〔(世古(せこ)本陣)〕のお賀茂 (3)
「似てはいましたが、わたしの顔を見ても顔色一つ変えませんでしたから、お賀茂(かも 39歳)さんじゃなく、他人のそら似でしょう」
浜町堀に架かった緑橋の東たもとの茶店で待っていた平蔵(へいぞう 31歳)に、お須賀(すが 38歳)が見た目のとおりを告げた。
じっと考えこんだ平蔵に、お通(つう)が、
「銕(てつ)おじさん。わたし、変だなとおもう」
村松町が火元の火事のとき、どっちへ逃げた? と聞いたが、お賀茂かもしれないおんなは、返事をしなかった。
そのくせ、10年前から〔衣棚(ころものたな)屋〕をつづけていると言った。
「村松町の---」というのは、5年前の明和8年(1771)2月の夜、村松町から出火、春の南風にあおられて隣の橘町、横山町、西両国の米沢町などを焼きつくした火事である。
そのとき4歳だったお通は、すぐ近くに見えた巨大な火焔におびえ、母・お粂(くめ 30歳)に手をひかれて神田川ぞいの南側の土手を、八ッ小路のほうへ逃げた。
お粂は、2歳の善太を脊負い、片手に子どもたちの衣類のふろしき包、もう一方にはお通の手をにぎってはなさなかった。
横山町横筋の〔ころものたな屋〕も焼失したにちがいないのに、そのことを話さなかったのは、江戸に住んでいなかった---少なくとも、横山町にはいなかったに違いないと、お通が断じた。
「お通。賢いぞ。よくも、村松町の火事に気がついた」
誉めておき、あのときの亡父・宣雄(のぶお 53歳=明和8年)は火盗改メ助役(すけやく)を命じられる半年ほど前の先手・弓の8番手の組頭であったが、家紋つきの高張提灯を家臣たちにもたせ、人混み整理のために出動した。
平蔵も、父にしたがったから、あの夜の騒ぎはよく覚えていた。
両国橋は、東の本所のほうへ逃げる人でごったがえし、わたりきるの手間どった。
江戸の半分近くを焼尽した目黒・行人坂の大火は翌9年(1772)の2月28日の真っ昼間であった。
【参照】2009年7月2日~[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
「銕おじさん。薬研堀に架かっていた尼ヶ橋がなくなったのも、わたしが4歳のとき、5年前の夏からで、焼け跡のいろんなもので堀が埋め立てられたのです」
尼ヶ橋の由来は、薬研堀の中ほどにかかった橋のたもとにものもらいの尼が坐って乞うていたからことによる。
いつのころからか、尼が赤ん坊を抱いているようになった。
町役人が調べたら、捨て子だと答えた。
それから、あたりでは、子どもがいたずらをすると、親たちのおどし文句がしばらく流行った。
「尼ヶ橋に捨ててしまうから」
10年前から横山町で店をだしていたら、堀の埋め立てで消えてしまっていまはない尼ヶ橋のことも覚えているはずだと、小さなおんなシャーロック・ホームズ---いや、間違えた、おんな半七は不思議がった。
お通の勘の鋭さ、機転のきかせ方に、平蔵は感嘆した。
(9歳で、これだ)
普段から、勤めにでている母親にかわり、弟・善太の身のまわりを世話したり、食事をつくったりしているうちに鍛えられた勘であろう。
(おれが火盗改メに任じられたら、密偵として使いたいほどだ。まてよ、お通に似た境遇のむすめ---おまさだ。父親・忠助(ちゅうすけ)の身のまわりに気をくばりながら、店を手伝っていた。いま、20歳になっているはずだが、どこでどうしていることやら---)
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