剃髪した日信尼
「おお、その容姿(なり)は---?」
日信尼(にっしんに 36歳)の尼頭巾が、頭頂のかたちに沿っているのを見た平蔵(32歳)が、おもわず、声をだした。
「はい。剃髪いたしました」
尼頭巾の下の澄んだ双眸(りょうめ)が微笑んでいた。
「さげ尼(有髪)でよろしいという約束ではなかったのか?」
「落飾(らくしょく)は、わたくしから望んで、尼老師にお願いいたしました」
尼老師とは、庵主の日俊尼(にっしゅんに 70歳)がことである。
「わけは、〔甲斐山〕で聞こう」
〔甲斐山〕は、境内のはずれの東門前、山本町の片隅にあるささやかな旅宿で、日俊老尼が、
「日信さんは、まだ、煩悩まっさかりじゃろが---煩悩は払わんと、おなごの躰には毒じゃ。煩悩おとしには、風呂場のあるところが一番。〔甲斐山〕は、寺の塔頭の1院としてとどけてあるからして、風呂場もついておる」
と、すすめてくれた。
【参照】2010年9月15日[〔下ノ池(しものいけ)〕の伊三] (3)
「いいえ、参れませぬ」
「どうしたのだ---?」
「歩きながらお話しいたします」
山門を出、仙台堀の南土手を大川へむかった。
壬生へ探索へ出かけた平蔵を待っているあいだ、庵主・日俊老尼について法華経を読経していた。
不思議にこころがやわらいだ。
聞法歓喜讃 乃至發一言
則為巳供養 一切三世仏
(法を聞いて歓喜(かんぎ)し讃めて 乃至、一言を発するときは
則ち、為(こ)れ、巳(すで)に 一切三世(さんぜ)の仏を供養(くよう)するものなり
(『法華経 方便品第ニ』より 岩波文庫)
「尼老師が、煩悩は払わんと、おなごの躰には毒じゃ---と仰せになったのは、こころの持ち方しだいでは、払っても払っても鎮(しず)まるものではない---とおさとしになっていたのです」
「日信尼は、それで鎮まるのか---?」
「鎮めるのです」
これまで、飲酒、盗み、淫事をかさねてきた。
躰の歓喜もおぼえた。
でも、仏道に一歩はいったからには、修行し、せめて、盗みの罪だけでも許しを得たい、とおもうようになったと。
(〔戸田(とだ)の房五郎の霊をとむらおうとしている)
平蔵は、口にはしなかったが、そう感じた。
【参照】2010年9月9日[〔小浪(こなみ)〕のお信(のぶ)] (9)
「わかった。戻ろう。庵まで送る」
「お許しくださいますか?」
「許すも許さぬも、お信というおんなは、もう、いない。おぬしは、仏につかえている日信尼なのだ」
「ありがとうございます」
「一つだけ、頼みがある。
「はい」
「尼頭巾をとった顔を、見せてくれないか」
「こうで、ございますか?」
夕暮れがせまった川端で、平蔵は尼の肩を引きよせ、そりあげた頭に、ちょこっと唇つけ、
「風が冷たかろ。もう、いい」
「ああ---」
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コメント
お信さんは、ほんとうに尼に入信なさってしまうんですが?
盗みの罪をつぐなうため?
戸田の房五郎をとむらうため?
平蔵さんとの不倫を清算するため?
37歳の肉体がよく我慢できますか?
投稿: tomo | 2010.10.12 06:01
>tomo さん
いつも鋭いご質問を、ありがとうごぞいます。
ところで、日信尼の入信の心境ですが、
盗みの罪をつぐなうため---と推察するのが、もっとも仏教の戒律に近いかもしれません。
も一つ、平蔵との情事も、こころ苦しくなったのでしょうか。
これも、四戒の一つですから。
投稿: ちゅうすけ | 2010.10.13 09:42