勘定見習・山田銀四郎善行
「山田銀四郎という方が、お見えです」
用人・松浦与助が取次いだ。
「山田銀四郎どの?」
「ご勘定奉行の石谷(いしがや)淡路(守 清昌 きよまさ 64歳 2500石)さまのご用とか---」
「それなら、合点がいく」
越後の蒲原郡(かんばらこおり)暮坪の小里のことで教示をえたいと、村松藩(藩主・堀右京亮直教 なおのり 28歳 3万石)へ伺いをだした。
返ってきたのは、暮坪村は、伊勢・桑名藩の飛び地なので、役に立ちかねるが、遠隔の桑名藩は、諸事を公儀の代官に代行させているようであるから、勘定奉行所へあたってみられよ、との意外な示唆であった。
勘定奉行所の知り合いといえば、石谷淡路守しかいない。
【参照】2007年7月25日~[田沼邸] (1) (2) (3) (4)
2007年7月29日~[石谷備後守清昌] (1) (2) (3)
2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] (1) (2)
「二ッ目の〔五鉄〕で応接しよう」
松浦用人に伝え、横の内玄関から出ていくと、
「勘定方見習中の山田銀四郎善行(よしゆき 36歳)でございいます。久しくお目にかかっておりませぬでした」
「はて---いつ、どこで、お会いしましたかな?」
「明和5年(1768)12月5日---」
「というと、初目見(はつおめみえ)のとき---」
「左様でございます」
「あのときは、150人からの大勢であったから---」
「手前などのような150俵の軽輩は、はるかに末尾でございまして---」
【参照】2009年5月12日~[銕三郎、初見仲間の数] (1) (2) (3) (4) (5)
「ま、歩きながら、話しましょうぞ。とてころで、山田どの、お住まいは---?」
「この近くゆえ、ご奉行が手前をお名指しになりました。二ッ目ノ橋の南、弥勒寺(みろくじ)の裏でございます」
「ちょうどよかった。これからご案内するのは、二ッ目ノ橋の北詰のしゃも鍋の〔五鉄〕という店です。そこで、ゆっくりと、初見以来のあれこれをお聞きしよう」
「〔五鉄〕の前は幾度も通りましたが、ついぞ、のれんをくぐったことはございませぬでした」
「上乗」
平蔵(へいぞう 33歳)は、すっかり足がとおのいている弥勒寺前のお熊(くま 55歳)の茶店〔笹や〕の前はなんとなく避けたかったので、三ッ目の通り北へとり、橋をわたると、竪(たて)川ぞい北側の土手を大川へ向かった。
満潮時らしく、竪川は中川のほうへ逆に流れていた。
【参照】2O08年4月20日~[〔笹や〕のおや熊] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
新月の薄闇に溶けたように新芽の枝をゆらしている柳並木を横目にみとめながら、久栄(ひさえ 16歳=当時)がまだ生(き)むすめであったころ、おまさ(12歳)を教えた帰りを送りながら、人通りが絶えているのをいいことに、幹を支えにして押し付け、口を吸い、たもとから乳房をまさぐったことをおもいだした。
自分の怒張しきっていた股のものも、褌からはみだし、じかに袴にこすれて痛いほどに。
腰から力が脱けた久栄はくずれ落ちそうになり、処女(おとめ)の躰の仕組みをしらなかった銕三郎(てつさぶろう 23歳=当時))をあわてさせた。
もちろん、通じ済みの後家と人妻の躰は体験していたが。
【参照】2008年12月17日[「久栄の躰にお徴(しるし)を---」 (1) (2) (3) (4)
(若いということは、恥しらずなことも、容赦なくやってしまえるということだ)
平蔵の口からでたのは、思念とはかかわりのない言葉であった。
つまり、意味をもたない問いかけといえようか。
「山田うじ。お子は---?」
「はい。益弥(ますや)と申します男子が8歳。その下にむすめが2人おります」
「それは重畳。しかし、男子ひとりというのは、いささか、こころもとない。ご妻女にもうひと踏んばり、お願いなさるとよい」
自分でも意外な進言が口をついてでた。
ふだん、辰蔵(たつぞう 9歳)に弟を---なにげなく考えているせいかもしれなかった。
ところが、平蔵の言葉に、山田見習いが黙りこんでしまった
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