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2010年10月の記事

2010.10.31

勘定見習・山田銀四郎善行

山田銀四郎という方が、お見えです」
用人・松浦与助が取次いだ。

「山田銀四郎どの?」
「ご勘定奉行の石谷(いしがや)淡路 清昌 きよまさ 64歳 2500石)さまのご用とか---」
「それなら、合点がいく」

越後の蒲原郡(かんばらこおり)暮坪の小里のことで教示をえたいと、村松藩(藩主・堀右京亮直教 なおのり 28歳 3万石)へ伺いをだした。

返ってきたのは、暮坪村は、伊勢・桑名藩の飛び地なので、役に立ちかねるが、遠隔の桑名藩は、諸事を公儀の代官に代行させているようであるから、勘定奉行所へあたってみられよ、との意外な示唆であった。

勘定奉行所の知り合いといえば、石谷淡路守しかいない。

参照】2007年7月25日~[田沼邸] () () () (
2007年7月29日~[石谷備後守清昌] () () (
2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (


「二ッ目の〔五鉄〕で応接しよう」
松浦用人に伝え、横の内玄関から出ていくと、
「勘定方見習中の山田銀四郎善行(よしゆき 36歳)でございいます。久しくお目にかかっておりませぬでした」
「はて---いつ、どこで、お会いしましたかな?」
「明和5年(1768)12月5日---」
「というと、初目見(はつおめみえ)のとき---」
「左様でございます」
「あのときは、150人からの大勢であったから---」
「手前などのような150俵の軽輩は、はるかに末尾でございまして---」

参照】2009年5月12日~[銕三郎、初見仲間の数] () () () () (

「ま、歩きながら、話しましょうぞ。とてころで、山田どの、お住まいは---?」
「この近くゆえ、ご奉行が手前をお名指しになりました。二ッ目ノ橋の南、弥勒寺(みろくじ)の裏でございます」
「ちょうどよかった。これからご案内するのは、二ッ目ノ橋の北詰のしゃも鍋の〔五鉄〕という店です。そこで、ゆっくりと、初見以来のあれこれをお聞きしよう」

「〔五鉄〕の前は幾度も通りましたが、ついぞ、のれんをくぐったことはございませぬでした」
「上乗」
平蔵(へいぞう 33歳)は、すっかり足がとおのいている弥勒寺前のお(くま 55歳)の茶店〔笹や〕の前はなんとなく避けたかったので、三ッ目の通り北へとり、橋をわたると、竪(たて)川ぞい北側の土手を大川へ向かった。
満潮時らしく、竪川は中川のほうへ逆に流れていた。

参照】2O08年4月20日~[〔笹や〕のおや熊] () () () () () (

新月の薄闇に溶けたように新芽の枝をゆらしている柳並木を横目にみとめながら、久栄(ひさえ 16歳=当時)がまだ生(き)むすめであったころ、おまさ(12歳)を教えた帰りを送りながら、人通りが絶えているのをいいことに、幹を支えにして押し付け、口を吸い、たもとから乳房をまさぐったことをおもいだした。

自分の怒張しきっていた股のものも、褌からはみだし、じかに袴にこすれて痛いほどに。
腰から力が脱けた久栄はくずれ落ちそうになり、処女(おとめ)の躰の仕組みをしらなかった銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時))をあわてさせた。
もちろん、通じ済みの後家と人妻の躰は体験していたが。

参照】2008年12月17日[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」 () () () (

(若いということは、恥しらずなことも、容赦なくやってしまえるということだ)

平蔵の口からでたのは、思念とはかかわりのない言葉であった。
つまり、意味をもたない問いかけといえようか。
山田うじ。お子は---?」

「はい。益弥(ますや)と申します男子が8歳。その下にむすめが2人おります」
「それは重畳。しかし、男子ひとりというのは、いささか、こころもとない。ご妻女にもうひと踏んばり、お願いなさるとよい」
自分でも意外な進言が口をついてでた。
ふだん、辰蔵(たつぞう 9歳)に弟を---なにげなく考えているせいかもしれなかった。

ところが、平蔵の言葉に、山田見習いが黙りこんでしまった

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2010.10.30

〔松戸(まつど)〕の繁蔵(3)

長谷川さま。御師(おし)の繁蔵(しげぞう)という男、どうご覧にまなりましたか?」
当の〔松戸(まつど)の繁蔵(37歳)と名乗った男が部屋を出ていき、玄関のほうで女将のお(はす 33歳)か゜わざとのような、
「ありがとうございました。近いうちのお運び、お待ちしています」
筒抜けの声を耳にとめてから、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 46歳)が、顔をよせ、訊いた。

「あやしいところはかずかずあるが、しっかりしている。それに、機転もまわる」
平蔵(へいぞう 33歳)は、冷えた盃を干し、手を叩いておを呼び、新しい酒をいいつけた。

三河のほうの知りあいに、白山神社の所在を問いあわせてみると力んだ権七に、
「いや、寺社奉行所で調べればたちどころであろう」
平蔵は、寺社奉行の戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 宇都宮藩主 7万7,000石)の役者のような面高(おもだか)の顔をおもいだしていた。

(明日にでも、不忍池の北の下谷七軒町の藩邸に遣いをやり、宇都宮藩の寺社奉行の配下である、寺社吟味役の石原嘉門(かもん 38歳 80石)に、東海道ぞい一連の白山神社の名簿を依頼しよう)

察しのよい権七が、越後(えちご)の白山権現の先達(せんだち)をしている伊佐蔵(いそさぞう)の素性もあらったほうがいいのではないかと問いかけた。

「寺社奉行所で、先達のことまでわかるであろうか?」
「先達として、あちこちの白山社で世話になっておりましょう。ご府内なら、小石川の白山権現社へ訊きあわせれば、わかるかも---」

405_360
(小石川・白山権現社 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

うっかり火盗改メに頼むと、おもいがけない被害人をださないともかぎらないので、いろいろ考えた末、白山権現社への聞きこみは、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じゅうえもん 52歳)へふったら、なんのことはない、その日のうちに越後国蒲原郡(かんばらこおり)の山あいの貧しい暮坪(くれつぼ)の小里の樵(きこり)の子で、先達をしないときは山師をしていると知れた。

ちゅうすけ注】暮坪(くれつぼ)の小里の生まれの伊佐蔵が、文庫巻14[五月闇]で、伊三次を刺した〔強矢すねや)の伊佐蔵であることは、あなたもとっくにお察しとおもうが、〔通り名 (呼び名ともいう)〕の〔強矢〕がなにに由来したものかは、まだ調べていない。

が新しい酒を用意してきたのを機に、〔蓮の葉〕の部屋へ戻る。

酌を受け、
「〔松戸〕のは、帰ったのかな?」
「お目にかかれたことをたいそう喜んでいらっしゃいました」
「女将の新しい情人(いろ)ではなかったのか?」
「とんでもないことをおっしゃいます」

「どういう、つながりなのだ?」
「ちょくちょく、お使いいただいおります」
「相手は、どういう顔ぶれかな?」

銚子を置いたおが、
長谷川さま。こういう商売では、お客さまのことを、ほかのお客さまに洩らすことは、許されておりません」
「これは一本とられた。はっ、ははは」
「でも、寝間での睦言は、別でございますよ」
「そうであろうな、そうであろうとも」

権七が、不安げな目つきで平蔵を瞶(みつめ)た。

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2010.10.29

〔松戸(まつど)〕の繁蔵(2)

戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ)のことだが---と、水をむけた平蔵(へいぞう 33歳)に、東葛飾郡(ひがしかつしかごおり)の松戸(まつど)村あたりで熊野本宮の御師(おし)をしているという繁蔵(しげぞう 36,7歳)は銚子を手に酒をすすめてから、
「三島宿で、会ったのがそうではないかと---」

「ほう、どうして九助としれたな?」

繁蔵の話をはしょってまとめると、つい先だって、熊野・新宮での御師の集まりからの帰路、三島宿本町(ほんちょう)西はずれの旅籠〔土肥(とい)屋〕で、越後(えちご)の白山権現の先達(せんだち)をしているかねて顔見知りの伊佐蔵(いそさぞう)と相宿になった。
その伊佐蔵の連れに、23,4歳の男が〔戸祭〕の---と呼ばれていた。

(おかしいな。ここの女将・お(はす 33歳)に九助の人相を記した紙をわたしてから半月と経ってはいない。熊野の新宮までは、どんなに速足でも片道10日はかかろう。
この繁蔵という男をおれに近づけさせた〔蓮沼はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 50代なかばすぎ)の魂胆はなんだ?)


平蔵が不審をいだいたのを早くも察した〔箱根屋〕の権七(ごんしち 46歳)が先まわりした。
「熊野神社の御師どのとか、越後の白山神社の先達さんなら、ところところのお身内の神社にお泊りになるのではありませんか?」

繁蔵の応えはすじがとおっていたばかりか、権七の前身も割れていた。
「三島は、大社のご神域、駿河は、富士の浅間さんと遠江の秋葉さんのご神力がつよく、手前どもの出る幕がないのは、〔箱根屋〕さんもよくご存じでしょう」

権七も負けていなかった。
「沼津宿には、街道からほんちょっとの鳥谷(とや)に、たしか熊野さんが---」
「はい。こんどの集まりでも、あの社の御師と帰路もいっしょでしたが、神職の伴侶の具合がよくないということで遠慮し、三島まで足をのばしたような次第です」
繁蔵のいいわけには、よどむところがなかった。

平蔵は矛(ほこ)をおさめるべきだと察し、
「それで、九助たちの行き先をお聞きになったかな?」
「はい。三河ということでした」
「三河の---」
「どことまでは---」

「いや。何よりの知らせ、かたじけなかった」
「たしかに、お耳におとど:けいたしました」
「〔蓮沼〕のに、平蔵からの謝意を伝えられい」

語尾まで聞き終え、
「〔蓮沼〕の---と申されましたか?」
「左様---」
「はて。こころあたりがございませんが---」
「それなら、聞き流しておかれい」


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2010.10.28

〔松戸(まつど)〕の繁蔵

長谷川さま。仙次(せんじ 33歳)の奴に、おこころ遣いをいただき、ありがとうごさいました」
駕篭の〔箱根屋〕の主人・権七(ごんしち 46歳)が、送ってやった金3両(48万円)の礼を代弁した。

大谷寺(おおやじ)の岩窟仏像の破片が無事に返った謝礼ということで、宇都宮藩の寺社吟味役・石原嘉門(かもん 38歳)がとどけてきた3両を、権七経由でそっくり仙次に贈ったのである。

箱根の荷運び人たちに手くばりをしてくれた権七は、小料理〔蓮の葉〕での一夕ですますことにした。

ほかの客席へまわっていた女将・お(はす 33歳)が、気ぜわしく入ってき、
「先日の結び文のことで、お話があるというお方がおいでになっております。お引きあわせしましょうか?」

(その件なら、片がついた---と喉まででかかった言葉を呑みこみんだ。
蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(いちべえ 60歳前)に会ってみるのも面白いとおもったからである)
「会おう」

かみちびてきたのは、齢のころ37,8歳の、町人ふうにはよそおっているが目つきが鋭い男であった。、
(〔蓮沼〕の市兵衛にしては若すぎる)
思ったが、そしらぬふりで、
長谷川平蔵です」
先に名のった。

繁蔵しげぞう)と申します」
丁重に頭をさげた。

「こちらは、〔箱根屋〕の権七どんです」
「お初にお目にかかります。繁蔵でございます」
あくまでも折り目をくずさなかった。

「こちらの〔蓮の葉〕さんにもご贔屓(ひいき)をいただいておる駕篭屋です。で、そちらさまのご商売は?」
権七が、平蔵(33歳)の代りに愛想よく訊いた。
「熊野権現の御師(おし)をしております」
「ほう。ご領域は?」
なぜか、繁蔵が目を伏せ、
「下総(しもうさ)の東葛飾、松戸村から馬橋村へかけて---」

「馬橋村は、たしか、駿州の田中藩の飛び地であった---」
平蔵がつぶやくように口にした。
はっと目をあげ、
「よくご存じで---」
゛なに。先祖が駿河の田中城主であったゆえ、な」
「恐れいりましてございます」

参照】2007年6月1日[田中城の攻防] () () (


「ところで、〔戸祭とまつり)〕の九助(きゅうすけ)まわりのことをご存じよりとか---」
平蔵が話題を変えた。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () () (


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2010.10.27

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(8)

