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2010年6月の記事

2010.06.30

〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂(4)

竪川(たてかわ)に架かる一ッ目ノ橋をわたったところで、〔丸太橋(まるたはし)〕の雄太(ゆうた 42歳)と若い者頭の千吉(せんきち 29歳)が別かれて御船蔵ぞいの道をとった。

平蔵(へいそう 31歳)と権七(ごんしち 44歳)は、竪川の南岸を黙って東へ歩んだ。

内室の久栄(ひさえ 24歳)は別格として、自分にとってのいいおんなだったのは、誰であったかを、もういちど、考えてみた。

やはり、〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)と里貴(りき 31歳)---と結論づけた。

は、軍略というものに目をひらかせてくれた。
銕三郎(てつさぶろう 当時)が思案していることの先、先におもいをめくらせたうえで、訊くまで黙っていた。
あたかも、姉が弟の成長を見守り、ときどき手を貸すといった感じであろうか。
姉というものを持たなかったか銕三郎は、その慈愛のこころの大きさに溺れていたのかもしれない。
とにかく、生母・(たえ 51歳)とは違う肌合いの女性(にゅしょう)であった。
もっと学び取りたかった。
とりわけ、盗人(つとめにん)のあれこれを。
そして、性的にはおんな男の立役であったおには、平蔵が最初の男になった。

参照】2009年1月28日[〔蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつねび)〕] ()(
2009年12月19日[銕三郎の追憶
2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] () (

里貴がいいおんなであったといいたいところは、肌の色合いの微妙な反応をあらわにすることで、平蔵の男の部分を力づけたことであったろうか。
自分を満足させる20代の男の性から、30代の男が会得しなければならない精神的な性の奥深さを教えてくれた。
人柄にも、成熟したおんなの艶やかさが満ちていたが、ととのった面立ちをおんなの武器とはしていないところも、おと共通していた。
(そういえば阿記(あき 享年25歳)も貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)もそうであった。おれの好みなのかも---)

里貴は、政事(せいじ)の奥深さをやんわりと悟らせてくれることも多かったが。
(性事と政事)
あと一歩のところで踏みとどまり、平蔵の思念にまでは踏みこんではこなかった。

参照】2010年1月17日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (
2010年3月5日~[一橋家老・設楽(しだら)兵庫頭貞好] () () () (
2010年4月5日[里貴の行水

松造(まつぞう 25歳)のいいおんなとなったお(くめ 35歳)のことを、権七は、
「柔らかく包みこむような物腰でいて、筋をまちがえないところに、松造さんは惚れなさったんでやしょう」

男がおんなに求めるもの、おんなが男から受けとるものは、人、それぞれだ。

茶寮〔貴志〕での里貴に対したときの、おの姿態と物腰をおもいだしてみた。
里貴をいつも女将として立てていた。
助役(すけやく)としての女中頭の身分をわすれて出しゃばった場面は目にしていない。

里貴平蔵とのあいだのことにも、立ち入ったふうはなかった。
御宿(しゃく)稲荷脇の里貴の家で躰をあわせあっていたことも、頭に浮かべなかったのではないか。

ちゅうすけ注】この1行は、平蔵のおもいすごしというか、自分勝手な推測といっておく。
自分から松造を入れたとき、かなわぬことながら、これが長谷川さまであれば---と一瞬、おもっていた。
まあ、ほとんどのおんなが、そのとき、別の男をおもい描いたとしても、おどろくには及ばないし、それこそ自由の世界であろう。
男にも、いえる。
男とおんなのあいだがらは、お互いの善意の誤解で平和が保たれている。
こんな論議こそ、むだというもの。

ただ、おが50歳になったとき、松造は40歳でしかないというのがちょっと気にかかる。
が、そのときには、お(つう)は24歳だし、善太(ぜんた)は22歳だから、人生に通じていよう。

長谷川さま。尾行(つ)けられていやす」
権七が低くささやき、提灯の灯を吹き消すと、平蔵の袖をとって道ぞいの家の壁板に躰を寄りそわせた。


参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () (

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2010.06.29

〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂(3)

江府の東西南北、9つの盛り場の元締とその小頭の集まりの席になったということで、料亭〔草加屋〕でのお(くめ 35歳)の格は一挙にあがった。

とりわけ、地元の元締・〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 60歳)が、〔草加屋〕の安兵衛(やすべえ 48歳)・お(しん 33歳)夫婦に、頭をさげたことが大きかった。
「わしが世話になっている長谷川さまご贔屓の、おどんをよろしゅうにな」

これで、為右衛門一家からの厄難はないということであった。

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薬研堀 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

耳より〕の紋次(もんじ 33歳)が同席していたことにも意味があった。
悪い風聞を刷られる前に耳に入れてもらいやすくなった。
いい風聞を書かれるのも店の益になることもあるが、それが元で同業者の妬みを買い、針小棒大の噂をばらまかれることのほうが、商売人には怖かった。

とりわけ、飲食を商売をしている者には。
厠(かわや)から出た料理人が手を清めないという風評をたてられて店を閉める羽目になった料亭が、過去にあった。

20人をこえた客の応対を、おは10人からの仲居と料理場をたくみにさばいたので、手じめ役の〔薬研堀〕の為右衛門が、
「この次の集まりも、ここにいたしやしょう」
と締めた。

玄関をでたとき、供をしていた松造(まつぞう 25歳)に、お(つう 9歳)たちのところへ早く帰ってやれと、解放した。

それを、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 44歳)がほほえましげに見ていた。

同じ方角へ帰る権七(ごんしち 44歳)、元締代理・{丸太橋(まるたばし)〕の雄太(ゆうた 42歳)、供の若い者頭・千吉(せんきち 29歳)と連れ立って両国橋を東へわたりながら、
松造が、おのことをいいおんなと惚気(のろけ)たが、いいおんなというのは、どういうのをいうのかな?」
平蔵(へいぞう 31歳)が問いかけた。

「男にとってのおんなの躰でいうと、卯(う)年の9月生まれはこたえられねえ---って、むかしからいいやす。卯(う)年生まれということでは、今年6歳、18歳、30歳、42歳---まあ、54歳でなにが好きってのはお化けでやしょう」
雄太が笑いながら齢をあげた。

「6歳、18歳、30歳、42歳か。縁がありやせんな」
権七は、さっさと降りた。

ちゅうすけ注】「卯(う)年の9月生まれのおんなのからだはこたえられねえ」とあるのは、『鬼平犯科帳』文庫巻1[座頭と猿]p224 新装版p237
熱心な鬼平ファンであるM氏から、この言い伝えの出展を問われたが、答えられなかった。
ご存じの方にご教示いただきたい。

「いや、女躰(にょたい)の話でなく、気質(きだて)のことだが---」
平蔵に、権七が応じた。
「今夜のおさんを見ていておもったのでやすが、柔らかく包みこむような物腰でいて、筋をまちがえねえところに、松造さんは惚れなさったんでやしょう。どういう育ちなんでやす、松造さんは?」
「いや、育ちまでは知らないが、多摩郡(たまこおり)の甲州道中ぞいの烏山村の小作人の家の生まれと聞いている。母親のことしか話さなかったから、父親は早くに亡じたのかもな」

前身が掏摸(すり)だったことは、聞き手が権七でも洩らすつもりはなかった。
足を洗って7年にもなっていた。

参照】2009年9月8日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜] () () (
2009年6月8日[〔からす山〕の寅松] 

「さいでやすか。それで、暖かく包んでくれるおふくろのようなおさんに惹(ひ)かれなさったんでやしょう」
「2人の子どもたちも、なついているようだ」
「いい義父(てて)ごにおなりになりやすよ」


参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () (


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2010.06.28

〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂(2)

松造(まつぞう 25歳)が、平蔵(へいぞう 31歳)の宿直(とのい)をこころ待ちにしていることに気づいた。

屋敷の者にたしかめると、その夜は帰ってこず、早朝に戻るらしい。
(禁制の賭けごとにふけっているとはおもえぬ。おんなができたかな)

用人・松浦与助(よすけ 60歳)にいいふくめた。
「宿直の日、西丸の門の近くで見張って、後ろを尾行(つ)けさせてくれ」

尾行は、屋敷の者では気づかれるだろうから、深川・黒船橋北詰の〔箱根屋〕権七(ごんしち 44歳)に相談をかけるように。
松造が顔をあわせていない舁き手といえば、加平(かへえ 26歳)か時次(ときじ 24歳)だ---ぐらいのことは、権七のことだから心得ておろう。

柳原岩井町の木戸裏の長屋で、手習いから戻ってくる子どもたちのお習(さら)いをみてやったりしながら夜まで刻(とき)をすごしていること。

相手がおとわかり、平蔵は、自分とお(なか 元の名はお とめ 33歳=当時)とのなれそめを思い出した。

参照】2008,年8月7日~[〔梅川〕の仲居・お松] () (

(おれ22歳、お33歳。性技に長(た)けた指南師に出会うと、経験の浅い若い男はひとたまりもない。しかし、大年増から教わると上達が早いとは、よくいったものだ。いまの松造が当時のおれだ)

(おんなができ、金に困ると、むかしの手ぐせがでるやもしれない)
宿直の日を同輩に替わってもらう手配をし、下城の帰りに深川・黒船橋北詰の〔箱根屋〕権七(ごんしち 44歳)のところへ立ちよった。

耳より〕の紋次(もんじ 33歳)と、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)にも声をかけてあった。

平蔵が、田沼意次 おきつぐ 58歳 老中)侯の息がかかった茶寮〔貴志〕が店じまいし、女中頭・おのつぎの働き口を小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)に頼み、薬研堀(やげんぼり)不動前の〔草加屋〕安兵衛方の女中頭助(すけ)におさめてもらったこと。

〔草加屋〕では、おの〔貴志〕での客筋が利用してくれるのを期待しているらしい。
次の元締衆の集まりを、〔草加屋〕で開いてもらえないか、と持ちかけた。

重右衛門がすぐに賛同し、われわれの顔ぶれでは田沼侯の知り合いというわけにはいかないが、火盗改メ方から手札をいただいているのだから、お上とかかわりがまったくないというわけでもない。
〔化粧(けわい)読みうり〕がこんどの板で、ちょうど20板目になる、そのお祝いということにして、集まってもらおうと、決めた。

翌朝。

朝帰りしてきた松造を書院へ呼び、
「気をつけてはいるであろうが、お(つう 9歳)と善太(ぜんた 7歳)の耳もある。母親のそうしたことには、子どもは敏感なものだ。しかし、おの勤めの時間のこともあろうから、出会茶屋や船宿というわけにもいくまい。どうであろう、2軒つづきの長屋に引越し、1軒にお前が住むというのは? もちろん、長屋からここへ通うのだ」
「もったいないほどのお指図です。ですが、お許しをいただけるのであれば、お暇を頂戴し、子どもたちといっしょに暮らしたいとかんがえておりました」

「暮らし向きは、どう立てるつもりか?」
「〔草加屋〕かどこかの下働きでも---」
「子どもたちの誇りにさしさわるから、それは、ならぬ。松造は、本気でおと添いとげる気なのだな?」
「はい。そう決心させたほど、いいおんななのでございます」

「わかった。仲人は松浦用人に頼んでやる。これできまった。〔(てつ)お父(と)っつぁんは、おじちゃんになり、おじちゃんがお父っつぁんに早替わりするのだ」 


参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () (


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2010.06.27

〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂

薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕安兵衛への、お(くめ 35歳)の初顔見せの日は、ちょうど、平蔵が宿直(とのい)にあたっていたために、登城後は躰があいていた松造(まつぞう 25歳)と、〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 36歳)が付き添った。

亭主の安兵衛(やすべえ 48歳)は顔をみせず、すべてを女房・お(しん 33歳)がさばいた。
「女将どの。こちらは、田沼ご老中さまからの、これは、うちの長谷川の殿からのごあいさつ代わりです」
松造がさしだした紙包みに、おは目を大きく見開き、
「ご老中さまからのごあいさつとは、〔草加屋〕始まって以来の栄誉でございます。よろしゅう、おとりなしおきくださいませ」

は、田沼老中などの要職のお歴々がおについている客と錯覚したらしい。

田沼(意次 おきつぐ 58歳)老中からの金包みは、平蔵(へいぞう 31歳)が田沼家井上用人に頼んで包んだものであった。

はそのままとどまり、女中頭のお(きん 38歳)から仕事の手順を教わることになり、松造はその足で、6丁と離れていない柳原岩井町のおの惣介長屋をのぞいた。
平蔵にいいつけられていたからであった。

「きょうは、(てつ)お父(と)っつぁんは、こないの?」
顔なじみになっていた松造に、手習い帖をとじた善太(ぜんた 7歳)が訊いた。

「こない。お城にお泊りだ」
お父っつぁんがお城に泊まりなのに、おじちゃんは泊まりではないの?」
「泊まりは、お父っつぁんだけだ」
「だったら、おじちゃん、うちに泊まっていきなよ」

「母(かあ)ちゃんが帰ってくるまでいて。晩ご飯はあたいが作るからさぁ」
いくら慣れていても、姉弟と2人きりではさみしいかして、お(つう 9歳)も引きとめた。

3人で、魚屋と土もの(野菜)屋で買いものを楽しんだ。
代金は松造が払った。
ついでに、酒も買った。

鯖の味噌煮と千切り大根の味噌汁は、味がしっかりしてい、9歳のおんなの子の手料理とはおもえなかった。
つい、呑みすぎてしまった。

が帰ってきたのは五ッ半(午後9時)前であったが、善太は先に眠っていた。
が膳に皿をならべ、燗酒もつけ、寝床へ入った。

盃を干し松造が、おへ返した。
「きょうは、わざわざのお付き添い、ありがとうございました」
頭をさげ、酌をうながす。

やりとりが5,度6度ととつづいたころ、松造の盃がふるえた。
横にきたおが手をそえ、そのまま放さないで、
「お泊りになりますか?」
こっくりうなずき、倒れこんだ。

部屋は2つしかない。
子どもたちの隣りにひろげるはずの自分の寝床を、お膳をかたよせ、松造のためにのべた。
余分の夜具がないので、自分はおの横に入るつもりになっていた。

寝衣に着替え、松造をあやしながら着物を脱がせて下帯一つにし、背中から両脇に腕をさしこんで床まで引きずった。
そのとき、下帯の前がずれた。
直そうとした手で、つい、つかんでしまった。
つかんでいる掌の中で、硬くなりはじめたが、松造は半睡のままであった。

