〔千歳(せんざい)〕のお豊(2)
お静(しず 24歳)が茶、火桶は女中に持たせて運んできた。
ふだんは人けのない仏間は、冷えこみがつよい。
「〔狐火(きつねび)〕〕のお頭(おかしら)。つぎのお子は、まだですか?」
火桶に手をかざした銕三郎(てつさぶろう 27歳)の問いかけに、お静が真顔で勇五郎(ゆうごろう 52歳)をうかがった。
「さきの子は惜しいことをしました。あれから2年になるのに、いっかな、兆しがないのですよ」
と勇五郎。
【参照】2009年5月1日[お竜(りょう)からの文] (1) (2)
「ほしい、ほしいとおもっているときには、できないって言います。でも、旦那さまが、いつも、今夜つくれ、おんなの子がほしい---っていいながらお励みになるもので---」
お静も、閨房(ねや)での睦ごとを、すらりと口にした。
勇五郎が、あわてて、
「これ。長谷川さまの前で、はしたない」
「お静どのは、まだお若いから、今夜にも、おできになりますよ」
【ちゅうすけ補】『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]は、寛政3年(1791)夏の事件だから、明和9年(1772)初冬からいうと、19年後のこと。
聖典[狐火]に、お静の忘れがたみとして登場するお久(ひさ)は、16,7歳というから、誕生したのはお静が26か27歳のときの子である。
銕三郎が訪来したこのときには、まだ腹に宿っていない。
初代・勇五郎が病死したのは、好篇[狐火]の4年前というから、天明7年(1787)---銕三郎改め・平蔵宣以(のぶため)42歳、秋に火盗改メ・助役(すけやく)を拝命した年であった。
お静は、そのずっと前の30歳、お久が4歳の時にみまかっている。
受けてお静が、
「銕三郎さまのところは、はや、お2人目が---?」
「おんなの子です。生まれて7ヶ月になります」
「おうらやましい」
〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七(げんしち 56歳)があわてたように座敷へ入ってき、遅参の詫びごともそこそこに、
「で、長谷川さま、ご上洛のご用向きは?」
「そのことだが、わしもまだお聞きしておらぬのだ。ただ、お竜(りょう)の知恵を借りたいと頼まれただけなのだ」
【参照】2009年1月28日[{蓑火(みのひ)〕と〔狐火(きつさねび)〕 (2)
銕三郎は、
「いや、打ちあけられれば打ちあけて、お頭や〔瀬戸川〕どのの知恵もお借りしたいところですが、拙が京にきていることも、町奉行所にも内密にしなければならないのです。
ご推察ください。
また、今日のことにもお目をおつぶりいただきたいのです」
「で、お竜は、どちらへお伺いさせればよろしいので---?」
源七が、心配げに訊く。
銕三郎は、三条大橋の東、白川橋詰の旅籠〔津国屋〕の名を告げた。
「4日後には、必ず゛---」
勇五郎が請けあった。
はばかりを---という銕三郎の案内に立ったお静が、聞こえないところまでくると、袖をひき、ささやいた。
「銕(てつ)さま。お竜をお抱きになりましたそうですね?」
「む?」
「おごまかしにならないで。お勝(かつ 31歳)から訊いています」
「お勝は知らないはずだが---」
「ほら、白状なさった。ほ、ほほほ。お勝が妬(や)いています。お気をおつけになって。あたしも、ちょっぴり妬いていますのよ」
「こんどは、それどころではないのです」
「おなごの執念は、怖(こお)うございますよ」
【参照】2208年11月25日[屋根船]
2008年11月27日[諏訪左源太頼珍(よりよし) (3)
2009年1月23日~[掛川城下で] (3) (4)
2009年6月7日[火盗改メ・中野将監清方] (5)
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コメント
いよいよ、艶婦・お豊さんとのからみですね。ひとごとながらわくわくしてきます。
投稿: tomo | 2009.07.21 06:02
>tomo さん
池波さんを超えられないとしても、できるかぎりやってみます。
女性が女性ですから、少々、艶っぽくはなりましょうね。
投稿: ちゅうすけ | 2009.07.21 07:55