本郷通りから中山道が分かれるとば口が、森川宿追分である。

とば口のとっかかりの両側は、先手・鉄砲(つつ)の5番手の組屋敷である。
そこからの5,6軒先の片町に旅籠〔越後屋〕があった。
向いには旗本屋敷が3,4軒並んででいる。

平蔵(へいぞう 33歳)は、火盗改メ・本役の土屋帯刀守直(もりなお 45歳 1000石)の組下の同心・高井半蔵(はんぞう 39歳)に同伴してもらった。
昨秋、ともに壬生藩へ探索に行った仲で、気ごころはしれているし、寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 宇都宮藩主 7万7000石)の依頼で、平蔵がうごいていることも承知している。

半蔵から、火盗改メと告げられた〔越後屋〕の主(あるじ)・倉造(くらぞう)は、一瞬、身をかためたが、すぐにたちなおり、
「どのようなお調べでございましょう?」
「ここ1年ばかりの宿帳をそろえるように---」

3冊の宿帳調べに、部屋があてられた。
目あては、伊佐兵衛、伊三次、伊佐蔵、伊三郎、猪佐吉。
そして、下野(しもつけ)国河内郡(かわちこおり)戸祭村の住人・九助きゅうすけ)。

まっさきに、松造(まつぞう 27歳)が伊佐蔵いさぞう)を見つけた。
越後国蒲原郡暮坪村 山師・伊佐蔵(いさぞう)。
平蔵が手にしている宿帳にも、半蔵がめくっていた帳面にも、伊佐蔵の名があった。

さすがである---半蔵は、すぐには主・倉造を呼ばなかった。
3冊とも調べおわり、昨春と秋おそくの帳面に九助の名が見つかってから、平蔵となにごとか打ちあわせた。

うなずきあい、倉造に声がかかった。
初手に問うたのは半蔵同心であった。
「ご亭主。屋号のの由来は---?」
「は?」
「〔越後屋〕のいわれだよ」

蒲生郡(がもうこおり)の村松藩(3万石 堀家)の城下町の出だが、ひろく、越後からの旅客に泊まってもらうためにつけた屋号だと答えた。

「それにしては、越後からの客は、5人に1人の割りだな」
「冬場の出稼ぎ人は、ここへは泊まりません。じかに桂庵(けいあん 口入れ屋)へ行ってしまいます」

突然、平蔵が命じ口調で、
「秋おそくに泊まった、下野・戸祭(とまつり)村の九助から、預かりものがあろう。出してもらおうか」

はっと、両目をみひらいた倉造に、
「早くしろ」
おっかぶせた。

倉造がはじかれたように帳場の戸袋から布切れに包んだものを差し出した。
「あけよ」

中から、大谷石(おおやいし)の蓮華の花弁があらわれた。
「贓物(ぞうもつ)扱いの罪で、火盗改メが引きたてる」
「お許しください。贓品(ぞうひん)とは、つゆ、存じませんでした」

平蔵が懐から1枚の紙片をだした。
九助が岩切り人の組に決算した旅籠賃の受けとりであった。
「ここに、晩酌銚子1本とあるが、こうではあるまい?」
「はい。頼まれまして、つい---」
「だれかと、いっしょに呑んだのであろう?」
「---はい」
「暮坪村の伊佐蔵だな?」
{---はい」


本郷通りの加賀藩邸の正門をすぎたところの、小体(こてい)な酒亭で盃をかたむけながら高井半蔵同心が、
「どうして、九助からの預かりものをしていると見破られたのですか?」

平蔵は苦笑しながら、箱根で荷運びしている知己から、九助らしい男の振り分けが小さかったとしらせてきたことをあかし、大谷石の釈迦像の一部を持ち運んではいないと推定、かまをかけてみただけだと打ちあけた。

しかし、箱根の雲助にも知己がい、そこまで網をはっていた平蔵に、半蔵同心は内心、舌をまいたが、さあらぬ体(てい)で、
九助が〔越後屋〕へ戻ってきたところを捕らえ、宇都宮藩へ引きわたしますか?」
「およしになったほうが無難です。いまごろは、九助たちのいるところへ、〔越後屋〕が報らせの使いを出していますよ。この件はお互いに、なかったことに---」

ちゅうすけ補】寺社奉行で宇都宮藩主・戸田因幡守忠寛(ただとお 41歳)は、4年後に大坂城代に栄転し、それにつれて大谷寺のある河内郡、都賀郡などが、河内国・播磨国のうちの2万5000石の地と替えられた。
城代としての費えを近くでまかなえ、ということであろう。
引き続いて就任した京都所司代を無事につとめあげると、河内郡、都賀郡などは旧に復した。
しかし、洞窟の釈迦像の台座の補修の記録は、この領地替えのどさくさで紛失したらしく、いまでは郷土史にも記されいない。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () () 

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2010.10.26

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(7)

「やっと、宇都宮藩から頼まれた探索を終えたので、午後、帰府するつもりです。〔越畑(こえばた)〕どんへの伝言でもあれば---」
平蔵(へいぞう 33歳)の顔を、なつかしげに見やりながら、
「ご丁寧にお立ちよりくださり、ありがとうさんにございます。常平(つねへえ 26歳)がすっかりお世話になりっぱなしで申しわけねえことで---」

釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 41歳)は、用意の小さな油紙包みを松造(まつぞう 27歳)の前に差しだし、
「今市の竹節(ちくせつ)人参です。〔音羽(おとわ〕の元締へお渡しいただけますか?」
音羽〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)は、〔越畑〕の常平をあずかり、〔化粧(けわい)読みうり〕のくさぐさを見習わせていた。
常平への小遣いは、べつに包んであった。

「それで、長谷川さま。ご藩主からの依頼は、らちがあきましたか?」
「いや。かいもく。もともと見こみはなかったのに、因幡侯のたってお言葉をお断りもできなかったので---」
因幡守戸田忠寛 ただとを 41歳)は、宇都宮藩7万7000石の太守で、寺社奉行としての体面から、大谷寺(おおやじ)の窟内の仏像の事件の目鼻をつけたがった。

「ご領主が出世なさると、出費が領民へかぶさってきますから、うれし、つらし、です」
藤兵衛が、ふくんだような笑いをもらした。

平蔵は、〔戸祭とまつり)〕の九助(きゅうすけ 22,3歳)の人相を告げ、ついででいいから、北関東の元締衆への廻状の隅にでも書き加えてもらえるとありがたいと頼んだ

宇都宮藩へのいいわけであった。


江戸へ帰ってみると、箱根の荷運びのいまでは頭格になっている仙次(せんじ 33歳)から、1ヶ月ほど前に、九助らしいのが、4つ5つ齢(とし)かの、身なりのいい連れと上っていったとの注進が、〔箱根屋〕の権七(ごんしち)のところへとどいていた。

参照】2008年7月28日[明和4年(1767)の銕三郎] (12

仙次どんも、もう、雲助の頭格でございますよ」
「そういえば、あれから11年にもなるからな。歳月は人を待たずというとおりだ」
「あっしが長谷川さまと出あってからだと、14年でございますよ」

参照】2007年12月29日~[与詩を迎えに] () (10) (11) (12) (13) (25) (26) (27) 

仙次からの文(ふみ)には、齢かさのほうは商人風をよそおってはいたが、口のきき方や態度のはしばしに堅気じゃない感じがあった。
小豆(あずき)大の黒子(ほくろ)の男の指のふしぷしがとりわけ太かったのが気になった。
頼まれた振りわけの包みはさほどには大きくなかったから、駿府より先へ行く旅ではないと見た---などと目のつけどころが、いかにも山道の荷運びらしい。

九助とおぼしい男は、齢かさのほうを敬(うやま)っていて、
いささん」
と「さん」づけで呼んでいた。
いさ」の下のほうはわからない、とも。

伊佐兵衛か、伊佐蔵か、伊三郎か、猪之吉か、伊三次か---これは、中山道へのとば口にあたる森川宿追分の旅籠〔越後屋〕の宿帳から、越後国蒲原郡(かんばらこおり)暮坪(くれつぼ)村の山師・伊佐蔵いさぞう 28歳)とわれた。

ちゅうすけ注】暮坪村の伊佐蔵とは、聖典巻14[五月闇]で、おんなの恨みから密偵・伊三次いさじ)を刺殺した〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵のことである。
伊佐蔵の実弟・〔暮坪くれつぼ)〕の新五郎(しんごろう)が顔をみせるのが文庫巻24[二人五郎蔵]。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () (

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2010.10.25

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(6)

「畑仕事が暇に時期には、百姓や水呑みは、大谷石(おおやいし)の切り出しにでると聞いたが---?」
轡(くつわ)をならべて宇都宮へ向かいながら、平蔵(へいぞう 33歳)が、郡(こおり)奉行所の代官見習い・羽太(はぶと)金吾(きんご 22歳)に語りかけた。

「石を切出ししているのは、大谷寺のある荒針(あれはり)村のほかには、その子(ね 北)つながりの岩原村と新里(にっさと)とですが、岩切り人全部が切り出しにあたるとはかぎりません」
「ほう---?」
「江戸や上方の問屋へご機嫌うかがいを兼ねて売りこみにいく者もあります」
「その旅の費(つい)えは---?」
「岩切り人仲間が持ちます」
「岩切り人仲間---のう」
岩切り人たちの組合のようなものであろうと、平蔵は理解した。

「戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ)も、岩切り人仲間に入っていたろうか?」
「仲間に組みしていない者は、村では生きていけませぬ」

大谷寺の近くまで帰ってきた平蔵は、岩切り人仲間の世話役の名前を訊かせた。
九助が入っていたのは、岩原村ので、世話人は宇蔵(うぞう 42歳)とわかった。

切り出し現場まで呼びにやると、宇蔵はいぶかしげに戻ってきたが、羽太心得を認めると、とたんに腰を低くした。

「こちらは、ご在府の殿さまのご用で江戸からくだってみえた長谷川どのである。お尋ねのことには、ありていにお応えするように」

平蔵が、戸祭村の岩切り人であった九助は、売りこみに出ていたかと訊くと、
「はい。江戸から小田原までの問屋を受けもっておりました」

九助の旅の費えの書付けやら受けとり控えなどがのこっていたら、のこらず、今夕までに、下本陣へ持参するようにいいつけた。

本陣・篠崎伝右衛門方の門で馬を返しがてら、
「七ッ半(午後5時)までには、先刻の岩原村の世話人がいいつけたものをとどけてこよう。確かめがてら、一献、さしあげたいが---」
羽太心得は、一も二もなく、承(う)けた。

下級藩士たちは、そうとうに家計をきりつめさせられ、酒も満足には呑んでいない様子がうかがえた。


本陣で、羽太金吾と酌(く)みかわしていると、別の部屋で受けとりを調べていた松造(まつぞう 27歳)が、いくつかの紙片を手に入ってきた。
「ご苦労であった。ま、一杯やってから話すがよい」

金吾の酌を受け、
「殿、妙です。村抜けの3年前から、江戸での宿を、森川追分の〔越後屋〕にとっております」
「中山道口だな。日光街道からの安旅籠だと、小塚原か三味線堀あたりにとりそうなものだが--」

江戸の地理に不案内な金吾に、松造がかんたんな道筋を描いて説明した。

「中山道をよくつかう誰かと、〔越後屋〕で会っていたのやもしれぬ。帰府したらすぐに調べてみよう」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () ) (

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2010.10.24

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(5)

「大谷石の石切り場を、この目でたしかめたいものだな」
大谷寺(おおやじ)の山門を出ながら、平蔵(へいぞう 33歳)がつぶやいた。

耳にとめた寺社吟味役見習い・小室兵庫(ひょうご 24歳 30俵)は、
「いまは、農閑期ゆえ、多くの水呑みが石切りをしておりますが、寺社奉行の管轄ではなく、郡(こおり)奉行の受けもちです。吟味見習いでしかない手前がご案内いたすわけには参りませぬ」
「あい分かった」


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(左緑○=上から新里(にっさと)と岩原村=宇都宮藩の大谷石切り出し場
赤小○=大谷寺 下緑○=一帯が戸祭村)


つづいて平蔵が、戸祭村の九助(きゅうすけ)の生家を見ておきたいともらすと、それも郡奉行か町奉行の許しが必要と答えられた。

塩谷郡(しおや)郡の乙畑村と越畑村にも行きたい、というと、
「その2村は、藩が異なります。どちらも隣藩の喜蓮川(きつれがわ)藩内です、先方の許しをえないと覗きはできませぬ」
「許可をとるのに、どれほど、かかるのかな」
「一両日でしょう。 江戸の藩邸ならその場で通行切手をもらえます」
なんだか、愚鈍者あつかいにされたみたいであった。

