)
1, 中村吉右衛門丈
4. 梶 芽衣子さん
5. 蟹江敬三さん
6. 三浦洸一さん
9. 江戸屋まねき猫さん
11. 綿引勝彦さん
13.. 藤巻 潤さん
14. 沼田 爆さん
16. 尾美としのりさん
20.. 多岐川裕美さん
21. 勝野 洋さん
で、レギュラー、準レギュラーで現在もご活躍中で残っているのは、岸井左馬之助役の江守 徹さんか、井関録之助役の夏八木 勲さんあたりかと予想していたのだが、もっと大物の、中 一弥画伯とは。
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コメント
八代将軍となった吉宗公について江戸城入りした紀州藩士のことを、いつか書いていらっしゃいました。
寺嶋尚快もその一家の一人でしたが、600年も前に紀州に土着した百済人の歴史まで登場するとは!
ここまで調べてもらえた里貴という女性、幸せものです。
牛久藩といえば、高杉師がかつて、牛久湖畔で壮絶な斬りあいをしていましたのは、たしか最初の長編『雲竜剣』でしたね。
投稿: 左衛門佐 | 2010.07.08 08:37
>左兵衛佐 さん
『雲竜剣』の第2話[剣客医者]で、岸井左馬之助が牛久宿の本陣の近くの旅籠〔柏屋〕三右衛門方に宿泊し、正源寺の住持に話を聞きに行きます。というこで正源寺へウォーキングをしたことがあります。
[剣客医者]の時代の藩主を池波さんは山口弘致(ひろむね)としています。この人は修理亮弘道の嫡子だったと。
山口家を調べていましたら、百済人からの渡来人とありました。
紀州にも移植したことは記録されており、紀ノ川流域に古墳群があることでも知られています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.08 14:48
おお、正源寺まで取材されていたのですか!
そういうことなら、ご一緒したかったです。
では、八坂神社も、牛久城址も当然、訪問なされておりますな。
投稿: 左衛門佐 | 2010.07.09 04:59
>左兵衛佐 さん
牛久の正源寺は、『雲竜剣』の第2話[剣客医者]にあるとおりのたたずまいでした。池波さん、取材に訪問したなと思いました。
正源寺は、本陣の手前の火ノ見櫓の傍へ切れんだところらに在った。
背後は、鬱蒼たる木立で、山門を入ると石畳の道が傾斜して、茅葺(かやぶ)きの屋根の本堂へ通じている。
さすがに、現代では茅葺きではない本堂にもあげていただけました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.09 07:45