[白蝮{しろまむし}]あるいは[はぐれ鳥]
2010年8月1日のSBS学苑パルシェ(JR静岡駅ビル内)[鬼平クラス]のテキストは、文庫巻12[白蝮(しろまむし)]であった。
クラスは講義の1時間半につづき、映像鑑賞。
ところが、ビデオ・テープの手持ちがなかったので、ともに学んでいる市川恭行さんにDVDを依頼した。
映像版は、タイトルが[はぐれ鳥]に変わっていた。
[白蝮]は、この篇のヒロインである津山薫こと、森初子を象徴したものであるが、いまの若い世代は「まむし」蛇なんか見たこともないとの判断であったのか、あるいは彼女を世間からはぐれた存在とみたのか、そのあたりは、不明。
聖典では、物語は谷中の私娼街いろは茶屋〔近江屋〕からはじまる。
〔いろは茶屋〕。遠景は五重塔(『歳点譜』を彩色 塗り絵師:ちゅうすけ)
18歳の売れない妓とたわむれるのは辰蔵(たつぞう)だが、映像版では、巻2[いろは茶屋]での遊客であった同心・木村忠吾に代えられていた。
【参照】2007年3月4日[兎忠の好みの女性]
ま、そのあたりは、物語の進展にはあまり影響しない。
聖典のクライマックスは、松尾喜兵衛師のもとでほとんど勝てたことのない澤田小平次が、森初子を斃すシーンのはずだが、小平次役の真田健一郎さんの体調が殺陣(たて)を許されないほどに悪化していたのか、原作にない人物がピンチヒッターとして書き加えられていた。
ま、それも万やむをえなかったろう。
決闘は、指ヶ谷(さしがや)に近い白山権現(現・文京区白山5-31)の山門前あたりでおこなわれた。
(白山権現 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
池波さんは、この絵に感興を刺激され、印判師でもある初子を指ヶ谷に住まわせたにちがいない。
ところで小平次と初子がともに究めたことになっている小野派一刀流だか、綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大辞典』(新人物往来社)によると、
小野次郎右衛門忠明(別名 神子上
(みこがみ)典膳)の子、小野次郎右衛
門忠常以降を小野派一刀流という。
御子神(寛永系図)と書くのは誤りで、
神子上(寛政呈譜)が正しい。
勢州出身(武芸小伝)、信州出身(増
補英雄美談)という説も正しくない。
大和の十市氏の後裔で、上総国夷隅
(いすみ)郡丸山町神子上の地に来て
郷士となるも、やがて里見家に仕えた。
(中略)
伊藤一刀斉の推挙で徳川家康に仕え、
嗣子秀忠の師範となっている。
む? 十市---かすかに記憶がある。
信長が本能寺で自死し、そのことを堺からの帰路で聞いた家康の一行が、急遽、伊賀越えを決心して駿府へ帰るとき、最初に懐柔したのが十市氏ではなかったか。
【参照】2007年6月18日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
ま、そういう古い話は措(お)こう。
長谷川平蔵と小野家とのかかわりである。
高杉銀平師も一刀流であった---などという小説の中のはなしではなく、史実である。
上に名がでた次郎右衛門忠常から四代後裔の次郎右衛門忠喜(ただよし 54歳=天明6年 800石)は、長谷川平蔵宣以(のぶため 41歳=天明6年)が先手組弓の2組頭へ栄進したとき、彼は先手鉄砲(つつ)の17組の組頭であった。
次郎右衛門忠喜が先手組頭に任じられたのは、天明3年(1783)だから、この職は平蔵より3年先任になる。
そのとき、辰蔵は18歳、市ヶ谷・左内坂上の念流・坪井主水の道場で8年も稽古しているから小野派へ変わるわけにはいくまいが、平蔵自身は、一刀流だから、次郎右衛門忠喜と剣の道の奥深さについて談義しているやもしれない。
(小野次郎右衛門忠喜の個人譜)
★ ★ ★
【雑話】新聞によると、墜落ヘリの現場取材に行った日本テレビの記者とカメラマン溺死体が発見されたのは、秩父市大滝。
秩父市大滝には〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵がらみで取材にいったことがある。
地蔵橋でガイドと別れて山へ入っていって遭難したと報じられている。
〔大滝〕←クリック
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コメント
小野次郎右衛門忠喜と長谷川平蔵が先手組
頭を同じ時期に勤めていたとは!
就任披露の招待宴会とか柳営・躑躅の間で顔が合った時などの二人の会話を想像すると、楽しくなります。
池波先生は小野忠喜と平蔵が顔なじみであったことをご存じだったのでしょうかね?
投稿: 左衛門佐 | 2010.08.03 05:34
>左衛門佐 さん
>池波先生は小野忠喜と平蔵が顔なじみであったことをご存じだったのでしょうかね?
---とのお問い合わせですが、池波さんの蔵書がほんの一部しか公開されていない現在では、あくまで推量でしかありませんが、きょう公開した『武芸流派大事典』には、忠喜の先手組頭の記述はありません。
先手組頭のことが記述してあるのは、一は『寛政重修諸家譜』ですが、これは、よほどネライを定めて読まないと見過ごします。
目にとまっても、平蔵との関係まで考えがおよびますかどうか。
一は、『柳営補任』です。これには、先手組頭の項に、忠喜が先手・鉄砲の17番手の組頭をしたことが明記されています。
もし、池波さんが『柳営補任』に目をお通しになっていたら、小野忠喜のことより先に、平蔵宣雄が先手弓の8番手の組頭のときに火盗改メを命じられたことのほうに目がいき、そのつづきで、行人坂の大火の放火犯逮捕までおもいが飛んだとおもいます。
そのあたりのことが聖典には抜けているので、『柳営補任』はお持ちではなかったのではないかと類推しています。
『柳営補任』をぼくは、長谷川伸師の書庫でも目にしなかったようにおもいます。
こんなことでよろしいでしょうか?
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.03 07:35
クリックのご指示に従い、本多忠勝の機転の6ファイルをのぞいて驚きました。
このブログは鬼平の史実を追っているものと思っていましたが、じつは徳川家臣物語でもあるんですね。
5年も前に大和の豪族・十市氏がとりあげられていたとは。
それが小野次郎衛門忠喜となってつながるんですから、鬼平大河物語でもあります。
鬼平ファンなら、絶対に読んで損はしないと薦めたいブログです。
投稿: 文くばり丈太 | 2010.08.04 01:36
>文くばり丈太さん
ちょっと生意気なことをいわせてくださいますか?
ぼくが長谷川平蔵にこだわりつづけているのは、彼の類まれな才能と役人らしからぬアイデアの豊富さと責任感に魅力を感じていることもありますが、歴史を調べるとき、自分が共感できる一人の人間の目を借りて史料を読んでいくと、思いがけない発見がつづくと分かったからです。
そうでない歴史読みは、単なる物知りにおわりがちです。
物知りもご当人は楽しいでしょうが、見解を公にするには、ちょっと苦しい。
投稿: ちゅうすけ | 2010.08.04 06:40