「今夕、小室うじと一献かたむけるのにも、寺社奉行どのへのとどけが要(い)るのかな?」
皮肉のつもりであったが、
「いえ。喜んでお受けいたします」
答えられ、決めざるをえなかった。

「夕刻、七ッ半(午後5時)に、下本陣へ参られよ。その前に、明日、戸祭村と乙畑村へ馬で行ける許しと、郡奉行のところからの案内者を手当てしておいてもらいたい。戸田因幡守 忠寛 ただとを 41歳 宇都宮藩主)侯からは、なんでも注文せよと言われておる」

酒が入ると、小室見習いは多弁になったが、平蔵が藩主に通じていることをしっているので、さすがに藩政批判はしなかった。
郡奉行が隣りの喜連川藩へ速馬をたて、通行手形をもらってきているので、明日は乙畑村へ行けるし、村長(むらおさ)の家へ宿泊も許されたことも、酔う前に告げた。


翌朝、馬できたのは、代官心得・羽太(はぶと)金吾(きんご 22歳)であった。
宇都宮城下から乙畑村は、陸羽街道を6里(24km)ばかり。

馬を並べながら、本丸・書院番士で水馬の名手・羽太清左衛門正忠(まさただ 41歳 700石)の縁者らしいとみて、その話題をしたら、金吾心得は得意げに、三河国額田郡(ぬかたこおり)大門村(現・岡崎市大門)の家柄を誇った。

その自慢話に、適当に合いづちをうっているうちに、鬼怒川の渡しとなった。
金吾が藩の鑑札を示し、特別に舟を仕立てさせた。

つぎの氏家宿では、村年寄の家で早めの昼餉(ひるげ)をとり、東乙畑へ着いたのは八ッ半(午後3時)であった。

村長(むらおさ)の家で、源八(げんぱち 30がらみ)の素性がしれた。
水呑みだが、声がいいので、熊野社の神職もどきをしていたと。
(〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(とよじ 27歳)も、熊野社の下働きといっていた)

「神職もどき---?」
「祝いごとがあるときに、布衣(ほい)を着、祝詞をあげるだけですが---」
「そのような神事をどこで覚えたのであろう---?」
「熊野本社で習ってきたとは、いってはおりましたが、まことかどうか---」

その晩は村長のところに泊まり、翌日は回り道して越畑(こえはた)村の常八(つねはち 26歳)の家へ寄った。
なんと、松造が、常八からの結び文を預かってきていた。
平蔵が柳営につめているすきに、音羽まで行き、会ってきたのであろう。

常八は、〔音羽〕の重右衛門の預かり人となり、彫りや刷り、紙漉きの手順や目の読み方などを覚えるかたわら、学問塾に通っていた。

常八は四男で、40歳近い長男・利平(りへえ)が、
「あれは、才が走りすぎておるので野良仕事には向がねえ。城下町でなら、あの才も役に立づがも」
「いま、江戸で諸事を仕こんでおる」
「よろしゅうにお願いしますだ」

「返事を預かってもいいが---」
松造のすすめに、利平は首をふった。
「みんな、達者にしとると、伝えでもらえばいいだ」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () (4) () () (

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2010.10.23

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(4)

その晩、平蔵(へいぞう 33歳)は、京都の米屋町の上品骨董商〔風炉屋〕の主人・勇五郎あてに書状をしたためた。

参照】200736[初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎
2009年7月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] () () 

下野(しもつけ)国河内郡(かわちこおり)戸祭村生まれの九助きゅうすけ 22,3歳)のこころあたりはないか。
容姿は小太り、鼻が太めで、上唇に小豆(あずき)大の黒子(ほくろ)がある。
宇都宮城下といっていい荒針村は、〔狐火〕のお頭(かしら)の生地---笠間村からもさほど遠くないからご存じとおもうが、あの村の大谷寺(おおやじ)の大谷石の岩窟仏。
その釈迦像の台座の蓮花を1片はぎ取るという罰あたりなことをして出奔した者である。

もし、蓮華の1片を売りにきたら、住いや、したがっている頭領(かしら)も訊きだしてほしい。
捕らえるというわけではなく、蓮花を1片を取り戻したいだけである。

ついでだが、〔盗人酒屋〕の〔たずがね)〕の忠助(ちゅうすけ 享年54歳)どんのひとりむすめ、〔狐火〕のお頭(かしら)も面識のあるおまさ坊が、〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40歳あたり)の世話になっておるらしい。
もし、お頭のところに顔をみせたら、拙がどんな相談にものると伝えてもらいたい。

封をし、表紙に宛名を書き、筆を洗ったところへ、次女・きよ 3歳)を寝かしつけた久栄(ひさえ 26歳)が寝衣すがたに、箱枕とはさみ紙を持って入ってきた。

「灯火(ともしび)の明かりが見えましたので---」
「ちょうど、いま、伏せようとおもったところであった。せっかくだから、しばらく休んでいけ」
「子守歌でも、歌いましょうか」
久栄の歌声に眠るどころか、かえって、いきり立ちそうだわ」

「また、宇都宮でございますか?」
「寺社の戸田因幡侯の頼みでな」
「いい、なじみおなごでも、できましたか?」
「おお、3人ほどな」
「どれ、責めてみましょう」

「これ、もそっと、お手やわらかに---な」
「殿こそ、そこは、指より舌で---」


寺社吟味役見習い・小室兵庫(ひょうご 25歳)が、馬で迎えにきた。
宿泊は、宇都宮の池上町の下本陣・篠崎伝右衛門方であった。

大谷寺(おおやじ)は、日光道中を1里半(6km)ほど行った左脇にあった。

参考大谷寺、大谷公園

岩窟の巨大な半球形の入り口は、人を呑みこむように開いていた。
その手前で、小室見習いが用意の龕灯(がんどう)に、庫裡から火をもらってきた蝋燭を立て、1ヶを松造(まつぞう 27歳)に持たせた。
龕灯に照らされた案内の僧の影が大屋石の窟壁に大きく動き、説明声がひびきとなって反射した。

こそぎ取られていたのは、第2窟の釈迦三尊像の、まんなかの主尊・釈迦の坐像のうてな(台座)の二段目左端の花弁であった。

「素人が、どうのようにして岩片をはぎとったのであろう?」
平蔵の疑問に、
「このあたりの百姓や水呑みの中には、岩石切り人の組合に組みしているものが少なくないのです。九助は戸祭村の水呑みでしたが、岩石切り人でもあったので、工具を有しておったのです」
小室見習いが応えた。

「洞窟の入り口は、夜も閉めないのかな?」
「ご覧いただいたように、巨きな入り口なので、手がまわりかねます」
これは、案内の寺側の苦労談。


A_360
(赤大○=宇都宮城下 赤小○=大谷寺 青小○=荒針村
緑小○上かに新里(iにっさと)・岩原=宇都宮藩の大谷石切り出し場
下の緑小○=戸祭村)

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () () () () () (

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2010.10.22

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(3)

宇都宮への旅立ちの前に平蔵(へいぞう 33歳)は、深川・黒船橋ぎわの町駕篭〔箱根屋〕で、権七(ごんしち 46歳)のむすめのお(しま 11歳)を呼び出し、連れだって霊巌寺門前町の浄心寺の楼門にいたると、そのかたわらで結び文をしたため、塔中のひとつ、浄泉尼庵を教えてとどけさせた。

_150ほどなく、尼頭巾の日信尼(にっしんに 37歳)があらわれた。

受戒する前のお(のぶ)である。
7年前に、上総(かずさ)国の盗賊一味を抜け、平蔵の世話で茶店〔千浪〕の女将をしていた。

「ここで、立ちばなしでいいか?」
うなずく尼に、
「〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40歳前後)という首領(つとめにん)をしっているか?」
首がふられた。
「そうか。では---」

去りかける平蔵へ、
「あの---」
尼頭巾をとり、剃髪した頭をみせた。
「そうか」
丸頭をくるりとなぜ、
「これで、いいか?」
「---唇で」
「ばか。松造(まつぞう 27歳) 、おの目がある。今度な、日俊老尼に、よしなに---」

その夕べ---。
平蔵は、権七と連れだち、常盤町1丁目の小料理〔蓮の葉〕へ上がった。
女将のお(はす 33歳)が、あいかわらずも媚態で迎えた。

とりあえず、分葱(わけぎ)の酢味噌で酒を酌みながら、
「ここの主(あるじ)に、これを渡してほしい」
結び文を差しだした。
「主(あるじ)って---? 女将はあたしですが---」
「冗談ごとではないのだ」

は、嫣然と笑み、
「お返事は---お屋敷のほうへ---?」
「いや。宇都宮から帰ったら、また、くる」
「宇都宮へは、どんなご用で?」
「大谷石(おおやいし)の仏を拝んでくる」
「そんなみ仏さまがございますの?」
「ま、女将には、生き仏のほうが功徳になろうがな」
「極楽へ行かせてくださる生き仏さまなら----ほ、ほほほ」
新しい酒をとりに立った。

権七にも、紙片を渡した。
---小太り、鼻太く、上唇の小豆(あずき)大の黒子。齢のころ25歳前。
「舁(か)き手に頼んでおいてほしい。乗った町、降りた家がしりたい」
「承知しました。箱根の雲助たちのほうへも手をまわしおきます」
「かたじけない」

権七が、松造(まつぞう 27歳)の盃に酌をしてやっていた。
雀のたたき煮のだんごを箸でつまみあげて、しげしげと見つめている。

松造は、連れあいのお(くめ 37歳)が〔草加屋〕の板場からときどき持ち帰っていたあまりものの菜のおかげで、料理に関心をもつようになっていた。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] () () (4) () () () (


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2010.10.21

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)(2)

「大谷寺(おおやじ)の第2窟の釈迦像の蓮華のうてな(台座)の花弁を一片、そぎとったのです」
宇都宮藩士・石原嘉門(かもん 38歳 80石)の言葉に、平蔵(へいぞう 32歳)があわてて問い返した。

「失礼---その第2窟の釈迦像とは---?」

宇都宮城下から半里(2km)の荒針(あらはり)村に、大谷石(おおやいし 凝灰岩)の洞窟があり、千手観音、釈迦、薬師如来、阿弥陀如来の磨崖仏が彫られている。
彫られたのは1000年近くむかしであるとも。
それは、藩の宝としてどの藩主とも大切に保存・管理してきた。

参考】大谷寺(大谷観音)
大谷寺(宇都宮市)

ところが、すぐ東隣りの戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ 22歳)が、村抜けする駄賃として釈迦像の蓮華のうての花弁をこそぎとり、返してほしければ50両よこせと、寺社奉行所へ投げ文をしてきた。
ところが、取り引きの日時も場所も指定していなかった。
投げ文の署名に、〔戸祭〕の九助とだけあった。
取り引きしようにも、捕縛するにも、手のうちようがない。

「それで、〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛に、関八州の香具師(やし)の元締衆に廻状をだしてもらおうという次第。藩の恥にもなるので、穏便にはこびたいのです」

(ふむ。〔戸祭〕の九助と署名か。盗賊の一味に入ったろうが、まさか、〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40歳前後=当時)や〔法楽寺ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 52,3歳)のところではあるまいな)

戸祭〕の九助の人相・風態は、小太り、太い鼻筋、唇のすぐ上に小豆(あずき)大の黒子(ほくろ)があるということなので、廻状には書き留めやすい。

香具師の元締衆へより、盗賊の頭たちへ廻したほうが早いとおもうが、そんな筋をもっていることを、嘉門にいうわけにはいかない。

「藩の勝手(財政)が不如意なことは、さきほど、申しましたとおりでありますれば、些少ですが、お出張りの手当てとしてお納めいただきたく--」
包まれていたのは5両(80万円)であった。

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] ()  href="post-aa28.html">3) (4) () () () (

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2010.10.20

〔戸祭(とまつり)〕の九助(きゅうすけ)

「戸祭(とまつり)村の九助(きゅうすけ)と申す若者も、困窮のすえに、村を捨てた一人です」
(---九助? 覚えがないないが、4年ほど前に、家僕・太作(たさく 70歳近く)たち一行が宿泊した旅籠が、たしか、城下はずれの戸祭という里にあったような---)

参照】2010年3月24日[日光への旅] (

宇都宮藩の寺社奉行の配下である、寺社吟味役の石原嘉門(かもん 38歳 80石)があげた戸祭村には、盗賊〔荒神(こうじん)〕の助太郎一味が住まっていたことがある、そのことは隠しておいた。

