« 火盗改メ・永井采女直該(2) | トップページ | 〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(2) »

2009.05.21

〔真浦(もうら)〕の伝兵衛

日本橋川に架かる江戸橋の東から南へ分かれる堀が楓(かえで)川である。
その西側の河岸が本材木町一丁目---人びとは木更津(きさらづ)河岸と呼んだ。
内房総・木更津湊への往還船が発着したからである。

人と荷を運ぶ往還船は、通称を〔木更津船〕といい、木更津側の特権であった。
大坂の陣に徴発された木更津の水主(かこ)の半数が死亡した補償として、船主たちに近隣の幕府領の米のほか、人と荷を運ぶ独占権を与えたといわれている。

_130船着きの茶店で、火盗改メ・永井組の同心・有田祐介(ゆうすけ 31歳)と茶をすすりながら出船を待っていた銕三郎(てつさぶろう 26歳)は、前を横切って桟橋へおりていった揚げ帽子のおんなの横顔に、おもわず茶碗を床机(しょうぎ)に落としそうになった。
中畑(なかばたけ〕のお(りょう 32歳)にそっくりだったからである。(清長 お竜のイメージ)

付きそっていた商人風の細面の色の黒い小ぶりな三十男は、〔五井ごい)〕の亀吉(かめきち)にちがいない。
亀吉に会ったのは3年前、小浪(こなみ 29歳=当時)の店だったが、油断のならない盗賊として記憶に焼きついている。

参照】2008年10月9日~[五井(ごい)]の亀吉] (a) (b) (c

(それにしては奇妙だ。亀吉は〔蓑火みのひ)〕の喜之助(きのすけ)一味の2番手の小頭だし、おは〔蓑火〕から初代・〔狐火きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 50がらみ)にゆずられて、上方へ移ったはずだが。
いや、先日の文(ふみ)では、相方(あいかた)のお(かつ)がまたぞろしくじって、一味にいられなくなるかもしれないと書いてきていたから、〔蓑火〕へ戻ったのか?)

参照】2009年4月30日~[お竜(りょう)からの文] () () () 

それとなく、船のほうへ視線をやりながら、
有田どの。そろそろ、乗りますか?」
「急ぐにはおよびませぬ。われらの席は、すでにおさえてあります」
野袴すがたの有田同心は、すでにお上(かみ)のご用風をふかせて、上席をとらせたらしい。
茶のお代わりをいいつけている。

有田どの。水気をとりすぎると、木更津湊までに尿意をもよおしますぞ」
「なに、5年のあいだに1男2女をもうけた名刀を、江戸前の魚どもに見せてやりながら、艫(とも)で放つまでのこと」
「下(しも)つ者たちの上に立つ同心どのがそれでは、しめしがつきますまい」
冷やかしながら、銕三郎は、供の松造(まつぞう 20歳)に、
「先に乗って待つように---」
言いつけ、茶代をはらおうとすると、
「あ、長谷川うじ。ここは気づかいは無用です。では、そろそろ、乗りますか」
有田同心は、茶店の爺に手で合図して、立った。
(火盗改メがこれでは、町方の者が迷惑する。おれが頭になったら、きびしく締めつけよう)

参照】2006年4月26日[水谷伊勢守が後ろ楯?]
2006年6月17日[町々へ触れを出したとき


乗船するとき、銕三郎は客席に視線をやったが、屋根の下には陽がとどかず、艫(とも)の近くは薄暗かった。
(他人の空似かなあ。それにしても---)

船方が有田とその小者、銕三郎松造のためにあけておいた座席は、乗りあいの客たちからやや離して、舳先(へさき)にもっとも近かった。

船は、日本橋川から大川へでると、帆をはって風まかせになった。

「風が冷とうございましょう」
船方が刺し子の上掛けを4人に渡してくれた。
木更津までは海上15里(約60km)、順風だと2刻(4時間)から2刻半(5時間)である。

そのあいだ、銕三郎は背中に注がれているにちがいないおの視線が気になり、話しかけてくる有田同心にも、生ま返事をつづけた。
有田も途中からそれに気づいて、話しかけるのをおもいとどまったようである。

沖合いに出、筑波山のかわりに、上総の低いなだらかな山なみが望めるようになると、舳先が南へ向く。
風までが柔らかくなったようだ。

あきらめた銕三郎が、乗客に聞こえないように、
「〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(でんべえ 28歳)は、木更津あたりに潜んでいますかな」
有田同心の耳元でささやくと、びっくりしたように、
長谷川うじは、どこと見当をつけておられますかな?」
逆に訊きかえしてきた。

「他(よそ)者が潜むのに、在方(農村)は無理でしょう。木更津なら、荷積みこみ人足たちの宿にもぐりこめますが---」
「手前も、そこをかんがえておりました。木更津の村々の村役人たちへは、すでに達しがとどいているはずです」

船が木更津湊へ着き、渡り板が置かれると、われ先にと乗客が下船口へ寄ってきた。
船方が、
「待った、待った。お役人衆が先だ」
乗客たちがざわめいた。
有田同心は馴れたもので胸をはり、小者をしたがえて真っ先に渡り板にのぼった。
銕三郎は、目の隅におの姿を認め、松造を先に行かせる。
銕三郎が動いたとき、左手になにかが押し込まれた。
横におがいたが、目は、あらぬほうを見ている。

下船し、番屋で茶をふるまわれたとき、厠を借りて掌の中の紙切れを開いてみた。
「今夜、桜井村 下すわ神社」

|

« 火盗改メ・永井采女直該(2) | トップページ | 〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(2) »

147里貴・奈々」カテゴリの記事

コメント

江戸時代小説を読んでいると、木更津河岸という文字をよく目にしていました。どこなんだろうとおもっていて、きょうのブログで氷解しました。江戸橋の南詰西河岸だったんですね。
木更津まで4時間か5時間の船旅だったてこととも分かりました。
便船が残っていたら、乗って、房総の山並みを望見してみるのもおもしろそう。

投稿: kayo | 2009.05.21 04:58

>kayo さん
じつは、いまから6年ほど前『御仕置例類集』16巻18万5000円が欲しくて、揃えていた江戸の技術書20数巻にいろいろ添えて交換したのです。
技術書の中には、架橋工法とか航海術もありました。
あれがあったら、もっと早く、銕三郎を木更津へ行かせられたのです。
世の中、うまくいきませんね。

投稿: ちゅうすけ | 2009.05.21 09:23

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 火盗改メ・永井采女直該(2) | トップページ | 〔真浦(もうら)〕の伝兵衛(2) »