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2010.07.19

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵からの書状

京・五条大橋東詰の宿屋〔藤や〕の隠し部屋は、〔蓑火みのひ)〕のお頭(かしら)の専用の居間であった。
8畳間で、入り口の土間の北側に、しつらえられていた。

土間をはさんだ向い側は、草鞋(わらじ)脱ぎ場をかねた客迎えの帳場となっている。

隠し部屋の土間に面した側は、、ひのき材の厚い板壁で仕切られており、旅人はそこに部屋があることに気づきもしない。

中庭と厠へ通じている1間(1m80cm)幅のたたきの通路は、隠し部屋の端で左へ折れ、2間半(4m50cm)先で右に曲がると、ずっと奥へ突き抜ける。

最初(はな)に左へ折れたとっかかりに、秘密部屋への板戸の狭い入り口がしつらえてあった。

奥への通路は、2度目の曲がりから2重壁になってい、中は半間(90cm)ほどの通路づたいに中庭を突きぬけ、奥の離れの押入れの壁裏から五条東通りにつながっている上人町の道路へ忍び出られるように作られていた。
つまり、ふいに手入れがあっても、隠し部屋から脱出できたのである。

その秘密の部屋で、独りきりで、喜之助(きのすけ 55歳)が眉をひそめ、さきほど定飛脚が配ってきた江戸からの書状に、目をおとしていた。

蓑火〕組の小頭筆頭・〔大滝おおたき)〕の五郎蔵(ごろうぞう 39歳)のくせの強い筆跡であった。

参照】2010年7月5日~[〔殿(との)さま〕栄五郎] () (

読みやすい文章に書きかえてお目にかけよう。


浦和宿の五井ごい)の亀吉どんにお頭のご存念をつたえました。
亀吉どんは熊谷宿の〔富士見屋(旧・藤や)へうつり、半年後にあっしと並び頭(がしら)となって立つことを喜んでうけいれました。

浦和の〔藤や〕は、〔浅間(あさま)屋〕と看板を変えました。浅間(せんげん)神社は富士山の守護女神で、藤に通じるといっております。

殿(との)さま栄五郎(えいごろう 30代半ばすぎ)どんは、江戸から帰ってきてはおりませなんだ。
江戸の猿江町のつなぎ(連絡)宿で、そのまま、養生しているとのことでした。
あす、入府し、つなぎ宿で栄五郎どんに仔細をたしかめ、認(したた)めます。

昼前に、蕨(わらび)宿の〔藤や〕の仁兵衛(にへえ 45歳)どんに会いました。
軍者(ぐんしゃ 軍師)・〔神畑(かばたけ)の田兵衛(でんべえ 48歳)どんからの指令により、高崎城下の商人宿へうつる準備をととのえており、あっしに引き渡したらすぐに高崎へ発つそうで、とりあえず、番頭役の〔三ヶ尻(みけじり)〕の瀬之吉(せのきち 35歳)どんにあとの差配を頼み、江戸へ向かいます。

ちゅうすけ注】蕨宿のこの商人旅籠は、8年後に屋号を〔藤や〕へ戻し、引退して武蔵国へ引っこんだ喜之助が、でっぷりと肉づきのいい寡婦(やもめ)・お(こう 39歳)とその連れ子といっても、19歳になるむすめざかりのおもんとともに営んでいた。
翌々年、おもんに婿・伊助(いすけ 23歳)を迎えて当主とした。(文庫巻1『老盗の夢』)
すでに喜之助は65歳、41歳のおの汁気が少なくなった躰を抱くのもいとわしくなってきていた。
で、66歳の晩秋、ついに決心、ゆずり渡した京都の宿屋〔藤や〕で、源吉(げんきち 42歳=去年)の世話になりながら余生を送ることにした。

だから、いま、綴っている物語は、上の聖典から12年前の安永5年(1776)の梅雨前のころとおもっていただきたい。

定飛脚がとどけた紙包みには、書状が2通入っていた。

喜之助は、無表情に次の書状を開いた。

東深川のつなぎ宿で養生していた〔殿さま栄五郎どんの躰の具合は、ひどく悪いようで、この1ヶ月半、寝たっきりで、下(しも)のことも宿の番人の久兵衛(きゅうべえ 64歳)どん夫婦の世話になっているようです。

どうしてそんなひどいことになったのか問い質(ただ)したが、答えません。
久兵衛どんの話によると、(いわ)の奴が捕縛された7夜月の五ッ半(午後9時)すぎ、駕篭に倒れこむようにして運ばれてきたといいます。
駕篭屋がいいうに、なんでも本所・竪川(たてかわ)の南土手、松井橋の先でうめいていたので、声をかけたら、猿江町のこのつなぎ宿へ運んでくれといったそうです。
戻り駕篭で通りかかっただけなので、怪我の経緯は知らない、放ってもおけないから乗せてきたと。

参照】2010年7月1日[〔殿(との)さま〕栄五郎} (

近くの外科・骨継ぎの良庵医者の診立てでは、腰骨にひびが入っており、副え木をしても一生歩くことはかなうまいとのことだそうです。
いえ、このことは、栄五郎どんの耳には入れていません。
久兵衛夫婦にもかたく口どめしておきましたが、いずれは、栄五郎どんも察するでしょう、そのときのことが心配ではあります。

読み終わった喜之助は、ふっーと深いため息をついた。


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コメント

さすがに大滝の小頭ですね、きちんと始末をおつけになる。
それにしても、殿さま栄五郎とまでいわれていた人も、一皮めくってみると案外でしたね。
いや、ちゅすけさんの推察が的を得ているというべきなんでしょう。

投稿: 文くばり丈太  | 2010.07.19 04:56

>文くばり丈太 さん
いろいろ調べましてね、栄五郎は備前・岡山で剣を修めたというから、東軍流でも無敵流派であろうとか(史実)、居合は---とか。
http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2009/02/post-efdd.html
さらに『鬼平犯科帳』を読みこんでも、ほかにはでてきません。噂だけが登場です。それで、実は死んでいたのではないか、死ぬとすると、自裁かな---などと。
ま、議論のあるところです。

投稿: ちゅうすけ | 2010.07.19 14:16

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