口にふくみ、舌をはわせた。
硬さが増した。

仕切っている襖を締める前に、子どもたちの寝相をたしかめた。
熟睡していた。

灯火を落とし、上掛けの端をめくって横にそい、松造のものを、また、にぎってしまった。
25歳のそれは、硬直したままであった。

腰紐をほどき、寝着の前をはだけ、膝立ちで上にまたがり、指先でつまんで導く。
待っていたように潤んでいたそこが、するっ、と受けいれた。

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(清長 柱絵 イメージ)

奥まで達しさせ、半身を両肘で支えてかぶさり、こころをそこに集中する。
(これが、長谷川さまであったら---でも、こんなことにはなりっこない)

乳首が相手の肌にふれたがった。
(里貴(りき 32歳)女将と、ほんとうにこうなっていらしたのであろうか、それなら、村の名をお訊きになるはずがない)

その瞬間、嫉妬で腰がうごいたらしい、違う快感がはしった。

長いあいだ忘れるようにしていた性感が息をふきかえし、躰の芯を愉悦がとめどもなく脈うちてはじめた。
(でも、長谷川さまは、子どもたちに「お父っつぁん」と呼べとおっしゃってくださった)

声をもらさないために口をあわせると、松造が応じ、首に腕をまわし、もう一方の手で尻をつかんでくれた。

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(清長 柱絵 イメージ)

(あたしには相応)


参照】2010,年6月27日~[〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () (


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2010.06.26

〔於玉ヶ池(たまがいけ)〕の伝六

「よくぞ、いっち先に、お声をかけてくだせえやした」
於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)は、青白い顔をほころばせた。

平蔵がおもっていた通りの反応であった。
西両国一帯の香具師(やし)の元締・〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 55歳)は、柄こそ関取におとらない巨躰だが、頭のめぐりのほうはほとんど伝六にまかせていると推察しての口かけであった。

1年半ほど前に、[府内板化粧(けわい)読みうり]の板行の下打ちあわせで面識のできていた松造(まつぞう 25歳)に都合を訊かせた---というより、平蔵(へいぞう 31歳)のほうから、宿直(とのい)明けの午後を指定した。

薬研堀不動前の玉寿司〔翁屋〕で、九ッ半(午後1時)に昼餉(ひるげ)をごいしょに、という返事であった。

行人坂の火事以後に、一橋北詰に、田沼意次 おきつぐ 58歳 老中)の肝いりでできた茶寮〔貴志〕へ、隠し子を2人も産ませたお(くめ 35歳)を女中頭として入れていたのだが、そこが都合で店じまいすることになった。

「ついては、おの身のふり方を助(す)けてもらうわけにはいかないであろうか?」
平蔵は、真面目くさった顔で話した。
「お子ができたのは、何年前のことでやす?」
「お恥ずかしい。上の子が9歳になる。いや、若気のいたりで---」

阿記(あき 享年25歳)と料理茶屋〔橘屋〕のお(なか 34歳=当時)との性体験をごちゃまぜにして、さも、真実らしく打ち明けた。

参照】2008年2月~[与詩(よし)を迎えに] (38) (39) (40) (41)
2008年8月14日~[〔橘屋〕のお仲] () (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

「しかし、10年も面倒をみておられるのはご立派---」
伝六は、意味ありげに、にやりと口元をゆがめた。
(見抜いておるらしいが、気づかぬふりをつづけるしかない)

板台に載ったにぎり寿司が運ばれてきた。

「ここは、川向こうの深川御船蔵町の〔松すし〕で修行してきた親爺(おやじ)がやっておりやす」
「それは重畳。味見いたす」

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(松ずし 『江戸買物独案内』)

しばらく寿司を堪能した。
たねもいいが、大釜で炊いた飯の一粒々々が生きているように味わえた。

「初手(はな)から女中頭というわけにはいかないでやしょうが、頭の助役(すけやく)くらいなら---」
西両国広小路一帯の料亭で、女中頭がおより齢かさの店をそらんじたのち、伝六は膝をうち、
「ここから2軒おいた北側の料亭〔草加屋〕なら大丈夫でやしょう。硬い店でやすから、長谷川さまのお顔をつぶすようなことはありやせん。のぞいてご覧になりやすか」
「いや。気はずかしいことは逃げたい」

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(薬研堀不動前の料亭〔草加屋〕 『江戸買物独案内』)

「いつなりと、ご当人さまをお寄越しくだせえ。〔草加屋〕安兵衛おやじにも、うちの元締にも話を通しておきやすから」
「万事、よしなにお願いする」


ちゅうすけ注】明治34年に出た松本道別著『東京名物志』に、〔松寿司〕について、

大六天前の「安宅の松寿司」といえば、江戸時代より著名にして、いまなお鮓屋の泰斗たり。
『江戸名物詩』に云ふ。
 本所一番安宅ノ鮓 高名当時並ブ可キ莫(な)シ
 権家ノ進物三重折 玉子ハ金、魚ハ水晶ノ如シ
その盛なりしを見るべし。「与兵衛」に比すれば、酢味やや多くして上戸に適し、その形の上品なると大なるとを特色とし、ことに鯖の巻鮓はこの家得意の専売品とす。家屋の壮大なるはさながら割烹店の如し。

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2010.06.25

遥かなり、貴志の村(7)

田沼老中(主殿頭意次 おきつぐ 58歳 相良藩主 3万石)から下賜された金包みは25両(400万円)であった。

平蔵(へいぞう 31歳)は、その足で大手濠の北端の三番原角へむかった。
茶寮〔貴志〕は店じまいする直前であった。

帰り支度をしていた女中頭・お(くめ 35歳)に、寸刻つきあってくれないかと誘った。
連れだち、鎌倉河岸の店の前に空き樽をつみあげてにぎわっている酒屋〔豊島屋〕へ入ろうとしたら、おがひるみ、
「長谷川さま。いくらそうであっても、ちょっと---」
〔豊島屋〕を〔年増屋〕と見たのである。
「うん? あっ、そうか。悪かった」

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(鎌倉河岸豊島屋酒店 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

の住いは柳原岩井町裏の惣介長屋といった。
筋違(すじかい)橋のたもとの屋台が、まだやっていた。

燗酒と湯豆腐をとり、
「〔貴志〕は店をしめるんだってな?」
「女将さんが紀州へ帰ってしまわれたので、やっていけないのです」
「おどのが女将に昇格ってのもありえる」
「とんでもありません。お客さまが承知なさいませんよ」

「それで、店がなくなったら、どうするつりだ?」
田沼さまが新しい働き口を---」
「それならいいが---」
「まだ、小さい子どもが2人、おりますので---」
「いくつと、いくつかな」
「上の女の子が9歳、下が7歳---」
「気にかけておこう」
「お願いできるのですか?」
「なんとかなるとおもう」

安心したように、おは盃をあけた。
注いでやると、2つ3つ、つづけ、
「こんなにおいしく呑めたことは、このところありませんでした」

平蔵は、こういう時にこそ、両国広小路一帯をシマにしている元締・〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 53歳)と小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく 35歳)の顔を頼むべきだとおもった。

「むさくるしいところですが、すぐ、そこなんです。お立ち寄りくださいいませんか?」
「では、表戸のところまで、用心棒代わりに---」

歩きながら、紀伊国那賀郡(なかこおり)貴志村のさき、里貴が帰っていった字(あざ)名と里貴の本名を知らないか? 訊いてみた。
今夜の出会いの目的がそれだとわかると、おは冷えた。

長屋の木戸口で、平蔵が、次の仕事口を頼むのは、〔薬研堀〕の為右衛門という香具師(やし)の元締である。
お前を粗末にしないように、おれの若気のいたりから、子を2人も産ませたが、家が厳しくて入れられない。一生面倒をみなければならないのだ---とふれこんでおくから、そのつもりで、というと、きゅうに解けて、
長谷川さまのお子たちに、会ってやってくださいませ」
平蔵の手をとって案内した。

怪訝な顔つきの子どもたちに、
「これからは、おれが父(てて)ごだ。(てつ)お父(と)っつぁんと呼べ」
いいきかせ、あとは母ごから話してもらえというと、お粂が袖を引き、寄り添い、
「女将さんの村は、東貴志村ときいたことがあります」

そのあて先に、飛脚便に看護見舞いとして25両を托し、おもいきって返書は無用と認(したた)めた。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () ()  

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2010.06.24

遥かなり、貴志の村(6)

「さいでやすか。では、仰せのとおり、2人を引きあげさせやすが、ほんとうによろしいので---?」
深川の駕篭屋〔箱根屋〕の主(あるじ)・権七(ごんしち 44歳)が念をおした。

権七の店の舁き手の加平(かへい 26歳)と時次(ときじ 24歳)が、あしかけ3年ごし、茶寮〔貴志〕のかかりつけの三河町の〔駕篭徳〕に出張り、〔貴志〕から乗る客の名前と住まいを手控えてくれていた。

平蔵(へいぞう 31歳)が、その役目は終わったから、引きあげさせるように告げたのであった。

長谷川さま。〔貴志〕の南のお屋敷のことは、ほんとうに、すみましたのでやすか?」
いたわるような眼(まな)ざしであった。
南の屋敷とは、一橋家を指している。

(あっ。里貴(りき 32歳)のことをしっておったな)
権七に父のようなおもいやりの深さに、平蔵の目頭が熱くなった。

「終わった。あとはなりゆきまかせになる」
(いまは無役になっておられる本多采女紀品(のりただ 63歳 2000石)どのをけしかけて、田沼主殿頭意次 おきつぐ 58歳 相良藩主)侯のご機嫌うかがいに参じねば---)

ところが、意あればおのずから通ず---とは、まさにこのこと。
田沼老中のほうから、招きがあった。

すぐに、田沼家の築地・中屋敷伺候の顔ぶれの一人---同じ西丸で目付として詰めている、<佐野与八郎政親(まさちか 45歳 1,100石)に、それとなくあたってみた。
佐野政親には声がかっていないとわかった。

(おれ独りということは、里貴からみのお詫びだな)

平蔵の読みはみごとにすばれた。

田沼老中の最初の言葉は、
長谷川うじ、助かったよ」

平蔵が受けかねていると、
「麦畑の畝(うね)じゃ」
「あれは、先手・弓の頭の大伯父・太郎兵衛正直(まさなお 68歳 1450石)の発議でござりますが---」

掌をふって笑いながら、、
「隠すには及ばぬ。その大伯父どのが白状しておるのじゃ」

助かったというのは、この4月に執り行なわれる将軍・家治(いえはる)の日光参詣の沿道警備の費(つい)えが、麦畑が縦畝となったことでに1000両近く節約できたということであった。

「いや、金銭に代えがたいのは、道沿いの在方の者たちが、お上のお成りをこころからお迎えしておる姿があの縦畝と、奏上できることじゃ。お上も、ひと目でご納得なされよう」

(なるほど、上に立つ者は、自分が崇拝されていることを目(ま)のあたりに確めたいのだ)

「ついては、ほんの些少だが、われからの志をうけてほしい。これは、意次ひとりの寸志である」

意次が自ら酌をしてくれた。
平蔵は、脇の下を汗ばませながら受けた。

つぎからは、25,6歳とおもわれる美しい召し使いが酒をすすめた。
「引きあわせておこう。お佳慈(かじ)じゃ。〔貴志〕の女将をすすめたのじゃが、諾といいおらぬ。じゃによって、あの店は閉めることにした」

佳慈は、笑いながら、
「わたくしには、お里貴さまの代役はつとまりませぬ」
「目の前にいるようないい男が、情人なってくれるやもしれぬ好機をのがしたのじゃぞ」
「ほんに---」
流し目をくれた。

里貴の代役は、媚態だけではつとまらぬのだ)
平蔵が、胸のうちでつぶやいた。、

その夕べ、意次は一度も里貴の名を口にしなかった。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (

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2010.06.23

遥かなり、貴志の村(5)

「なに、とりたてての用があってのことではない」
控え部屋から出て廊下のはずれでまで導いた与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 56歳 800俵)は、腰の曲がりをのばすようにしていった。

息・千:助勝昌(かつまさ 16歳)が初見前なので隠棲するわけにはいかない。
もっとも温和な人柄なので、悪しざまにいう番士はいなかった。
つまり、敵も味方もつくらないようにしていた。

「昨夕、西丸・書院番の4つの組の与頭の寄りあいを、茶寮〔貴志〕で催した」
ところが、女将の里貴(りき 31歳)が辞めていた。
同輩たちに、こころ利いた女将だからと吹聴していた手前、いささかばつの悪いおもいをした。

里貴どのに、なにかあったのかな?」
牟礼勝孟は、声をひそめて訊いた。

里貴と躰の交わりがあったことを、ここで告白するわけにはいかない。
「それは、行きとどかない 不始末でございました。じつは拙も、進物の役を命じられた昨年11月の前からご無沙汰つづきで、いま、初めてお聞きした次第です」
ぬけぬけと応えたが、たしかに、昨年の11月中旬からこっち、長袴(ばかま)さばきにかまけ、御宿(みしゅく)稲荷脇の家は訪ねていなかった。
で、里貴の突然の帰郷で、落ちこんでいるのはこっちだともいいえかった。

里貴どのの顔が見えない〔貴志〕は、軸のかかっていない床の間みたいで、落ち着かない」
「そのお言葉を、女将が聞いたら、一生忘れないでしょう」

「そなたに訊けば、経緯(ゆくたて)が分明するかとおもったが、謎がのこったままで、胸のうちがすっきりしない」
「申しわけございませぬ」

引きさがったが、牟礼与頭の言葉で、里貴へのおもいはまた火がついたようであった。

遥かに遠い、紀州の貴志池の近くにあるらしい渡来人の里をおもい描く。
ずっとむかしにこの国に集団で゜やってきた百済(くだら)からの渡来人の末裔との付きあいはなかった。
〔貴志〕での里貴は、きちんと着物を着ていた。

瞼に浮かぶのは、家で身につけるようになった腰丈の浴衣である。
あれは、かの国での衣服の一つであったのであろうか。

平蔵が訪れない時にも着ているかどうかも訊きもらした。
しかし、昨夏にあつらえ、秋が深まっても羽織っていた。
「寒くないのか?」
あらわな太もものの股に掌をあてて訊くと、
(てつ)さまのそばにいれば、躰が燃えます」
たしかにそこからは、手ごたえを感じた。

あれきり、躰をあわせていなかった。

気持ちの上では、出仕を休んで、紀州へ走りたい。
しかし、妻子もいる。
家名を捨てることはできない。

それはそれとして、西丸・書院番の与頭が4人、顔をそろえて酒を酌み交わしたなら、里貴が席にいたら、行きかった話の断片でも伝わったきたであろうに---。


参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (


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2010.06.22

遥かなり、貴志の村(4)