参照】2010年10月15日[十手持ちの瀬兵衛からの留め書 ]

このところ平蔵は、〔荒神〕の助太郎とはこれから先も---たぶん、一生かけての因縁付きあいになるだろう、と思いさだめていた。

それだけに、他人の介入を拒否する気持ちが強くなってもいた。

「村むらが疲弊だと、ご藩内の実穫(と)れ高にも影響がでてきましょう?」
「むろんです。出費を節するばかりでなく、藩士には去年から家禄の5分(5パーセント)借りが始まりました。数年はつづきましょう」

昨秋、宇都宮城下に足をいれたときには、それほど困窮しているようには見えなかったが、いわれてみると、旅籠〔喜佐見(きざみ)屋〕もどことなく活気がなく、客の泊まり部屋もぜんぶはうまっていなかった。

石原嘉門が申しでたのは、村抜けをした戸祭村の九助の手配りを、元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべい 41歳)にやるようにすすめてほしいということであった。

「たったそれだけのことに、拙が宇都宮まで出向くわけで?」
「藩が〔釜川〕の元締に頼んだら、江戸の長谷川平蔵さまが宇都宮までお越しになり、やってくれといわれれば、やってやらないこともない---と、国元からいってきておるのです」
「7万石のご家中の寺社奉行どのがお頼みになっても---?」
「左様」

火盗改メ・土屋帯刀守直(ものなお 45歳 1000石)への届けも、西丸・書院番4の組の番頭の水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 56歳 3500石)の許しも得てあるといわれた。

春とはいえ、江戸から関八州の子(ね 真北)へ27里16丁(110km)の地への道中に吹く風はまだ、冷たかろう。

「で、戸祭村の九助は、いったい、ご城下で何をしたのかな?」

参照】2010年10月20日~[戸祭(とまつり)の九助] ) () (4) () () () (

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2010.10.19

寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)(4)

「どうしても、宇都宮へご出役いただくわけには参りませぬか?」
宇都宮藩の寺社吟味役の石原嘉門(かもん 38歳 80石)が訊いた。
毛深いたちらしく、鬢(びん)から下あごまで剃りあとが青々としている。

平蔵(へいぞう 33歳)は、ふっと、[蓑火(みのひ)]の喜之助(きのすけ 57歳)配下の[尻毛(しりげ)]の長助(ちょうすけ 34歳)を思いだしていた。

「いや。そうではなく、鳥居伊賀(守 忠意 ただおき 62歳 壬生藩主)侯へも、拙の上司である水谷(みずのや)伊勢守'勝久 かつひさ 54歳 3500石)番頭にも通じておきましたとおり、火盗改メ・土屋帯刀守直 もりなお 45歳 1000石)さまのお声がないかぎり、うごくわけには参らぬのです。石原さまもお役人なら、そういう手順の大事さは充分におわかりと存じますが---」

平蔵の下城を待っていたように訪ねてこられたので、ひとまず、菊川橋脇の酒亭〔ひさご〕へちみびき、酌(く)みかわしながらの話しあいであった。

「曲師(まげし)町の松岩寺の件は、寺社ご奉行・戸田因幡守 忠寛 ただとを 41歳)侯の耳目として、虚無僧たちに天下の風聞あつめを助(す)けさせることで解決したのではごありませぬか?」
酌をしとてやりながら、平蔵が低めた声で、嘉門の耳元にささやいた。

参照】2008年10月30日[ちゅうすけのひとり言] (27

「あ。手前のお願いは、そのこととは別の儀で、鳥居伊賀守 忠意 ただおき 62歳 壬生藩主)侯からすでにお耳へはいっておると早合点しており、失礼しました」

石原寺社吟味役は、
「ここだけの話として聞きながしていただきたいのだが---」
前置きし、
「2年前の安永5年(1776)4月の将軍の日光山参詣のために、道中筋にあたる村むらの働き手は、道路の整備に駆りだされ、村がすっかり疲弊・荒廃したのです」
「そのことまでは聞いていなかった。成功裡に終わったとおもっていた」

「村むらの疲弊・荒廃には、失礼ながら、長谷川さまも一役買っておいでです」
「拙の西丸組は、大納言家基 いえもと)さまが参列なさらなかった---」
大納言さまは、かかわりありませぬ」
「------?」
「麦畑の畝を道に竪(たて)にするようにご進言さったのは、長谷川さまと、もれ承っております」
「------?」
そのために、村人たちは、1ヶ月も助郷(すけごう)働きをさせられました」
「あっ---」

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2010.10.18

寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)(3)

「さる十手持ちが、おこんとか申す女性(にょしょう)がかかわりがあるとか差し口をしたやに聞いておるが---石原、そうであったな?」

問いかけられた石原嘉門(かもん 38歳 80石)は、宇都宮藩で寺社方吟味役をしていると紹介された。

宇都宮藩主(7万7,000石)の戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳)は、2年前の安永5年4月の将軍・家治(いえはる 40歳=安永5年)の日光山参詣往還ともに城内での宿営にとどこおりがなかった報償で、柳営の寺社奉行に任じられていた。
そこで、因幡守が月番となると、寺社方に熟練している嘉門が宇都宮から上府し、領主を支えていた。

国許では昨秋に賊に襲われた、城域に接した曲師(まげし)町の西端にある普化(ふけ)宗の虚無僧寺(こむそうでら)・松岩寺での事件を調べていた。

参照】2010年9月27日~[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] () (

(こん 38歳)を宿泊させた納所(なっしょ)の泥古(でいこ 47歳)を逮捕したが、酒場で呑みすぎ、家まで帰れないというので泊めてやったが抱いてはいないと、頑として淫行におよんだことを否定しつづけているという。

参照】2008年8月27日~[〔物井(ものい)〕のお紺〕 () (

「このことばっかりは、ことが行なわれている現場を目にされることはほとんどないのですからな。しかも、相手のおなごが消えている」
嘉門が苦笑した。
「秘事(ひじ)というほどだからの」
因幡守もおのれのことをおもいだしたか、思いだし笑いをした。

因幡守忠寛の正室は、長谷川家の祖に縁が深い駿州・田中藩(4万石)の元藩主で、老中も勤めたこともある本多伯耆守正珍(まさよし 69歳)の次女であった。

参照】2007年7月26日~[徳川将軍政治権力の研究]] () (10) (11

この次女の母は正室ではなく某女と『寛政譜』にあるから、美貌で閨室でも積極的なのではあるまいか。

腰:丈の半纏のような寝衣を特別誂(あつら)えして平蔵を迎えた茶寮〔貴志]の元女将・里貴(りき 34歳)の、寝間での媚態をおもいだし、
(あれこそ、まさに秘事で秘技。7万石のお殿さまでも考えがおよぶまい)
つられたふりして笑っておいた。

参照】2010年5月18日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () (

「お殿さまへ申しあげます」
音羽(おとわ)]の重右衛門(じゅうえもん 52歳)が、こころばかり膝をすすめた。

同じ曲師町で材木商〔釜川(かまがわ)〕を営んでいる仲間(はらから)に聞いたが、松岩寺での被害はきわめて少なく、全部で10両(160万円)を切れていたとのこと。
ということは、おというおんなは、まともな引き込みとはおもえない。
納所の僧と好きでできあったが、なにか、気にそまぬことがあって盗人(つしめにん)を引きいれたとしかおもえない。

「いかがでございましょう、虚無僧は全国をくまなく遊行(ゆぎょう)しており、各地の風説につうじております。納所の僧を放免してやり、そのかわりとして、各地の風説を申告させるという案は---」

参考虚無僧寺

役宅の主(あるじ)・西丸の若年寄の鳥居伊賀守忠意(ただおき 62歳 壬生藩主 3万石)が手をうち、因幡守にすすめた。

嘉門。虚無僧寺は、いかほどあるな?」
「手前が存じておりますだけでも、南は熊本から、北は一ノ関まで、30寺をくだりませぬ」
「武蔵は、青梅の鈴法寺であったな?」
「御意」
重右衛門が応えた。

嘉門。来月帰国いたしたら、〔釜川〕の---なんと申したかの?」
「〔釜川〕の藤兵衛(とうべい 41歳)でございます」
「おお、その藤兵衛とやらにも声をかけておけ」
「はっ」

伊賀守忠意が満足げに、平蔵に目をやった。
平蔵は、重右衛門の機転により、虚無僧衆に連絡(つなぎ)の糸口ができたことを、ひそかに喜んでいた。

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2010.10.17

寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)(2)

旬日後---。

宇都宮藩主・戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 寺社奉行兼奏者番)も招いておいたから、役宅へ参じるように、できれば、いつぞやの香具師(やし)の元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)と、因幡侯城下の〔越畑(こえはた)の常八(つねはち 26歳)とかいった若いのも同道してよい、との鳥居伊賀守忠意(ただおき 62歳 西丸若年寄)からの誘いを、同朋頭がもってきた。

承知だが、常八は諸事を学びにいそがしいから、連絡(つなぎ)がむずかしいかも、との返事をもたせ、音羽へ向かった。

従者の松造(まつぞう 27歳)には、屋敷へ〔音羽〕へ立ち寄っていることを告げた上で、そのまま帰宅し、善太(ぜんた 9歳)とともに、お(くめ 37歳)とお(つう 11歳)の帰りを待っていてやれ、といたわった。

〔音羽〕では、どうせ、夕食をすすめられる。
松造の分まで、気をつかわせてはいけない。

案の定、重右衛門は、
「見せものになりますな」
苦笑したが、承知した。
鳥居伊賀守が、自分が下じもの者とも付きあいがあることを、戸田因幡守に自慢したがっていることぐらい、苦労人の〔音羽〕の重右衛門はとっくに気づいているが、断ると平蔵の立場がなくなると配慮しているのだ。

平蔵もそのことは察していた。
それゆえ、遣い者でなく、自分で伝え方々、謝りに出向いたのであった。

重右衛門の内儀・お多美(たみ 37歳)の受けとり方は別であった。
元締が宇都宮藩主の戸田因幡守に会うことで、〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛の顔も立つのが一つ、さらに、香具師の縄張りのほとんどは門前かいわいなのだから、寺社奉行と通じることで、これからどんな利得を得るかは才覚しだいと判断していた。

この時期、寺社奉行は5人いたことには、お多美は頓着していない。

松平伊賀守忠順(ただより 62歳
 上田藩主 5万3000石)
明和元年(1764)6月21日 奏者番ヨリ、 兼
天明元年(1781)5月11日 若年寄

土岐美濃守定経(さだつね 51歳
 沼田藩 3万5000石)
明和元年(1764)6月21日 奏者番ヨリ
天明元年(1781)5月11日 大坂城代

太田備後守資愛(すけよし 40歳
 掛川藩主 5万石) 
安永4年(1775)8月28日 奏者番ヨリ
天明元年(1781)閏5月11日 西丸若年寄

戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳
 宇都宮藩主 7万7000石余)
安永4年(1775)8月28日 奏者番ヨリ、兼
天明2年(1782)9月10日 大坂城代

牧野豊前守惟成(これしげ 51歳
 丹後・田辺藩主 3万5000石)
安永6年(1777)9月15日 奏者番ヨリ、兼
天明3年(1783)卒


_360
_360_2
(戸田因幡守忠寛の個人譜)

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2010.10.16

寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)

戸田因幡どのの、たってのお言葉での」
西丸・御用部屋の控えの間であった。
口をきいたのは、少老(しょうろう 若年寄)の鳥居伊賀守忠意(ただおき 62歳 壬生藩主 3万石)。
昨秋、伊賀侯の城下の事件の解決に平蔵(へいぞう 32歳=当時)がひと役かってからというもの、後ろ楯になったつもりでいる。

戸田因幡 忠寛 ただとを 41歳 宇都宮藩主 7万7000石余)は、奏者番(そうじゃばん)をあしかけ8年勤めてい、2年前に寺社奉行を兼ね、譜代大名としての出世街道を走っていた。

部屋には例により、平蔵が所属している書院番4の組の組頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 56歳 3500石)と与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 800俵)も随伴していた。

戸田侯のご城下・宇都宮の虚無僧寺(こむそうでら)の松岩寺(しょうがんじ)に押しいった盗賊について、なにほどかのこころあたりがありそうゆえ、町奉行所へ力をかしてほしいとのことである」
伊賀侯の吹聴に、戸田侯が寺社奉行の面子(めんつ)もあり、つい、口をすべらしたのであろう。
本気で逮捕をこころがげているのであれば、まず、火盗改メに要請するはずである。

