遥かなり、貴志の村(4)
柳営につめていても、進物の番士としては、それほど忙しいわけではなかった。
50人いる進物の士は、5人ずつ10班にわかれており、うち3班が西丸であった。
各藩からの西丸の世嗣への進物の数は、おもうほど多くはなかった。
控え部屋で役目を待っているとき、平蔵(へいぞう 31歳)は、同輩から離れ、里貴(りき 32歳)が帰っていった貴志の村をおもいえがくのが癖Iになっていた。
紀州藩士の孫にあたる寺嶋縫殿助(ぬいのすけ)尚快(なおよし 44歳 300俵)から、紀州はちょっと内陸へ入ると山ばかりと聞いたので、これまで見分したそれらしいところを重ねあわせてみた。
14歳のときに、島田でお芙佐(ふさ 25歳)の手ほどきで男になり、再会に胸をふくらませながら詣でた先祖の墓所---駿河国小川(こがわ)の林叟院への樹間の参道とか---。
【参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)]
[林叟院の探索]
いや、貴志池というから、18歳でややを宿させた人妻・阿記(あき 21歳)の実家の芦ノ湯村から、芦ノ湖ぞいに箱根関所へ出たあたりの湖水をのぞめる風景が、それに似ているのかも。
【参照】2008年1月2日~[与詩(よし)を迎えに] (13) (14) (15)
〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(りょう 30歳)と24歳の平蔵が、掛川城下から山あいを縫うように村落から村落を通りすぎた相良への道中の風景が、貴志川ぞいに連なっているらしい西、中、東とを冠した貴志の村々であろうか。
【参照】2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30)
その風景に里貴の姿態をはめこんでも、里貴はすぐに裸躰に近くなってしまう。
(北斎『ついの雛形』 イメージ)
家で独りのときには、着ているものに躰をしばられているのが嫌なのだといい、平蔵がいても帯を解いて着替えた。
ということは、御宿(しゃく)稲荷脇のあの家では、最初(はな)から平蔵は客あつかいではなく、こころをすっかすり許していたということだ。
光を透すほどに白い里貴の肌が、渡来人のおんなの天与のものと聞かされても、違和感をおぼえなかったばかりか、その肌が淡い桜色に染まっていくのをたしかめつつ、平蔵は快美の感を高めた。
その昂ぶりが伝わるらしく、乳房や下腹ばかりでなく、太ももや腕(かいな)へも桜色は浮きあがっていった。
そういう:閨房の秘事よりも、もっと大きな打撃を覚悟している平蔵であった。
25歳で夫・藪 保次郎春樹(はるき)と死別してからの里貴は、、お側衆・田沼主殿頭意次(おきつぐ)の奥向き女中となり、来客とのあいだに交された秘匿の会話を耳にし、茶寮〔貴志〕の女将の座についてからは、お歴々衆とも顔馴染みになっていた。
寝屋にいるとき、ときにふれて洩らしてくれた断片から、平蔵は政事というものの虚飾をとりさった実体を推察することができた。
柳営内の裏の動きを、これからどうやってたぐればいいのか、どうにも、おもいつかなかない。
(西丸の主---大納言家基(いえもと 15歳)さまが将軍職を継いで本丸へお移りになるまで、政事から遠ざかっておれということであろうか)
それでは、火盗改メの座がまわってこないままで終わるかもしれないではないか。
遥かな貴志の村におもいをはせつづけていないで、近くに道を開くよりほかあるまい。
そんな考えを行きつ戻りつしていたとき、
「長谷川さま。与(くみ 組)頭さまがお呼びでございます」
耳元でささやいた同朋(どうぼう)の声に、われに返った。
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