柳営につめていても、進物の番士としては、それほど忙しいわけではなかった。
50人いる進物の士は、5人ずつ10班にわかれており、うち3班が西丸であった。

各藩からの西丸の世嗣への進物の数は、おもうほど多くはなかった。
控え部屋で役目を待っているとき、平蔵(へいぞう 31歳)は、同輩から離れ、里貴(りき 32歳)が帰っていった貴志の村をおもいえがくのが癖Iになっていた。

紀州藩士の孫にあたる寺嶋縫殿助(ぬいのすけ)尚快(なおよし 44歳 300俵)から、紀州はちょっと内陸へ入ると山ばかりと聞いたので、これまで見分したそれらしいところを重ねあわせてみた。

14歳のときに、島田でお芙佐(ふさ 25歳)の手ほどきで男になり、再会に胸をふくらませながら詣でた先祖の墓所---駿河国小川(こがわ)の林叟院への樹間の参道とか---。

参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
林叟院の探索

いや、貴志池というから、18歳でややを宿させた人妻・阿記(あき 21歳)の実家の芦ノ湯村から、芦ノ湖ぞいに箱根関所へ出たあたりの湖水をのぞめる風景が、それに似ているのかも。

参照】2008年1月2日~[与詩(よし)を迎えに] (13) (14) (15

中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 30歳)と24歳の平蔵が、掛川城下から山あいを縫うように村落から村落を通りすぎた相良への道中の風景が、貴志川ぞいに連なっているらしい西、中、東とを冠した貴志の村々であろうか。

参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30

その風景に里貴の姿態をはめこんでも、里貴はすぐに裸躰に近くなってしまう。

Photo
(北斎『ついの雛形』 イメージ)

家で独りのときには、着ているものに躰をしばられているのが嫌なのだといい、平蔵がいても帯を解いて着替えた。
ということは、御宿(しゃく)稲荷脇のあの家では、最初(はな)から平蔵は客あつかいではなく、こころをすっかすり許していたということだ。

光を透すほどに白い里貴の肌が、渡来人のおんなの天与のものと聞かされても、違和感をおぼえなかったばかりか、その肌が淡い桜色に染まっていくのをたしかめつつ、平蔵は快美の感を高めた。
その昂ぶりが伝わるらしく、乳房や下腹ばかりでなく、太ももや腕(かいな)へも桜色は浮きあがっていった。

そういう:閨房の秘事よりも、もっと大きな打撃を覚悟している平蔵であった。

25歳で夫・藪 保次郎春樹(はるき)と死別してからの里貴は、、お側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ)の奥向き女中となり、来客とのあいだに交された秘匿の会話を耳にし、茶寮〔貴志〕の女将の座についてからは、お歴々衆とも顔馴染みになっていた。

寝屋にいるとき、ときにふれて洩らしてくれた断片から、平蔵は政事というものの虚飾をとりさった実体を推察することができた。

柳営内の裏の動きを、これからどうやってたぐればいいのか、どうにも、おもいつかなかない。
(西丸の主---大納言家基(いえもと 15歳)さまが将軍職を継いで本丸へお移りになるまで、政事から遠ざかっておれということであろうか)

それでは、火盗改メの座がまわってこないままで終わるかもしれないではないか。
遥かな貴志の村におもいをはせつづけていないで、近くに道を開くよりほかあるまい。

そんな考えを行きつ戻りつしていたとき、
長谷川さま。与(くみ 組)頭さまがお呼びでございます」
耳元でささやいた同朋(どうぼう)の声に、われに返った。


参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (

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2010.06.21

遥かなり、貴志の村(3)

寺嶋どの。拙は夜食に、〔丹波屋〕のうなぎを摂りますが、ご相伴くださいますか?」
おもいきって、問いかけみた。

真意を量るように、じっと平蔵(へいぞう 31歳)をうかがった寺嶋縫殿助(ぬいのすけ)尚快(なおよし 44歳 30Q俵)が、
「奢るには、なにか魂胆が---?」
「他意など、ござりませぬ。夜長に、お話しくださるなら、紀州の土地がらなどを、少々---と」
「乗り申す」

_360
(右=蒲焼の〔丹波屋〕。10年ほど前まで営業していた)

〔丹波屋〕は、半蔵門から西へ甲州路を4丁ばかりいった、麹町4丁目の表通りで商いをしていた。
半蔵門を通行できる鑑札を下賜されており、西丸の宿直(とのい)の番士で、ちょっと口を甘やかしたくなったら、半蔵門の番屋へ注文書きを預けておくと、店の小者が決まった時刻に集めにき、晩飯どきに焼いたばかりのうなぎ飯を西丸までとどけてくれた。

参照】2008年10月21日[〔橘屋〕のお雪] (

寺嶋縫殿助の祖は、駿河国志太郡(しだこおり)寺嶋村(現・藤枝市寺島)に住していた今川の家臣であったが、その後、徳川に仕え、大納言頼宣に配されて紀州へ移った。

今川方から徳川方へ移ったのと、志太郡に領地をもっていたところまでは、長谷川家と重なる。

寺嶋尚快もこころえてい、平蔵が西丸・書院番4の組に配属になったとき、先輩としてすぐに声をけてくれていた。
寺嶋は、30歳の宝暦13年(1763)から、もう14年間も同じ職場にい、わけ知りとして一目おかれていた。

うなぎを食べ終え、茶を手にした寺嶋が、紀州のなにが望みか、と訊いた。
「食してしまってからあかすのは気がひけるのだが、江戸藩邸詰で有徳院殿吉宗)さまにおつきして二ノ丸入りした祖父以来、紀州には帰っていないのだよ」

「その、赤坂の藩邸でのご祖父さまは?」
「紀州藩での役職ということかな? 中奥勤めで50石。37万余石の紀州藩士とすれば、まあ中の下というところ。もっとも、祖父はご家人となって300俵を給されたから、6倍にはなったが、長谷川うじだから洩らすのだが、中には10倍はおろか、20倍、いや50倍にとりたてられている仁もいるから、6倍すえ置きを手ばなしで喜んでいてはいけないな」

愚痴話には軽くうなずいておき、
「紀州の貴志という村について、なにか聞き及びではないですか?」
「貴志村?」
また、うなずいた。

「7年前まで生存しておった父・又四郎尚包(なおかね 享年81歳)なら、存じていたやもしれないが---。しかし、そういえば、貴志川というのは、聞いたことがあるような---なんのときであったかな、そうじゃ、貴志池という灌漑池の土手を補築するについて、弥惣兵衛(やそべえ)さまがおかかわりになったときに耳にしたのじゃ」

弥惣兵衛さま---?」
「紀州が産んだ、治水の神さまのようなお方じゃ。晩年---60歳のときに有徳院殿さまに召されて出府され、井沢為永(ためなが 享年85歳 500俵)としてご勘定所づきとなり、諸方の新田開拓や河川の治水にお働きになった」

参考井沢弥惣兵衛為永

「その貴志池と申しますのは?」
「紀ノ川にそそぐ川の一つに貴志川がある。その貴志川の支流の氾濫を防ぐために築かれた池という。たぶん、そのあたりにある村ではないのかな。で、貴志村とおことのかかわりは?」

_360_2
(横に流れている紀ノ川の河口が和歌山城下。
緑○=貴志池 赤○=金剛峯寺 明治21年ごろ測量図)

田沼主殿頭意次 おきつぐ 58歳 老中)侯のご先祖が、そのあたりを知行なされていたやに---」

金剛峰寺の寺領を田沼家の知行地にすりかえてしまった。

「貴志池は、和歌山城下からどれほどのところにございますか?」
「さて、紀州入りしたことはないので---家をさがせば、絵図のひとつくらいはあるかもしれん」
「ぜひ、拝見したいものです」
「妙にご執心じゃな」


参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (

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2010.06.20

遥かなり、貴志の村(2)

松造(まつぞう)。先に帰っておれ」
茶店の隅の席から心配そうに平蔵(へいぞう 31歳)を瞶(みつめ)ていた松造(25歳)に気づいた。

「手前にできることがございましたら、お申しつけくださいませ」
おずおずと逆らった。

「いや。これは、おれがことよ。酒でも飲んでから帰館する」
「お供いたします」
「ひとりで考えたいのだ」
「では、なるたけ、お早くお戻りくださいますよう---」

松造には、記憶があった。
京都で、貞妙尼(じょうみょうに 26歳)が殺されたときの、平蔵の面持ちに似ている。
しかし、今夕、殺されたかもしれないらしい女性(にょしょう)のこころあたりはなかった。

参照】2009年10月19日 [貞妙尼(じょうみょうに)の還俗(げんぞく)] (

平蔵の哀しみの深さは、貞妙尼(じょうみょうに)を失ったときよりも、琵琶湖で水死した〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)の報らせを聞いたときに似ていた。

男とおんなという生臭いあいだがらではなく、手の中の珠(たま)というか、貴重なものがなんの前触れもなく、突如、消えてしまったような喪失感であった。

は知恵の珠、里貴(りき 32歳)は事状通ともいえた。
消えてしまってから、どれほど頼りにしていたかをおもい知った。

とりわけ里貴は、透明ともいえる白い肌が情事のときに桜色に上気してくるのを愉しんでもいただけに、事状読みの才を、ともすると忘れがちであった。

参照】2010年1月18日~[三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇] () (
2010年1月18日~[貴志氏] () (

余人をもって換えがたい---という形容は、平蔵にとっては、お里貴のためにあった。

六間堀ぞいの道を竪川(たてかわ)の方へ歩きながら、鷹のように翼があれば、紀州へ東海道を急いでいる里貴を空からさらって連れ戻したいと考えているおのれを自嘲したり、躰になじみきった1年半のあれこれに未練をおぼえている自分を叱ったり---。

気がつくと二ノ橋東詰のしゃも鍋〔五鉄〕の前にい、季節がら、障子戸の向こう側は賑わっている気配が察せられた。

板場から三次郎(さんじろう 27歳)が飛び出してき、すぐに、熱燗をいいつけた。

参照】2006年7月16日[ 〔五鉄〕の位置

_360_2
(〔五鉄〕店内のパース 建築設計家・知久秀章さん)

入れ込みの奥の席をととのえ、
「寒風の中、どうなされました?」
「思いもかけぬ仕儀が出来(しゅったい)してな」
「お役目の上のことでございますか?」
三次郎が心配顔になった。

「いや」
「お金のことですか?」
「そうではない。そっちは足りておる」
「奥方さまと--?」
「産み月で、実家へ帰っておる」

躰を合わせあったおんなのことを、他人に話す趣味は持ちあわせていなかった。
おんなの体面もある。

「宝物が消えたのだが、探す手立てはない。諦めがたいが諦めるほかない」
「酒でも召し上がって、お忘れください」
「しゃも鍋をつつく気分ではないから、ちょっとした肴でいい」
そう言ってから、どうして〔五鉄〕に入ってしまったのか、奇妙におもえた。

独り酒なら、そのあたりの飲み屋でも間に合った。
やはり、勤め着のままでののれん酒は不審がられると、無意識に避けたのであろう。
こういう時、四ッ目にあった〔たずがね)}の忠助(ちゅうすけ 享年=53歳)の〔盗人酒屋〕だったら気が休まったであろうが---。
〔盗人酒屋〕は、3年前に店を閉じていた。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (

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2010.06.19

遥かなり、貴志の村

「ご本丸の御小姓2の組の夏目さまよりのお言づかりものでございます。ご開披(かいひ)は、くれぐれも、お退出なされてからとのことでございました。よって、お返書はご無用と---」

小姓組の夏目といえば、藤四郎信栄(のぶひさ 25歳 300俵)で、昨秋、戒行寺の会葬であったきりだが---とおもいながら、表書きも署名もない、中は書簡らしい封書をうけとり、
「ご苦労であった」
小粒をにぎらせ、同朋(どうぼう 茶坊主)を返した。

参照】2010年6月13日[戒行寺での葬儀

西丸の書院番4の組の番士・平蔵(へいぞう 31歳)は、400石の家禄なのに、遣いをした者には気前よく小粒をくれるということが、本丸の同朋のあいだでささやかれているらしい。
遣いの同朋はしごく当然のような態度で、すばやく、たもとに納めた。

宛名の記されていない封書が気にはなっていたが、まさか、動転するほどの内容とはおもわなかった。
それでも屋敷へ戻る前に中身をあらためたく、六間堀の猿子橋をわたった東詰の茶店で開披することにし、供の者を返した。

松造(まつぞう 25歳)だけは離れず、隅に席をとった。

書簡は、2重に封がされていた。
中の封にも、宛名はなかったが、ここで、平蔵は気がつくべきであったろう。

(念がいっていることよ)
あくまでも夏目信栄の借金の頼みぐらいにしか感じていなかったから、中がわの表紙を無造作に丸めた。、

現われた巻き紙は、おんなの見覚えのない筆づかいであった。

3行ほど読むと、平蔵の顔から血の気が引き、巻き紙をもつ手がふるえはじめた。

文の主は、茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 32歳)であった。
いや、女将を辞めたとあるから、単に、ひとりのおんな---里貴と書いたほうが正しい。
また、平蔵はこれまで、里貴の筆跡を見たことがなかったから、3行ほど読みすすむまで、里貴からの文とわからなかったのも無理はない。

お目にかかって申し上ぐるべきでしょうが、お会いしてしまうと決心がにぶり、離れがたくなることは、里貴の躰が痛いほど存じております。

こうして認(したため)ておりましても、(てつ)さまとの睦みあいがおもいだされ、下腹の芯が熱くなり、脇の下に汗がにじんでき、硬くなった乳首が肌着に触れて痛いほどです。

_0
(北斎 〔浜千鳥〕 イメージ)

お会いしたい。抱かれたい。触れてほしい。入って満たして---。

お屋敷にとどけては差しつかえもございましょうから、夏目さまに託します。

紀州の貴志の村へ帰らなければならなくなったのです。
中気(中風)で寝たきりであった父を看(み)ていた母が倒れました。

妹夫婦が面倒を看てくれていましたが、そちらの家でも姑の具合がおかしくなり、里貴が生家の両親を看.るよりほか、なくなったのです。

さまとお別れするのは、死ぬほどつろうございますが、父母のためとおもえば、自分のことなどいっておられません。
とりわけ、親孝行がなににもまして大切なしきたりとして伝わっている貴志の村のことです。
夫が逝き、藪家とは縁も切れているのに、わたくしが帰らなかったら、わが家は村八分にあいます。

参照】2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕のお里貴] () () () ) (
2010年3月31日[ちゅうすけのひとり言] (53

