〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂(4)
竪川(たてかわ)に架かる一ッ目ノ橋をわたったところで、〔丸太橋(まるたはし)〕の雄太(ゆうた 42歳)と若い者頭の千吉(せんきち 29歳)が別かれて御船蔵ぞいの道をとった。
平蔵(へいそう 31歳)と権七(ごんしち 44歳)は、竪川の南岸を黙って東へ歩んだ。
内室の久栄(ひさえ 24歳)は別格として、自分にとってのいいおんなだったのは、誰であったかを、もういちど、考えてみた。
やはり、〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 享年33歳)と里貴(りき 31歳)---と結論づけた。
お竜は、軍略というものに目をひらかせてくれた。
銕三郎(てつさぶろう 当時)が思案していることの先、先におもいをめくらせたうえで、訊くまで黙っていた。
あたかも、姉が弟の成長を見守り、ときどき手を貸すといった感じであろうか。
姉というものを持たなかったか銕三郎は、その慈愛のこころの大きさに溺れていたのかもしれない。
とにかく、生母・妙(たえ 51歳)とは違う肌合いの女性(にゅしょう)であった。
もっと学び取りたかった。
とりわけ、盗人(つとめにん)のあれこれを。
そして、性的にはおんな男の立役であったお竜には、平蔵が最初の男になった。
【参照】2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)〕] (1)(2)
2009年12月19日[銕三郎の追憶]
2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (8) (9)
里貴がいいおんなであったといいたいところは、肌の色合いの微妙な反応をあらわにすることで、平蔵の男の部分を力づけたことであったろうか。
自分を満足させる20代の男の性から、30代の男が会得しなければならない精神的な性の奥深さを教えてくれた。
人柄にも、成熟したおんなの艶やかさが満ちていたが、ととのった面立ちをおんなの武器とはしていないところも、お竜と共通していた。
(そういえば阿記(あき 享年25歳)も貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)もそうであった。おれの好みなのかも---)
里貴は、政事(せいじ)の奥深さをやんわりと悟らせてくれることも多かったが。
(性事と政事)
あと一歩のところで踏みとどまり、平蔵の思念にまでは踏みこんではこなかった。
【参照】2010年1月17日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] (1) (2)
2010年3月5日~[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] (1) (2) (3) (4)
2010年4月5日[里貴の行水]
松造(まつぞう 25歳)のいいおんなとなったお粂(くめ 35歳)のことを、権七は、
「柔らかく包みこむような物腰でいて、筋をまちがえないところに、松造さんは惚れなさったんでやしょう」
男がおんなに求めるもの、おんなが男から受けとるものは、人、それぞれだ。
茶寮〔貴志〕での里貴に対したときの、お粂の姿態と物腰をおもいだしてみた。
里貴をいつも女将として立てていた。
助役(すけやく)としての女中頭の身分をわすれて出しゃばった場面は目にしていない。
里貴と平蔵とのあいだのことにも、立ち入ったふうはなかった。
御宿(しゃく)稲荷脇の里貴の家で躰をあわせあっていたことも、頭に浮かべなかったのではないか。
【ちゅうすけ注】この1行は、平蔵のおもいすごしというか、自分勝手な推測といっておく。
自分から松造を入れたとき、かなわぬことながら、これが長谷川さまであれば---と一瞬、おもっていた。
まあ、ほとんどのおんなが、そのとき、別の男をおもい描いたとしても、おどろくには及ばないし、それこそ自由の世界であろう。
男にも、いえる。
男とおんなのあいだがらは、お互いの善意の誤解で平和が保たれている。
こんな論議こそ、むだというもの。
ただ、お粂が50歳になったとき、松造は40歳でしかないというのがちょっと気にかかる。
が、そのときには、お通(つう)は24歳だし、善太(ぜんた)は22歳だから、人生に通じていよう。
「長谷川さま。尾行(つ)けられていやす」
権七が低くささやき、提灯の灯を吹き消すと、平蔵の袖をとって道ぞいの家の壁板に躰を寄りそわせた。
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