安永5年(1776)4月13日の予告
西丸・書院番4の組の番士全員50名に出仕の触れがだされたのは、将軍・家治(いえはる)が大行列をつくって日光山へ参詣する1ヶ月前の、3月13日であった。
番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 52歳 3500石)が、当日は、大納言(家基 いえもと 15歳)が寅の刻(午前6時)に本城へのぼり、お上のご機嫌をうかがうので、西丸大手門から内桜田ご門までのあいだの警備にあたる、と前置きを述べ、あとを与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 56歳 800俵)にまかせた。
【参照】2006年4月28日~[水谷伊勢守が後ろ楯] (1) (2)
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] (1) (2)
2007年4月17日[寛政重修l諸家譜] (8)
2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
2010年2月1日~[牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)] (1) (2) (3)
丑の刻(午前2時)に、老中・松平右京大夫輝高(てるたか 52歳 7万2000石 高崎藩主)、同・松平周防守康福(やすよし 58歳 5万4000石 岡崎藩主)、同・田沼主殿意次(おきつぐ 58歳 3万石)が供ぞろえして登城する。
(ということは、供奉しなくても、その日は早出は当たり前と覚悟せよ、ということか)
当日の服装は麻上下とも指定された。
【参考】麻上下
お見送りは神田橋ご門内。
先導行列が次つぎとつらなり、お上の首途(かどで)は、寅の刻(午前8時)すぎであろうから、4刻ほど厠(かわや)へは行けないと覚悟するように。
【ちゅうきゅう注】行列の先頭が日光に到着しているのに、まだ、江戸城の大手門を通っていない組があったと書いているものの本もあるが、いささか大げさとおもう。
日光まで、将軍は岩槻城で一泊。
第2泊目は、古河城で。
【参照】2010年6月5日[ちゅうすけのひとり言] (59)
第3泊目は、宇都宮城。
将軍が眠っている間も昼夜兼行で行列が進んだというのであろうか。信じがたい。
そんな真偽の詮索より、牟礼郷右衛門勝孟の説明を聞こう。
江戸城内で、家基は、将軍を大広間の四の間まで見送り、しばらく休みがてら居残りの宿老たちと歓談のあと、座所で一橋民部卿治済(はるさだ 26歳)に対面、将軍の無事の旅程を祈念した三献の儀をおこない、祝いの囃子のなかばで座を立ち、西丸へ。
もちろん、書院番士である平蔵たちは、将軍の輿(こし)が神田橋ご門を通ったら、ただちに和田倉門から西丸へ帰城、大納言の帰還にそなえる。
将軍が日光から帰還する21日の注意は、3日後にあらためて触れるが、13日より20日までは、宿直(とのい)を倍に増やし、諸門・諸事の警戒をきびしくするから、そのように心得ておくこと、との達しであった。
解散後、この日、非番にあたっていた士は下城がゆるされた。
たまたの、出口で顔があった寺嶋縫殿助尚快(なおよし 44歳 300俵)が、
「〔丹波屋〕の蒲焼でも、どうだ?」
気をひいてきた。
他用があって、と断った。
〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)に、お暇をつくってほしいと頼まれていたからであった。
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コメント
おお、例の4月13日の出発前の儀式ですね。
吉宗の享保13年から48年ぶりの散財行列の朝のさまさまが、目の前で行われているようです。ありがとございます。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.07.10 03:48
>文くばり丈太 さん
徳川幕府って繁文縟礼の政府だったんですね。
たぶん、宮廷での公卿たちのとりすまし、もったいぶった作法を真似たんでしょう。
そうすることで、反抗心の芽をつんだんたとおもいます。
もちろん、徳川だけでなく、鎌倉も、北条も、足利もだったでしょうが。
投稿: ちゅうすけ | 2010.07.10 07:28