里貴が悪(あ)しざまにののしられるのはかまいませんが、父母、妹夫婦、縁者すべてがのけ者にされるのです。
そういうしきたりの百済からの帰化人の村なのでございます。

_150_2田沼(主殿頭意次 おきつぐ 58歳 老中)侯にもご相談いたしました。
いえ、銕さまとのことは伏せております。
侯も、そうするしかあるまいと仰せになりました。
「いいにくいが、両親が仏になられたら、また、戻ってこい、いい婿を探してやる」
笑いながら、
「そうじゃ。里貴には、婿は無用であったな」
とまで。
(清長 里貴のイメージ)

侯のお言葉どおり、父母を看取りましたら、きっと戻ってまいります。
だって、躰がこんなに抱かれたがっているのですもの。

勝手なことを認めました。

生きる張りあいのあった日々、ほんとうにありがとうございました。
かしこ。

巻き紙をつかんで呆然としている平蔵に、松造は声をかけかね、見守っていた。


参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (


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2010.06.18

進物の役(5)

帰宅してみると、奉書(召し状)がとどいていた。

進物の役を申しわたすから、11月11日の四ッ半(午前11時)に本丸・羽目(はめ)の間へ、熨斗目(のしめ)麻裃で出頭すること。

衣服を規制することで、家の格式と規律、服従心の強制を試していた。

ちゅうすけ注】 熨斗目麻裃

今夕の菅沼藤十郎定亨(さだのり 46歳 2025石 先手・弓の2番手、火盗改メ組頭)の言葉と符合しすぎているので、いささか驚いた。

(てつ)さま---いいえ、殿。おめでとうございます」
久栄(ひさえ 23歳)の第一声であった。

「うむ。それにしても---」
「なにでございますか」
「いや。なにでもない。そうだ、大紋(だいもん)と長袴(ながばかま)は、誂えるにおよばぬぞ」
「そう申されても、七代さま(宣雄 のぶお)は、おつくりにはなっておりませぬ」
「〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)どのが、祝いに贈ってくれるように元締衆に話すそうだ。問い合わせがあったら、久栄の好みの色味だけ、伝えてやれ」
「よろしいのでございますか?」
「あの者たちの気がそれですむのなら、受けとってやろう」

「わたしからのお祝いは、その3のおさらいです」
「大丈夫か、その腹で---」
「ふ、ふふふ。お腹(なか)の中のややも、足をふんばって喜んでおります」

翌日は、宿直(とのい)だったので、松造(まつぞう 24歳)が、平蔵(へいぞう 30歳)を城内へ送ったその足で音羽へまわり、重右衛門へ吉報を通じた。

わがことのように破顔した重右衛門は、、
「元締衆も、これでご恩返しができると、大よろこびだ」

久栄が望んでいる色は「花浅(はなあさぎ)」だと告げると、傍らにいた新造・お多美(たみ 34歳)が、
「ええ好み、してはります。能舞台で映えますやろ」

元締衆からの大紋・長袴は、なんと、一揃いではなく、5揃いもあった。

「花浅黄」のほかに「棟(おうち)」、「群青(ぐんじょう)」、「そひ(糸へんに熏)」、「 紅緋(べにひ)」と、いずれも能役者の重厚で絢爛たる衣裳に囲まれても、舞台映えするとともに、あまり使われない古色であった。

_360
(最上段:花浅黄(はなあさぎ)
大日本インキ化学『日本の伝統色』見本帳より)

平蔵は、いかにも京育ちのお多美どのらしいとおもったが、「花浅黄」と指定した久栄の手前、
「進物番を勤める5年があいだ、毎年、青差(あおざし)積みにかりだされても、年ごとに異なった大紋で演じられるな」
と笑ったが、長谷川家の左藤巴の表紋がついている大紋を、同輩に貸すこともできないし、さればといって、お色なおしの召し替えもありえない。

(同紋の士が進物番に選ばれたときとか、辰蔵が選ばれたときのに着ればいい)


参照】2010年6月14日~{進物の役] () () () () 


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2010.06.17

進物の役(4)

長谷川さまが進物番におなりになったら、わっちら、お世話になっている元締衆に、お祝いに、大紋(だいもん)・長袴(ながばかま)を贈らせてくだせえ」

参考大紋・長袴

宴が終わり、招待主の菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳)が騎馬で大塚吹上の屋敷へ帰るのを見送り、目白台の組屋敷へ帰る筆頭与力・脇屋清助(きよよし 47歳)と服部儀十郎(ぎじゅうろう 32歳)与力を、
「お帰り道でやすから、ちょっとお口なおしにお立ちよりくだせえ」
母親がやっている音羽8丁目の料理屋へ、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)が、平蔵(へいぞう 30歳)ともども誘いかけての、席であった。

「長袴といやあ、裾をひきずって歩きやすでしょうから、踏みつけたところの汚れがひどいのでは---」
柳営内を見たことのない小頭の〔大洗(おおあらい)〕の専ニ(せんじ 37歳)が素朴な疑問を呈した。

「小頭。営内は、廊下といえども板敷きではなく、畳敷きなのです。ちり一つ落ちてはおりません。ですから、長袴の踏みしろの折り目はとれても、汚れることはない」
武蔵国羽村(はむら)の鋳物師あがりの〔五ノ神(ごのかみ)〕の音蔵(おとぞう 48歳)一味の逮捕にかかわって親しくなった服部与力が説明した。
「さいでしたか---お城など、まったくご縁がねえもんで、つい、心ぺえしちまいました」

酒のあいまに蛸のやわらか煮に箸をつけた脇田筆頭与力が、
「これは柔らかい。歯が弱ってきている者には珍重---」
「大豆と大根とともに煮、風味つけに酒をすこしそそぐと、柔らかさと味がそのように---」
重右衛門が母ゆずりの講釈をした。

それを汐(しお)に、この10月の中ごろから火盗改メの冬場の助役(すけやく)についた先手・鉄砲(つつ)の10の組、松田善右衛門勝易(かつやす 53歳 1230石)配下の、中川筆頭与力から頼まれたのだが、と前置きし、
「〔音羽〕のも承知しているように、火盗改メの(すけやく)は、火患の多い冬場に発令される。本役のわれらの組は、日本橋から北の警備にあたり、助役組は南を分担するというのか゜、近年のとりきめであってな。松田組はとうぜん、日本橋川から南と、深川の見廻りということになる」
「へえ---?」

ところが、いざ任務についてみると、本役・菅沼組には、ご府内だけでも浅草・今戸・橋場をとりしきっている〔木賊(とくさ)の衆、両国広小路は〔薬研堀(やげんぼり)〕の一門、上野山下と広小路は猪兵衛(ゐへえ 28歳)、もちろん、音羽、雑司ヶ谷はそなたの組---と主だった元締衆が夜廻りを奉仕してくれている。
しかるに、日本橋から南では、〔愛宕下(あたごした)〕のと、深川の〔丸太橋(まるたばし)しか手助けをだしてくれていない---。

「ご府内の香具師の総元締格の〔音羽〕のに口をきいてもらえまいか---ということであった」
松田組頭さまが手札をおくだしになりてえと?」
「そういう次第」

脇屋さま。お言葉をけえすみてえで申しわけねえんですが、わっちらの夜の見廻りは、菅沼お頭さまからの手札のこともありやすが、ほんとうのところを申しあげやすと、こちらの長谷川さまのお声がかりで発起いたしやしたんで---。でやすから、長谷川さまのお眼鏡にかなった元締でねえと声をかけられねえんでございます」

うなずいた脇屋筆頭が、平蔵を瞶(みつめ)た。
どうやら、先方の中川筆頭に安請けあいをしてしまっていたらしい。

脇屋さま。松田組頭さまのお屋敷は、どちらでしょう」
「番町の新道2番町だが---」
(やばい! 大伯父の太郎兵衛正直 まさなお 67歳 1450石)と背中あわせだ)

_360
(赤○=長谷川太郎兵衛屋敷 緑○=j松田善右衛門屋敷
池波さん愛用の近江屋板の番町切絵図)

間をとって、
「脇屋さま。拙は、〔音羽〕の元締どのがおっしゃるほど、香具師の世界に通じているわけではありませぬ。亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が火盗改メの任についておりましたおり、たまたま、目黒・行人坂の火付け犯のことを、〔愛宕下〕の仲蔵(なかぞう 45歳)どのにお手伝いいただいき、お付きあいができただけです。松田組頭どののご分担の地域の元締衆にはなじみがありません」

「それは困惑」
「ですから脇屋さまのお考えどおり、〔音羽〕の元締とじっくりご相談になり、話をとおしていただきになるのが、よろしいかと」


参照】2010年6月14日~{進物の役] () () () (

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2010.06.16

進物の役(3)

「まあ、このことは、進物番の師範役もきびしく伝えることのようだから、ここでこことさらに申すことでもないが、ご三家をはじめ、すべての藩のご当代とご継嗣の名、時献上をおぼえておくこと」
火盗改メ・本役の菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)の老婆心がつづいた。

藤十郎定亨は、平蔵(へいぞう 30歳)が提案した香具師(やし)の元締衆へ手札をわたして夜廻りの助(す)けが成果をあげはじめたので、報いの一席をも設けた。

音羽・青柳町、護持院前の料亭〔巴屋〕であった。

時献上とは、季節ごとのあいさつを品物で表わすしきたりであった。
たとえば、親藩の雄---尾州藩の時献上を写してみよう。

正月3日  御盃台
   7日  長鮑御樽
上巳     同断
帰国御礼  3種2荷
帰国上使  2種1荷
4月18日  志津幾鰤
4月     小鮎酢
45月内   鮎酢
4~8月   宿次10度
6月朔日  氷餅
67月内   上条瓜
暑中     品不定
7月6日   御鯖代黄金
910月    甘干柿美濃柿 2,3度
11月     御在府之御時計御茶、御水菓子類(くだもの)、
        生御肴御樽、宮重大根
12月     干御魚鯛腸塩辛うるか、粕漬鮎、枝柿1箱、雁、鶴

小藩の代表として1万石の駿河国小島(おじま)藩(松平丹後守)

寒中     奥津鯛

長谷川家の先祖が在城していたこともある、駿河国田中藩4万石はどうであろう。
藩主は本多氏。前藩主の伯耆守正珍(まさよし)は、亡父・宣雄を近づけていた。

正月3日  御盃台
   7日  奥津鯛
在着御礼  2種1荷 
6月     足久保煎茶
9月     栗
1112月   塩鴨

まあまあの回数と品である。

長谷川うじ。落ち度は、田中藩のような、小藩とはいえず、そうかといって中藩でもない藩におきがちなのでありますぞ。くれぐれもごの留意をなされい」
「承りました」
とりあえず、だまって頭(こうべ)をさげておいた。

たしかに、油断しそうであった。
しかし、本多伯耆守正珍は老中を務めていた。
こういう中の下の藩が明敏な藩主を輩出しやすい。

諸侯からの時献上に対し、将軍の側も見合うだけのものを返していたようである。
つまり、儀礼であった。

そのために50人もの進物の役を---と考えるか、幹部候補生を諸侯に顔見世させ、将来の外交に資したと考えるかは、それぞれであろう。
むだ金のように見えても、後年になって生きる金もある、人材に投じた金はとくに。

参照】2010年6月14日~{進物の役] () () () (


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2010.06.15

進物の役(2)

「進物の役についたのは、西丸の書院番4の組へ配された、23歳のときであってな」
20年よりもっと昔をたぐりよせるような、菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)のつぶやきであった。

定亨は去年から、先手・弓の2番手の組頭で、火盗改メ・本役に就いていた。
昔ばなしをする年齢でもないし、また、役宅では職務のほかのことはほとんど口にしない。

音羽・青柳町の料亭〔巴屋〕で、勤めていたことのある西丸の書院番4の組に出仕して間もない長谷川平蔵(へいぞう 30歳)を前にして、両番(書院番と小姓組)の花形である進物の役のことを口にしたために、なつかしさがよみがえったらしい。

組の筆頭与力を勤めている脇田清助(きよよし 47歳)が、珍しい成り行きになってきたと好奇の目をかがやせ、油をそそいだ。
「お頭。23歳で進物番に抜擢なされたのは、いかにも、ご器量がおすぐれになっていたのでございますな」

たしかに藤十郎は、肌の張りこそ失っているが、面立ちはいまでもととのっており、声も澄んでいた。

脇屋筆頭の油を、世慣れている〔音羽(おとわ)〕の若元締の重右衛門(じゅうえもん 49歳)がさらに団扇であおった。
「お殿さま。ご書院番にお勤めになりまして、どれほどで?」

ちょっと考えるふりをし、
「番入りが宝暦(ほうりゃく)9年(1959)であったから、3年とは経っていなかったとおもう」
(おれが、この11月に選抜されると、8ヶ月)
平蔵は試算したが、まったく別の言葉で油をたした。

「進物番が、こころえておくべき一事を、お漏らしいただけましょうか?」
「うむ、そのことよ。はばかりだな」
「はばかり? 厠(かわや)でございますか?」
「その厠---」

藤十郎定亨は、真面目な顔で話した。

正月3日の夕刻には、毎年、謡曲始めの儀式が大広間でおこなわれる。
出座の将軍をはじめ、老職のお歴々はみな、肩衣(かたぎぬ)に長袴(ながばかま)で連(つら)なる。
進物番も同じ衣裳でうしろにひかえている。
猿楽太夫観世左近が四海波を奏するうちに、獻酬がすすみ、十獻が終わると将軍が肩衣を抜いて大夫に与え、つづいてお歴々も肩衣を進物番の手から猿楽の衆に賜う。

このときの長袴の足さばきがむずかしい。
前にすすむときは、前をつまみ、袴にゆとりをあたえて踏みだすからいいが、左右に曲がるときに美しい裾さばきができないと顰蹙(ひんしゅく)をかう。

それは練習で体得するとして、小用のときは、いちど袴をぬがないと粗喪(そそう)をする。
だから、数刻j前から水分を控えた。
しかし、老齢のお歴々は小用が近いから、厠がつかえがちになった。
老職に後ろで待たれると、若輩としては先をゆずらないわけにはいかない。

定亨がいかにも困ったという顔をしたので、みんな笑った。
「いや、笑いごとではないぞ」
たしなめた当人も笑った。

(なるほど、お頭(かしら)となったら、こういう、罪がなくて、それでいて(なるほど)と合点がいく話題をいくつも手持ちしていなくてはならないのだな)
平蔵は、菅沼定亨の人柄に、より親近感をおぼえた。