水谷番頭をうかがうと、大きくうなずいた。

「こころあたりがあるわけではありませぬが、たって---ということであれば、藩邸のご用人などに、火盗改メへおとどけになり、火盗の土屋帯刀守直 もりなお 45歳 1000石)さまからお申しつけいただきとうございます」
平蔵としては、諸侯の封地には、なるべくかかわりたくなかった。
幕府の直臣と諸侯の家臣という、いうにいわれぬ微妙なあいだがらのこともあった。

(事件が紀州なら、ついでに里貴(りき 34歳)の按配をたしかめるという役得(?)もあるのだが---)

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () () (

火盗改メ・土屋帯刀(守直の名をだしておいたのは、こんごもそこからの依頼を期待していたので、筋をとおしたのである。
役人の世界は筋が肝要で、管轄を冒(おか)しては、なにごとも進まなくなることは、5年前に逝った亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)から、しっかりとたたきこまれてもいた。

「そうであった。因幡侯へそのように伝えておくから、こころしておくように---」
水谷番頭、牟礼与頭もともにかしこまり、頭をさげた。

平蔵の思惑は、こうして若年寄のご用部屋へ呼ばれていることが、書院番の同僚たちにどう見られ、嫉妬めいた眼差(まなざ)しの矢をいかにして防ぐかという、城内のつまらない風潮にあった。

なにしろ、幕府の財政は赤字つづきであった。
功のあったものへの報償も、下賜できる知行地の余裕がなくなっている。
それだけに、同輩のわずかな報償にも敏感に反応をしてしまう。
(貧すりゃ、鈍すとは、よくいったものだ)

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2010.10.15

十手持ちの瀬兵衛からの留め書

安永7年(1778)が明けた。

長谷川平蔵宣以(のぶため)は、33歳となった。
内室・久栄(ひさえ)は、26歳。
嫡男・辰蔵(たつぞう)、9歳。
長女・(はつ)、6歳。
次女・(きよ)、3歳。 
母・(たえ)、53歳。

恒例の年始まわりや柳営内の礼式を終えた6日、宇都宮城下の十手持ちの瀬兵衛(34歳)からの書状がとどいた。

参照】2010年2月14日~[日光への旅] () (
2010年3月2日[竹節(ちくせつ)人参] (
2010年9月27日~[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] () (
 
昨秋、宇都宮へ1泊したとき、相応の聞きこみ料をわたし、5年前に宇都宮城下にあらわれた〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう 55歳前後=当時)が借りていた戸祭(とまつり)村の家に、その後に住んだ者たちの人別のあるなし、人別のある者はその仔細、住まっていた歳月、引越した者の先がわかればその所を調べ、江戸のわが屋敷へ送ってくれと、頼んでおいた。
その探索の結果の知らせ状であった。

その家作は戸祭村の地主で物持ちの清右衛門(せいえもん 53歳)で、差配は黒兵衛(くろべえ 60歳)。
この黒兵衛にすこし惚(ぼ)けがはじまりかけており、4年前のことははっきり覚えておらず、その下で書役(しょやく)をつとめていた久四郎(きゅうしろう 64歳)を捜すのに手間どり、相すまなかった。
ようやく、高松村に隠居していることをつきとめ、黒兵衛のところの物置から留め書をとりだし、やっと聞き書きができた。

お尋ねの〔荒神〕の助太郎という名では借りられていず、京の俳諧師・高瀬(たかせ 55歳=当時)というのかそれであろう。

じつは、高瀬は、もう一軒、すこし離れた家を借りてい、そこには、40すぎの痩せたおんなと3歳ほどのおんなの子を住まわせていたが、おんなと童女は、高瀬とともに消えたらしいと。
賀茂(かも)とお夏(なつ)だな)

次の借り手は、小椋竜之介(りゅうのすけ 40がらみ)の浪人で、高瀬が前ばらいをしていた家賃半年分だけ住まって消えた。
取り潰しになった播州の某藩の剣術師範とふれこんでいたようだが、行き先は不明。

浪人者のあとには城下の松ヶ峰で、手広く呉服・太物を商っている〔三条屋〕の通い一番番頭夫婦と子ども2人が借りてこんにちに及んでいる。
この夫婦の名は儀助(ぎすけ 45歳)・おすえ(40歳)で、亭主のほうは〔三条屋〕に38年勤めており、あやしいところはない。
女房のおすえも、15のときから〔三条屋〕で女中奉公をしてい、8年後に番頭に昇格した儀助と結ばれている。

(肝心なのは、剣術師範であったという浪人者・小椋竜之介が、どういう人別状をもっていたかだか、そこがぬかっておる。しっかりしているようでも、在方の十手持ちなんだな)

荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろ)が消えたのであれば、宇都宮との縁もこれまでか。
あとは、小頭の〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 26歳)が、〔釜川(かまがわ)〕の元締・藤兵衛(とうべえ 41歳)のところへ戻ったら、宇都宮版〔化粧(けわい)読みうり〕をうまくまわしてくれることだ---とおもっていたら、意外なところから、声がかかってきた。

参照】2010年9月28日[〔七ッ石(ななついし)〕の豊次] (


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2010.10.14

〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)(3)

(くめ 36歳)が御厩(うまや)河岸の茶亭〕〔三文(さんもん)茶亭〕の女主人となり、むすめのお(つう 10歳)が客へ給仕をするようになると、一躍、人気茶汲みむすめとなったのも予想外なことであった。

日本橋通3丁目箔屋町の紅・白粉問屋〔福田屋〕で、化粧(けわい)指南師をしているお(おかつ 36歳)と弟子のお乃舞(のぶ 18歳)が、5日にいちどずつ、只で髪を結ってくれることになった。
その日は、朝いちばんでやってくれるので、洗い髪を軽く巻いたおが、六ッ半(午前7時)前には、正覚寺(框(かや)寺)門前町の新居を出、〔福田屋〕へ向かう。

まだ10歳なので、初々しい顔には化粧はしない。
工夫をこらした髪型と七色の元結、選ばれた鹿の子をそえ、柘植(つげ)製のお六櫛をさした楚々とした風情なのだが、それが好感を呼んだ。

もっとも、人気をあおったのは、〔耳より〕の紋次(もんじ 34歳)が〔化粧読みうり〕に、〔三文(さんもん)茶亭〕の質素な値段とおの趣味のよさを、小さく載せた文章であった。
小さい記事ほど、読み手のこころをくすぐる。
(これは、自分だけしか目にしていないはず)と。

〔福田屋〕とすれば、7色元結や鹿の子が売れるのでほくほく。
ほかの元締衆があつかっている〔化粧読みうり〕のお披露目枠を:契約している白粉問屋にも同じ品がまわされているので、評判は上々というわけ。
いまでいう、流行づくりのキャンペーンであろうか。

「おの人気は、かつての笠森おを抜いたようだな」
松造(まつぞう 26歳)に言った平蔵(へいぞう 32歳)も、わがむすめのことのように、やにさがっていた。

参照】2010年2月17日[〔笠森〕おせん

松造が、この殿のためなら命なんかいつでも投げだす---と、仲間の従者にいったらしい。

もっとも、とうのおは、絵描きのモデルになることを、頑として承知しなかった。
「わたしは、〔三文茶亭〕が繁盛し、正覚寺門前町の家を買ったお金を稼ぐためにやっているのです。人気者になるためにやっているのではありません」

母親のこれまでの苦労をまじかに見て育ったからであろう、10歳のおんなの子とはおもえないほど、しっかりしていた。

たしかに新居は、平蔵日信尼(にっしんに 36歳)に話し、とりあえず10両(160万円)をわたし、あとの15両は年に3両(48万円)ずつ5年々賦となっていた。
その10両も、〔箱根屋〕の権七(ごんしち 45歳)が〔化粧読みうり〕の版元料として届けてきたものであった。


〔三文茶亭〕は、平蔵の武家の算盤よりいくらか下まわったが、着実に月2両(32万円)に近い純益がでていたから、比丘尼への返済は2年とかからなかった。

_120その日信尼が、あるとき、托鉢の道すがらに立ちより、おに、
「この比丘尼には、人さまには言えない古傷がございます。長谷川さまのお情けで、この店をやらせていただきましたが、ずっとおすがりしていては、あの方のご出世に障(さわ)ります。み仏の慈悲の下の入るしかないと思いきわめ、剃髪しました。おんなとしては、身を斬られるよりもつろうございました---」
童女のような汚れのない顔に、むりにうかべた微笑があった。

さげ尼時代の有髪だった日信尼が、平蔵に抱かれ、長い黒髪を枕元でうねらせ、うわごとをもらすほどに乱れていた姿は、おには想像もできなかった。

ちゅうすけのお断り】の法名をうっかりしていました。
日蓮宗の尼なので、日の字ではじまるのがふつうでしょう。

たとえば、亡父・雄(のぶお 享年55歳)は日晴
宣雄の内妻で、平蔵の生母( たえ 享年70歳)は日省
平蔵宣以(のぶため 享年50歳)は日耀久栄(ひさえ 享年65歳)は日進

日信尼
と改め、これまでの記述をすべて、日信尼日俊老尼と訂正しました。

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2010.10.13

〔三文(さんもん)〕茶亭〕のお粂(くめ)(2)

御厩河岸の茶店〔小浪(こなみ)の借り主が変わること。
借り主は、長谷川家の従僕・松造(まつぞう 26歳)の内儀・お(くめ 36歳)であること。
その内儀は、老職・田沼意次(おきつぐ)侯にもかかわりがあるおんなであること。
ついては、新開店から半年間、家賃なしと願いたいこと。
町の風評は、まちがいなく、市中見廻りの耳にいれること---などを記した書状を、火盗改メ・弓7の組、土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の次席与力の高遠(たかとう)弥大夫(やだゆう 58歳)へとどけた。

が〔小浪〕の女主人になる話を、いちばんに喜んだのは松造であった。
勤めの時刻がほとんどいっしょになるからであった。

薬研堀の料亭〔草加(そうか)屋〕の女中頭だと、退(ひ)けがどうしても五ッ(午後8時)をすぎる。
日によっては五ッ半(午後9時)をまわることもあった。
〔草加屋〕へ迎えに行く松造が岩井町の惣介長屋へもどり、晩酌をしてからの床入りは四ッ半(午後11時)。
若い松造がちょっと念を入れた翌朝の、七ッ半(午前5時)の起床はつらかった。

平蔵(へいぞう 32歳)は、わがことのように、茶亭の算用に知恵をしぼった。
まず、店の名を〔三文(さんもん)茶亭〕に変えるようにすすめた。

御厩河岸の渡し賃が3文であるからというのが、その理由。
(ただし、武士は無料)
渡し賃並みの茶代なら、気軽に、「ちょっと休んでいこうか」とおもう客も多いはずである。
3文はいまの120円。
若い美人を揃えているほかの水茶屋では、15文(600円)から30文(1,200円)の店もあった。

茶葉の仕入れは、井関録之助(ろくのすけ 28歳)が上方へ消えるまで用心棒をしていた、北本所の寮の持ち主、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 56歳)方に、平蔵が話をとおし、卸し値で届けさせることにした。

参照】2009年6月2日[銕三郎、先祖がえり] (

店の壁には、「〔万屋〕の披露目どころ」と書いた小さな看板をあげさせた。

店の中央に茶室ふうの四畳半の座敷をしつらえ、真ん中に炉をきり、自在鍵をつるす。
客はその周囲に腰をおろす---そうすれば長ッ尻ができないから、客の廻りが早くなり、半刻(1時間)に3廻り、日に30廻りとして、1畳3人掛けが満杯なら400人、その半分とみて600文の売り上げ---茶葉や薪炭、洗い水、 湯呑みの補充などに200文をあてても400文(1朱半 1万6000円)の儲け。

武士の商法とは、こういうのをいうのであろう。

今戸の〔銀波楼〕の女将・小浪(こなみ 38歳)が笑いながら、
「おはん。当分、お(つう 10歳)ちゃんだけにしときィ。雇人はおかんと」
も、そのつもりでいると応えた。

店中に四畳半はむりで、4畳の真ん中に、それでも1尺4寸(42cm)四方の炉をきった。

予想もしていなかったことが2つおきた。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)元締の内儀・お多美(たみ 36歳)が、
「もう、着ィへんようになったよって---」
恐縮しながら、ほとんど新品に近い四季の着物を持ってき、祝ってくれた。
おなじことを、小浪が、
「うちが店をやってたときに着てたもんで、かんにやけど---」

どちらも京好みの色柄で、女客の目が光った。

もう一つは---。

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2010.10.12

〔三文(さんもん)茶亭〕のお粂(くめ)

