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2010.06.13

戒行寺での葬儀

菅沼さまのご継嗣・次郎九郎定昌(さだまさ 享年34歳)さまのご葬儀が、この10日に戒行寺で執り行なわれますと、和泉橋通りの実家(さと)から報せてきました」

下城してきた平蔵(へいぞう 30歳)と顔をあわすなり、久栄(ひさえ 23歳)が告げた。

久栄の実家・大橋家は、神田川の下流に架かった和泉橋を東へわたった先にあった。
菅沼家はその向い側にあたっていた。

もっとも、久栄がいって菅沼家とは、いまは日光奉行とし赴任している摂津守虎常(とらつね 61歳 700石)のことで、ちかごろ、平蔵が会っている火盗改メ・藤十郎定亨(さだゆき 46歳 2025石)の菅沼家のほうではない。

平蔵久栄も、仏となった次郎九郎定昌には、5年前に四谷・須賀町の戒行寺で、たまたま出会った。
同じ檀家であったのである。

参照】2009年3月15日~[菅沼攝津守虎常] () () () (

その後、日光奉行に栄転する前の虎常が火盗改メであったときに、ある事件を通じてかかわりがむすばれた。

参照】2009年3月23日~[〔墓火(はかび)〕の秀五郎・初代] () () () () () (

「今夜が通夜であろう.。さっそくにも、桑島(友之助 とものすけ 43歳 家士)をつかわせ」

通夜には、親族のほかは弔意に行くのは、家士の役目であった。
服装は、薄めの色の無地の麻裃だが、葬列にも加わらない。

とくべつな関係者のみ、葬儀が行われる寺で焼香をする。

実父・虎常がいまだに現役であったが、次郎九郎定昌は、稟米勤めの書院番士をへて中奥に出仕していた。
とはいえ、この半年は病気がちであったので、同輩はほとんど焼香にはあらわれなかった。

平蔵は、牟礼(むれい)与(くみ 組)頭の許しをえて、用意の喪装の麻裃に着替え、戒行寺での会葬にでかけた。

(旧暦)9月10日の、さわやかな大気が満ちていた。

来年の日光参詣をひかえて手のぬけないはずの摂津守虎常も帰府し、喪主の次の席についており、平蔵を認めると、静かな目礼をおくってきた。

儒教でいう、親に先立った不孝の仏ということで、父親は喪主にならず、次郎九郎の内室がつとめていた。
内室は、北町奉行から大目付にすすんでいた依田豊前守政次(まさつぐ 73歳 1100石)の三女で、女子ばかり3人をなし、別腹の2女も残されていた。

(依田政次については↓)
参照】2007年8月12日~[徳川将軍政治権力の構造] () () () () () () () () () (10) (11

当主が50歳をとうに過ぎてから迎える養子だけに、舅となる虎常は、手続きがたいへんだろうと察した。

香を薫じ、拝礼をすませて本堂前を離れたとき、肩をたたいた者がいた。
夏目藤四郎信栄(のぶひさ 24歳 300俵)であった。
2年ぶりの再会というか、同じ日に遺跡相続をゆるされ、そのあと、茶寮〔貴志〕に初めて誘われたて以来であった。
親類の強い牽きもあったのであろう、翌年には本丸の小姓組番士として出仕していた。

そういえば、内室が虎常の三女とかいっていた。
「親族の末席から見かけたので、参会のお礼にとおもって---」
「それはどうも。席にいないとまずかろう。いずれ---」

日光参詣の列に選ばれたことを話したそうであったが、里貴(りき 31歳)のことに及んではまずい。
はやばやと、山門を出た。

参照】2009年12月21日~[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] () () () (
2009年12月25日~[茶寮〔貴志〕の里貴] () () () (

八ッ半(午後3時)をすぎたばかりであった。
茶寮〔貴志〕は、七ッ(4時)を差している客の準備で、里貴がきりきりしているはずである。
それに、会葬帰りとひと目でわかる麻無地の裃では、客商売の〔貴志〕に不祝儀すぎよう。

深川・黒船橋北詰を目指した。


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