進物の役の大紋(だいもん)・長袴という晴れ着の着用は、正月の公開能楽興行のときである。

参考大紋・長袴

松平太郎さん著『江戸時代制度の研究』(柏書房・復刻)を現代文に直して写すと、

能楽興行のとき、大夫に報償する青差(あおざし 一文銭を1000枚を青い麻縄を通してまとめた棒状の下賜用の物)を舞台に運び、井桁に積み上げる。
精妙な技術を要するので、その年、その役にえらばれた進物番士は、20日も前から練習したという。

松平太郎さんは、進物の役に選ばれた士は、その後の出世も早いと、補記している。


参照】2010年6月14日~{進物の役] () () () (

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2010.06.14

進物の役

長谷川うじも、そろそろでしょう」
「なにが--でございますか?」

平蔵(へいぞう 30歳)をみつめる菅沼藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)の目はやさしかった。
が、相変わらず顔色がすぐれないし、酒も口にしなかった。
定亨は、去年から火盗改メ・本役をつとめている。

平蔵が進言して実現した、香具師(やし)の元締の組の夜廻りが功を奏した。
それで今夜は、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)の手下(てか)が、鋳物師あがりの〔五ノ神(ごのかみ)〕の音蔵(おとぞう 48歳)一味を尾行し、逮捕にこぎつけたということで、富士見坂下の護持院前の料亭〔巴や〕弥平に招かれていた。

火盗改メ方は、組頭のほかには、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 47歳)と、捕り方の指揮をとった服部与力(32歳)。
音羽〕方は、元締の重右衛門と小頭「・〔大洗(おおあらい)〕の専ニ(せんじ 37歳)。
それに発案者の平蔵

感謝と慰労の辞、恐縮した返礼のやりとりが一段落したところであった。

長谷川うじの、進物の役の発令ですよ」
「拙など、とてもとても---」
平蔵は謙遜したが、
「先日、所用で西丸に顔をだした節、与(くみ 組とも記す)頭の牟礼(むれい 郷右衛門勝孟 かつたけ 55歳 800俵)うじと出あったので、長谷川うじを推しておきましたぞ」
音羽〕のが、もっともといった表情でうなずいた。

平蔵は、頭(こうべ)を下げ、
「身にあまるおこころづかい、かたじけなく」

柳営中の進物番は、三家三卿、大名、幕臣からの将軍家や大奥への進物、その返礼のことをつかさどる。
それだけに、本丸・西丸の書院番士700人、小姓組600人の番士の中から、容姿端麗、口跡明瞭、機転煥発の基準にかなった者が50人だけ選ばれる。
両番(書院番、小姓組)の家柄にとっては、とりわけ名誉に感じる役であった。

平蔵長谷川家はもちろん、これまで一人もこの役についたことはなかった。
本家では、45年ほど前に、いまの当主・太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)が七代目にして初めて役した。

50名の進物番士は平均して3年から5年のあいだ動かないから、年に12,3名ほどしか補充されない。
1300人の中で12,3名だから、指名率はきわめて低い。
もっとも、任じられるのは、20歳から30歳前半までというのが暗黙のしきたりとなっていたから、当選率は100分の1ではなく、30分の1ほどであった。

いや、年に30人に1人だって、考え方によれば相当に厳選であることに変わりはない。

任命は、ほとんどが11月に発令されたので、こころ待ちにしている番士は、その月が近づくと、息をひそめて呼びだしの奉書を期待していた。

そんななか、平蔵は、
「わが家は、そのような家柄ではない」
と平然としており、3人目の子を腹中に入れている久栄(ひさえ 23歳)と、隣家の継室・於千華(ちか 40歳)仕込みの、その4、その5の実践を楽しんだ。

参照】2010年5月25日[亡父・宣雄の3回忌] (

「茶寮〔貴志〕へは、その後はご無沙汰しておるが、女将は達者かな?」
「拙もこのところ、とんと縁がありませぬゆえ---」

三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇の寓居への訪問を欠かさなかったから、寝衣の里貴(りき 31歳)がもてあますほどに達者であることは告げなかった。
また、話すべき内容のものでもなかった。

参照】2010年6月14日~{進物の役] () () () (

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2010.06.13

戒行寺での葬儀

菅沼さまのご継嗣・次郎九郎定昌(さだまさ 享年34歳)さまのご葬儀が、この10日に戒行寺で執り行なわれますと、和泉橋通りの実家(さと)から報せてきました」

下城してきた平蔵(へいぞう 30歳)と顔をあわすなり、久栄(ひさえ 23歳)が告げた。

久栄の実家・大橋家は、神田川の下流に架かった和泉橋を東へわたった先にあった。
菅沼家はその向い側にあたっていた。

もっとも、久栄がいって菅沼家とは、いまは日光奉行とし赴任している摂津守虎常(とらつね 61歳 700石)のことで、ちかごろ、平蔵が会っている火盗改メ・藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)の菅沼家のほうではない。

平蔵久栄も、仏となった次郎九郎定昌には、5年前に四谷・須賀町の戒行寺で、たまたま出会った。
同じ檀家であったのである。

参照】2009年3月15日~[菅沼攝津守虎常] () () () (

その後、日光奉行に栄転する前の虎常が火盗改メであったときに、ある事件を通じてかかわりがむすばれた。

参照】2009年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] () () () () () (

「今夜が通夜であろう.。さっそくにも、桑島(友之助 とものすけ 43歳 家士)をつかわせ」

通夜には、親族のほかは弔意に行くのは、家士の役目であった。
服装は、薄めの色の無地の麻裃だが、葬列にも加わらない。

とくべつな関係者のみ、葬儀が行われる寺で焼香をする。

実父・虎常がいまだに現役であったが、次郎九郎定昌は、稟米勤めの書院番士をへて中奥に出仕していた。
とはいえ、この半年は病気がちであったので、同輩はほとんど焼香にはあらわれなかった。

平蔵は、牟礼(むれい)与(くみ 組)頭の許しをえて、用意の喪装の麻裃に着替え、戒行寺での会葬にでかけた。

(旧暦)9月10日の、さわやかな大気が満ちていた。

来年の日光参詣をひかえて手のぬけないはずの摂津守虎常も帰府し、喪主の次の席についており、平蔵を認めると、静かな目礼をおくってきた。

儒教でいう、親に先立った不孝の仏ということで、父親は喪主にならず、次郎九郎の内室がつとめていた。
内室は、北町奉行から大目付にすすんでいた依田豊前守政次(まさつぐ 73歳 1100石)の三女で、女子ばかり3人をなし、別腹の2女も残されていた。

(依田政次については↓)
参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の構造] () () () () () () () () () (10) (11

当主が50歳をとうに過ぎてから迎える養子だけに、舅となる虎常は、手続きがたいへんだろうと察した。

香を薫じ、拝礼をすませて本堂前を離れたとき、肩をたたいた者がいた。
夏目藤四郎信栄(のぶひさ 24歳 300俵)であった。
2年ぶりの再会というか、同じ日に遺跡相続をゆるされ、そのあと、茶寮〔貴志〕に初めて誘われたて以来であった。
親類の強い牽きもあったのであろう、翌年には本丸の小姓組番士として出仕していた。

そういえば、内室が虎常の三女とかいっていた。
「親族の末席から見かけたので、参会のお礼にとおもって---」
「それはどうも。席にいないとまずかろう。いずれ---」

日光参詣の列に選ばれたことを話したそうであったが、里貴(りき 31歳)のことに及んではまずい。
はやばやと、山門を出た。

参照】2009年12月21日~[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] () () () (
2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕の里貴] () () () (

八ッ半(午後3時)をすぎたばかりであった。
茶寮〔貴志〕は、七ッ(4時)を差している客の準備で、里貴がきりきりしているはずである。
それに、会葬帰りとひと目でわかる麻無地の裃では、客商売の〔貴志〕に不祝儀すぎよう。

深川・黒船橋北詰を目指した。


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2010.06.12

麦畑の畝(うね)

「屋敷で待っている、とのことでございました」
同朋(どうぼう 茶坊主)が、本丸の躑躅の間詰、先手・弓の7番手の組頭で、長谷川家の本家の当主の太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)からの返辞をもたらした。

「申し上げたいことがあるので、夕刻、お訪ねいたしたい」
平蔵(へいぞう 30歳)が、問い合わさせたのであった。
同朋に、用意しておいた小粒をすばやくつかませた。

本家・長谷川家の屋敷は番町でも、半蔵濠の北端に近い新道一番町に800坪ほど賜わっていた。

ちょっと下城を遅らせ、そのまま一番町へ足をはこぶ。
供は松造(まつぞう 24歳)だけをのこし、ほかは帰した。

太郎兵衛正直は、着替えて待っていた。
亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)の三回忌の法会への礼を述べた。

「いいたいことはそのことではあるまい。酒があったほうが話しやすいか?」
この大伯父は、厳格なようでも、さばけているところもあった。

「そのように深刻な事柄ではございませぬ、が、とりようによっては、深刻なことかも。で、頂戴できるのであれば遠慮はいたしませぬ」
備中)に似ず、酒好きになりおって---」
「これも、必死の調練の賜物でざいます」
「いわせておけば---」
苦笑いしながら、酒の用意をいいつけた。

「日光山ご参詣の人選はすすみましたか?」
「おおよそのところはな。(てつ)の西丸は留守番だから静かなものであろうが、本丸では、寄るとさわると、ひそひそ、選ばれそうの、洩れそうのと---お勤めそこのけじゃ」

盃をおいた平蔵が、
「上さまお成りK道筋の警備は、いまからきびしく点検がなされておると推察しております」
「そのことよ---」
往還の安全を調べる組が、いくたびにもわけて出かけていると、太郎兵衛が説明した。

「そのことでございます。道中に麦畑はどれほど---?」
「麦畑? 日光道中は水田より、麦畑のほうが多いほどじゃ」

「来年、上さまが日光へお参りになる時期---4月には、この晩秋に種をまいた麦が、刈り入れを待っておりましょう」

将軍の日光参詣は、家康の命日---4月17日をはさんで行われるのが通例であった。

なにをわかりきったことを---と太郎兵衛正直が睨(にら)んだ。

「曲者が身をひそめても、なかなかに見つけにくうございましょう」
「む---」

「この秋の播種のとき、畝づくりを、道中筋にむかって縦につくるように、いまからお触書をだしておかれれば、先達(せんだつ)の方々は、麦畑のすみずみまで、たやすく見渡せましょう」
、でかした!」
太郎兵衛が膝をうった。

この年から、日光道中ぞいの麦畑の畝は、直角になったということである。
真偽のほどは、ちゅうすけもしらない。

提案の功が認められたかして、太郎兵衛正直は、日光参詣が無事におわった安永5年(1776)の12月に、先手・弓の7番手の組頭から、駿河以来の名誉をもつ、弓の2番手(駿河組)の組頭へ組替えになった。

ちゅうすけ注】太郎兵衛は、弓の2番手の組頭に1年3ヶ月在任したうえで、番方(武官系)としての出世すごろくの上がりで4人しかいない持筒(もちつつ)の頭へ栄転した。
平蔵宣以が11年後の天明6年(1786)に任じられたのも、この、弓の2番手の組頭であった。



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2010.06.11

小料理〔蓮の葉〕のお蓮(6)

七ッ(午前4時)ともなると、白みはじめる季節であった。
蒸すからと、裏庭に面した雨戸を引かなかったので、障子をとおして寝部屋も、ものの形がうっすらと見分けがつくようなってきていた。

目ざめた平蔵(へいぞう 30歳)は厠(かわや)へも立たないで、寝息をたてている里貴(りき 31歳)の、生来の白い肌ながら下瞼(まぶた)がかすかに青みをおびているのに、
(毎日の客商売はもやはり疲れるのであろうな)
おもいやりながら、また、脈絡もなく、同じ齢ごろのお(はす 30歳)の寝顔を、〔蓮沼(はすぬま〕の)市兵衛(いちべえ 50歳すぎ)も、こうして瞶(みつめ)ているのであろうか?)

連想をたちきりると、里貴の露出していた白い下腹の裾をあわせてやった。
なにしろ、裾丈が短かすぎた浴衣であった。
その動きを感じたらしく薄目をあけ、腕をのばして抱きついてきた。
「まだ、早い。眠るがいい」
「なん刻(どき)?」
上にのしかかってき、
「うれしい。いっしょに眠れたのですもの」
茂みが、男をなぶった。

「厠だ」
平蔵がすますと、入れちがいに里貴が使った。

また、上にかぶさり、舌をさし入れ、腰を微妙にゆすりはじめた。
「行水の盥(たらい)は、あのままか?」
「はい」
すでにそのように整っているところへ、するりとみちびき入れた。

辻番所では、
西丸・書院番、水谷(みずのや)組の長谷川平蔵、宿直(とのい)なれど、急用の出来(しゅったい)につき、三ッ目通りの屋敷へ急いでおる」
それで、すんだのは、六ッ(午前6時)が近く、朝日がのぼりかけていたからであろう。
ただ一つの辻番所だけが、武鑑で番頭の水谷出羽守勝久(かつひさ 53歳)を確認し、
水谷どのの家禄は?」
「3500石でござる」
通された。

堀留の荒布(あらめ)橋の手前で、石(こく)町のも鐘が六ッ(午前6時)を打った。

着替えて、やっと、出仕がは果たせた。
(探索仕事は、出仕しているあいだは、幕引きだな)

下城の途次に、黒船橋北詰の駕篭屋〔箱根屋〕の権七(ごんしち 43歳)のところに立ち寄った。
蓮沼〕の市兵衛の探索を打ち切ることを告げるためであった。

さんは、ずっと昔、箱根で働いていたから、富士山の異称が蓮岳(はすだけ)だということくらいは承知だとおもうたが、〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛は蝋燭問屋〔不二屋〕と名乗って、さるところからおを退(ひ)かせ、〔蓮の葉〕を開かせたらしい」
(てつ)っつぁんは、おの前身をご存じだったのでやすね」
「前にもいったとおり。ちょっとな---」
「当ててみやしょうか?」
「ほう---」
岸井(左馬之助(さまのすけ 30歳)さまがらみ---」

参照】2008年10月18日[〔橘屋〕のお雪] (

「会ったことがあったかな?」
忠助どんの店で、ごいっしょのところを、ちらっと---」
「いつごろ?」
っつぁんが京都へおいでのあいだ---岸井さまが臼井へお帰りになる前に」
「ということは、おが〔蓮の葉〕を開いたころだ」
「そうなりやすか」
さんも人が悪い。それを知っていて〔蓮の葉〕の客になったのだから--」
「知り合いの色恋には、目をつむることにしておりやす」
「あっ、ははは」
「は、ははは」