「今戸の〔銀波楼(ぎんぱろう)〕の女将と名のる年増と、番頭みたいなのが、菊川橋たもとの酒処〔ひさご〕でお待ちしています」
用人・松浦与助(よすけ 62歳)が告げた。
齢相応に地味にはつくりたがらない〔銀波楼〕の小浪(こなみ 36歳)のようなおんなには、与助は採点が辛い。

浅草・今戸一帯をとりしきっている〔木賊(とくさ)〕の二代目元締の今助(いますけ 30歳)も、杉浦用人の口にかかると片なしであった。

「師走で店が忙しいであろうに、お揃いでわざわざ、なにごとかな?」
「不景気で、忙しくなんかおまへん。たまにはお運びやすな」
小浪が、こころやすだてにぼやいた。

「おれのような貧乏旗本が行っては、よけいに不景気になるぞ」
軽くうけながして、今助iを目でうながした。

亭主然と小浪平蔵への酌をうながしておき、、
「じつは、お預かりしております御(おうまや)河岸の茶店〔小浪〕のことでごさいます」

参照】2010年9月9日〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ) (

小浪から買いとった火盗改メの持物だが、亡父・宣雄(のぶお・享年55歳)が仲に立ち、女盗〔不入斗(いりやまず)〕のお(のぶ 30歳=当時)が借りうけた。
4年後、尼寺へ身を隠すことになり、そのあいだだけ、小波にあとを頼んでいたのであった。

「おはんが、本気でみ仏の道に精進しやはるいうてやのに、いつまでもお預かりするのもなんやと---」
それがくせの下から見上げるよう艶っぽい眸(め)つきの小浪が、
「〔薬研堀(やげんぼり)の為右衛門(ためえもん 54歳)元締とこの小頭はんの〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六はんとも、よう話しおうてみましてん---」
小浪がいいよどんだので、平蔵は不吉な予感をもったが、〔於玉ヶ池〕伝六の名を聞き、疑念をはらった。

「薬研堀のお不動さんのそばの料亭〔草加(そうか)屋〕で女中頭をしておいでのお(くめ 36歳)さんにお引きうけもらえないかと---」
今助が言葉をついだ。

(おが茶店〔小浪〕の女主人になれば、夕暮れとともに店をしまえるから、お(つう 10歳)や善太(ぜんた 8歳)はもとより、松造(まつぞう 26歳)も揃って夕餉がとれる)

「分かった。おに話してみるが、〔草加屋〕への口利きは、〔於玉ヶ池〕の伝六どんだか---」
「それは、もう、話しずみです」
今助が請けおった。

「火盗改メには、おれから話す」
「お願いいたします」

「相談いいますのんは、おはんが住んではった、正覚寺(框寺)門前町のお家を買いとってあげななりまへん、このことどす」

そう、御厩河岸の茶店〔小浪])は火盗改メへの店代(たなだい 家賃)ですむことになっていたので、おは持ち金で門前町の家を買ったのであった。

(たしか、〔神崎かんざき)〕の伊之松(いのまつ)からの退き金(ひきがね)でまにあったとかいっていたから、土地別で25両(400万円)ほどであったような)

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2010.10.11

剃髪した日信尼

「おお、その容姿(なり)は---?」
日信尼(にっしんに 36歳)の尼頭巾が、頭頂のかたちに沿っているのを見た平蔵(32歳)が、おもわず、声をだした。

_150「はい。剃髪いたしました」
尼頭巾の下の澄んだ双眸(りょうめ)が微笑んでいた。

「さげ尼(有髪)でよろしいという約束ではなかったのか?」
「落飾(らくしょく)は、わたくしから望んで、尼老師にお願いいたしました」
尼老師とは、庵主の日俊尼(にっしゅんに 70歳)がことである。

「わけは、〔甲斐山〕で聞こう」
〔甲斐山〕は、境内のはずれの東門前、山本町の片隅にあるささやかな旅宿で、日俊老尼が、
日信さんは、まだ、煩悩まっさかりじゃろが---煩悩は払わんと、おなごの躰には毒じゃ。煩悩おとしには、風呂場のあるところが一番。〔甲斐山〕は、寺の塔頭の1院としてとどけてあるからして、風呂場もついておる」
と、すすめてくれた。

参照】2010年9月15日[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] (

「いいえ、参れませぬ」
「どうしたのだ---?」
「歩きながらお話しいたします」
山門を出、仙台堀の南土手を大川へむかった。

壬生へ探索へ出かけた平蔵を待っているあいだ、庵主・日俊老尼について法華経を読経していた。
不思議にこころがやわらいだ。

聞法歓喜讃 乃至發一言
則為巳供養 一切三世仏
(法を聞いて歓喜(かんぎ)し讃めて 乃至、一言を発するときは
則ち、為(こ)れ、巳(すで)に 一切三世(さんぜ)の仏を供養(くよう)するものなり
           (『法華経 方便品第ニ』より 岩波文庫)

「尼老師が、煩悩は払わんと、おなごの躰には毒じゃ---と仰せになったのは、こころの持ち方しだいでは、払っても払っても鎮(しず)まるものではない---とおさとしになっていたのです」
日信尼は、それで鎮まるのか---?」
「鎮めるのです」

これまで、飲酒、盗み、淫事をかさねてきた。
躰の歓喜もおぼえた。
でも、仏道に一歩はいったからには、修行し、せめて、盗みの罪だけでも許しを得たい、とおもうようになったと。

(〔戸田(とだ)の房五郎の霊をとむらおうとしている)
平蔵は、口にはしなかったが、そう感じた。

参照】2010年9月9日[〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)] (

「わかった。戻ろう。庵まで送る」
「お許しくださいますか?」
「許すも許さぬも、おというおんなは、もう、いない。おぬしは、仏につかえている日信尼なのだ」
「ありがとうございます」

「一つだけ、頼みがある。
「はい」
「尼頭巾をとった顔を、見せてくれないか」
「こうで、ございますか?」

夕暮れがせまった川端で、平蔵は尼の肩を引きよせ、そりあげた頭に、ちょこっと唇つけ、
「風が冷たかろ。もう、いい」
「ああ---」


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2010.10.10

鳥居丹波守忠意(ただおき)(4)

「〔化粧(けわい)読みいうり〕が、おなご向けの品草(しなぐさ 商品)のお披露目枠(広告欄)代でなりたっていることはわかった。ありきたりの引き札(広告チラシ)ではなく、美しくなる手立てというか、知恵を添えておるわけだな」
西丸・少老(しょうろう 若年寄)の鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳 壬生藩主 3万石)の言葉に、〔音羽(おとわ)〕の元締・重右衛門(じょうえもん 51歳)が、持ち前のやんわりした口調で応えた。

「お殿さま。〔読みうり〕が引き札と異なっておりますのは、知恵のこともありますが、引き札は只(ただ)で手わたされますが、こちらは銭をとっております。人は、只のものはぞんざいにあつかいますが、銭と引き換えたものは大切にいたします」

「いくらで売っておるのかの?」
「10文(400円)でございます。1軒の床店(たな)が100枚売ります」
「〆て、1000文=1朱(4万円)---」
「お殿さま。床店は仕入れの代金を1文も費(つい)やしてはおりません」
「そうじゃな、そういうのを、町方では、丸儲けというのであろう? はっ、ははは」
「恐れ入りましてございます」

「商人が金の力でことをはこぶ世の中になってきておりますから、利をあたえてやらないと従ってきませぬでしょう」
火盗改メ・組頭の土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の代理で席にいる次席与力・高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 58歳)が割ってはいった。

「おっしゃることも道理です。もっとも、ものが見える町人は利だけでは動きませぬ。信用というもののほうを大切にいたしております。〔化粧読みうり〕のお披露目枠に載せる品にしても、元締衆は、意をつくして質をただして
おりまゆえ、人びとは安心してその品を求めております」
平蔵が元締たちの肩をもった。

平蔵のいい草は、3日とたたないうちに、配布元の元締衆全員につたわり、いっそう、品の質の吟味にはげむであろう。
載せているお披露目枠の商品の信用が、〔読みうり〕の記事の信用にもつながる。

壬生侯が古哲の言葉ょ暗誦した。
「人にして信なくんば、その可なるを知らざるなり」
(人間が信用をなくせば、どこにも使い道がなくなる。 宮崎市定『現代語訳 論語』岩波現代文庫)

平蔵が応えた。
「利を放(ほし)いままに行えば、怨(うら)みを多くす」
(見さかいもなく利益を追求すれば、方々から怨まれる 同上)

重右衛門が和した。
「与(とも)に言うべくしてこれと言わざれば、人を失う」
(信頼のおける友人だと思ったら、次第に秘密のことも打明けるようにしなければ、逃げられる。 同上)

伊賀侯が笑い、〔越畑(こえばた)〕の常八(つねはち 25歳)が双眸(りょうめ)を見開ききった。

「〔音羽〕どん。これからも、ときどき、遊びにくるように---」
「ありがたき、お言葉」

ちゅうすけ注】常八は、滞在を半年のばし、〔音羽〕の重右衛門の預かり人となり、学問塾で学び、宇都宮へ戻ってからも塾の師につき、〔釜川(かまがわ)〕の元締の支えとなったばかりでなく、組下の者たちにもしたわれた。

鳥居伊賀侯は、家基(いえもと)の歿後に西丸の主となった家斉のよき相談相手となり、平蔵を引きたて、家斉が本丸へ移るとその老職となり、平蔵に目をかけつづけた。

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2010.10.09

鳥居丹波守忠意(ただおき)(3)

「お殿さま。この〔化粧(けわい)読みうり〕は、いただけるのでございますか?」
齢(とし)かさのほうの腰元・於佐都(さと 30代)が、興奮ぎみの声音で訊いた。
「持ち帰ってどうするのじゃ?」
西丸・若年寄の鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳 壬生藩主 3万石)が、わざと生真面目な表情をつくりながら問うてみた。

「一日、お暇をいただき、ここに書かれている店の化粧指南師に、顔の化粧(つくりかた)を実地に教わって参りとうございます」
殿さまの伊賀守は、さもおどろいたふりをし、
佐都の齢---許せ、齢でも、美しいといわれたいか?」

佐都はうつむいて応えなかった。
「わたくしも、お休みをいただきとうございます」
正月がくると20歳(はたち)の於千加(ちか)も、うわずった声で訴えた。

伊賀守が笑顔でうなずき、平蔵を瞶(みつめ)た。
「殿さま。お許しがいただけますれば、この〔化粧読みうり〕の考えの元をくれた、お(かつ 35歳)と申す化粧指南師に、白粉や紅をもたせて伺わせ、お腰元衆のお顔に、じかに化粧(けわい)をほどこさせることもできます。もちろん、化粧の品々にはお代をお支払いいただきますが---」

「どうじゃ、佐都---?」
「お願いしてくださりませ」
長谷川うじ、お聞きのとおりじゃ」
「日時は、おと打ちあわせ、後日、於佐都さまへお連絡(つなぎ)します」
佐都も於千加も、満面の笑顔で引きさがった。
奥女中たちに、一刻も早く朗報を、手柄顔で報じたがっている気配がみえみえであった。

長谷川うじ。探索の才のほかに、そのようにおなごをとろけさせる術(すべ)をこころえていては、もてて仕方があるまいのう」

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)が、
「恐れながら、お殿さまへ申しあげます。長谷川さまは、剣のほうでも一刀流の免許をお持ちで---」
「これ、〔音羽〕の元締。よけいなこと言上してはなりませぬ」

「かまわぬ、かまわぬ」
「いえ。今日は、お殿さまに、元締衆の仕事ぶりをお聞かせ申す集まりでございます」

「勝手(かって 財政)方の算用のできるのは勘定奉行所にあまるほどおるが、風評を金に換える術(すべ)をこころえている武士はほとんどいない。
おそらく、予が領内の大師堂の身代り地蔵像をあっさり見つけ、取り戻してくれたのも、元締衆とやらのあいだに風評を走らせた故(ゆえ)の結実と察しておる。
風評という言葉が軽すぎたのであれば、謀略といいかえてもよい。大権現さまと武田信玄公がお得意だった術よ」

西丸・書院番4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)が、わがことを誉められたように、莞爾とうなずいていた。


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2010.10.08

鳥居丹波守忠意(ただおき)(2)

11月(陰暦)の初旬の八ッ(午後3時)、平蔵(へいぞう 32歳)は、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)と〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)を伴い、江戸城の西丸下、少老(しょうろう 若年寄)・鳥居伊賀守忠意(ただおき 61歳)の役宅の門をくぐった。

