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2010.06.23

遥かなり、貴志の村(5)

「なに、とりたてての用があってのことではない」
控え部屋から出て廊下のはずれでまで導いた与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 56歳 800俵)は、腰の曲がりをのばすようにしていった。

息・千:助勝昌(かつまさ 16歳)が初見前なので隠棲するわけにはいかない。
もっとも温和な人柄なので、悪しざまにいう番士はいなかった。
つまり、敵も味方もつくらないようにしていた。

「昨夕、西丸・書院番の4つの組の与頭の寄りあいを、茶寮〔貴志〕で催した」
ところが、女将の里貴(りき 31歳)が辞めていた。
同輩たちに、こころ利いた女将だからと吹聴していた手前、いささかばつの悪いおもいをした。

里貴どのに、なにかあったのかな?」
牟礼勝孟は、声をひそめて訊いた。

里貴と躰の交わりがあったことを、ここで告白するわけにはいかない。
「それは、行きとどかない 不始末でございました。じつは拙も、進物の役を命じられた昨年11月の前からご無沙汰つづきで、いま、初めてお聞きした次第です」
ぬけぬけと応えたが、たしかに、昨年の11月中旬からこっち、長袴(ばかま)さばきにかまけ、御宿(みしゅく)稲荷脇の家は訪ねていなかった。
で、里貴の突然の帰郷で、落ちこんでいるのはこっちだともいいえかった。

里貴どのの顔が見えない〔貴志〕は、軸のかかっていない床の間みたいで、落ち着かない」
「そのお言葉を、女将が聞いたら、一生忘れないでしょう」

「そなたに訊けば、経緯(ゆくたて)が分明するかとおもったが、謎がのこったままで、胸のうちがすっきりしない」
「申しわけございませぬ」

引きさがったが、牟礼与頭の言葉で、里貴へのおもいはまた火がついたようであった。

遥かに遠い、紀州の貴志池の近くにあるらしい渡来人の里をおもい描く。
ずっとむかしにこの国に集団で゜やってきた百済(くだら)からの渡来人の末裔との付きあいはなかった。
〔貴志〕での里貴は、きちんと着物を着ていた。

瞼に浮かぶのは、家で身につけるようになった腰丈の浴衣である。
あれは、かの国での衣服の一つであったのであろうか。

平蔵が訪れない時にも着ているかどうかも訊きもらした。
しかし、昨夏にあつらえ、秋が深まっても羽織っていた。
「寒くないのか?」
あらわな太もものの股に掌をあてて訊くと、
(てつ)さまのそばにいれば、躰が燃えます」
たしかにそこからは、手ごたえを感じた。

あれきり、躰をあわせていなかった。

気持ちの上では、出仕を休んで、紀州へ走りたい。
しかし、妻子もいる。
家名を捨てることはできない。

それはそれとして、西丸・書院番の与頭が4人、顔をそろえて酒を酌み交わしたなら、里貴が席にいたら、行きかった話の断片でも伝わったきたであろうに---。


参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () (


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147里貴・奈々」カテゴリの記事

コメント

牟礼与頭を「貴志」に最初に招待したのは、平蔵さまでしたよね。
その場では招待されたふりをし、帰りぎわに里貴さんに席代をつかませ、駕篭のかき手にも乗り賃をわたす心づかいを見せました。
それで翌日、鯛を包丁人をつけて調理を手配したのでした。
それほどにされれば、牟礼与頭でなくても、里貴さんファンになりますよ。
サービス業に携わっている者のお手本のような里貴さん、とほめたいところですが、書いたちゅうすけさまの注意力がすばらしいと、感心したものでした。
おそめの書き込みでごめんなさい。

投稿: tomo | 2010.06.23 09:15

>tomo さん
お久しぶりです。コメント、ありがとうございます。
覚えていてくださったのは、今年の2月3日の[与頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ)](3)
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2010/02/post-4a6e.html
です。
当時の上役への礼儀とか贈り物とかの中で、相手の心にのこるのはなにかと考えていて、ニューヨークからきた米国人のご夫婦をもてなすのに、行きつけの寿司屋さんに自宅へ出張して握ってもらったのがもっとも喜ばれたことをおもいだして、アレンジしてみました。
お目にとまってなによりでした。
これからも、平蔵らしいオリジナルを書いていきたいしとおもっています。ご支援ください。

投稿: ちゅうすけ | 2010.06.23 10:23

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