「そういうことだから、〔蓮沼〕の市兵衛の探索は打ち切りたい」
岸井さまへの友情のために--?」
「いや。〔蓮沼〕のの仕事(つとめ)ぶりに、いささか惚れたということにしておいてくれ」
「よろしいんでやすか、お上に---」
「黙っておれば、わかるまい」
「承知いたしやしたが、おさんにはひっかかりになりやせんように---」
「こころえておる。左馬(さま)と義兄弟になるのは本意でないし、盗賊の持物を盗むのは一度で懲(こ)りている」
「きっとでやすよ」

中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 享年33歳)は、〔蓑火(みのひ)〕や〔狐火(きつねび)〕の配下ではあったが、持物ではなかった。

参照】2008年11月17日[宣雄の同僚・先手組頭] (
2008年11月25日[屋根船

参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮の葉〕のお蓮] () () () () (

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2010.06.10

小料理〔蓮の葉〕のお蓮(5)

(てつ)さま。さっきの蝋燭問屋〔不二屋〕の金兵衛さんが退(ひ)かせたおって人、どうなったんですか?」
このまま眠っていいというので、いつもより入念に励み、寝入りかかったところを、ゆすられた。

行灯の灯の明るさもそのままで、里貴(りき 31歳)の双眸(りょうめ)に橙色の炎が、ちらちらと映っていた。
寝衣がわりに、例の特別あつらえの腰丈の浴衣なので、素肌の太ももが平蔵(へいぞう 30歳)の股へさしこまれていた。

昼間の暑さがすっかり消えたわけではなく、掛け布ははねのけてい、桃色がかった乳房は透きとおる白に戻っているのが見えた。

「だから、深川の小名木(おなぎ)川のとっかかりに、小料理屋をもたせてもらってい.ると話したろう」
「いいえ。お話になっていません。お隠しになったところをみると、さては---」

握ってきた。
「変な妬(やき)ごころは、はしたないぞ」
「おいくつのお方ですかか?」
「どっちだ? 金兵衛か、お(はす)のほうか?」
「おって---?」
「お(ゆき)が名前を変えたんだ}
{その、おさんのお齢---」
「29だか、30歳だか---訊いたことがない」
「おんな、まっさかり。蝋燭問屋の〔不二屋〕の主人は?」
「50を、3つ、4つ、出たところ、らしい」
「それじゃあ、不足なんです」
「なにが---?」
「これ、です」
「おい、よせ---里貴も不足なのか?」
「いいえ。満ちたりました。が、気になります、おさんが---。なんという、お店ですか?」
「〔蓮の葉〕---」
「ほら、ご覧なさいませ。蓮っ葉を売りものにしているじゃ、ございませんか」
握った手を、ゆつくりとゆすった。

「今夜の里貴は、どうかしているぞ。もう、寝(やす)もう」

平蔵は、剣友・岸井左馬之助(さまのすけ 30歳)とお雪のあいだがらを聞かせた。

参照】2008年10月22日~[〔橘屋〕のお雪] (2) ()() () (

「無二の親友が抱いたおんなとなにする、そんな裏切りはできぬ」
「それならよろしいけど。とにかく、〔蓮の葉〕で本身をお抜きにならないでくださいませ」
「抜くわけない、いまは〔蓮岳(れんがく)屋〕の持ちものだ」

そう、見得をきってから、〔狐火(きつねび)〕の持ちものであったお(しず 18歳=当時)とひょんなことになったことが頭をかすめた。

参照】2008年6月2日~[お静という女] () () () () (

「〔蓮岳屋〕---?」
「不二は、蓮岳って教えてくれたのは、里貴であろう」

「〔不二屋〕キン兵衛さんといいました?」
「うむ」
「もしやして、キン兵衛のキンは、金銀の金ではないかも--」
「なに?」
「布の巾---で、巾兵衛かも」
「巾兵衛の巾の字の上に、横一と点をうってご覧なさいませ」
「む。市兵衛---〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛---でかした、里貴

参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮の葉〕のお蓮] () () () () (

       ★     ★     ★

償還『池波正太郎の世界 26』は、[鬼平犯科帳 六]。

26

東京で〔鬼平クラス〕を持っていたころ、月2回のうち、1回はウォーキングと銘うち、作品に登場するスポット5ヶ所ー(3km)ほどを2時間ほどかけて、終わると懇親会の夕食をとった。
途中、3,40分のティー・タイムをもうけた。日曜日は、喫茶店・食堂ともに休んでいるところが多いので避けてコースを組んだ。
80コースほども組んだろうか。その記録が書棚を2連ほども占領している。
スポットめぐりは、単に切絵図に指定してあるだけでは、食指が動きにくい。

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2010.06.09

小料理〔蓮の葉〕のお蓮(4)

「お(ゆき)が辞めて、3年になりましょうか---」
(えい 43歳)は、仲居頭(なかいがしら)をつづけていた。

雑司Tヶ谷の鬼子母神の大鳥居の手前を、垣根にそって左へいったところにある料理茶屋〔橘屋〕が、仲居たちの寮として、農家を改造している奥まった一室である。

かつて、この部屋へ通されたのは7年前(明和5年 1768)の晩秋で、久栄(ひさえ 16歳=当時)が、嫁にくる前であった。

参照】2008年10月12日[お勝という女] (1

の髪には、白いものがまじっており、向かいあうと目じりの皺の数が多くなっているのが目立った。
それでも、寝衣の浴衣には、赤い金魚がいく匹か泳いでいる。

この前と同じように、寝酒にしているといい、徳利から湯のみへ冷や酒を注いくれている。
自分もひと口呑み、おの部屋だった右手の入り口の襖(ふすま)へ声をかけた。
「お千夜(さよ)さん。おささ、召すかね?」

その部屋から、やはり寝衣の浴衣を赤いしごきでとめただけの、23,4歳とおぼしいおんなが出てきた。

「ここにいるのは、いまは、わたしとお小夜さんだけなんです。あとはみんな通い---」
いいわけしてから、
「お小夜さん。おを退(ひ)かせた、小柄な---なんとおっしゃいましたかねえ」

は、平蔵(へいぞう 30歳)に、
「初手(はな)は、同じ店(たな)の下の人らしい5人ほどでおいでになり、つぎからは、おを名ざしでお一人でおあがりになるようになったんです。初手のときにお小夜さんが、おの助(すけ)について---」

小夜はいける口らしく、一気に茶碗酒をあおってから、護国寺前の青柳(あおやぎ)町の、蝋燭問屋〔不二屋〕の旦那で金兵衛といい、50がらみで、やさしい声の持ち主であったと。
連れは、番頭と出店をまかされていた者であったよう---。

「でも、妙なんですよ。おさんが退かされなさってから、青柳町へ行ってみたんです。そしたら、〔不二屋〕って蝋燭問屋はなかったんです」

勝手に注いで3杯もあけ、ろれつがあやしくなってきていたお小夜を、抱くようにして部屋へ帰し、
長谷川さま。お仲(なか 33歳=当時)さんのだったお部屋は空いています。お泊りになりますか?」

【参照】2008年11月29日[橘屋]忠兵衛

断った。
「明朝は、出仕しなければならぬ。木戸が閉まる前に、なんとか帰りつけよう」
雑司ヶ谷から本所・三ッ目の屋敷までは2里(8km)以上あり、遅くなったら泊まることになるかもしれないと、いってあった。
(そういえば、お仲が、〔蓑火みのひ〕の喜之助(きのすけ )と〔夜兎ようさぎ)の角右衛門(かくえもん)が〔橘屋〕で清遊をしたとか、話してくれたことがあったなあ)

参照】【参照】2008年8月29日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] ((2) (3) (4) (5) (6) (7) (8)

御宿(みしゃく)稲荷の脇の家の戸を拳骨の脊で叩いた。
2ヶ叩き、間合いをおき、また2ヶ---。

寝支度のまま、戸をそっとてあけた里貴(りき 31歳)は、平蔵に双眸(りょうめ)を大きくひらいておどろいた。
「どうか、なさいましたか?」
「泊めてくれるか?」
「お泊りになれますの?」
「明朝は早い」
「うれしい」

蚊帳の中で、青柳町の蝋燭問屋の〔不二屋〕金兵衛のことを話した。
「お待ちになって---たしか、駿河の富士山の頂上に8峰があるので、別名、蓮岳(れんがく)といったような---」
「なに? 蓮岳とは、蓮の岳と書く?」
「はい。駿府城代をなされた、どなたかからそのように---」
「ふーむ」
「わたしの蓮華(れんげ)も開いております」
「ばか」

参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮の葉〕のお蓮] () () () () (


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2010.06.08

小料理〔蓮の葉〕のお蓮(3)

(そういえば、似顔絵を300枚から刷り、元締衆のシマの仮店に配った、〔荒神(こうじん)〕の助五郎(すけごろう  55,6歳)とお賀茂(かも 35,6歳)の報せが、まったくあがってこないなあ)

寝所で、天井をみながら、平蔵(へいぞう 30歳)はおもった。
助五郎の姿を見たのは、養女となる与詩(よし 6歳=明和4)を迎えに、駿府へ行く途中の小田原であったから、10年以上も前のことになる。
その時の助五郎は、色が浅黒く、44,5歳に見えた。

参照】2007年12月27日[与詩(よし)を迎えに] () (36) (37
2008年1月25日~[荒神(こうじん)の助太郎] (5) () (

10年ちょっと経っていた。
以来、助次郎の盗み仕事(つとめ)ぶりは、駿府と掛川で目にしたが、当人の姿は見たことがない。

似顔絵は、箱根の関所やぶりに手を貸した権七太作(たさく 70歳近く)、それに京都でお須賀につきまとわれたお(かつ 34歳)の証言をもとに描かれ、板刻した。

そういえば助太郎は、平蔵(当時は銕三郎 てつさぶろう)が、初めて出あった盗賊であった。

その後、江ノ島海岸の宿で声をかけてきた窮奇(かまいたち)〕の弥兵衛(やへえ)の逮捕にかかわった。

参照】2008年2月22日[銕三郎(てつさぶろう)、初手柄] (

大盗〔蓑火みのひ)]の喜之助(きのすけ)と〔尻毛しりげ)の長右衛門(ちょうえもん)とは、それと知らずに顔をあわせた。

参照】2008年7月25日[明和4年(1767)の銕三郎(てつさぶろう)] (

蓑火〕の仕事(つとめ)かかわりで、軍者・〔中畑(なかばたけ)〕のお(りょう 29歳=当時)とも躰をあわせた。

〔盗人酒屋〕をやっていた〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ)を介し、〔法楽寺(ほうらくじ)〕)の直右衛門(なおえもん)や〔名草(なぐさ)〕の嘉平(かへえ)、〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう)、〔瀬戸川せとがわ)〕の源七(げんしち)とも知りあった。

その後は、歴代の火盗改メから助力を頼まれるようになった。
あろうことか、亡父・宣雄が火盗改メの家柄という路(みち)をつけてしまった。

そしていま、妙なめぐあわせでお(ゆき)---いや、お(はす 30歳)かかわりで、不思議な盗賊〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ)に近づこうとしている。
もっとも、おが〔蓮沼〕の市兵衛のおんなとわかったわけではない。

〔蓮の葉〕の金主(きんしゅ)が〔蓮沼〕の市兵衛としてだが、どのようにして結ばれたのであろう。

まあ、男とおんなの好みと色恋は、理屈ではない。
おもいがけない組みあわせができるのは、そのためであろう。

(おれと茶寮〔貴志〕の女将・里貴(りき 31歳)とのことにしたって、そうだ。里貴は、錚々(そうそう)たるご重役衆が利用する店で、あれだけの白い肌なのだから、おれのような柳営にもまだあがっていなかった若者を相手に選らばなくても、いくらでも玉の輿(こし)に乗る誘いはあったはずである。提灯を借りに寄っただけだったおれのどこをどうおもったのか、それまで解いたことのなかった帯を解いた)

蓮沼〕の市兵衛としてだが、お---いまはおと、どのような経緯(ゆくたて)でできてしまつたのか、それがわかると、〔蓮沼〕という大盗の気質なり器量の片鱗がつかめねかも知れない。

(もっとも、おれが知っているのは、8年前のおでしかないが---)
10代後半から20代のおんなの8年のあいだの身辺、躰の変遷は、倍の16年のそれにも相当するというから、むかしのおとおもっては、とんだ見当ちがいをしてしまうであろうが---。

1年ちょっと前に、ときの火盗改メ・助役(すけやく)だった庄田小左衛門安久 やすひさ 41歳 2600石)の筆頭与力の古郡(ここおり)数右衛門(52歳)から聞いた、〔蓮沼〕一味とおもわれる盗みの作法から、市兵衛の像を描いていたのである。

墓沼〕一味は、侵入しても有り金を根こそぎ盗んでいくのではなく、その店があとの商いにさしさわらないだけのものを残しておいて去るのだという。

市兵衛に、あろうことか、好意のような感触をいだきすらしていたのであった。

参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮の葉〕のお蓮] () () () () (

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2010.06.07

小料理〔蓮の葉〕のお蓮(2)

長谷川さま。今夕の集まりを、どうして〔蓮の葉(はすのは)〕にしたか、お分かりですか?」
権七(ごんしち 43歳)は、用件と会食が終わり、新大橋の方へ駕篭で帰る〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)と〔花園(はなぞの)〕の肥田飛(ひだとび)を見送ってから、今宵も菊川橋たもとの船宿〔あけぼの〕から舟で帰ると、平蔵(へいぞう 30歳)と並んでその足元を照らしながら、小名木(おなぎ)川ぞいを東へ向かっていた。

「今夕の支払いは?」
「とうぜん、〔花園〕もちでさあ」
「いいのか?」
「火盗改メのお手札がもらえたお礼だっていってやしたでしょう。今席の持ちなんざあ、安いもんでさあ」、
「〔蓮の葉〕の品代は高いのか?」
「お気をおつかいになるほどじゃ、ありゃしやせん。金主の道楽で、女将にやらせているみたいな感じのところもありやす」
「ふむ。その金主(きんしゅ)の素性だが---」
「それがわからねえから、今席もあそこにいたしやしたんで---」

権七という男は---頼んだことを理由(わけ)も訊き返えさないで、きちんとしてのける。おれにとっては無二の友よ)
店の老練の舁き手を、数夜、張り込ませたが、泊りにきている男はみかけなかったと。
そんなはずはないと、今夕も、ちょっと早めに来て何気ないふりで、あちこち調べたが、見張っていた表口と、脇の猫道しかないらしかった。