宇都宮の香具師(やし)の元締・〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)に声をかけたが、江戸で〔化粧(けわい)読みうり〕の手管(てくだ)を習っている常八を代人にしてほしいとの飛脚便にしたがった。

平蔵が出仕している西丸・書院番4の組からは、与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)が、番頭(ばんがしら)・水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 55歳 3500石)の代理として、すでに参じているはずであった。

接見の間へ案内されてみると、火盗改メからは、組頭(くみがしら)・土屋帯刀守直(ものなお 44歳 1000石)は所用ということで、次席与力の高遠(たかとう)弥大夫(やたゆう 58歳 180石)がきて、牟礼与頭の下座にいた。

平蔵はその隣りに坐り、〔音羽〕の元締と〔越畑〕の常八は、とりあえず縁側に座した。

あらわれた鳥居伊賀守は、縁側の2人に気軽に、
「今日は、おぬしたちが主客である。もっと、前へすすまれよ」

紹介が終わると、
「〔越畑(こえはた)〕の常八と申したかな。わざわざ宇都宮からの出府、大儀であった」
「ありがたいお言葉を賜りやしたが、じつぁ、ひと月ほど前から、お江戸で学んでおりやす」

「ほう? なにを学んでおるかの?」
視線を受けとめた平蔵が、
「〔化粧読みうり〕と申す、いささか、下賤(げせん)のものを---」

音羽〕の重右衛門が、脇の包みから取りだし、用人に1枚、<牟礼与頭と高遠与力にもそれぞれ配った。

_360
(佐山半七丸『都風俗化粧伝』東洋文庫より)

伊賀守はふところから鼻眼鏡を取りだし、〔読みうり〕をうんと遠ざけ、
「なになに---円き顔を、長く見する化粧(つくりがお)の図。
髻(わげ)を小さめに結うほうがさまになります。
鬢(びん)の生えさがりはみじかめに---」
驚いたな。これでは、おなごどもの化粧(けわい)が一様(いちよう)になってしまうではないか。〔音羽〕うじの案かの?」

重右衛門平蔵を覗(うかが)ってから、
長谷川さまの発起(ほっき)でございます」

「於佐都(さと)と於千加(ちか)を呼べ」
用人に命じたあと、平蔵へ、
「お披露目枠代あっての〔化粧読みうり〕と見たが---」

「御意。ではありますが、元は別の狙いから考案したしました」
「別の狙い---?」

亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳)が手がける京の禁裏役人の不正の手がかりの助(たすけ)に、将を射んとおもわば、まず、馬を射よの兵法.どおりに、御所役人の女房やむすめを釣るためにと考えました」
「釣れたかの?」
「みごとにしくじりました」
「功を山村信濃守 良旺 たかあきら 49歳=安永6年 500石)にさらわれた---」
「御意」
山村信濃守は、長谷川備中守が病死した後任の京都西町奉行である。


参照】2009年8月4日~[お勝、潜入] (1) (2) (3) (4
2009年8月24日~[化粧指南師のお勝] () () () () (5) () () () (

2009年9月8日~[ちゅうすけのひとり言] (37) (38) (39
2009年9月23日[『幕末の宮廷』因幡薬師
2009年2月4日[『翁草』 鳶魚翁のネタ本?]

平蔵がひととおりの説明を終えたところへ、2人の侍女が廊下にかしこまった。
佐都は30代、於千加は20歳ごろと見た。
どちらもはっきりした丸顔であった。
「これを読んでみよ」
伊賀守から用人へわたった〔化粧読みうり〕に目を走らせた於佐都の顔に、みるみる血がのぼった。
千加は息をはずませ、肩が大きく上下しはじめた。

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2010.10.07

鳥居丹波守忠意(ただおき)

「侯のお達しは、大師堂の本尊の身代り地蔵像を取り戻せ---、盗人を召し捕れとはお命じになりませぬでした」
平蔵(へいぞう 32歳)の答申に、西丸若年寄・鳥居丹波守忠意(ただおき 61歳 下野国壬生藩主 3万石)は大らかに笑い、そのあと、ちょっと眉を寄せた。

ところは、西丸下の西城・若年寄の役宅であった。
侯の八ッ(午後2時)すぎの下城後、在勤していた平蔵に声がかかった。

伺候すると、部屋にはすでに、上司の番頭・水谷(みずのや)出羽守勝久(かつひさ 55歳 3500石)と与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 57歳 800俵)が、裃と袴を脱いだ丹波侯の右斜め横にそろっていた。

平蔵は、その末座から言上したのである。

「そうではあったが、お上の臣であるおことに、予が命を下すことはできぬ」
若いころは秀麗な細面の殿さまであったろう、実母の美貌がしのばれた。
しかも、教養が加わっていた。

「しかしな、長谷川丹波侯のおこころづかいの、その先を忖度、推察するのが循吏(じゅんり)を志す者の作法であろう」
水谷出羽守が補足し、平蔵が形だけ頭を下げ、かしこまった風をよそおう。

「これ。かまわぬ、かまうでない」
手で制した壬生侯は、すこし間をおいたあと、つづけた。
因幡侯戸田忠寛 ただひろ 40歳 宇都宮藩主 7万7800石)の城下の古物商いのところへ持ちこまれたと、よくぞ、しれたもの」
「(火盗改メ)本役をお勤めの土屋帯刀守直 もりなお 44歳 1000石)さまのご仁徳のお蔭であります」
「火盗の土屋---? 土屋うじがなにかしてくれたとな?」

参照】201年8月6日[安永6年(1777)の平蔵宣以] () () () () () (

「香具師(やし)の元締衆に夜廻りの手札をおさげわたしになりました」
その中の一人である〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 50歳)が、宇都宮城下・曲師(まげし)町の〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうぺえ 40歳)に引きあわせてくれ、その元締が北関東一帯の元締衆に触れをまわすとともに、シマの中にも手をうってくれていたために発見できたという経緯(ゆくたて)を、大真面目な顔で打ちあけた。

「予は参政(若年寄)の席に就いてより、日光山ご参詣のときのほかは帰国しておらぬ。香具師の元締などという者を見たこともない。いつか、召し連れて話しにきてくれないか?」

平蔵は、形だけ、水谷番頭をうかがうと、うなずきが返された。
「御意、承りました。そのときには、土屋さまもごいっしょに---」
「きっと、であるぞ」

お茶も出ない面接であった。
(これなら、お城のご用部屋のほうが、同朋(どうぼう)がお茶を奉仕してくれる)
思いながら立つと、
長谷川うじ、寸時、残られい」
丹波守が呼びとめた。

小姓の案内で、水谷番頭と牟礼与頭が玄関ほうへ消えたのを見すまし、かたわらの用人に目くばせし、
「小山(おやま)では無駄骨を折らせたようじゃな。旅籠代の足しにでもしてくれ」
「殿!」
平蔵の顔に赤みがさした。
「誰にでも秘密はある。はっ、ははは」

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2010.10.06

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(12)

「ご坊。じつは、壬生に伺う前に、上野の寛永寺の執事頭代(しつじがしらだい)・聡達(そうだつ 50がらみ)師のお話を拝聴しましてな」

寛永寺の名をだしたとたんに、大師堂の住持・玄敬(げんきょう 46歳)が緊張した。
「関東の聡本山に、なに用で---?」
「こちらの身代り地蔵の由縁などを---」
平蔵(へいぞう 32歳)が、住職の双眸(りょうめ)をふかぶかとのぞきんだ。

目をそらした住職が、まるめている頭(こうぺ)をさげ、
「恐れ入り申した。破戒の儀は、総本山には内密に---このとおりです」
合掌していた。

「拙は地蔵ではない。おやめなされ。お(たま 28歳)のことはご放念できますな?」
「ご本尊に誓って--」
「そのご本尊だが---」

玄敬の面体に揺れがはしった。
「納戸ですかな? 天井裏?」
「納戸、です。いま、これに---」
松造(まつぞう 26歳)に目顔で、ついていけと報(し)らせた。

5寸(15cm)の半加(はんか)坐像の木彫り地蔵を丁重に袱紗で包み、
「この仏は、明日、宇都宮城下・伝馬町裏の骨董屋で見つかる。買いとるのは、香具師(やし)の元締〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛(とうべえ 40歳)どのである。元締は、こちらのご本尊と知り、寄進なされる」
「南無阿弥陀仏」
「壬生藩主から、元締にいくばくかの礼がとどけられるが、ご坊にはなにもない」
「ありがとうございます」
「目算の金は手にできまいが、おと縁が切れれば、それだけでも仏恩とおもわれい」
「南無阿弥陀仏」

宇都宮城下・伝馬町裏の骨董屋へ地蔵像を売った男は、〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(とよじ 28歳)ということになり、豊次は盗賊・〔乙畑おつばた)〕の源八(げんぱち 40がらみ)の一味の者として手配がまわり、壬生藩内では盗(つとめ)みができなくなった。

ところで、役目を果たした平蔵松造だが、壬生の町奉行が包んだ金で、小山(おやま)の須賀明神社前の旅籠に7日ばかり滞在し、毎日、前の通りを監視していたが、ついにおまさはあらわれなかった。

平蔵があきらめたように、つぶやいた。
「また、紀州の貴志村へ行く日数が足りなくなった」
(くめ 36歳)との夜と、お(つう 10歳)の手料理と善太(ぜんた 8歳)のことばかりおもっていた松造の耳にはとどかなかった。

参照】2010年6月19日~[遥かなり、貴志の村] () () () () () () (

参照】2010,年6月27日~[ 〔草加屋〕の女中頭助役(すけやく)・お粂] () () () (

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2010.10.05

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(11)

「けっこう、いい容姿(なり)をしておりましたが、なにで生計(たつき)をたてておるのかは話しませんでした」
芳佐(よしすけ)は、村でただ一軒の〔よろず屋〕をやっている。
店は女房にまかせ、当人は仕入れかたがた、壬生(みぶ)の城下や宇都宮、小山(おやま)あたりでの頼まれ買いものをこなしていた。

豊次(とよじ 28歳)を見かけたのは小山(おやま)の本通(日光道中)の須賀明神社鳥居の前で、おまさといっしょであったと。
「どんなおんなであったな、おまさは。齢のころ、顔かたち、着ていたもの---」
「はい。齢のころは20(はたち)を一つか二つ、出たかというところでした。双眸(りょうめ)がぱっちりしており、こころもち受け唇、肌はお義理にも白いとはいえませなんだ」
「ふむふむ。それで、豊次と夫婦(めおと)に見えたか?」
「そうではございません。近くの店で奥女中奉公しているとかいい、それらしく、きちんとしたものを着ておりました」

「店の屋号とか、業種を聞いたか?」
「いえ。豊次になにか渡すと、消えました」
「そうか」
「そうそう、豊次は、〔甲畑(こうばた)〕だったか〔乙畑おつばた)だったか、そんな組で、けっこう重宝がられていると申しましたような---」

それ以上のことは聞けなかったが、平蔵(へいぞう 32歳)には、それだけで充分であった。
(やっぱり、〔盗人酒屋〕で忠助ちゅうすけ 享年53歳)から聞いた、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門(なおえもん 51,2歳がらみ)か、〔乙畑}〕源八(げんぱち 40歳前後)の一味になっていたか)

村年寄りの許を辞し、壬生城下へ戻りながら、平蔵は鞍上でものおもいに沈んでいた。

(たずがね)〕の忠助が病死したとき、平蔵は父・宣雄につきそって京都にいたから、じかにおまさの面倒をみてやることができなかった。
それは仕方がない。

しかし、権七(ごんしち 45歳)によくよく頼みこんでおき、おまさが困っていたら、江戸にのこっていた母・(たえ 52歳)へ伝えてもらい、手をさしのべることはできたはず---その配慮をしておかなかったのは自分の手落ちと、自らを責めた。

口なわをとっていた松造は、〔乙畑}〕の源八が盗賊の首領であることまでは察しがつかなかったが、平蔵おまさのことで沈みこんでいることはわかっていたから、なにもいわず、城下をめざした。

城下へはいると、平蔵は大師堂で下馬し、松造に、
「町奉行所へ馬を帰したら、〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)と本陣で待っていよ。もし、〔越畑(こえばた)〕の常八が宇都宮から戻っていたら、常八にもそのように伝えよ」

昨夜のうちに平蔵から何事か命じられ、今朝早くに、宇都宮へ手配をしに行った常平は、その結果をもって往復していることになる。

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2010.10.04

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(10)