長谷川さま。お差しつかえなかったら、なにゆえに、お(はす 30歳)どのの金主をお調べになるのか、お洩らしいただけやすか?」
(そうであろう、訊くのが至当というものだ)

---というより、お(ゆき 22歳=明和4年)時代---の雑司ヶ谷(ぞうしがや)の料理茶屋〔橘屋〕で座敷女中をしていたころのことは、他言しないと約束してしまったので話すわけにはいかない。
破ったら、男としての、いや、人間としての器量がさがる。

(ごん)さんは、拙が去年、火盗改メ助役(すけやく)・庄田小左衛門安久 やすひさ 41歳 2600石)さまのお声がかりで、〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ)という賊の探索にかかわったことを覚えておるかな?」

参照】2010年2月11日~[〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛] () () () () () () () () 

「黒江町の棟梁・〔木曾甚〕のことでお尋ねになりやした」
「女将がお、店の名が〔蓮の葉〕。金主が蓮沼であってもおかしくなかろう?」
「あ。でも、蓮沼という在所はあちこちにありますから、盗人(つとめにん)の市兵衛とかかわりがねえかも---」

権七のいうとおり、蓮沼という村名は、関八州だけでも、

豊島郡(あだちこおり 板橋区)
荏原郡(えばらこおり 大田区)
足立郡(あだちこおり さいたま市)
葛飾郡(かつしかこおり 埼玉県北葛飾郡杉戸町)
横見郡(よこみこおり 埼玉県比企郡吉見町)
幡羅郡(はたらこおり 深谷市)
武射郡(むしゃこおり 千葉県山武市)

7村あった。

「だがな、さんのところの手練(てだ)れが見張っていても、尻尾を見せないところが、臭(にお)うのだよ。市兵衛というのは、周到な首頭でな。しかも情けをこころえている。賊ながら、ちょいと見上げてやりたいところもあってな」
「考えられるのは、裏庭先づたいに、正木稲荷社の境内にそって小名木(おなぎ)川のきわへ出、舟で往来しているとしやすと、まず、目にとまりやせん」

正木稲荷社は、いまでも江東区常盤町1丁目に鎮座している。

いわれた平蔵は、さざなみが半月の光を返しているほかは暗い川面に目をやった。
「舟だとすると、〔蓮沼〕の住まいは大川べりということになるか」
「そうとはかぎりやせん。日本橋川もあれば、京橋川、神田川ぞいということも考えられやす」
「広すぎるな」
いいながらも、〔蓮沼〕の市兵衛なら、真夏の盗み(つとめ)はしないであろうと推察していた。

それよりも、お---いや、おのような、蓮っ葉なところのあるおんなの、どこが気にいったのか、そっちを知ることのほうが、己れを含めて、男の弱みを洞察することにもなろうと、苦笑いとともに納得した。
(お---いや、おの、深夜のぶらぶら歩きは、治っているのであろうか?)

別れぎわに、
さん。〔荒神(こうじん)の助太郎(すけたろう 55,6歳)とお賀茂(かも 35,6歳)の人相絵を刷り増し、新宿の元締・〔花園〕の肥田飛(ひだとび)と品川の〔馬場(ばんば)〕の与佐次(よさじ)のところへもとどけ、わけを伝えておいてもらえまいか」
「承知いたしやした」

参照】2007年7月14日~[荒神の助太郎] () () () () () () () () (9) (10
2009年5月1日[お竜からの文] (
2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13
2009年1月21日~[銕三郎、掛川へ] () () () () 
2010年2月24日~[日光への旅] () (


参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮の葉〕のお蓮] () () () () (

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2010.06.06

小料理〔蓮の葉〕のお蓮

「殿。〔箱根〕からの文です」
西丸・大手門からでたところで、松造(まつぞう 24歳)が権七(ごんしち)からの結び文をわたした。

あたりの者の耳をはばかり、〔箱根屋〕の「屋」を欠かせ、権七の名もいわないまでに、こころえが深まってきている。
銕三郎(てつさぶろう)時代に若党になってから足かけ5年なる。

参照】2008年9月7日~[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5)  (6) (7) (
2008年9月22日[大橋家の息女・久栄]  (

勘がよく、機転も利くたちだから、そのうち、供侍にと、平蔵(へいぞう 30歳)はかんがえている。

結び文をひらくと、型どおりの真面目な筆づかいで、
「高橋(たかばし)の北詰の西側横丁の小料理〔蓮の葉(はすのは)〕でお待ちしとります」

(また、〔蓮の葉〕か。あそこは千住の元締・〔花又(はなまた)の茂三(しげぞう )の遊び場所かとも推量していたのだが---)
前回、〔蓮の葉〕に寄ったときには、ほかには〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 49歳)と品川一帯をとりしきっている〔馬場(ばんば)〕の与佐次(よさじ 48歳)がいたが、だれの馴染みの店かを聞きもらした。
さんだったとは---? 女将・お(はす 30歳)の金主をしらべてみてくれと頼んだのは、失敗だったかもな)

新大橋をわたったところで、松造だけをのこして、供を帰した。
松造。今夕も、客の付き人の品さだめを頼むぞ」
「こころえております」

〔蓮の葉〕の店先に置かれていた陶製の大甕(おおがめ)の蓮が白い蕾を伸ばしていた。
(蕾なものか。お---いや、いまはお、あの大年増は白い蓮花などではない、さかりがすぎそうなのを、精一杯ふみとどまっている濃い桃色の蓮花だ)

出迎えたおは、平蔵の尻をおすように掌をあてて案内する。
単衣の季節なので、じかに掌でふれている感触が伝わってくるのをはぐらかすように、
「店先の大甕だが、ぼうふらがわかないか?」
「金魚を入れております」
乳房を腕におしつけてもいた。

(てつ)さま」
部屋の手前で尻をつかんで足をとめ、声をひそめ、耳もとで
「〔橘屋〕のことは、内緒にしといてくださいな」
「わかった」
どういう意味なのか、尻をさらにきつくつまんだ。

焚いている蚊やりの匂いがながれている部屋には、権七のほかに、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 49歳)と目玉がやけに大きい30男が待っていた。
「〔花園(はなぞの)〕のが、長谷川さまにどうしてもお礼を申したいといいますので---」
重右衛門が目玉を引きあわせた」
「お初です。手前、肥田飛(ひだとび)と申しやす。以後、ご昵懇(じっこん)におねげえいたしやす」
目玉同様に、並みの町人なら怖がるほどの太い声であった。

長谷川です。お礼をいわれるようなことは、なにもしておらぬが---」
「お口ぞえで、火盗改メの菅沼藤十郎定亨 とおる)組頭さまから、お手札をいただけやした」

【参照】2010527~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () () () () () () 

「早速の手柄であったそうだな---」
「まぐれでやす」
それでも、肥田飛は丸い鼻をうごめかした。

「ま、これからも、〔音羽(おとわ)〕の元締と、こころをあわせ、お上のために役だってもらいたい」
「合点でやす」

酒と料理が運ばれてきた。
が主客の平蔵に酌をしようとしたら、肥田飛が割りこんで銚子もぎとり、
長谷川さま。お盃をいただけやすか?」
銚子を平蔵の膳においた。

肥田飛の。わしは盃をやったのもらったのということには縁のない男でな。そのことは、権七どんや〔音羽〕の元締に訊いてもらってもわかる。しかし、そなたがぜひにもというのなら、そなたの流儀にしたがおう」
平蔵が銚子をとった。
重右衛門が、ほっと息を吐いた。

「いただきやす」
平蔵が盃をわたし、注いでやった。
呑み終えた肥田飛が口をつけたところを指でぬぐい、
「ありがとうごぜえやした。お注ぎさせていただきやす」
平蔵は、こだわらないで受けた。

「ところで、肥田飛の。堅めをしたわしの頼みを聞いてくれるか」
「なんなりと---」

平蔵は、おに寸時、座をはずすようにいい、外に洩れないような低い声で、
゛千駄ヶ谷の鳩の杜(もり)八幡宮もシマのうちか?」
一応は---との応えをえると、それでは近くの仙寿院(せんじゅいん)もさようか、とたしかめ、
「庭が新日暮(ひぐらし)の里と評判の、あの日蓮宗の寺院でごぜえやす。人出のか多いところは、あっちらのシマでやす」

294
(千駄ヶ谷 仙寿院庭中 『江戸名所図会』 
塗り絵師:ちゅうすけ)

「うむ。その寺の惣門から向かいの小川ぞいに10間ほど南へさがったところの小橋をわたったとっかかりに〔蓑安(みのやす)〕という、あのあたりにしてはちょっと瀟洒な藁屋根の茶店がある。亭主の嘉平(かへえ)は、60近い爺っつぁんだ。その店に、ときどき、気の利いた手飼の誰かをやり、おまさ というおんな---といっても20歳前だが、おまさが来ていないか探ってもらいたい」

おまさは、世話になった人のむすめだが、父親の死とともに行方がしれなくなっているというと、権七がうなずいた。

嘉平爺っつぁんに気どられないようにやってほしい」
「承知いたしやした。では、ついでに、あっちのほうのお願いも---」
肥田飛の望みは、[化粧(けわい)読みうり]にひと口乗りたいというのであった。

「それは、板元の〔箱根屋〕の権七どんと、元締衆と、書き屋の〔耳より〕の紋次(もんじ 32歳)どのの合意次第だ。みなの衆を納得させることだ」

参照】2010年6月5日~[小料理〔蓮のお蓮] () () () () (


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2010.06.05

ちゅうすけのひとり言(59)

再び、『徳川実紀』の「浚明(しゅんめい)院殿(家治 いえはる)御実紀」のどこかに、

このごろ、盗賊はびこり---うんぬん

とあったような、とのおろげな記憶をたしかめるべく、安永4年(1775)前後を読みかえしていて、
(これは---)
という事項が目についたので、前回につづいて、わき道へそれる。

安永4年5月3日---。
土井大炊頭利里(としさと 54歳 京都所司代)は、下総国古河(こが 7万石)城を明年の御旅館に定られるヽをもて金五千両(8億円)恩貸あり。

参照】2009年9月4日[備中守宣雄、着任] (

戸田因幡守忠寛(ただひろ 38歳 奏者番)は封地(を島原から)宇都宮に転ぜられしのち、いまだ年へず。城の内外火患にかかり。こたびその城を御旅館に定られしをもて。これも金五千両をかし給わり。
大岡兵庫頭中忠喜(ただよし 39歳 奏者番)も岩槻(2万石)の城御旅館となりしに。これも近ごろ火災ありしとて金2千両(3億2000万円)かし下され。

こうした貸与金は、そのうちにうやむやとなり、返済されないことが多いらしい。
将軍が往還に2泊するだけで何億という下賜金同然の金が消えていったわけだ。

_120翌5年(1776)4月13日から21日、9日間にいかほどの費えがあったか、肥前・平戸の藩主であった松浦静山(せいざん)が書きのこした『甲子(かっし)夜話』(東洋文庫 1977.4.25)巻12によると、

御供人数、御入用金(1両=18万円)、御扶持方
18万両         入用金
4万3000両       被下金
10万3000人扶持    賄扶持方
23万830人        人足
30万5000疋       馬数
353万440人扶持    供上下扶持方
雑兵62万3900人

書き写していても、ぞっとする。

甲子夜話』は、巻37に、行列の詳細を写しているが、きょうの主題ではないので、省略する。
(行列の次第は、首途とともに、当日の『実記』も記載している)

ところで、『実紀』は、安永4年6月5日の項に、

けふ令せられしは、来年日光山 御宮御詣の時。供奉あるはその事あづかりて赴く輩(やから)。なるべきだけ行李を省略せん事いふまでもなし。
荷駄となりがたき品は長櫃にいるべし。
荷駄数は享保度(13年の吉宗の)の3が2を用い。其余すべてことそぐぺし。
こは采邑稟米給わる輩。なべて各人馬の数を注記して。此月のうち。勘定奉行石谷備後守清昌(きよまさ 61歳 800石)。安藤弾正少弼惟要(これとし 61歳 800石)にさし出すべし。

一応は、節約をこころがけてはいたのだ。

ちゅうすけ補記】このひとり言を記したとき、古河藩主で京都所司代であった土井大炊頭利里は、宿泊する将軍を迎えるために帰藩したのかとおもっていたが、その後、『実記』をあらためたら、帰ってきてはおらず、前年安永4年11月に(大給 おぎゅう)松平和泉守乗佑(のりすけ 61歳=安永4年 6万石 西尾藩主)の十男・美濃守利見(としちか 17歳=同上)を養子に迎え、応接はこの利見が供じたとあった。 

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2010.06.04

ちゅうすけのひとり言(58)

このごろ、盗賊はびこり---うんぬん

といった文言を、『徳川実紀』の安永3(1774)だか4年だかで目にしたような、おぼろげな記憶があったので、確認していて、とんでもない記録を発見してしまった。

参照】2010年3月29日[松平賢(まさ)丸定信]

白河藩主・久松松平越中守定邦(さだくに 47歳=安永3年 11万石)の養子となった(まさ)(のちの定信 さだのぶ 17歳=安永3年)が、生家の田安家を安永4年(1775)年11月22日まで出ていかなかった---つまり、定邦の息女を抱かなかったと書いた。

出典は、その日に掲出しておいた『寛政重修l諸家譜』であった。
もう一つくわえると、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(人物文庫 2003.05.20)の、以下の文章から先入観を得ていたこともある。
(佐藤さんも『寛政譜』に拠ったのであろう)

養子縁組がまとまった直後、義父になる松平定邦は居城の白河で花見の最中にわかに卒中でたおれた。その秋参府してはきたものの言葉や身体が不自由で月次登城なども欠かしていた。
はやくうつってきてもらいたいと養家から矢の催促をしてくる。それでも定信は動かなかった。
田安治察(はるあき)の死後一年後幕府は田安家家老の大屋明薫(みつしげ)を大目付へとばした。それでも(賢丸は)腰をあげなかった。 後任(家老。勘定奉行兼)の川井久敬(ひさたか 享年51歳)が死に、さらにその後任に石谷(いしがや)清昌(きよまさ 61歳)がすわったあとの安永四年十一月、ようやく定信はあきらめて八丁堀の白河松平家の江戸藩邸にうつった。

ところが、『徳川実紀』安永4年3月18日の項には、

けふ松平越中守定邦使もて鮮鯛をたてまつり。養子賢丸をのが邸にうつりしを謝し奉る。賢丸よりも同じ(日記、藩翰譜続編)

実紀』の文章には、「をのが邸」とある。
推察すると、養子の話がきまってから、白河藩は八丁堀の藩邸内に賢丸夫妻の別棟を新築したともとれる。

参照】2010年3月21日[平蔵宣以初出仕] (

同じ安永4年の3月と11月なの8ヶ月違いだから、どっちだっていいではないか、という考え方できよう。

しかし、松平定信という人は、平蔵(へいぞう 30歳)がその後、火盗改メを勤めていたときに、老中首座へのぼり、かつ、人足寄場をつくらせたご仁である。

その人足寄場について、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)・修行録』(岩波文庫 1942.06.25)に、

寄場てふ事出来たり。
享保之比よりしてこの無宿てふもの、さまざまの悪業をなすが故に、その無宿を一囲に入れ置侍らばしかるべしなんど建議もありけれど果さず。
その後養育所てふもの、安永の比にかありけん、出で来にけれどこれを果たさず。
ここによって志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこころみんといふ。
つくだ島にとなりてしまあり。これに補理して無宿を置、或は縄ない、又は米などつきてその産をなし、尤(もっとも)公用として米金一ヶ年にいかほどと定めて給せらる。
これによて今は無宿いふもの至て稀也。

この文面は、人足寄場を発案創始、経営を成功させた長谷川平蔵に対して礼を失していまいか。
宇下人言』全篇をとおして、「○○何がし」と見下した書き方をしたところはない。
ちゅうすけは、これを、定信が、平蔵の器量の大きさを、田沼意次(おきつく)的とみなし、故意にいやしめていると見た。

寛政譜』と『実紀』の記述の違いから、定信の気質・器量の一端をうかがのは今後の研究として、ここに指摘して、鬼平ファンの注意を喚起しておく。

2件の記録は、編纂時期が異なる。

寛政重修l諸家譜』は、定信の老中在任中に発議され、大名およびお目見(みえ)以上の幕臣が、寛政11年(1799)中に「先祖書」草稿を提出したものを基として編まれている。

定信久松松平家のそれは、白河藩のその筋の藩士たちが作成したろう。

徳川実記』は、成島司直(もとなお)らにより、文化6年(1809)に起稿し、40年後の嘉永2年(1849年)12代徳川家慶に献じられたとウィキペデイアにある。、

とうぜん、『寛政譜』も参照されたろうが、結果は前述の齟齬をみた。


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2010.06.03

火盗改メ・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき)(8)

「おのおの方が、火盗改メを手助けの夜廻りをしているということは、できるだけ、弘めてもらいたい。賊どもの耳へそのことが達し、1件でも押し込みをひかえることになれば、それだけでも手札の効果があったということになる。せいぜい、吹聴にはげまれたい」

火盗改メ・本役の菅沼藤十郎貞亨(さだゆき 46歳 2025石)の役宅を兼ねた大塚富士見坂上屋敷へ呼びだした元締たちに、脇屋筆頭与力(清吉 きよよし 47歳)が申しわたした。

これは、いまでいう、広報効果をねらえ、とすすめた平蔵(へいぞう 30歳)の助言であるとともに、火盗改メの下働きをしている衿持(きんじ)を、元締たちの手下の者にも持たせ、それにふさわしい言動をもとめてもいた。

夜廻りの手札を下付された香具師(やし)の元締たちは、以下のとおりであった。

・護国寺、音羽、雑司ヶ谷かいわい一帯
音羽(おとわ)〕の重右衛門(49歳)

・増上寺、愛宕権現、飯倉神明、三田八幡宮あたり一帯
愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(45歳)

・品川宿の一帯
馬場(ばんば)〕の与左次(48歳)

・両国広小路、薬研堀、柳原堤かいわい一帯
薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(52歳)

・浅草、今戸、橋場あたり一帯
木賊(とくさ)〕の今助(28歳)

・上野山下、広小路かいわい一帯
般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(28歳)

・千住宿の一帯
花又(はなまた)〕の茂三(60歳)

・板橋宿の一帯
小豆沢(あずさわ)〕の頼助(よりすけ 38歳)

新宿の〔花園(はなぞの)〕の肥田飛(ひだとび 35歳)には、いかがわしい噂が絶えないからと、筆頭与力・脇屋清助(きよよし 47歳)が下付に反対した。

そのことを知った平蔵が、わざに書簡をおくり、齢が若い〔花園〕の肥田飛元締は、争いごとも辞さない性格(たち)だから、はずすとシマが隣接している、まとめ役の〔音羽〕の重右衛門に迷惑がおよびかねないから、ここのところは目をつむって下付しておいたほうが無難である、と説き、脇屋筆頭も、長谷川うじになにか思惑があるようだからと、3日後に一人だけ呼びだし、
「特例である」
と恩に着せた。

もっとも、肥田飛のほうは、恩に着るような男ではなかった。

が、一番手柄を立てたのが〔花園〕組であったから、菅沼本役も脇屋筆頭も首をかしげた。

その夜の九ッ半(午前1時)すぎ、〔花園〕組の夜廻りの者が3人、両側に寺がならんでいる湯屋横丁にさしかかったとき、尼寺から2人の男が出てきたのを怪しいと見さだめ、尾行(つ)けたところ、甲州街道を1丁ほと西を左手に折れた大番町の家へ消えた。
きつく申しわたされていたとおりに、八王子産の石灰で門柱に+印をつけ、役宅へ急報した。

夜明けを待ち、火盗改メの同心と小者たちが乗りこんだところ、大番組下の同心は、門柱の+印に言いわけがきかず、白状におよんだ。

脇屋筆頭から経緯を報らされた月番の目付は、
「まさかに、ご家人から科人(とがにん)がでようとは---」
舌打ちしたという。


       ★     ★     ★

今週も『週刊 池波正太郎の世界 25 おとこの秘図、男振』(朝日新聞 出版)から送られてきた。深謝。

25_36

いつもの中 一弥さんによる表紙に、この号は題材が題材たけに、ヌードが中心におかれている。
その肌に、うっすらと桜色の上気が。
手前味噌をいうと、茶寮〔志貴〕の女将・里貴が頂上にのぼりつめるときにこうなると、想像していた情景であっのには驚いた。

このブログは、長谷川平蔵のイタ・セクスアリスの記録でもある---と、しばとしば書いてきた。
その銕三郎・平蔵宣以にとって、里貴は究極のおんな、まぼろしの女性(にょしょう)のつもりで配している。
平蔵と2人きりになると、さっとあらゆる束縛、世間のおきてを忘れさり、性感を全開にする。
そういうおんなに男が出会えることは、百に一つもないはずである(ぼく自身の体験は少ないかに、確言はできないが)。
小説『おとこの秘図』はそんなおんなに出会った男がたどる半生のひそかな物語である。
記事では、早川聞多さんの「武士と春画」がおもしろかった。


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (


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2010.06.02

火盗改メ・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき)(7)

「お知り合いでしたか?」
男たちが自分の後ろ姿に見とれていてるいるといわんばかりの科(しな)をつくって、帳場へ去っていくお(はす 30歳)を眼で追いながら、権七(ごんしち 43歳)が、声をひそめて訊いた。

「ちょっと、な。ここは、なんという店名だったかな?」
「女将の名からとって〔蓮の葉(はすのは)〕と---」
(そういえば、門口の大きな水がめに、蓮の葉が浮いていたな。雑司ヶ谷(ぞうしがや)の鬼子母神(きしもじん)脇の料理茶屋〔橘屋〕の女中あ頭・お(えい 43歳)なら、「蓮っ葉(はすっぱ)と読むだろう)

参照】2008年10月12日[お勝(かつ)というおんな]

「いつでもいいから、女将の金主(きんしゅ)を調べてみてもらいたい」
「かしこまりやした」

厠をつかう権七を置き、平蔵(へいぞう 30歳)は座敷へ戻った。
長谷川さま。いまも千住の〔花又(はなまた)〕の元締と話しておりやしたが、火盗のお頭さまからお手札をいただくときには、血判を捺した誓紙(せいし)のようなものを差しだすことになりはしないかと---」
馴染んでから長い〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 49歳)が問いかけた。
元締たちのあいだで、話題になっていたのであろう。

「血判まで大げさなことはあるまいが、ふつうの誓文(せいもん)ぐらいは求められるかもしれないな」
「それでやんす。じつは、そういうものにとんと疎(うと)い商売でやして---」

音羽〕の住まいから大塚・富士見坂上の火盗改メのお頭・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき 46歳 2025石)の役宅も、目白坂上の先手・弓の2番手の組屋敷も近い。
平蔵の引き合わせ状をもって、脇屋筆頭与力から誓紙の雛形を書いてもらい、それぞれの元締衆にくばればいいと教えて、安堵させた。

帳場から硯と筆を運ばせ、懐紙にさらさらと認(したた)め、上紙でつつむ平蔵の手ぎわを、品川宿を取りしきっている〔馬場(ばんば)〕の与左次(よさじ 48歳)が感心したような顔で見ていた。

「〔音羽(おとわ)〕の元締。これは、菅沼のお頭と拙とが取り交わした約束ごとですが、元締衆の夜廻り組は、盗賊を捕縛するのが任務ではなく、賊をみかけたら、気づかれないように尾行(つ)け、その者が入った家の戸口の柱なりなんなりに印をつけてから、役宅へ急報するだけにとどめることで、手札が下されるのです。このこと、とくとおこころえおきください」

つまり、十手を下付するのではないといったに等しい。
もっとも、岡っ引きと呼ばれた銭形平次のような十手持ちも、町奉行所の与力・同心といつしょでなければ公式の捕縛はできなかったという。

宴が終わり、それぞれが南と北と西へ別れ、平蔵松造(まつぞう 24歳)は小名木(おなぎ)川ぞいに東へ帰るのに、権七がつきそった。
菊川橋たもとの船宿〔あけぼの〕から舟で横川を黒船橋まで帰るという。

「駕篭屋の主(あるじ)が舟では、しまらないな」
平蔵が冷やかしたのにもさからわず、
長谷川さま。〔蓮の葉〕になにかご不審でも---?」
「まさか、さんが金主ではあるまいな?」
「とんでもねえ」
「蓮って店名にひっかかっているだけだよ」

それより、と、松造に、
「供の間で酒と食い物をだされた、〔馬場(ばんば)〕と〔花又〕の若い者は、どうだった?」

松造によると、〔花又〕の若いのは伊造(いぞう)という23,4歳のいい男であったが、酒にはまったく手をつけなかったが、〔番場〕の下っ端の丹吉(たんきち)は、まだ19歳だというのに徳利のお代わりを女中にせびり、その尻をなぜたと。
「手札を下げられてからの、先がおもいやられるな」
平蔵がつぶやくと、権七が、
「事をしつらえて、手札を取りあげりゃあいいんでさあ」
「いや。悪には悪がふさわしいときもある」


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (

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2010.06.01

火盗改メ・菅沼藤十郎貞亨(さだゆき)(6)

長谷川さま」
下城してきた平蔵(へいぞう 30歳)に、閉ざされている門扉の脇から声をかけたのは、〔箱根(はこね)屋〕の当主・権七(ごんしち 43歳)であった。

権七には連れがいた。
顔なじみの〔音羽(おとわ〕)の元締・重右衛門(じゅうえもん 49歳)であった。

松造(まつぞう 24歳)に荷箱を供侍の桑島友之助(とものすけ 43歳)へ預けさせ、友之助には目顔で奥へ伝えるように指示した。

案内されたのは、小名木(おなぎ)川に架かる高橋(たかばし)北詰、常盤町2丁目を西へ入った小綺麗な料亭であった。
「ほう、ここに、こんな店があるとは知らなかった」
平蔵がおもわず洩らしたほど、構えも什器類も気がきいていた。

案内された部屋には先客が2人、お茶だけで平蔵の到着を待っていた。
年配のほうの男は、以前に会ったことのある、千住宿の香具師の元締・〔花又(はなまた)〕の茂三(しげぞう 60歳)といった。

もう1人の肥満がはじまりかけているほうを、重右衛門が、品川宿一帯を取りしきっている元締〔馬場(ばんば)〕の与左次(よさじ 48歳)と引き合わせた。

与左次は、鋭いものをつつみ隠してあいさつをしたあと、
「火盗のお頭からのお手札をいただかせていただきたいと存じ、お願いにあがりました」
「おれが渡しさげるのではない。菅沼藤十郎貞亨 さだゆき 46歳 2025石)のお頭さまからの手札です。取りつぐのはこちらの権七の親方で、お決めになるのは菅沼さま。お頭のお眼鏡にかなうべく、組の者たちに身をつつしむように言い聞かせるのだな」

おもいあたることでもあるのか、与左次は恐縮の体(てい)をしめした。

平蔵とすれば、東海道の第一の宿場である品川宿は、火盗改メや先手組の夜廻りの順路にはほとんど入っておるまいから、〔馬場〕の身内の者を監督するだけですむなら、人手が助かると読んだ。
これに、日光街道の出入り口の千住宿を〔花又〕の茂三が引きうけてくれれば、盗賊たちの動きもかなり制約されよう。
残りは、甲州街道のとば口の新宿と、中山道の板橋宿であった。

酒と料理の前に女将が顔をみせた。
なんと、雑司ヶ谷の鬼子母神(きしもじん)脇の料理し茶屋〔橘屋〕で座敷女中をしていたお(ゆき 30歳)をふっくらさせたおんなであった。
(はす)と名乗った。

酒が入り、料理が配膳され、それぞれが差しつさされつになったとき、座はずして手洗いに立った平蔵に、帳場から寄ってきた女将が、
長谷川さま。お久しゅうございます」
「やはり、おどの---」
「いまは、おでございます」
「蓮っ葉は治まったか」
「ご冗談ばっかり。お世話くださる殿方があって、お店をもたせていただきました。どうぞ、ご贔屓に---」
「それはよかった。おめでとう」
「ありがとうございます」
岸井左馬之助(さまのすけ 30歳)の名前を出してとみようかとおもったが、もう、記憶にあるまいと断じて、呑みこんだ。

【参照】2008年10月17日~[〔橘屋〕のお雪] () (2) (3) (4) (5) (6)

厠から出ると、手水を満たした柄杓(ひしゃく)をかまえて待っていた。
洗った手を取り、拭いてくれ、しばらく、掌をにぎったまま、艶(えん)な眼差(まなざ)しで瞶(みつめ)た。
「ご立派におなりになりました」
「まだ、ぺーぺーの身でな」
「お子は?」
「もうすぐ、3人。その日暮らしだ」
「ご冗談ばっかり」

権七が心配してあらわれると、ついと手を離した。


参照】2010年5月27日~[火盗改メ・菅沼藤十郎定亨(さだゆき)] () () () (4) (5) () () (

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