翌早朝---夜明けまでに2刻(とき 2時間)以上もあるころ。

本陣〔蓬莱屋〕をそっと出た2つの人影があった。
平蔵(へいぞう 32歳)と松造(まつぞう 26歳)の主従であった。

2人は、会話も交わさないで、通町が西へ折れるところで別かれた。
平蔵は大師堂のもの蔭へ、松造は東へ下馬木(げばき)の桶屋の見張りに。

やがて、家々の軒下の蔭づたいに松造が忍んでき、さっと見渡し、大師堂の脇にひそむ平蔵に駆けよった。
「お(たま 28歳)が参ります」
「よし。隠れろ」

は、本堂には参詣せず、庫裡(くり)へ消えた。
「とんだ、願かけお百度だわ」

しばらくたたずんでいたが、おがあらわれないことがわかると、本陣へ引き帰った。

五ッ半(午前9時)に同心・角田主膳(しゅぜん)が馬とともにあらわれたときには、松造も〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへい 20歳)もすっかり足ごしらえをととのえていた。

馬の手綱とともに、角田同心は、七ッ石村の年寄りへの藩からの手配り書きを添えた。
「昼餉(ひるげ)を用意させますから、お着きになりましたら、真っ先にこれをお渡しください」

七ッ石村は、城下の本陣から子亥(ねのい 北々西)へ1里半(6km)の道のりであった。

黒川ぞいの堤のちょうど1里(4km)あたりで、杉平が右手を差し、
「こっちへ3丁も行ったところが、あっしが生まれた鯉沼郷でやす」
先夜と昨夜の酒盛りで、だいぶにもの馴れてきていた。

「ご両親は達者かな?」
「いえ。3年前の流行り病いで---」
「そうか。余計なことを訊いた。許せ」
「とんでもねえこってす」
香具師(やし)の一家へ転がりこんだほどだから、満足な生活(なりわい)ではなかったのであろう。

七ッ石の村年寄の家は、黒川の西を流れている思川(おもいがわ)を望む丘にあった。
手配書を示すまでもなく、昨日のうちに藩から指示がくだってい、茶菓子をしつらえて待っていた。

豊次(とよじ 28歳)のことを訊くと、3年前に村抜けをしたが、小山(おやま)の城下で、おまさとかいうおんなといっしょのところを、小山へ行った村の者が見かけたほかには、音沙汰がないと。
おまさというおんな?」
「たしか、そのような---」
「見かけたというその者を、昼餉にでも呼んでおいてもらえるかな?」
「造作もございません」

熊野神社の隣の七石山戒定坊で案内を乞うた。
あらわれたのは、白衣に首から最多角念珠(いらたかねんじゅ)というのか、無骨な大数珠をかけた入道であった。、
「西丸の書院番士・長谷川平蔵宣以(のぶため)」
名乗ると、
兎角(とかく)坊と申す」
ともかく、招じいれた。

飯炊きをしていたおのことを訊くと、
「そのような女性(にょしょう)がいたことは伝え聞くいておるが、吾坊(ごぼう)がここの執行(しぎょう)に就く---そう、8年ほども前のことであるな」
「便利されておったとか---」
「修験者というても、男であるからな。わっ、ははは」
(男なしではすまぬ躰にされてしまったな)

熊野山から吉野山へわたる順峰(じゅんぶ)や、日光連山での修行についての余談をちょっとし、おまさというおんなのことのほうが気に,なるので、はやばやと辞去した。


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2010.10.03

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(9)

「明日、七ッ石村まで、馬を借りたいのだが---」
平蔵(へいぞう 32歳)が、壬生藩町奉行所の角田主膳(しゅぜん 42歳)に頼んだ。

「身どももお伴をいたします」
「わがままな物見遊山にすぎないので、それには及ばぬ」
そういわれても、藩主じきじきの声がかりの客であり、一人でほおっておいてよいものか。
角田同心は逡巡していた。

そこへ、、鼻の頭に汗をうかべた〔鯉沼(こいぬま)〕の杉平(すぎへえ 20歳)が女中に案内されてきた。
「遅くなりやした」
言葉づかいに、角田同心が不審げな眼差しをした。

「ご苦労。つもる話は、のちほど---」
平蔵の気持ちをとっさに察した〔越畑(こえばた)〕の常八(つねはち)はさすがであった。
よ。裏の井戸で汗をぬぐったら、向こうの松造どんの部屋でひと休させてもらいな」
せきたてるように、自分が先にたった。

なおも、角田同心が問いかけた。
「馬の口取りは---」
「いや、早駆けを試みることもあろうから、その儀はご放念を---」
「では、明朝、六ッ半(午前7時)に馬をおとどけいたします」
「五ッ半(午前9時)ではいかがかな?」
「こころえました」

角田同心が首をかしげながら退出すると、常八たちが部屋へ戻ってきた。
杉平が、待ちかねていたように、一気に話したところによると、ここ10年のうちに、七ッ石村を抜けたのは5人ほどいるが、無宿になったのは1人だけで、名は豊次(とよじ 28歳)、熊野神社で下働きをしていたが、3年前にふっといなくなった。
賽銭箱が空になっていたが、たいした金子がはいっていたわけではないので、とどけてないと。

{ちょっと、待ってくれ。山伏たちの七石山戒定坊というのは、熊野神社の脇にあるのではなかったか?」
「へえ、さいで」
「その山伏の坊で働いていた、お(たま 28歳)というおんなのことをなにか聞きこまなかったかな?」
「んにゃ」
「悪いが、明日、もういちど、七ッ石村へ行ってくれないか?」
「あっしも、お伴をいたしやす」
常八が先に申し出た。


その夜もまた、酒盛りなった。
本陣の宿主・庄兵衛も加わったが、平蔵は、いつもより控えているのを、松造(まつぞう 26歳)は、不思議なこともあるものだとおもいながら、盃をあけていた。

赤い顔をした庄兵衛が引きさがろうとすると、平蔵も立ち、廊下でささやいた。
「明朝、七ッ(午前4時)前にちょっと出かけるから、戸をあけておいてもらいたい。なに、1刻(とき 2時間)もしたらもどる」

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2010.10.02

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(8)

翌朝---。

「通町枝町の下馬木(げばぎ)の桶屋の近所で、新造・おの人となりや実家の生業(なのわい)などを、それとなく訊きこんできてくれまいか。さとられるなよ」
平蔵(へいぞう 32歳)から命じられた松造(まつぞう 26歳)が、飛ぶように出かけた。

火盗改メ・土屋(帯刀守直 もりなお 44歳 1000石)組の同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)が、誘った。
「すぐそこの雄琴(おごと)神社が秋祭りの準備をしているそうです。暇つぶしに、のぞいてみませんか?」
本陣・〔蓬莱屋〕の主人の庄兵衛が案内をかってでた。

庄兵衛は、壬生(みぶ)がこの地の領主であったころ、旧家臣・松本姓の子孫であるといった。
雄琴という社号は、琵琶湖畔の壬生氏の遠祖が領していた里・雄琴に由来しているとも。

それとなく、太師堂の住持の風評を話題にしてみた。
「数年前に飯塚からきた僧ですが、詳しいことは存じません。しかし、このあたりは真言系の寺が多いから、檀家が少なく、藩の補助がなければやっていけないでしょう」

参拝をすまし、境内末社の金比羅、厳島、稲荷などにも賽銭を奉(あ)げ、獅子舞いの稽古に足をとめたぐらいで戻り、あとは〔鯉沼(こいぬま)の杉平(すぎへえ 20歳)と〔越畑(こえはた)〕の常八(つねはち 25歳)を待つしかなかった。

まず、松造がf訊きこみを終えて帰ってきた。

50過ぎの桶屋の伝六は、若いころからの坐り仕事で腰を悪くしているらしい。
「桶屋といいましても、井戸のつるべ桶とか墓場の手桶ていどの小さな桶づくりしかやっておりません」
が女房にきたときには、腹がふくれてい、6ヶ月だろうと、近所のおかみさん蓮がささやきあっていたといいます。いま8歳の長男がそれだそうで---」

「出はどこだ?」
「七ッ石村の熊野神社の脇の小作人のむすめとか称しているそうですが、山伏の七石山戒定坊の飯炊きをしているときに腹がふくれてきたので、山伏の一人が桶屋の伝六にわずかな金とともにおしつけたのだというのもいました」

本陣の庄兵衛を呼び、七ッ石村の戒定坊について、訊いた。
熊野神社を勧請したときについてきた山伏がひらいた坊とのことであった。
「お手数だが、町奉行所の角田同心に、使いをだしてもらえまいか?」

入れかわりに〔越畑〕の常八が帰ってきた。
「いそぐほどのことではあるまい。昼餉(ひるげ)をいっしょにとってから、ゆっくり話を聞こう」

「そうか、藤井村まで足をのばしてくれたのか。ご苦労であった」
「とんでもございやせん」

藤井村は、城下の南にあたり、常八はその西を流れる思川(おもいがわ)ぞいに下稲葉村・上稲葉村へも訊きこみにいっていた。

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(赤○=壬生城下 緑○上から七ッ石、上稲葉、下稲葉、藤井村)

最初の元町---とはいえ村---で、大師堂のことなら取りあげ婆ぁが風評の元だと教えられ、村々では取りあげ婆ぁをまわった。
ほとんどの婆ぁさんが住職から、水子したあとの躰の治まりと流した子の供養になるとの噂のひろめ賃を握らされていた。
「どうせ、そんなことだろうとおもっていた」

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2010.10.01

〔七ッ石(ななついし)〕の豊次(7)

「15日前の朝、参詣した通町下馬木(げばき)の桶屋の新造が、本堂の蔀戸(しとみど)が半開きになっておったので、変だなとおもいながらのぞくと、須弥壇(しゅみだん)の様子がいつもとちがうので、庫裡(くり)に声をかけ、厨子に鎮座していた地蔵像が消えていたというわけです」
壬生町奉行所の同心・角田左膳(さぜん 42歳)が、よどみなく話した。
すでに昨日、江戸からの火盗改メの同心・高井半蔵(はんぞう 38歳)に説明して、順序もおぼえこんでいたのであろう。

「げばき---と申されたか?」
「失礼しました。通町の枝町の町名です」
「その町内の桶屋の新造の名と齢は--?」
「失礼しました。名はお、齢は27です。子は上の男の子が8歳、下の女の子か5歳。もう一人ほしいと、身代り地蔵に魚断ちの願(がん)をかけての早朝お百度参りをしております」
「早朝というと---?」
「失礼しました。明けの七ッ(午前4時)参りです」

「疑わしいところはないのですな?」
「まったく、ありません」

「庫裡では、桶屋の新造に---」
「おです」
「失礼。おに告げられるまで、庫裡の者は、まったく、盗難に気づかなかったということですな?」
「さようです」

平蔵(へいぞう 32歳)が末座にひかえていた松造(まつぞう 26歳)を招き、なにことかささやくと、
角田どの。小者を太師堂まで走らせていただけませぬか。これから、拙が話をうかがいに参ると---」

本陣から大師堂までは、ほんの2丁のへだたりでしかない。

平蔵たちが山門をくぐると、痩身の住職・玄敬(げんけい 46歳)が庫裡の玄関まで迎えにでており、望みどおりに本堂へ案内した。

戸締まり、須弥壇の裏、庫裡からの渡り廊下などをひととおり眺めていたとき、松造が〔越畑(こえはた)〕の常平(つねへい 25歳)とともに、大徳利にたづなこんにゃくと干瓢巻き寿司をもちこんだ。
気ばたらきのきく常平が、庫裡から茶碗や湯呑みを人数分かかえてくる。

酒盛りがはじまった。
酒がまわったところで、隣りの住職に、
「お地蔵さまのご利益(りやく)としては、地獄苦からの抜けのほかには---」
「さよう---子授け、子安(こやす 安産)、乳足(た)り、夫婦(めおと)和合---」
「水子供養は---」
住職は、茶碗の酒を干し、
「こっそり、供養しております」

大徳利が5巡りほどしたところで、平蔵は厠を借りるふりで常平を目顔で渡り廊下へ呼び、
「明日、盗まれた地蔵像の水子供養の功徳が、どのありの村までゆきとどいているか、訊いてまわってくれるとありがたい」

座へ戻り、さりげなく、
「盗まれたご本尊の大きさは---?」
「5寸(15cm)ほどの半加(はんか)という、地蔵像ではきわめて珍しいとされているお姿でな」
「5寸ならば、おんなでも持ち運びできる---」

住職の茶碗酒を持った手がとまた。
言葉をきった平蔵が、相手の目をと瞶(みつめ)た。


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